早朝の住宅街は静寂に包まれていた。聞こえるのはアスファルトを蹴る自分の靴音と息遣い、それから鳥のさえずりだけだ。
九月に入っていくぶん涼しく感じられ、走りやすくはなってきている。
「そろそろか?」
どうにも長距離を走るのは苦手なので、休憩を入れながらのランニングが燿の日課である。ぽつりと漏らした独り言に応えるかのように、二の腕にバンドで固定したスマートフォンのアラームが鳴った。丁度いつも立ち寄る公園の入り口に差しかかっていることもあって、燿は足を止める。
アラームを切って自動販売機でスポーツドリンクを購入しベンチに腰かけた。息を整えることなくスマートフォンを操作して、画面に表示された『
相手はなかなか出なかった。もっともすぐに返事をするような相手なら、わざわざ毎朝この時間に起こしてやらなくてもよいので、またかと思いつつ根気よく待つ。上がっていた息がこの待ち時間で自然と落ち着くことを燿は知っていた。
『……おあよう』
やっと通話状態になった電話の向こう側で、衣ずれの音と共に蒼波のかすれた低い声が朝の挨拶をつむぐ。
「おはよ。目、覚めたか?」
『なんとか。今日はどこ走ってるの?』
「公園のコース」
スポーツドリンクを煽りつつ答えると、蒼波が大きな欠伸をしているのが聞こえた。
「おい、二度寝すんなよ!?」
『らいじょーぶ』
「蒼波!」
無言になってしまった蒼波は明らかに大丈夫ではない。燿は通話を終了させると、今来た道を再び走って戻り始めた。家に帰ってシャワーを浴び、身支度を整えてから蒼波をたたき起こしに隣家へと乗り込まなくてはならない。果たして遅刻を免れるだろうか。
燿はペース配分もなにもかもを吹っ飛ばした走りで家まで戻った。そのまま二階の自分の部屋へ制服を取りに行き、階下のリビングを突っ切る。
「おはよう、燿」
「はよ、かーちゃん」
「蒼波くんはまた寝坊なのね」
キッチンからのんびりと母親が声をかけてきた。燿は軽くうなずくと、シャワーを浴びるために浴室へ飛び込んだ。
汗を流し短めの黒髪にざっとドライヤーをかけて制服を着る。そしてまたもドタバタと家から飛び出し隣へと走った。渡されている合鍵で勝手に上がり込み、蒼波の部屋のドアをたたく。
「蒼波! 起きてるか!」
「んー」
これはダメだと判断した燿は、部屋に押し入った。
カーテンの隙間から朝日が射し込んでいる。それが飾り棚に並べられた瓶や小物に反射して、部屋の中は美しい光に彩られていた。
一瞬見とれていた燿だったが、そんな場合ではないと頭を振ってベッドに近づく。眠っている蒼波に声をかけても起きる気配はなかった。仕方なく布団の塊をバシバシと殴って名を呼び続ける。すると、ようやく目を覚ましたのか蒼波がひょっこり顔を覗かせた。
「燿ちゃん、おはよ……」
「おはよじゃねぇよ。遅刻するぞ」
「着替える」
「先に顔洗って、その爆発してる頭なんとかしろ」
蒼波がきょとんとした顔で自分の茶色くふわふわとした髪の毛に触れる。カールがかったクセのある蒼波の髪の毛は、毎朝跳ね放題で寝ぐせがひどい。
「なんとかしてみるよ」
「俺、水一杯もらうわ」
喉が渇いたと燿は感じていた。そういえばシャワーを浴びてから水分補給をしていない。それなのに走ってきたのだから仕方ないと思って、勝手知ったるなんとやらで、キッチンへ行こうとした。
そんな燿に蒼波は顔を輝かせて嬉しそうに笑う。
「待っててくれるの?」
「どうせウチで飯食うだろ?」
「うん。じゃあすぐ支度するね」
洗面所に消えていく蒼波を見送り、燿は棚からグラスを出して水を飲んだ。朝からひと仕事終えた気持ちだった。
