午前の授業の終わりを告げるチャイムが燿の意識を浮上させる。購買に向かう生徒もいるせいか、教室の中は一気に騒がしくなった。
燿がぼんやりとしたまま弁当の包みを取り出していると、後方の席の蒼波が弁当を抱えて小走りに寄ってくる。
「お腹空いたね」
「ん」
「燿ちゃん、今の授業寝てた?」
「まあ、ちょっとな。あとでノート写させてくれ」
教師の声を子守唄代わりに眠り込んでいた燿に蒼波は気づいていたようだ。百八十センチを超える身長の持ち主である蒼波は自然と後ろの席に配置されてしまうため、燿の姿が見えていたのかもしれない。別に知られたからといって困る相手でもないので、ノートを借りる約束を取りつける。蒼波はうんうんとうなずいて燿の向かいに腰かけると弁当を広げ始めた。
弁当は燿の母親のお手製で二人とも中身は同じである。中学生のときにはこの弁当が原因となり、付き合っているのかとか同棲しているのかとか、くだらないからかい方をされたものだ。高校に入りたてだった去年の春にもクラスメイトたちがどよめいたが、燿の方に相手をする気がなかったこともあってすぐに騒動は収まった。気の弱いところのある蒼波はあわあわしていたけれども。
「今日は肉がいいっつったのに」
「ハンバーグも肉じゃない?」
「塊の肉が食いたかったんだよ」
「ハンバーグも塊だけど?」
他愛のない会話を交わしながら弁当を食べる。購買から戻って来たクラスメイトの辻山が燿たちの会話を聞きつけたらしく、笑いながら「確かにハンバーグは肉の塊」と蒼波の髪の毛をかき混ぜ通り過ぎて行った。
「なにするんだよ、もう」
乱れた髪を整えようとしてさらにひどい状態にしている蒼波に、燿は仕方なく向かいから身を乗り出す。
「やってやるから」
緩く髪をすいてやると心地よかったようだ。燿には目を細めている蒼波がまるで大きな猫みたいに思えた。
すると蒼波の頭をぐしゃぐしゃにした辻山が、少し離れた席から声をかけてきた。
「お前らほんっと仲いいよな」
「まあ、十七年の付き合いだし」
燿が簡潔に答えると、蒼波が突然顔を上げる。そして大事な話をするかのように燿に向かって告げた。
「燿ちゃんは十六年だよ。まだ誕生日来てないから」
「細かいこと言うな」
整え終わった蒼波の頭をぽんぽんとなでて「終わったぞ」と合図を送っていると、辻山の大げさなため息が聞こえてくる。
「お前らのそういうとこだよ」
「どこ?」
「どこだよ?」
口をそろえて尋ねる燿たちに、辻山は呆れ顔で肩をすくめた。
「なんかこう、ちょっと距離感おかしくね?」
「幼馴染みなんてこんなもんだろ?」
「いやいや、室橋は高遠の面倒見すぎだし、高遠も室橋にべったりだし」
確かに燿は蒼波の面倒をよく見ていた。それが燿にとっては当たり前だったし、蒼波も当然のように面倒を見られている。
しかし、少なくとも辻山の目には、燿と蒼波の関係は異質に映るという。考え込んでしまった燿を見て、辻山は慌てたようにつけ足した。
「悪いって意味じゃないぜ?」
「それはそうだよ。俺たち悪いことはしてないし」
黙ってしまった燿の代わりに蒼波が返事をする。それが新鮮だったのか辻山はぽかんと口を開けていた。しばらく考えてみても面倒見云々についてはともかく、特に自分たちがおかしな距離で接しているとは思わない。気にしないでおこうと結論づけて燿は弁当の残りに手をつけた。辻山がどこかほっとしたような顔をしているのが面白かった。
燿は午後の授業でも食後の眠気と戦っていたが、放課後になればその眠気は驚きの速さでどこかへ飛んでいく。
「燿ちゃん、今日は部活だよね?」
「おう。お前は? 手芸部行くのか?」
「今日は委員会の方に出なきゃならないんだ」
蒼波は小さいころから花が好きだったこともあって、中学生の時も高校に入ってからも園芸委員をしている。校内の花壇の管理が主な仕事だと聞いた。季節の変わり目なので、花がらを摘んだり肥料をまいたりと仕事はたくさんあるのだろう。
「なら終わったら帰ってろ」
「そうする。じゃあ、行くね」
それでも恐らく燿の所属する陸上部の練習よりは、園芸委員会の集まりの方が早く終わると判断してそう告げる。蒼波は少し残念そうな表情を浮かべながら教室から出て行った。蒼波を見送った燿も部室に行くために、急いで鞄に教科書とノートを詰め込む。
部室で競技用ウェアに着替えた燿は、グラウンドに出るとひとつ伸びをした。蝉の声がずいぶん小さくなってきたように思えるけれど、太陽はまだ眩しく肌を刺すように照っている。
着替えているときに今日は各自が決めている練習メニューをこなすようにと指示された。短距離を専門としている燿は、スタートダッシュと加速走に重点を置いたメニューの日だったので、頭の中でイメージしながらまずは入念にストレッチを行う。
