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Ⅰ-3

 燿は制服のままの蒼波を自宅へ連れ帰った。二人の様子を見た燿の母親はもう何も言わず、テーブルに食事を並べていく。燿が腹を空かせているため蒼波に着替えさせなかったのだと解っているのだろう。煌の姿がないことに気がついたが、すぐに今日は塾の日だと思い出した。

「さあ、二人ともたくさん食べてちょうだい」

 温かい味噌汁に鶏ときのこの和風ソテー、サラダも添えられている。待望の肉の登場に燿は上機嫌で箸を手にした。

「いただきます」

「おいしそう。いただきまーす」

 一心不乱に食べる燿をよそに、蒼波は燿の母親に昼間の出来事を話し始める。

「燿ちゃん嬉しそう。お弁当のときに『塊の肉が食べたい』って言ってたから」

「ハンバーグもお肉じゃないの」

「ほらー。やっぱり肉だよ、燿ちゃん」

 燿の口はあいにく咀嚼に忙しくて、返事ができなかった。仕方なく解った解ったとうなずいてみせる。

「そういえば蒼波くん、今日は宝物見つかったの?」

「今日のはビー玉とこれ」

 ブレザーのポケットからテーブルへと置かれたのは、朝拾っていた水色のビー玉と淡い紫色のリボンだった。リボンはどこで見つけたのか知らない。燿は口の中のものを飲み込んでから蒼波に尋ねてみた。

「そんなリボン、どこにあったんだ?」

「隣のクラスの女子が、家庭科の授業で使った余りをくれたんだよ」

「蒼波くん、リボンも集めてるものね」

 母親の言葉に笑顔を向ける蒼波を見ながら、燿は自分の喉に魚の骨が刺さったような錯覚に陥る。今朝、蒼波と煌が話しているときにも抱いた奇妙な感覚だった。これは一体なんだろう。燿は一度落ち着こうと思ってグラスのお茶を一口飲んだ。

「リボンと言えば!」

 ぽんと両手を合わせて燿の母親が笑い出す。

「幼稚園のころ、蒼波くんは燿にリボンをたくさんくれてたわよね」

「わあ! やめてやめて!」

 蒼波が箸を取り落とし、椅子を蹴る勢いで立ち上がった。慌てふためく蒼波とは対照的に、燿は目を瞬かせる。

「リボンがどうしたって?」

「燿ちゃんも、やめてってば!」

「あら、覚えてないの? 薄情ねぇ」

 喚く蒼波の口にサラダのミニトマトを押し込みながら、燿は「それで?」と母親に続きをうながした。

「蒼波くんったら、何回もプロポーズしてたじゃないの! 燿の左手の薬指にリボンを結んで!」

「……そうだっけ?」

 燿はそのことをほとんど覚えていない。たぶん、いやきっと大切な思い出だ。それ以前にとんでもない思い出ではないか。

 絶叫すると思っていた蒼波の様子をうかがうと、耳はもちろん、首までを真っ赤にしてうつむいていた。

 なんとも言えない空気の中、燿の母親は時計を見て「あっ」と短く声を上げる。

「煌の迎えの時間だわ。ちょっと行ってくるわね」

「あ、うん」

 燿は半ば呆けたまま母親がリビングから出ていくのを見送った。とりあえず食事の続きをしようと気を取り直す。

「台風みたいだったな」

 何も話さないのも気まずいと思って、そう蒼波に声をかけると、突っ立ったままの蒼波が椅子へと崩れるように座った。突然のことに燿は驚き、箸を落としそうになる。

「あー、蒼波? まあ食おうぜ」

「覚えてないんだ」

「ん? ああ。だってチビのころだし、お前とは」

 ほかにたくさん遊んだことが楽しすぎたから、と続くはずの燿の言葉を蒼波がさえぎった。

「燿ちゃんにとって、俺ってなに?」

「は?」

 蒼波の質問の意図が解らず、燿はすぐに答えることができない。そんな燿を蒼波はまだ赤みの残る顔で見つめてきた。

「ねえ、俺ってなに?」

「なにって、幼馴染み、だろ?」

 しどろもどろになりながらも、燿は自分たちの関係についてこれ以上はない最上級の答えを提示する。だが、その答えは間違っていたらしい。

「燿ちゃんのバカ……!」

 叫んだ蒼波が鞄をひっつかんでバタバタと足音を立てて玄関へと走って行った。テーブルにはビー玉とリボンが置かれたままになっている。

「おい!」

 燿は追いかけることもできず、バタンとドアが閉まる音を茫然と聞いていた。

 一人残された燿はもう食事をする気も起きなかったので、食器を片づけて自分の部屋へと引き上げることにした。蒼波がなにに対して怒っているのかまったく見当がつかない。

「なんだってんだよ」

 燿はベッドに転がり天井を見つめた。あらためて考えてみても、幼馴染み以外に自分たちがどういう関係にあるのかまったく解らない。

 ふと昼休みに、クラスメイトの辻山が燿たちに向かって言ってきた台詞が思い出された。

『距離感おかしくね?』

 辻山は燿が蒼波の面倒を見すぎているとも、蒼波が燿にくっつきすぎだとも言っていたような気がする。蒼波の不機嫌はそれと関連があるのだろうか。たとえば、実は燿に面倒を見られたくないと思っているとか、一人になりたい時間があるとか、そういうことがあるのかもしれない。

「それにしてはキレ方が不自然っつうか」

 蒼波があんな風に声を荒らげるのは珍しい。そして、あんな風に真っ赤になって照れていたのもまた珍しい。いつも蒼波は柔らかく笑っているばかりで激昂することはないし、恋愛沙汰に疎いので照れた顔を見ることも少ないのだ。

 あのとき、直前まで燿たちは幼い蒼波が燿に対して、しきりにプロポーズをしていたという話に花を咲かせていた。

 小さいころなら誰でも一度はするような、将来の約束の真似事だ。かわいらしく微笑ましいとすら思える話だったのに、蒼波はどうしてあれほど顔を真っ赤にしていたのだろう。今思えば蒼波は泣くのをこらえ、少し震えていた気もする。

 あれはまるで、これから好きな人に告白しますという感じだった。もしくは好きな相手に初めてアプローチするような雰囲気とも言える。

 そこまで考えて、燿はあることに気づいた。

「まさかな」

 もしも蒼波が今もあのころと変わらない気持ちを抱いているのだとしたら?