高遠蒼波は室橋燿の幼馴染みである。生まれた時から一緒に過ごしてきた。蒼波の両親は海外での仕事が多いため、不在の間、蒼波は室橋家で食事をするのがほとんどだ。今では蒼波の母親が燿の母親に蒼波の食費を渡して「お願いね」「任せてちょうだい」と約束している。
幼稚園も小学校も中学校もともに通ったし、高校も同じ学校へ進学した。活発で運動が好きな燿とは対照的に、蒼波はおっとりとしていて大人しい。よく性格は真逆だと言われるが、だからこそ気が合うのだと燿は思っている。
「お待たせ。お腹空いた!」
「早く食わないとマジで遅刻するな」
自宅ではできたての朝食がテーブルに並べられていた。燿の父親はすでに出勤してしまったらしく、テーブルに着いているのは小学三年生の妹、煌だけだった。
「かーちゃん、蒼波来たから」
「はーい。蒼波くん、おはよう」
「おはようございまーす」
燿はスープをテーブルへと運ぶ。その間に母親が全員分のサラダを取り分けてくれた。
蒼波は煌の話し相手をするのがここでの役目だ。なにせ煌は蒼波が大好きで、兄の燿によりも懐いている。昨日の夜も話をしただろうに、今朝もテレビ番組や本についてとりとめなく話していた。
「煌、俺ら遅刻しそうなんだ。蒼波に食わせてやれ」
話をするばかりで食べるのがおろそかになっている蒼波を見かねて、燿は煌にそう頼んだ。煌もすぐに気づいたのか「ごめんね」と慌てて自分の皿に視線を落とす。
「夜にまた話そうね、煌ちゃん」
蒼波はにっこりと笑って食事を進めた。断り切れずに話に付き合ってしまうのが蒼波らしいなと思いつつも、なにかが喉の奥につかえているように感じられる。燿はハムエッグを頬張りながら、今朝も母親の目を盗んでミニトマトを蒼波の皿へと放り入れた。
「行くぞ、蒼波」
「ちょっと待って。これ食べてから」
燿が声をかけると蒼波は慌てた様子でミニトマトを口に入れ、鞄を手に立ち上がる。どうにか本日の遅刻は回避できそうだ。しかしそれはまっすぐ学校に行くことができればの話に限る。燿は学校までの道のりを思って、少し暗い気持ちになった。
家を出た二人は速足で駅に向かって歩き出す。高校までは最寄りの駅から電車で五駅、そこからは再び徒歩で十分ほどと通学環境には恵まれている方だった。利用している路線は電車の本数も多い。燿にとっての問題は家から駅までと、駅から学校までを歩く時間にあった。
「待って、燿ちゃん!」
蒼波の弾んだ声がする。振り返れば予想通り蒼波は道端にしゃがんで何かを拾っていた。急いで引き返し、蒼波の制服の襟首をつかんだ燿は、自分より十センチも背の高い蒼波を無理やり立たせる。
「ダメだ! 今日はダメだ!」
「ええ。だってほら、空みたいなんだよ?」
視線を蒼波の手にやれば、水色のビー玉がひとつある。近所の子供が落としたのかもしれない。蒼波は嬉しそうにビー玉をブレザーのポケットにしまった。
「とにかく行きはやめろ。帰りならいいから」
「……わかった」
言葉とはうらはらに、蒼波の頬がぷくっと膨らむ。幼いころから蒼波にはこの癖があった。不本意なことがあると頬を膨らませる癖だ。さすがに最近になってからは学校などではやらなくなったが、燿と二人きりのときには遠慮がない。
「むくれんな」
フグのようになっている頬を燿がつつくと、ぷすっと空気の抜ける音がしておかしかった。
駅に着いた二人は電車に乗って、さらに目的の駅から学校までの道を歩く。途中、何回か蒼波が小さく声を上げていたのが聞こえたが、燿に怒られるのが解っているからか立ち止まるのは我慢したようだった。
「セーフだね」
「おう」
校門をくぐったところで蒼波がにこにこと笑う。そんな蒼波を見ながら、燿は朝のミッションをすべて終えたとばかりに息を吐き出した。