目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
絵画ちゃん
ゆーら
ホラー怪談
2024年08月27日
公開日
33,731文字
連載中
異世界への入口がある、なんて噂が後を絶たない山。
そんな山へ、少女が一人。
少女が歩みを進めるのは、山にそびえ立つ廃墟の方角だった。

絵画ちゃん(前)





メイトゥリ山。それは、異世界への入口がある、なんて噂が絶えない山。過去に起こった大地震のせいで、一つの大きな館以外の家が土砂崩れなどで倒壊して、その土砂崩れなどの被害は最低限の処理こそされたものの、それからは誰も寄り付かない山となってしまった。

そんな山に、或る少女が一人。荒れた山の地面を、ゆっくりと、無気力に、ブーツで踏んで進んでいく。

異世界の入口に興味があるのか、単なる好奇心か、自殺願望でもあるのか、はたまた別の理由か。それは、彼女にしか分からない。ただ分かるのは、彼女が山にそびえ立つ廃墟に足を踏み入れてしまう、という事。



ーーー



ギイイ、と、余韻を残しながら、奇妙な音を出して、扉は開く。雨の匂いを纏った少女は、目の前に広がる薄暗い屋内をジっと見つめて、ゆっくりと廃墟に足を踏み出した。

雨が屋根を強く打ち付ける音がする。その音しか、少女以外誰も居ない廃墟に鳴り響く事は無い。そんな音を耳に入れながら、何を考えているか全く分からない、言わば無表情で、少女は扉の取っ手を掴む手を離し、廃墟の中を怖いもの知らずに徐々に歩き出した。

廃墟の割には、中は散らかっていない。定期的に誰かが掃除してくれている、とは考えにくい。確かにシャンデリアなどの照明類に明かりはついていなく、不気味な雰囲気を醸し出しているが、もし明かりがついていたならば、廃墟なんかじゃなく、普通の館に見えるだろう。

少女が歩いていると、不意に後ろから物音がした。少女はその音を聞くと、ゆっくりと後ろを振り向く。


「...誰?」


さっき自分が通った風景と何一つ変わりが無い廊下に、少女は声をかける。人は居ないし、何か物が落ちていたりする訳でもない。少女の声は廃墟に響いて、やがてシぃンとなった。

幻聴か、それとも、霊的現象か。少女はそんな事をぼんやりと考えながら、再度自分が進んでいた方向に体を向けた。

きっと、これこそが霊的現象なんだろう、と少女は思った。だって、物理的に有り得ない。後ろを向いて、もう一度戻るように後ろを向いたら、続いていた廊下は無くなっていて、一つの部屋に続く扉が眼前に現れる、なんてこと。


「......」


少女は無言のまま、扉の前で立ちつくす。そしてやがて、誘われたかのように、その扉を開いた。

部屋の中には、ベッドや、テーブルに椅子、沢山の本棚など、人が住んでいた時のインテリアがそのまま残っているようだった。それに、これまでとは違い、ぼんやりとテーブルに置いている蝋燭のようなものが部屋を少し明るくしていた。だが、人が住む部屋には、少し異質な物が壁に飾られてあった。

それは、不気味な絵画。灰色というか、黒が重視されたような絵画。その絵画は、セーラー服を着た女性が、まるで、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画モナ・リザのようにこちらを向いている絵。何よりも不気味なのが、その女性の頭の左側が、グロテスクに裂けたような姿になってしまっているという事。剥がれ落ちた目玉のようなものも見えるし、裂けている頭の上部には、まるで顔のように二つの目がついている。

少女はその絵画を見るや否や、その絵画に近づいた。どうやら、題名は書かれていない。絵画の額縁には、植物が巻きついていて、年季を感じさせていた。

急に扉が現れたり、奇妙な絵画があったりしたり、変な部屋だな。そんな事を思いながら少女は絵画に背を向け、部屋を出ようとした。その瞬間。


『ねえ』


部屋の中に、少女の声では無い、誰かの声が響いた。少女はその声を聞くと、声が聞こえた方向を向いた。奇しくも、その方向は絵画のある方だった。

だが、絵画のある方には誰も居ない。確かに聞こえたその声は、女性の声だった。まさかと思って、また絵画に近寄り、少女は口を開く。


「...何?」


絵画に向かって、少女はそう問いかけた。


『君はだれ?』


少女の想像通りだった。絵画から、確かに声が聞こえた。普通の人なら怖がって絵画から身を離そうとするのだろうが、少女は怖がるどころか、今まで通り無気力な顔で、ただ絵画を見つめていた。


「......私?」


『君以外いないよ』


「...リア」


少女の名前は、リア。

リアは、何も疑うこと無く自身の名前を絵画に伝えた。まるで人見知りを知らない子供のよう。きっと、リアの前世は、絵画が喋るのが普通の世界だったのだろう。そうとしか考えられないほどに、彼女はさも当然かのごとく喋っていた。


「...貴女の名前は?」


『まだつけてもらってないの』


「そう」


『でも、名前がなきゃこれから困るよね。だから、すきによんでいいよ』


リアは、顎に手を当てて、まるで考える人のようにその絵画に描かれている女性の名前を考えた。


「...思いつかないから、絵画ちゃん。でいい?」


『いいよ。ステキな名前だね。ありがとう』


リアがその言葉を聞いた後に瞬きをすると、これまで真顔だった絵画ちゃんの口角が少し上がっているのが見えた。


「...絵画ちゃんは、ここが何なのか知ってる?」


『さあ』


「そっか。少しこの中散歩してくるね」


『うん。転ばないようにきをつけてね』


そんな会話を終えると、リアは自身の肩にかけていたバッグを近くの、テーブル、というよりは、勉強机のような机に置いた。


『あ。そうだ。懐中電灯がその机にあいてあるから、みえないものがあったらそれをつかうといいよ』


「...本当だ。...ありがとう」


机の上には、 絵画ちゃんが言った通り、懐中電灯が置いてあった。


【懐中電灯】

なんだか年季を感じる。


リアはそれを手に取ると、試しにカチ、とボタンを押してみた。懐中電灯は異常なく、自分が向けてる方の壁を照らした。

こんなに自分にとって都合のいいことあるか、とリアは思ったが、特に気にせず、懐中電灯をポケットに入れた。

懐中電灯を取る際、机に置いてある、一枚の紙が目に入った。それはどうやら、紙のサイズや罫線から見るに、手紙のようだった。リアはその手紙を、部屋の中でも明るいテーブルの方に持っていって、その紙に書いてある事を読んだ。




【お父さんへの手紙】

お父さん、お元気ですか? 私は元気です。

お母さんは、お父さんが急に絵の為に別の国に旅に行くと言って出ていってから、ずっとカンカンです。(きっと寂しいだけだから、早く帰ってきてね!)

こっちでは、もう雪が降ってきています。肌寒くて、学校にはマフラーをして行っています。お父さんが小さい頃、私にくれた青色のマフラーです。凄く暖かくて、着心地が良いのでこれからも使いたいと思います。

私もお母さんも、お父さんの帰りを待っています。いつもみたいに手紙をくれるのも良いですが、久しぶりにお父さんと話したい、とたまに思います。いい絵を描けるといいですね!




