翌朝、目を覚ました燿はいつもと同じようにランニングをした。少し気分を変えてみようとあまり行かない川沿いのコースを選ぶ。川沿いには休憩場所となる公園などがないため、蒼波に電話をかけにくいというデメリットがあるが仕方ない。道端で電話をするしかなかった。
今朝はできれば電話だけで起きてもらいたい。昨日の今日で蒼波の家まで起こしに行くのは少々気が引けるのが正直なところだ。コール音を聞きながら、上がった息を整えるために深呼吸をしていると、いつもよりも早く通話状態になって驚いた。
『……燿ちゃん』
「おはよ」
『おはよう』
挨拶を交わしたものの、そこから会話が続かない。理由が解らないのに燿が謝るのもおかしな話だし、蒼波も納得しないだろう。それに昨日のことを話題にはしたくなかった。燿は必死に言葉を探す。
「えっと、ああ、今日は川沿いだから風が涼しいぜ」
『そうなんだ』
「起きたなら支度して、ウチに来てろよな」
『うん』
蒼波は口数が少なかった。燿と同じ気持ちなのか昨日のことを持ち出す気配はない。なかったことにしたいのかもしれないと燿は思った。
「じゃあ、あとでな」
一方的に通話を終了させた燿は、自動販売機で買ったスポーツ飲料を飲み干す。空になったペットボトルをゴミ箱に放って再び走り始めた。風景が真夏のそれから少しずつ秋へと移ろいを見せているような気がする。ランニングをしながら季節が移り変わっていくのを感じるのは燿の好きな瞬間だった。そのまま川沿いのコースを走り切って家に帰る。だが、そこに蒼波はいなかった。
「かーちゃん、蒼波は?」
「今日は花壇の水やりがあるから先に行くって言ってたわよ」
母親が下げている空になった食器は蒼波のものだろう。燿は内心しまったと思っていた。蒼波は確実に昨日のことを気にしている。しかし、だからと言って蒼波になにもかもを吐き出させてやることは、今の燿にはハードルが高すぎた。
「本当にケンカはしてないのね?」
「ケンカじゃない。俺にも意味が解ってねぇんだ」
「だったら夕飯は一緒に食べなさいよ?」
その言葉に燿はうなずくしかない。朝食を食べている間、煌が仏頂面で燿を見つめてくるのには参った。早々に食事を済ませて燿も学校へ行くことにする。
教室に入ると、蒼波はまだ園芸委員の仕事をしているのか、姿が見えなかった。
「おーっす! 今日は高遠と一緒じゃねーの?」
「おう。今日は花壇の方だって。先に来てるはずだ」
声をかけてきたのは辻山だ。燿は教科書やノートを鞄から取り出しながら、寄り道せずに登校するミッションが省かれたことにほっとしていた。一緒にいたくないわけではないが、なにを話せばいいのか解らないのだ。
蒼波は始業五分前になってようやく教室に戻ってきた。ちらりと蒼波を見た燿に、少し困ったようでいてどこか淋しげな微笑みが返ってくる。その表情がひどく大人びて見えて、燿はどきりとした。
授業中も蒼波が気になって仕方がない。後ろの方の席にいる蒼波を振り向くことはできないが、燿は昼休みにはできるだけ普段通りにふるまおうと決めてなにを話せばよいのかをずっと考え続けていた。
そうして迎えた昼休み。
たぶん蒼波は自分からは燿のところには来ないと感じていたので、燿の方から蒼波の席に弁当を持って行くことにする。蒼波は少し驚いたような顔をしてから、また複雑な笑みを浮かべた。
「あー、腹減ったな」
「そうだね。お弁当食べようか」
燿を邪魔に思っているわけではないようだ。丁寧に弁当の包みを広げていく蒼波の指先を見つめながら、燿は次の言葉に迷っていた。
そこへ教室のドアのところから、隣のクラスの友人が声をかけてくる。
「室橋! ちょっと、頼まれてくれ!」
「なんだよ」
燿が戸口まで行くと、友人は両手を顔の前でぱんっと合わせて頭を下げた。
「体育のジャージ! 忘れちまって!」
「あー、別にいいけど」
ロッカーからジャージを取って友人に渡すと「明日洗って返すから!」と言い残し、教室へと戻っていく。燿が異変に気づいたのは、蒼波のところに戻ったときだった。
「蒼波? どうかしたのか?」
自然とそんな言葉が出てしまうくらいに、蒼波は深刻な顔つきをしている。深刻といえば聞こえはよいが、怖い顔というのが燿の抱いた印象だった。不機嫌を隠そうともしない蒼波が低い声で燿に問う。
「燿ちゃんは、誰にでもジャージ貸しちゃうんだ?」
「なに言ってんだ? あいつは陸上部のやつだって、お前も知ってるだろ?」
説明する燿の言葉は蒼波には届いていないようだった。
「もう誰にもなにも貸したりしないで」
「そんなの」
無理だろうと燿は続けようとしたが、蒼波の顔を見て固まってしまう。蒼波はまるでこの世の終わりのような悲壮感を漂わせていた。
「どうしたんだよ、蒼波」
「……ごめん」
「いや、謝ってほしいわけじゃなくて」
「ごめん。なんでもない」
蒼波は静かに席を立つと、教室から出ていってしまう。燿は追いかけようかと考えたものの、結果的に箸を手に取った。なんとなく蒼波は今一人になりたいのではないかと思えた。弁当は砂を噛むようだったけれど、部活のことを思って無理やり胃袋へ押し込む。