前屈をしたのち上体を大きく反らせると、空が見えた。ふと、今朝蒼波が拾っていた水色のビー玉のことを思い出す。
蒼波ははたから見ればガラクタのようなものでも、きれい、かわいいと言って集めるのが好きだ。それは小石やどんぐり、落ち葉だったり、コンビニエンスストアで売られているお菓子のオマケだったり、ボルトやナットだったりすることもある。すべて丁寧に汚れを落として空き瓶に入れて部屋に飾られているので、蒼波の部屋はガラス瓶だらけだ。さらにそこへ蒼波の両親がお土産としてガラス細工をはじめとする海外の工芸品を与えるので、とにかく蒼波の部屋にはものが多い。そして学校の行き帰りに歩いている間が、蒼波にとっては宝物探しの時間なのだ。
燿には蒼波の美の基準はよく解らなかったが、否定する気持ちは一切ない。むしろそんな風にものをいつくしむことができる蒼波をすごいと思っていた。
「室橋ー! 準備にいつまでかかってるんだ!」
「はい! 今行きます!」
部長の声にはっとなった燿は、頭の中を占めていた思考を追い出す。練習のときに別のことを考えるのは性に合わなかった。
まずは四百メートルを流して走り、その後ラダートレーニングを行って、スタートダッシュ三十メートルを三本、五十メートルを二本こなす。さらに加速走というトップスピード向上のための練習や計測、体幹トレーニング、クールダウンまでみっちりと行った。気づけば辺りは夕焼けに包まれ始めている。
「よし、今日は上がれ!」
練習終了を告げるた部長に「お疲れ様でした」と一礼して、トレーニングに使用した器具を片づけた。部室にはシャワーがついていて、先輩から順に使用できることになっている。
シャワーを浴び終わると燿の腹がぐうと音を立てた。補給食は摂っていたものの、早く夕食を食べたい。燿は急いで身なりを整え帰路についた。
帰宅した燿は鞄を部屋に投げ込むと、制服のままリビングへ向かう。母親が呆れたと言わんばかりの声を出した。
「燿、着替えてきなさい」
「腹減ってんだよ」
「でも、蒼波くんがまだよ?」
「はあ!? あいつまたか!」
燿はがっくりとうなだれる。時計を見ると午後七時半を少し過ぎたところだ。委員会などとうに終わっている時刻である。
このように蒼波が遅くなるのは、決まって燿と別々に帰る日だった。
「俺、ちょっとその辺見てくるわ」
「だから着替えなさいって」
「わーったよ」
部屋へと戻ってTシャツと黒のデニムパンツに着替えた燿は、スマートフォンをポケットにつっこみ、蒼波を迎えに行くため家を出る。
「今日はどこにいるんだか」
スマートフォンを耳に当てながら近所を歩いてみるが、コール音は聞こえているものの蒼波が出る気配はなかった。別に蒼波は迷子になっているわけではない。その点は心配する必要はなかった。ただ、例の宝物探しに夢中になってしまうのだ。
ふいに今朝、蒼波がどのコースを走っているのかと訊いてきたことを思い出した。
「あいつ、もしかして」
蒼波は恐らく朝に燿が立ち寄った公園にいる。燿はそう直感した。公園まで行くには時間的なことを考えると走らなければならない。部活を終えてくたくたの燿は気が重かった。それでも足は不思議と軽やかに動く。
日が落ちて薄暗くなった住宅街を走り抜け公園まで行くと、やはりそこに蒼波はいた。何かを見つけたのかビー玉を拾ったときのように茂みの前にかがみこんでいる。
「蒼波! あーおーば!」
「燿ちゃん」
驚く蒼波のそばまで行くと、かがんでいる蒼波の前になにやら光るものが落ちているのが見えた。
「どうした? それ、持って帰らないのか?」
「うん……迷ってて」
燿は手を伸ばして光るそれを拾い上げる。おもちゃの指輪だった。こんなに蒼波が喜びそうなものはない。それなのに何を迷うのかと燿は首を傾げた。
「なんで? 持って帰ればいいだろ」
「だって、これは誰かの大事なものかもしれないから」
「それでずっと悩んでたのか」
こくりと茶色い頭が縦に揺れる。宝物としてコレクションはしたいけれど、落とし主の大切なものならば持って帰れないと悩む蒼波の姿が、なぜか幼稚園の砂場で遊んだときと重なった。
あれはなにを作ったときだろうと燿は思い出そうとする。しかし蒼波との思い出は多すぎて、どれがどれだかはっきりしなかった。
「じゃあ、目立つようにこのベンチに置いとこうぜ」
「そうだね」
丁寧に指輪の土を払ってベンチにのせる蒼波を眺める。燿は素直な今の気持ちを伝えた。
「腹減ったから、早く帰るぞ」
振り返った蒼波は、笑顔でうなずくと燿の隣へと駆け寄ってくる。二人はすっかり暗くなった住宅街を歩いて家へと向かった。