リアは手紙の内容を読み終わると、蝋燭が置いてあるテーブルにそのまま手紙を置いて、近くのソファにぽすんと座った。きっとこの部屋は、このどこか遠くに居る手紙の主の、父の部屋なのだろう。絵の為に...と書いている通り、この部屋にも絵がある。この館は、手紙の主の父が住んでいるか、もしくは、手紙の主の父のもの。

なんとなくそう考えついて、満足したのか、リアはソファから立ち上がった。そして、自身と会話が出来る絵画が居ること、明かりがあることなどを考慮して、この部屋を今の自分の部屋、というか、本拠地にしよう、と決意した。


「...」


リアは自分のバッグを机に置いたまま、この部屋の外を探索しようと、扉に近寄った。


『いっちゃうの? 鞄、わすれてるよ』


「また戻ってくるから」


『そっか。まってるね』


そんな会話を淡々と済ませ、リアは部屋を後にしたのだった。



ーーー



リアは部屋を出ると、とりあえず行き当たりばったりで探検していこう、なんて思いつつ、廊下をまっすぐと歩いていた。懐中電灯は電池の節約の為に使わず、もし廊下に微妙な段差があったりしたならば転んでしまうだろう、と思うくらいの暗さの中歩いていた。

廊下を出ると、リアはとりあえず見えた部屋に入っていこう、といったスタンスで歩いていた。...が、どの部屋も、廃墟なのにも関わらず、鍵がかかっている。入る部屋を探しつつ廊下を歩いていると、いつの間にかホールについてしまっていた。


「...あれ」


リアは、ふと、あることに気がついた。それは、自分がここに入ってきた時の扉が、ホールに無い、ということ。懐中電灯をポケットから出して、カチ、とボタンを押して、壁を照らしてみる。しかし、窓があるだけで、玄関の扉は跡形もなくなってしまっていた。

無いものを探しても仕様がない。今は、とりあえず探索出来そうな部屋を探索すべきだ。リアは冷静にそう考えて、懐中電灯のボタンを押し、懐中電灯の電源を切り、今まで自分が進んできた廊下の逆側にある、他とは違う雰囲気の扉の方向に進んだ。

その扉は、これまで開かなかった部屋とは違い、ネームプレートが置かれていた。そのネームプレートを懐中電灯で照らしてみると、【書斎】と書かれていた。


「...入、れる」


ドアノブに手をかけて、がちゃりと扉を引いてみる。少し建て付けが悪かったが、どうやら鍵はかかってなさそうだったので、少し力を入れて引いてみると、扉は勢いよく開かれた。


「...凄い。広い」


リアは、ぼんやりとそんなことを呟きながら、部屋の中にゆっくりと足を踏み入れる。

県立図書館も顔負けの量の本棚。リアはそれを見るだけで酔ってしまいそうだった。シンプルに名付けるならば、書斎というより、大図書館。そっちの方が似合うのではないか、とリアは思った。

書斎は薄暗く、明かり一つ、それどころか、壁には本棚がびっしりと置かれていて、窓一つすら無い空間だった。そんな書斎の中を、リアは歩く。書斎の中にはブーツの音が大きく響き渡っていて、誰かが図書館で喋ったりしたなら、すぐに司書に注意されてしまうだろう、という程に静かで、厳格な雰囲気を醸し出していた。


バタンッ。


リアがその書斎の独特な静かさに慣れきっていた瞬間、そんな大きな音が、書斎の隅々にまで響き渡った。そんな音を聞いて、ブーツの音は止まってしまった。リアは叫び声こそあげなかったものの、そのいきなりの大きな音に、まるで金縛りにあったかのように固まってしまっていた。

音が鳴った方を向いてみると、そっちはリアが入ってきた扉の方だった。懐中電灯でその方を照らしてみると、さっき自分が開きっぱなしにしていた扉が閉まっているのが見えた。それを見ると、リアは、扉が閉まっただけか、と思わず胸を撫で下ろした。急に扉が閉まるだけでも怖いには変わりないが、リアは少し他の人とは感覚が違うようだ。

リアが探索を続けていると、館の主人用か、まあ端的に言えば、一人で本を読みたい時に使うような机が目に入った。机の上に、本では無い何かがあるのを肉眼で確認すると、リアはその何かを懐中電灯で照らした。


【見ずこの祟】


そう書かれている、比較的大きめなネームプレート。リアはそのネームプレートを手に取った。

その瞬間。シャンデリアや蝋燭など、書斎にある照明類全てに明かりがついた。リアは何事かと思って、手に取ったネームプレートを机の上に置いて、書斎全体を見渡した。

すると、リアはある事に気がついた。この書斎の、中心。暗かったから気づかなかったが、扉から入ってまっすぐ視線を送ったら必ず目に入るような位置に、大きな絵画が飾られていた。

その絵画。それは、眠たそうな目でこちらをジッと見つめる、赤子の絵。絵画ちゃんと同じような画風というか絵柄で、瞬時に、あの手紙の主の父の作品なのだろう、とリアは考えた。


「...なに...?」


リアが異常を感じたのは、照明がいきなりついたことを不審に思って、この部屋を出ようとした時だった。自分が足を進める時に、ぴちゃ、という、水溜まりに足を入れた時のような音がしたのだ。

よく見ると、床に水がジワジワと染み込んできていた。否、ジワジワと、どころではない。雨が降った後の水溜まりくらいに、水が床に侵食してきていた。


「...っ」


リアは、急いで書斎から出ようと、ぱしゃぱしゃと音を立てながら、扉の方に急いで向かった。向かってる間にも、どんどんと水位は上がっている。

水位がブーツより少し下くらいの、歩きずらい高さになってきたくらいで、リアは扉の目の前についた。そして、ドアノブに手をかけて、扉を力いっぱい押してみる。しかし、扉は開かなかった。


「なんで...?」


自分が押すか引くかを間違えてるかもしれないと思って、リアは今度は力いっぱい引いてみた。しかし、やはり扉は開かない。扉は、様子から見るに、押戸で間違いようだったが、リアが何度力を込めて扉を押しても、まるでなにかに押さえつけられているかのように、扉は開かなかった。


「...どうにかしなきゃ...」


リアが扉を頑張って押していると、水位は既にリアのブーツを埋め尽くすほどの高さにまで達していた。そんな水の様子を見て、リアはこの扉から出るという選択肢を諦め、なにか別の方法でここから出られないかを探ることにした。

しかし、なにか別の方法といっても、リアはこの書斎の内装を少ししか把握していない。出入口以外の扉や窓が無く、大きな赤子の絵画があり、多くの本棚があり...、見えてはいないが、赤子の絵画が飾っている位置や、上の方にある本棚、その上にある本棚の前にある床、それらを見る限り、きっとどこかに上に続く階段がある。

とりあえず、今は、考えるよりも行動した方がいい。現に、リアが今考えている時間で、既に脛くらいの高さにまで水位が上がってきている。リアは、水のせいで歩きにくい床を必死に走って、書斎内を探索した。


「...あった」


リアは、本棚の裏に、書斎内の二階に続く階段を見つけた。そして、その階段を急いで上る。水位は既に、リアの膝くらいの高さにまで到達していた。そのせいで、リアの青いスカートとブーツはびしょ濡れだった。

だが、濡れているという不快感もリアは気にせず、二階を一目散に走った。扉が無いか、窓が無いか。とにかくここから出る為の手段がどこかに無いか。


「......、無い」


しかし、無情にも、扉や窓など、ここから出れる鍵になりそうなものは無かった。

必死に走り終えた後、リアは息切れしながら、もう一度書斎を見渡した。まだ諦めるには早かった。それに、また戻る、と絵画ちゃんに言った以上、リアはその言葉を成し遂げなければいけない、と思っていた。