放課後、燿と蒼波はそれぞれ陸上部と手芸部へと向かった。
蒼波が手芸部で今なにを作っているのか燿は知らない。かわいらしいぬいぐるみかもしれないし、きれいな刺繍なのかもしれない。
練習にもイマイチ身が入らず、計測でのタイムも思ったように伸びなかった。部長には怒られてしまう始末だ。部室でシャワーを浴びながら燿の口からはいくつものため息がこぼれ落ちた。
「あいつ、変だったよな」
昼休みの蒼波の言葉について考えてみる。『誰にもなにも貸さないでほしい』と言っていた蒼波はつらそうに見えた。
あれ? と燿は突然幼稚園のころのことを思い出す。当時、似たようなことがあったのだ。燿は遊んでいるおもちゃをほかの子供が欲しがるとすぐに渡していた。それになぜか蒼波がひどく腹を立てていた気がする。
昨日に引き続き二度目の『まさか』の可能性に行き当たってしまった。
慌てて否定してみても、打ち消そうとしてみても無駄だ。蒼波のそれはどう見ても嫉妬だった。
「まじか」
シャワーを頭から浴びていた燿は、どんよりとした気分に支配され、力が抜けていくのを感じる。こんな状態で蒼波と一緒に夕食を摂るなんて、とても耐えられそうになかった。
お互いに部活がある日は一緒に帰ることが多いが、この日、燿は蒼波を待つことをしなかった。蒼波からもスマートフォンにはなんの連絡も入っていなかったので、一人家路につくことにする。
ともかく夕食までに二度の『まさか』を乗り越えて、通常運転に戻らなければならない。そんな風に考えながら校門を出たら、蒼波本人がぽつんと立っていた。
「あ、あ、蒼波。待ってたのか」
ゆるくカールのかかった茶色い髪の毛が風に揺れている。蒼波は小さくうなずいたが、燿を見ようとはしなかった。燿も燿で蒼波の顔をまともに見ることができない。
二人はしばし無言でその場に立ち尽くしていた。
「帰ろう?」
「お、おう」
蒼波にうながされて歩き出す。駅までの道の途中、蒼波は一度だけ立ち止まって緑のまま落ちた葉を一枚拾っていた。
その姿を見て、燿はいつだったか蒼波に「花を摘めばいいじゃないか」と言ったことを思い出す。燿のその言葉に蒼波は「花がかわいそうだから摘まないよ」と笑っていた。事実、蒼波は落ちた葉や木の実しか集めない。
電車に揺られて自宅の最寄り駅まで戻ってきたあとは、蒼波は寄り道もせずに家までの道を歩いた。燿はそれについていくような形になっている。
「俺、着替えてくるね」
「あ、うん」
そう言い残して蒼波は自分の家へと入っていった。
燿を包んでいた奇妙な緊張感がわずかに緩んだ気がする。まだ夕食を食べなければならないので気は抜けないなと思いながら、燿も自宅のドアを開けた。
スウェットに着替えながら、燿を襲った『まさか』について考えるが、やはりどうするのが正解なのかは解らない。当の蒼波がなにも言わない以上、こちらの早合点という可能性もまだ捨てきれない。
「そうだよ。気のせいってこともあるだろ」
自分に言い訳をするように、燿は一人呟いた。
一階に下りていくと、相変わらず母と妹の視線が冷たくて居心地が悪い。無言で「仲直りをしなさい」と圧をかけられて、燿はどうすればよいのか本格的に解らなくなってきた。元々ケンカはしていないのだから当たり前といえば当たり前である。
そこへ蒼波がやってきて、燿の母親へと弁当箱を差し出した。
「おばさん、これ。ごちそうさまでした」
「あら? 洗ってくれたの? いいのに」
「家の食器のついでだったから」
笑い合う蒼波と母親を横目に、燿と煌は夕食や食器をテーブルへと運ぶ。今夜はラザニアをメインに、グリルした豚肉とサラダ、スープと食べ盛りの燿たちには嬉しいメニューだった。
食欲はあまりないと感じていた燿だったが、陸上部の練習をこなしてきただけあって、心とは正反対に体は飢えていたらしい。結局ぺろりと平らげてしまった。蒼波もわりとしっかり食べていたのでひと安心だ。
サラダにしつこく添えられているミニトマトをどうしようかと、行儀悪く箸をうろうろさせていた燿の隣から、蒼波がひょいとミニトマトをさらっていった。
「……さんきゅ」
「いいよ。いつものことだしね」
かすかに微笑みを浮かべた蒼波を見て、燿の心臓が跳ねる。見慣れた幼馴染みのただの笑顔が、とても優しいものに思えた。自分の頬が熱くなっていくのを感じて燿は蒼波から顔を背ける。
「あ、そうだ。俺、課題やんないと」
食べ終わった食器をそのままに慌しく席を立とうとする燿に、蒼波がのんびりとした口調で声をかけてきた。
「今日出た数学の?」
「そうそう。それ」
「一緒にやる?」
逃げ出そうとした燿をこんなにも簡単につかまえてしまう。それでも逃げたくて苦しい言い訳を並べた。
「集中したいから、今日は一人でやる。悪い」
「わかった」
そんな二人のやり取りを見ていた煌が、大きくため息をつくのが聞こえてくる。しかし、燿は一秒でも早くこの場を立ち去りたかった。
やれやれといった様子の煌は、燿には構わず蒼波に話しかける。
「お兄ちゃんなんかもう放っといたら? 蒼波くん」
「そんなことしないよ」
「えー。なんで?」
煌の質問に対する蒼波の答えが怖くなった燿は、二階への階段を駆け上がった。