 自分を好きなのだとしたら――……。

「いやいやいや」

 燿は両手を目の上にのせて、その考えを打ち消そうとした。そんなことはあり得ない。思えば思うほど首まで赤くなった蒼波の姿が、燿の立てた仮説を肯定してしまう。

 推測が当たっているのだとしたら、蒼波が『幼馴染み』と燿に自分たちの関係をまとめられたことに腹を立てたことにも合点がいった。つまり好きな相手から「私たちはお友達よ」と言われたようなものなのだ。

「待て。落ち着け、俺」

 燿は独り言を繰り返していた。

 幼馴染み同士が恋人関係になっていくという話はドラマなどでも見かけるが、それはあくまで異性間の話だ。蒼波も燿も男子高校生であり、恋愛対象は女性のはずだった。少なくとも燿はこれまで女子に対してしか好みだなと感じたことはない。

 仮に蒼波が同性愛者だったとして、嫌悪する気持ちはかけらも湧いてこなかったけれど、対象が自分だった場合は問題があるように思えた。そもそも普段から蒼波の面倒を見ている燿にとって、蒼波は煌と同じできょうだいの位置づけにある。

 いきなり降ってきた大問題に燿は頭を抱えた。

 まだ蒼波の口からはっきりと聞いたわけではない。燿が一人で考えても答えが出ることではないし、勘違いの可能性もあることだ。

 しかし、気持ちを打ち明けられたらどうすればよいのだろうかと考えてしまう。ぐるぐると回る思考にまとまりなどなく、燿はただただ混乱していた。

「燿ー? お風呂入っちゃって」

 ノックとともにドア越しにかけられた母親のそんな声が燿を現実へと引き戻す。しかし、今すぐになにかをする気にはなれなかった。

「あとで」

「早くしてね」

 母親がそう言い残して一階へと下りていく足音をぼんやりと聞きながら寝返りを打つ。知らず知らずの内にため息が出ていた。

 それからたっぷり三十分ほど煩悶してから、燿は風呂に入ろうと階下へ向かった。

「蒼波くんとケンカしたの? 二人ともごはん全部食べてないじゃない」

「えっと、まあ」

 実際にはケンカとは違う気がするけれど、蒼波が怒ってしまったのは事実だ。燿はあいまいに返事をするしかなかった。

 テレビを見ていた煌が、蒼波の忘れ物のビー玉とリボンに視線をやってから、こちらをにらむ。

「宝物まで置いてっちゃうなんて、本当に怒らせたのね」

 燿はぐっと言葉に詰まった。

「燿のいいところでもあるけど、あんまりストレートに言葉にしたら、蒼波くんみたいなタイプは傷つくわよ?」

「そうよ! どうせお兄ちゃんが蒼波くんをいじめたんでしょ?」

「ちげーし!」

 口々に言う母と妹に自分は悪くないと訴えてみるが、燿の胸はちくりと痛む。果たしてそうなのだろうか。蒼波びいきの母と妹は燿に容赦がなかった。

「早く謝りなさいね」

「今からでも謝って! ほら、電話して!」

 煌が燿の左手にあるスマートフォンを指差してきゃんきゃんと騒ぎ立てる。

「うるさいな。俺はなにもしてねぇ!」

 なにもしていないのは本当だ。ただ、なにもしていないからこそ蒼波は怒ってしまったのだとも思う。

 燿は足早にリビングを立ち去った。風呂にはこの季節にしては少し熱めの湯が張られていたけれど、逆にさっぱりできる気がする。とりあえず明日からも普段通りに接しよう。恐らく今日のことには触れない方がよいし、蒼波もひと晩眠れば落ち着くかもしれない。結論を出した燿だったが、新たな壁に直面した。

「いつも通りってどうしてたっけ?」

 前髪からしずくが滴って、ぽちゃんと湯船に落ちる。

 朝、ランニングに行ったら途中で蒼波を起こす電話をすること、学校まで寄り道をせずに行くこと、昼休みに一緒に弁当を食べること。

 やることをリストへとピックアップしていくように、燿は自分が蒼波とともに行っていたことを指折り数えていった。これらのことを何事もなかったかのように行わなければならない。それはとても難しいことのように思えた。

 風呂を終えて再び部屋へと戻ってきた燿は、早々にベッドにもぐり込む。考えすぎて脳が疲労していた。先ほど母親にも言われた通り、燿は考えるよりも先に行動に移してしまうことが多い。その分言葉もはっきりしている。蒼波のように色々考えて動いたり、相手の気持ちに寄り添う言葉をかけたりすることは苦手だ。

「本当にあいつはなに考えてんだよ」

 毎夜寝る前に蒼波から届く「おやすみ」のメッセージも今夜は当然なかった。

 蒼波はもう眠ったのだろうか。眠れているのだろうか。

 少し心配はしたけれど疲れがピークに達していた燿は、スマートフォンを握ったまま眠りに落ちていった。

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