リアは、変な人間だ。大した約束でもない約束でも、必ず成し遂げようとする。


「...もしかして、」


リアが後ろを見ると、赤子の絵画と目が合った。さっきは、その不気味な画風と、一階から見た事で気づかなかったが、この絵画の下に、何かを嵌められそうな、長方形のスペースがある。

リアはそのスペースを見た瞬間、急いで一階を見渡した。机や本、本棚がぷかぷかと浮かんでいる。リアの身長なんて、ゆうに超えてしまっている水位の高さだ。そんなぷかぷかと浮かぶ品々の中に、リアが探しているものが見つかった。


「...っつめた...」


リアはその探しているものの傍の床に近寄ると、近くの浮いている本棚の上に、二階の床からダイナミックに飛び降りて、着地した。

水にぷかぷかと浮かぶ、探しもの。それは、さっきリアが机の上で見つけた、【見ずこの祟】と書かれた、大きなネームプレート。


「...待ってて。...すぐ、とどけるから」


リアはそのネームプレートをしっかりと掴むと、水に浮かぶ本棚の上を、転んだりしないようにゆっくりと、でもできるだけ早く歩いた。

踏む本棚が無くなると、リアは泳いで、全身ずぶ濡れになっても構わない、といった顔で、ある場所へ向かった。それは、赤子の絵画がある場所。

リアがその赤子の絵画がある場所の床の目の前についた頃には、二階の床くらいにまで水位が上がってきていた。


「......」


リアは、赤子の絵画の目の前の床に足を踏み出した。さっき泳いだから、当然、全身はずぶ濡れ。濡れた自身の長い銀の髪を、しっかりと前が見えるように払ってから、赤子の絵画に自身の手を触れさせた。


「...私は貴方の事、何も知らないけれど。今は目を瞑って。哀しむことないわ」


赤子の絵画と目を合わせ、優しく絵画に手を添えながら、リアはそう呟いた。そして、手に掴んでいたネームプレートを、絵画の下に空いているスペースに、ぴたりと嵌めた。

その瞬間、高くなる水位の動きが止まった。

そして──赤子は目を閉じ、一粒の涙を流した。






「...、ん......」


次にリアが目を覚ましたのは、書斎のソファの上だった。リアはあのネームプレートを嵌めた瞬間から、記憶が無くなっていた。

リアはゆっくりと寝そべっていたソファから体を起こす。そして、自分の、何一つ不快感が残っていない体を触った。顔、髪、服、ブーツ。どこを触っても、水気一つ残っていない。

よく考えたら、おかしかった。起きた時から、シャンデリアや蝋燭など、書斎の、照明は何一つついていない。それに、あんなにぷかぷかと浮かんでいた本棚は、しっかりと書斎らしくそびえ立っている。

さっきの出来事が、夢だというのか? リアはそんな事を思いつつ、薄暗い書斎の中を歩いていた。


「...本当に、夢だったの?」


懐中電灯で要所要所を照らしながら、リアは書斎の中を歩き回った。たまに、本棚や机などを触ってみる。しかし、水気はない。

リアは、ゆっくりと本棚の裏にある階段を上る。当然だが、扉や窓などは出現していない。二階も、全く変わりがなかった。ある一つのものを除いて。

赤子の絵画を懐中電灯で照らすと、さっきまでこちらを見ていた赤子は、静かに目を瞑っている絵に変わっているのが見えた。


「...ゆっくりと、休んでいて」


リアは、優しく赤子の絵画を撫でて、そう呟いた。そして、リアは懐中電灯を消して、薄暗い書斎から出ようと、ゆっくりと歩みを進めた。

書斎の扉は、開いていた。リアは懐中電灯をポケットに突っ込んで、警戒すること無く書斎から出ようとした。


「ん、...?」


書斎から出ようとした瞬間、リアは書斎の扉に紙が貼ってあるのを肉眼で確認した。その紙を手に取ると、リアはその紙に書かれている内容を懐中電灯で照らして読んだ。




【日記の切れ端・1】

妻の命と新しい子供の命、どっちを取るか、と医師に言われた。私は迷わず、妻の命と答えた。妻は子供の命を優先して、と言っていたが、そんなの出来るはずが無かった。

これまで愛し合ってきた妻の命と、まだ顔も知らぬ赤子の命。その二つを天秤にかけたなら、どっちの方が大切かなんて、誰に聞いても前者だと答えると思う。

今の私に出来ることはなんだろうか? 妻のメンタルケアはもちろんだが、なにか他に出来ることがあるはずだ。




リアは日記の切れ端の内容を見ると、すうと大きく息を吸って、その息を飲み込んだ。そして、日記の切れ端を、文字が見えぬよう内側に折り畳んで、その紙を潰さぬようにぎゅっと握り、絵画ちゃんが居る部屋へと向かった。



ーーー



『ほんとうに戻ってきた。おかえり。リア』


「...うん。ただいま」


無事に、書斎から帰ることが出来たリア。そんなリアは、部屋についた瞬間、さっき見つけた日記の切れ端を机に置くと、ベッドに直行し、欲望のままベッドにぽすんと自身の体を沈めた。

沈めて何秒か経ってから、このベッドは廃墟のものだし、埃を被ってたりしそうだな、なんて思ったが、別に埃臭くはなかったし、被っている様子もないようだった。それどころか、柔軟剤のいい匂いがする。布団も、つい最近洗濯したかと思うくらいの鮮度を保っている。まるで、つい最近までここで誰かが過ごしていたかのような感覚だった。


『リア、なんだか、水のニオイがする』


「...そう?」


リアがベッドに自身の体を沈め、静かに目を瞑っていると、絵画ちゃんがそう話し出した。リアはその言葉を聞いて、袖を鼻の辺りまで持ってきて、自身の匂いを嗅いでみた。しかし、自分の匂いを認識するのはとても難しい。リアは、何一つ自分の匂いが分からなかった。


「匂い。分かるんだね」


ものの匂いを、ましてや、普通の人でも分かりにくい水の匂いを、絵である絵画ちゃんが認識出来ているという事を不思議に思って、リアはベッドに寝そべりながら、絵画ちゃんの方を向いてそう言った。


『うん。なんとなく』


絵画ちゃんがそう答えると、リアは寝相を変えて、仰向けに寝そべった。天井の木目がぼんやり顔に見えて、不気味だな、と思ったり。目を十秒開けたり、十秒閉じたり、それを繰り返したり。

そんな事を無言でしばらく続けると、リアはゆっくりと体を起こして、ベッドから降りて立ち上がり、机に置いている自身のバッグをガサゴソと漁り始めた。そして、箱のようなものを取り出したかと思えば、近くの椅子を持ち、絵画ちゃんの近くに椅子を寄せて、その椅子に座った。


『それは?』


「パッキー。チョコのお菓子」


【パッキー】

チョコの菓子。食べると、パキパキという音がする。

割と最近の20××年発売。老若男女問わず人気。


『へえ』


リアは、マイペースにそのお菓子の箱を開き、四角いフォルムのチョコレートで出来た菓子を口に放り込んだ。パキパキという、菓子にしては珍しい、ガラスが徐々に割れていくような音を鳴らしながら、リアはその菓子を咀嚼する。

二個、三個、四個...、と食べるうちに、誰かからの視線が気になって、リアは菓子を口に放り込む手の動きを止めた。それは、上から〜とか、後ろから〜...のような、霊的現象的な視線ではない。絵画ちゃんの視線が、さっきより強くリアに突き刺さっているように感じたのだ。


「......、...食べたいの?」


『え。なんでわかったの』


「...視線が鋭かったから」


リアはお菓子の箱の中から、パッキーを一つ取り出した。


「...食べてもいいけど、どうやって食べるの?」


『うーん。リアの手のひらにそのお菓子をおいてもらって、目を十秒くらい瞑ってもらったら』


「...本当に?」


『うん。うそはつかないよ』


絵画ちゃんのその言葉を聞くと、リアは椅子から立ち上がり、パッキーを手のひらの上にちょこんと乗せて、静かに目を瞑った。馬鹿正直、という言葉が似合う少女だった。

一応多めに、十五秒くらいの間目を瞑っていたリアは、手のひらの上のチョコレートの感覚が消えずに残っていて、絵画ちゃんがちゃんとお菓子を食べられるのか、心配になっていた。でも、目は開かなかった。それが絵画ちゃんから言われたことで、言わば約束だったから。

けれども、流石に心配になって、リアは口を開いた。


「ねえ、本当にこれで食べれるの?」


『ん。もうたべたよ。おいしかった。ありがとう』


え、と思って、リアは目を開いた。手のひらには、確かにパッキーの姿は無く、少し溶けたチョコレートがべたりとついていた。手のひらに乗っている感覚は、それだった。

本当に食べたのなら、咀嚼する時の音が鳴るはず...、とリアは言おうとしたが、ふと冷静になった。絵画ちゃんは、あくまで絵画だ。人間ではない。食べるということだって、もしかしたら、咀嚼せずに、丸呑みする、という意味なのかもしれない。

リアは、妙にその自分が考えた説に納得して、椅子に座り、手のひらについているチョコレートをぺろりと舐めた。

それから少しの間、リアは絵画ちゃんとお菓子を食べながら色々な事を話していた。パッキーの箱からお菓子が消えたのを確認すると、リアは椅子から立ち上がり、椅子をあった位置に戻し、お菓子のゴミは自身のバッグに戻して、絵画ちゃんの目の前に立った。


「じゃあ、私、また行ってくる」


『うん。また戻ってくる?』


「きっと」


リアは絵画ちゃんに背を向け、そう返事をした。そして、また、廃墟巡りが始まる。



ーーー



「...行けるのは、あそこだけかな」


部屋から出たリアは、そう呟きながら、鍵がかかっている扉には目もくれず、廊下を真っ直ぐ突き進んでいた。

絵画ちゃんが居る部屋と、書斎と、もう一つ。さっきは書斎に真っ直ぐ行ったが、もう一つリアが行けそうな部屋があった。それは、リアが最初に入ってきた、今は無い扉から見て、まっすぐの方向にある扉。

その扉が開かなければ、リアの見落としが無い限り、他に行ける場所は無い。リアは、扉の目の前に来ると、まず扉を懐中電灯で照らした。

その扉は、書斎の部屋のように、はっきりと○○の部屋、と分かるようなものが無かった。ネームプレートも無ければ、なんの装飾もない。どちらかというと、絵画ちゃんが居る部屋や、鍵がかかっている部屋に近かった。

そっちの方に近いということに、若干の不安を抱きつつも、リアはドアノブに手をかけて、扉を引いてみた。


「......よかった、開いた」


リアの不安は、的中しなかった。それがリアにとって良い事なのか、はたまた悪い事なのか、それは、これから起きることへの、リアの対処次第。

その扉の中に入ったリアは、目の前に広がった光景に、思わず大きくため息をついてしまった。


「また廊下...?」


なんと、リアの目の前に広がった光景が、またもや廊下だったからだ。短めの廊下だが、それでも、廊下にある扉を一つ一つ確認して、鍵がかかっていて、を繰り返したリアだから、大きく落胆してしまったのだ。


「...あれ、でも...違う」


リアが気分を落とししつつも廊下に足を踏み出すと、何かが少しだけ違う様子だった。それは、扉がなく、カーテンで緩く閉じられていて、いつでも誰でも入れるような部屋がある、ということ。

そのカーテンで閉じられている部屋に近寄り、リアは中を懐中電灯で照らしながら覗いてみた。部屋には、細長い机、その机包む白いテーブルクロス、それらを囲む複数個の椅子があり、モダンな暖炉が見えた。

書斎の例がある。リアは中に入る前に、食堂と見られる部屋の壁を懐中電灯で照らし、絵画がないかを確認した。じっくりと、まるで舐め回すかのように食堂内を見たが、食堂内に絵画は無さそうだった。それから、どこかに続く扉が見えた。

リアはゆっくり深呼吸をすると、カーテンを閉じている縄を解き、食堂に足を踏み入れた。


「...まだついてる」


リアは、食堂に足を踏み入れた瞬間、他の部屋とは少し違う空気を感じた。それは、人が創る空気ではなく、肌寒い〜、とかの空気。まさか、と思ってリアが暖炉を覗くと、なんと、薪がパチパチと音を鳴らして燃えていた。

まさか、まだ人が住んでいるのでは無いか? リアの脳裏に、そんな考えが過ぎる。この廃墟が廃虚になる前から住んでいた人でなくとも、ホームレスの人や、何かしらの罪を犯した人からしたら、身を隠す場所には、うってつけな場所かもしれない。有り得てしまうそのケースに、リアは背筋を凍らせた。

...が、よく考えれば、絵画が喋りだしたり、部屋内が水浸しになったりと、絶対に起こらないであろう超常現象が、この廃墟では起こっている。それと比べれば、暖炉がついているなんてこと、他愛もない。リアは、そう考えることで、冷静に自分を落ち着かせた。


「これは...?」


懐中電灯で照らしながら真っ暗な食堂内を探索していると、リアは、机の上に、ぽつんと置いてある瓶を見つけた。


【鍵入りの瓶】

中に鍵が入っているようだ。


リアがその瓶を手に取ると、からん、と音がした。いったいなんだ、と思って、リアは瓶を懐中電灯で照らしてみた。瓶の中には、タグがついた鍵のようなものが入っていた。


「...、ふんっ"...」


リアはそんな瓶の様子を見た瞬間、躊躇無く瓶を床に叩きつけた。しかし、瓶に魔術でもかかってるのか、単にリアの力が無さすぎるせいか、瓶は割れずにツーバウンドして、床をコロコロと、まるでリアを挑発するかのように転がっていた。


「......」


そんな瓶を見て、リアはなんだか虚しい気持ちになって、瓶の動きが止まるまで待ち、止まると、瓶の位置まで移動して、しゃがんで瓶を拾った。それから、ハンマーなどの、瓶を叩いて壊せるものをどこかで探そう、ということを思った。

食堂内は、その鍵入りの瓶以外、特に目ぼしいものは無かった。


「...ここは...」


食堂は一通り探索し終えたということで、リアは食堂の中にある扉のドアノブに手をかけた。そして、開いてますように、と願いながら、扉を引いた。

だが、リアの願いに反して、扉は開かなかった。


「...まあ、そんなもんだし。次の場所へ行こう」


リアは冷静にそう呟いて、食堂を後にした。

食堂から出ると、リアはとりあえず、部屋に入る等の行為は一旦放っておいて、廊下全体を歩いた。この廊下には、食堂と分かっている部屋が一つ、まだ中が分かっていない部屋が二つ、そして、崩れてしまって上れそうにない階段? のような場所がある、ということが分かった。

リアはまず、食堂に近い方の扉を開こうとした。が、その扉は開かなかった。仕方ないから、リアは次に、階段に近い方の扉を開こうとした。この扉が開かなかったら、どうにかして瓶を割って、中の鍵を使うくらいしか道がない...と思っていたが、その心配は無かった。階段に近い方の扉は、ちゃんと開くことが出来た。

リアは、食堂を覗いた時と同じように、室内を懐中電灯で照らして、絵画がないかを調べた。これも食堂を覗いた時と同様、絵画は無さそうだった。


「...なんの部屋、だろう」


絵画が無さそうだということを確認すると、リアはそう呟きながら部屋の中に歩みを進めた。部屋の中は、低い茶色のテーブルと、それを挟んで対面するような形に置いてある二つのソファ。それから、ホールクロックと呼ばれる、"大きな古時計"に出てくるような時計、と言えば分かりやすいだろうか? あの洒落た時計、それと、アップライトピアノ、ぱっと目に入るもので言えば、その五つのものが置いてあった。

リアは、なんとなく、置いてあるものを見て、リビングだろうか、と思ったが、そういえば扉のネームプレートがもしあったなら見てないぞ、と思って、一度部屋から出て、部屋の名前が書いてないか確認することにした。ビンゴだった。

部屋の扉には、書斎と同じように、ネームプレートが置かれていた。そのネームプレートを懐中電灯で照らしてみると、リアはその部屋の名前に納得した。それは、【応接間】。

リアはつい最近、昔は家に応接間があった〜、なんていう記事を見た。その時に見た写真が、この部屋と同じような写真だったことを思い出して、リアは更に納得した。


「...本当に昔はちゃんとした家だったんだ」


リアは、応接間に入って、部屋を懐中電灯で照らしながら探索をしてみることにした。食堂のように、机の上に何かが置いてある...という訳でもないし、椅子の上やピアノの上などを見ても、特別何かが置いてある〜、なんてことは無かった。

参ったな、と思いながら、何かないかと部屋を探索していると、ふと、ホールクロックの振り子の部分がまだ動いているという事に気がついた。

暖炉がまだついていたり、(どういう原理かはリアはまだ知らないが)振り子がまだ動いていたりと、廃墟の雰囲気には似ても似つかないな、なんて思いながら時計を照らしていると、もう一つ、リアはあることに気がついた。


「...動いてない...っていうか、外れそう」


肝心の、ホールクロックについている、時計の部分。そこが、動いてないどころか、外れかけていたのだ。リアは、カバーなどがされていなくて、剥き出しになっているそこに珍しく興味を持って、今にも外れてしまいそうな時計を、思い切って引っ張り、取ってみた。

時計の部分が嵌められていた場所の裏側は、丸い空洞になっていた。そして、空洞になっている部分には、リアにとって本当に都合良く、金槌が入っていた。


【金槌】

よくみる、普通の金槌。


「......何はともあれ」


なんだか、誘導されているみたいで、気味が悪かった。だが、リアはそれを口に出さず、心の内に秘めたまま、応接間のソファに座った。そして、手に持っていた瓶を机に置き、先程手に取った金槌を、大きく振りかぶった。

そして、金槌は無情にも瓶を割る...と思われたが、リアは、金槌を瓶のあと数センチといったところで寸止めした。

何を思ったか、リアは瓶の細くなっているを手で掴んで、金槌でトントン、と瓶を叩いた。かなり軽い力で叩いていたが、瓶はそのうちヒビが入って、もう一度二度叩くと、ぱりんと割れるのであった。そして、リアはタグのついた鍵を手にすることが出来た。


【キッチンの鍵】


タグには、【Kitchen】と書かれている。リアは瞬時にキッチンの鍵なんだと予測して、もうこの部屋には用はないな、と思い、金槌を置いたままリアは応接間を後にした。

キッチンの鍵が使えるであろう場所は、二つ。食堂内にあった扉か、食堂の近くにある扉か。一応、絵画ちゃんが居る廊下にも鍵付きの扉がたくさんあるが、キッチンは大体食堂の近くに配置されてる事が多いので、多分ないだろう。

リアは、廊下を移動し、食堂の近くにある、鍵のかかった部屋の鍵穴に、先に入手したキッチンの鍵を刺した。キッチンの鍵は、この扉の鍵穴とぴったり一致した。そして、一致したのを確認すると、ゆっくりと鍵を持つ手を捻った。すると、がちゃりという音が廊下中に響き渡って、鍵は開かれた。

リアは鍵穴から鍵を抜くと、食堂や応接間の時と同様、扉を少し開けて、まず中に絵画が無いか、懐中電灯で照らしながら見るという戦法に出た。見たところ、やはり、絵画はない。キッチンに絵画というのはまあ流石にない気がするが...、やはりあの書斎が例外だったのだろうか? また、キッチンには、食堂を覗いた時と同じように、どこかに続く扉の姿が見えた。

リアは、キッチンの中に入ると、手慣れた様子で探索を開始した。キッチンには、色々な引き出しや棚などのものがあり、探索に少し手間がかかる。しかし、一切気を抜かずに探索をしていた。

冷蔵庫の中を覗くと、きっとこの館から人が居なくなる前から放置され続けたものであろう、腐った何かがあった。棚の中を覗くと、一枚一枚が随分高級そうな埃をかぶった皿が、ずらりと並んでいた。

時の進み、というものを感じながら、リアがキッチン内にある色々なを開けたりして何か使えそうなものがないか探していると、オーブンの中に、普通はそんなもの入らないだろう、というものを見つけた。

それは、小さめの、日記のようなもの。リアはその日記を手に取ると、おもむろに内容を確認した。最初のページから途中までは、ザ・日記、と言ったような内容だった。今日はどんな料理を作っただとか、料理長に推薦されただとか、主人の舌には合わないようだった、とか。料理関係のことについて書いていることが多かったから、リアはこの日記の筆者が料理人、しかも料理長クラスの人なんだろう、と断定した。


「...あれ。でも、途中で途切れてる」


ただの日記かと思って、途中からパラパラと特に内容も読まずにページをめくっていると、あるページを境に日記が書かれていなくなっているという事にリアは気づいた。

リアは、いったいなぜ日記が書かれなくなったのか、それを好奇心程度に知りたくなって、めくった白紙のページを、記述がされているページの地点まで戻すことにした。




【料理長の日記】

今日は、災難な日だった。自分が、否、一族が大切にしていた包丁が、突如として無くなった。昨日、夕食の後片付けを終えた後、自分は確かに自分の包丁をケースに入れたはず。

自分以外の料理人一人一人の包丁も間違っていないか確認したし、荷物検査もした。しかし、自分の包丁は出てこなかった。

自分は絶対に包丁を無くすような人間では無いことを分かっている。包丁が独りでに動き出して、自分の荷物から抜け出していく、なんてこと、有り得ない。自分の包丁を盗んだ人が、この館の中に居るはずだ。

なんにせよ、あの包丁が無いと、自分は仕事をやる気にならないし、家族にも顔向け出来ない。一刻も早く見つけなければ。




日記は、そう書かれているページで記述が止まっていた。この日記の筆者にとって、包丁はそんなに大事なものなのか、とリアは思った。だが、確かに、一族が〜とか、家族にも顔向け出来ない〜、などの記述がされている。きっと、筆者が産まれる前、もっと昔から使われ続けていた、高貴な包丁なのだろう。

自分にとって、この日記の筆者の包丁のような存在は、いったいなんだろうか────、リアはそれを深く考え始める前に、日記をぱたんと閉じた。

この日記以外に、キッチンの中で何か目ぼしいものは無いか。リアはそれを確かめるために、せっせとキッチンの中をくまなく探した。しかし、目ぼしいものはいくら探しても見つからなかった。包丁が置いてないキッチンなんて珍しいな...と思ったが、さっきの日記の記述から、多分料理人は自分の包丁を一人ずつで持っていて、それぞれで保管している、という事が読み取れる。そう考えると、別に不自然ではなかった。


「...なんだか、ここだけ少し寒い」


リアは、このキッチンに探していない場所はないか、とある場所に立って部屋を見渡していた。その場所とは、どこかに繋がる扉の目の前。扉にはネームプレートが置かれていて、そのネームプレートには、【冷凍室】と書かれていた。

もう他に行く場所もないし、中はかなり冷たそうだが、行く他に選択肢は無さそうだ。リアは冷凍室のドアノブに手をかけて、ゆっくりと扉を引いた。冷凍室のドアに鍵はかかっていなかった。


「あ...なんか、見た事あるかも」


いつものように冷凍室を照らして中を覗いて見てみると、冷凍室というあまり聞き馴染みのない言葉とは対照的に、テレビのドラマや漫画のワンシーンでどこか目にしたことがあるような光景が見えた。

それは、天井から垂れているフックに、何かの肉が吊るされている光景。床や天井、壁は、館内のような木材から一変して、石のような色や材質で出来ていた。

そして、なんといっても、空気。扉を開いた時から、こちら側に流れてきている空気が、真冬日よりもっと寒いくらいの空気なのだ。肌に触れただけで、もはや痛いと感じてしまう。


「......」


だが、リアはそう感じるのも束の間、痛いほどの寒さなんてお構い無しに、無表情のまま冷凍室に足を踏み入れた。息を吸う度に体の内部が凍るような感覚がして、体は服越しに体を突き刺すような寒さがリアを襲う。それでもリアは、ポーカーフェイスを崩さずに冷凍室を歩いていた。否、ただ歩くだけじゃ勿体ない。そう思って、リアは体を温める為に、ジョギングのような足踏みをしながら、半ば早歩きで部屋の中を探索することにした。

部屋の中には、吊るされた肉の他に、ダンボールのようなものでできた箱が複数個あった。リアはその箱をガサゴソと漁り、なにか使えるものがないかを調べた。

ほとんどの入れ物は空箱だったが、目立たない一番下にある箱を持ち上げた時、なんだか他とは違う重みを感じて、リアはその箱を懐中電灯で照らしながら、よく観察した。すると、箱の高さの割に、底の面がなんだか高い、ということにリアは気づいた。

リアはその箱の底面の様子を見ると、何かおかしいと思って、試しに底面を触ってみた。


「...ダンボール...?」


箱の底は、ダンボールで作られていた。どうやら、ただダンボールで底面を高くしただけではない。箱を揺らしてみた時、何かが揺れる感覚がしていた。ダンボールで底面を少し高くし、その下に何かを隠しているのだろう、とリアは思って、ぴったりと嵌まっているダンボールを爪で剥がそうとした。

何度かそれをしていると、ダンボールは徐々に剥がれ始めた。そして、底に嵌められていたダンボールを、リアは一気にダンボールを爪に引っ掛けて上に引っ張った。

何かを隠すダンボールは剥がれ、箱の本当の底が見えた。箱には、氷のようなものが入っていた。リアはその氷のようなものを、流石に素手では冷たすぎるので、袖で手を隠すようにして、それを手に取った。

リアがその氷のようなものを片手に乗せて懐中電灯で照らしてみると、その氷の中には包丁が入っていた。


【凍った包丁】

氷の中に包丁がある、という方が正しいが、便宜上、凍った包丁。


リアは、その凍った包丁を見て、ああ、そういう事か、と何かを察したような表情を浮かべた。

きっと、あの日記の筆者、料理長の包丁を盗んだ誰かは、まず料理長にバレぬように包丁を盗んで、次に包丁を凍らせて、誰にも見つからぬように、冷凍室にある箱に入れ、更にその箱に細工をした。そんな行動をしたのだろう。リアはそう考えた。

しかし、今リアがこの凍った包丁を見つけてとして、それにはなんの意味もなかった。もう料理長はいない...、それどころか、この館に住んでいた人は誰も居なくなってしまって、包丁が見つかった、なんて誰にも言いようがないからだ。

リアはその凍った包丁をポケットに入れ、部屋内を懐中電灯で照らしながら探索することにした。

すると、リアはあることに気づいた。扉から真っ直ぐ見た時は、吊るされた肉が邪魔で見えなかったが、冷凍室の壁には、絵画が飾って────。


バタンッ。


聞いたことがある音が、冷凍室の中に響いた。リアが絵画の存在に気づいた瞬間、冷凍室の扉は書斎の時と同じように閉まってしまったのだ。リアは早歩きで扉に近寄り、扉を押したり引いたりしてみる。だが、扉は一向に開きそうにない。これも書斎の時と同じだった。

前回は、絵画の下に題名の札を嵌めることで、異変が解決した。なら、この状況も、きっと同じようなことをすれば、きっとこの扉は開くはず。リアはそんなことを思って、部屋内の探索をしようとした。その時。


『小娘。私の包丁を盗んだのは君か』


絵画がある方から、男性の低い声が聞こえた。

リアは、絵画と喋るのには少し慣れている。


「...違う」


そう呟きながら、リアは絵画に近寄った。

絵画の目の前に来ると、リアは懐中電灯で絵画を照らした。絵画に描かれている絵。それは、料理人が、苦悶の表情を浮かべながら、まな板に乗っている肉のようなものを切ろうとしている絵だった。料理人の首には、麻縄が巻きついていて、床に垂れ下がっていた。

また、リアは絵画を見終わると、ネームプレートを嵌められるであろう場所を照らした。が、なんと、題名は既に嵌められていた。


【親愛なるMr.シェフへ捧げる】


題名が既に嵌められているとなると、自分はどうすれば...?

そんなことを思っていると、絵画の中からいきなりナイフが飛んできて、リアの喉の数センチ前でそのナイフは止まった。リアは、突然死が間近に迫ってきた事で、体が固まってしまった。


『誰も信用出来ないんだ。もはや主人様まで...。...ともかく、私の包丁の行方を知らない者に興味は無い。さあ、君も死んでく』


「待って」


ナイフが、まるで弓をしならせる矢のように、絵画の方にぐぐぐと引き付けられている姿を見て、リアは絵画の言葉を遮った。


「私、犯人では無いけれど、包丁のありかは知っているわ」


『...そんなこと信じられない』


「いや、信じて。貴方が求めるもの、持ってくるから」


リアは、真っ直ぐ絵画を見つめてそう言った。絵画を見つめている時、自分もまた、絵画に見つめ返されているような感覚がした。

しばらく無言の時が流れると、リアの喉の前で宙に浮いていたナイフは、カランカランと音を立てながら床に落ちた。


『...三分以内だ。三分以内に包丁を持って戻ってこないと...、私はどんな手を使ってでも、君の後ろの肉のように君を解体する』


リアは後ろを向き、絵画が指すその肉を懐中電灯で照らした。今まで、豚かなにかの肉だろうと決めつけて、扉から懐中電灯で照らして見た時以外は特に見ていなかった肉。その肉は、よく見ると、人間の胴だった。

これまでここに来て失踪したという人は、こうなってしまっているのか。なんだ、異世界の入口があるという噂は、噂に過ぎなかったんだな。感覚が麻痺しているリアは、超次元的な噂を超次元的な事実で否定した。

人間の胴であるということを確認すると、リアは再度絵画の方を向き、絵画を懐中電灯で照らした。


「...約束する」


『...君がこの部屋から出た時から、三分はスタートだ』


絵画がそう言うと、ギイイ、と、後ろから冷凍室の扉が開く音がした。リアはそんな音を聞くと、絵画に背を向けて早く歩き、冷凍室から出た。三分はスタートされた。

リアは、さっきのキッチンの探索で発見したトングを直ぐに手に持って、急いでキッチンから出て、廊下を走った。


【トング】

がっちりしているので、どんなものでもしっかりと掴めそう。


「...早くしないと」


リアが次に向かったのは、食堂。食堂で何をするかと思えば、リアはポケットに入れていた凍った包丁を手に取って机に置き、それをトングでしっかりと挟んだ。そして、まだパチパチと音が鳴る薪のある暖炉に、その凍った包丁を挟んだトングを入れた。

アイスピックなどのものがあれば、包丁を傷つけてしまう恐れがあるといえ、そっちの方が早く包丁を取り出せる。しかし、生憎、そのようなものは、この廃墟の中には見当たらない。だから、暖炉を使って氷を溶かす、それくらいしか出来なかった。


「...もう少し」


包丁の周りの氷が、どんどんと溶けていく。しかし、その勢いも最初だけ。トングから滴る水のせいで、暖炉の燃える勢いは段々と下がっていった。

それでも、リアは待ち続けた。半端な状態で、包丁を渡す訳にはいかない。この包丁は、とても大事なものなのだから。そして、二分半の時が経った頃、ようやく周りの氷は全て溶け、正真正銘包丁となった。

リアはトングでがっちりと掴みながら包丁を回収し、机の上にトングを置いた。そして、トングは机の上に置いたまま、包丁を持って一目散に走り出した。二分四十五秒。


「...、...」


集中しすぎたせいで多少息切れしてはいたが、リアはまさに最後の気力を振り絞って、廊下を全力で走り、キッチンに向かった。そして、キッチンに入り、急いで冷凍室に足を踏み入れる。二分五十三秒。ノルマは達成された。


「......、どう?」


息を整え終わると、リアは絵画に歩いて近寄りながら、そう言った。


『それは...! ...本当に、君は知っていたのか』


絵画は、その包丁を見るやいなや、驚いたような声を出した。

リアは、この包丁をどうやって渡すか...と考え、蓋のついた箱を早歩きで取ってきて、絵画の目の前にその箱を置き、その箱の上に包丁を置いた。


『でも、いったいどこに...?』


「それよりも、早くその包丁に取替えたら? じゃないと切りずらいでしょ」


絵画ちゃんとお菓子を食べた時の記憶。手のひらの上に乗せて、十秒くらいの時を待つ。その記憶を思い出して、リアは、そう言うと、目を瞑り、絵画がその包丁を手に取るように催促した。決して、薄目で絵画が包丁を取る光景を見よう、とか、絵画がどうやってその包丁を取るのかをこっそり見ようとは思わなかった。


『......そうだね。ありがとう』


「いいや。もう取った?」


『うん。やはりこの包丁は切り心地がいいよ』


リアは、絵画の返事を聞いて目を開いた。苦悶の表情を浮かべて肉を切っていた料理人の絵は、安らぎながら、けれども楽しそうな表情で野菜を切る料理人の絵に変わっていた。

方法こそ違えど、やはり書斎の時と同じだ。リアはそんなことを考えながら、絵画を懐中電灯で照らし、ゆっくりと鑑賞していた。


『そうだ。お礼と言っちゃあなんだけど、私はピアノを弾くのも趣味の一つでね。私のお気に入りの曲の楽譜を、君にプレゼントしよう』


絵画がそう喋ると、絵画の中からひらりひらりと一枚の紙が舞い落ちてきた。


「...ありがとう、?」


『いいってもんさ。この包丁は何ものにも代え難いけれど、せめてものお礼なんだから』


リアは、絵画の方に歩みを進め、しゃがんで、一枚の紙を拾う。それは、絵画が喋ったとおり、何かのピアノの楽譜だった。


【ピアノの楽譜】

きっと、さほど難しくはないだろう。


「...それじゃあ」


『ああ。今度君が来た時は、たんとご馳走するよ』


「......」


リアは、やりきれないような表情で冷凍室を後にした。

冷凍室からキッチンに出ると、キッチンの扉が閉まっていることが確認できた。いったいなんだ、と思って懐中電灯で照らしてみると、書斎から出る時と同じように、扉には一枚の紙が貼り付けてあった。リアはその紙を手に取っては、懐中電灯で照らして内容を確認した。




【日記の切れ端・2】

包丁が無い、と数日前から騒いでいた料理長が、今日、死んだ。今朝、料理長の様子を見にいったところ、彼は麻縄で首を吊っていた。

包丁はどこだ、誰が盗んだ、と半狂乱になっている彼を部屋に数日閉じ込める、という判断を取ったのは、私だ。この判断を取らず、誰かが正直に包丁を盗んだと名乗り出るまで問いただせば、彼は死ぬ事がなかったのだろうか。

普段は優しく礼儀のある彼が、あんなに取り乱す姿を見たのは、初めてだったから、私は正常な判断が出来なかった。彼が死んだのは私の責任だ。




書斎で見た時と同じ日記の切れ端。そんな日記の切れ端には、衝撃的なことが書かれていた。

死したとしても、彼が絵の中で、心地よく料理が出来るといいのだが。リアはそう考えながら、内容を伏せるように紙を内側に折って、キッチンを後にした。

まっすぐ応接間に行って、このピアノの楽譜に記されている譜面を弾いてもいい、とは思ったが、食堂、応接間、キッチン、冷凍室と、色々な場所を探索して流石に疲れたので、リアは一度あの部屋に戻ることにした。



ーーー



『おかえり。さっきよりも少しおそかったね』


「...ここ、かなり広いみたいだから」


『うん。この館はひろいよ』


絵画ちゃんが居る部屋に戻るなり、リアは所持していたピアノの楽譜と日記の切れ端を机に置いて、ベッドに直行した。ここまでは、書斎から戻った前回と同じ。

しかし、今回はなにか様子が違う。リアは、ベッドにうつ伏せに寝転んだまま、死んだように動かない。絵画ちゃんはそんなリアを心配して、声をかけようとした...が、その心配は無いようだった。なぜなら、リアはすぅすぅと寝息を立て、静かに眠り始めたからだ。

リアがベッドに寝転んだ瞬間寝てしまうのも、無理はない。だって、冷静に考えてみて、リアはまだ少女だ。ただの少女が、一日の短い時間内に、二回も死にかける。そんなこと、普通は有り得ないのだ。

淡々とあまり喋らず、冷静に進んでいたリアだが、そんなリアの体には、確かに疲労が蓄積していた。


『...おやすみ。リア』


そんな、布団も被らずに寝るリアの姿を数十秒見た後、絵画ちゃんはリアを起こさぬよう、そっとそう呟いた。






「......」


中々見慣れない、木でできた天井を、パチッと開いた、まだぼやける瞳で見つめる。ああ、そうだ。私、絵画ちゃんとろくに話さずにそのまま寝ちゃって...。

リアは、まだ寝起きでろくに働かぬ脳を一気に無理やり働かさせながら、ゆっくりと目を覚ました。


『あ。起きたんだ。おはよう』


「うん、おはよう」


ベッドから立ち上がり、絵画ちゃんの方へ歩くリア。出会ってまだ一日も経っていないだろうに、彼女らの会話はまるで本当の家族のような会話だった。否、家族というより...、あくまで他人だが、他人以上。それ以下の存在でも、それ以上の存在でもない。二人は、そんな感じだった。


『ぐっすりねむってたね。十四時間』


「...そんなに?」


『うん。そんなに』


体に疲労が溜まっていたリアは、なんと十四時間も眠ったまま時を過ごしていた。長い時間眠っていた割に、雨が強く屋根を打ち付けている音は、まだ止んでいない。台風のような悪天候だな、と思いながら、リアは机に置いてあるピアノの楽譜を手に取った。そして、ソファに座り、テーブルにその楽譜を乗せて、楽譜をジッと見た。


「......」


モデスト・ムソルグスキー作曲。組曲「展覧会の絵」より、プロムナード。どうやら、それが曲の詳細のようだった。

リアは、幼少期、少しだけピアノを習ったことがある。音符も、他の人に比べれば、比較的簡単に判別することが出来るし、いつ音を出せばいいのかなどのタイミングを把握するすることも出来る。

馬鹿ほど難しい曲ではなくて、良かった。リアは、楽譜に書かれている音符の数々を見て、そっと胸を撫で下ろした。


『リア、なにみてるの?』


「...ピアノの楽譜。絵画ちゃんも見る?」


『うん。みてみたい』


絵画ちゃんがそう言うと、リアはソファから立ち上がり、ピアノの楽譜を持って絵画ちゃんの元へ向かった。そして、ピアノの楽譜を裏表反対にすると、リアは絵画ちゃんに楽譜を見せた。


『...よくわからないけど、なんだかすごそうだね』


「...まあ、楽譜ってそんなもんだよ」


『うん、そうかもしれない』


見終わったかな、と思うと、リアは楽譜をパタンと閉じて、絵画ちゃんの方を向いた。

絵画ちゃんをちゃんと見てみると、リアは少し、絵画ちゃんの何かが最初と違う、ということに気づいた。しかし、何が違うかと言われたら、自信を持って答えたりすることは出来ない。いったい何が最初と違うのか...。リアはじっくりと絵画ちゃんを見つめた。


『どうしたの? そんなに見つめて』


「......あ。そうだ。背景の色、少し白くなってる」


リアは、自分が感じていた何かにやっと気づいた。最初絵画ちゃんに出会った頃の絵画ちゃんの背景色は、ほぼ真っ黒に近い色だった。それに比べて、今の背景色は、上の部分から少し白くなってきている。

今まで絵画が変わった例は、書斎の赤子の絵画と、冷凍室の料理長の絵画。この廃墟で見つけた三つのうち、二つが明確に変わっていた。そして、今、絵画ちゃんの背景色も、徐々に変わってきている。

書斎の赤子のように、冷凍室の料理長のように。絵画の心をなんらかの方法で救ったら、絵画の内容が変わる。その仮説があってるのだとしたら────。


『......ア、リア』


自分を呼ぶ声が聞こえて、ハッとした。リアは、何かを考えすぎると、いつも自分の中の世界に没入してしまう。


『どうしたの? 急にしずかになって。ねすぎて具合でもわるくなった?』


「...いや、なんでもない」


『そう? ちゃんとやすんでね』


リアは、絵画ちゃんについて、特に詳しく、何かを問おうとしなかった。


「...じゃあ、行ってくる」


『うん。...リア。...またかえってきてくれる?』


絵画ちゃんは、背を向けたリアに対して、心配そうな声色でそう質問した。

二度も死に直面したリア。そんなリアが、必ずここにまた戻れる。そんな確証は、どうしても持つことが出来なかった。

それでも、それでも。はいという言葉を返す。リアにはそれしかなかった。たとえこの廃墟で死んだとしても、結末を見ない限り死にきれない、というこの想いが、この廃墟に彷徨い続ける。リアがこの廃墟の真実を、そして、絵画ちゃんの結末を見ないという終わり方は、存在しないのだ。


「...指切りでもする?」


リアは、絵画ちゃんの方を向き直して、握った右手の小指をピンと立たせて絵画ちゃんに見せて、そう優しく告げた。


『...ふふ。いや、大丈夫。まってるから、いってらっしゃい』


「うん。いってくる」


互いの信頼度を深めた後、リアはこの部屋を出た。この廃墟の真実を知る為に、そして、絵画ちゃんの結末を自ら見る為に。



ーーー



リアが絵画ちゃんの部屋から出て真っ先に向かったのは、応接間だった。応接間には、ピアノがある。あの絵画から貰った楽譜に書かれている音を刻めば、何か進展があるかもしれない。

普通に考えれば、ピアノを弾くだけでどこかの鍵が空いたり、もしくはどこかに部屋が出てきたり...なんというのは有り得ない。しかし、再三言うが、この廃墟は、良くも悪くも、フシギな廃墟だ。リアだって、そのフシギに殺されかけたし、そのフシギのおかげで生きることができている。

あの楽譜の音を弾いたら、何が起きるのだろう。リアは、フシギに感化され、不思議と好奇心でいっぱいだった。


「...っていうか、気にしてなかったけど...弾ける、のかな」


応接間についたリアは、鍵盤を隠すピアノの蓋を開きながらそう言った。ベッドから洗剤の匂いがしたり、暖炉がついていたりと、当時の面影を所々で残す廃墟だから、きっとピアノも調律された状態である...と、願いたかった。

試しに、リアはドの鍵盤を押してみる。すると、かすっ、と空気を切った音を出し、鍵盤はドの音を出すことがなかった。何度押してみても、押す鍵盤を変えてみても、音が出ることは無かった。


「...駄目。...けど、とりあえず音が鳴らなくてもいいから、弾いてみよう」


リアは、ピアノの音が鳴らなかったことが期待はずれだから自暴自棄になる〜、なんて事にはならず、今やれる最善の策を尽くそうと考えた。

ピアノについている譜面台を開いて、その上に、開いたピアノの楽譜を乗せる。暗い部屋だから、その楽譜がしっかりと見えていなければならない。リアは懐中電灯を、ピアノの斜め後ろにある棚に置き、ボタンをカチ、と押した。これで、楽譜はしっかりと見えるようになった。

そして、トムソン椅子と呼ばれる、背もたれがついているピアノ用の椅子に座り、リアはすう、と息を吸った。


組曲「展覧会の絵」より、プロムナード。


リアが、ソの鍵盤をそっと押した、その瞬間。あたかも自分は完璧なピアノですよ、と言わんばかりに、ピアノは綺麗なソの音を出した。

正直、音の出ないピアノで演奏するのは、やむを得ないとはいえ、少しモチベーションが下がる。リアもそう思わないようにしていたが、心のどこかでそう思ってしまっていた。

しかし、さっき何度も鍵盤を押してみた時とは対照的に、今鍵盤を押してみれば、綺麗なソの音を出すことが出来た。リアは、その音を聞いた瞬間こそ少し驚いていたが、一瞬でその音をモチベーションに変換し、次々と音を奏で出した。

リア以外誰も居ない応接間には、まるで、大勢の人が展覧会の絵を観る時の気持ちのような、澄んだ綺麗なピアノの音が響き渡っていた。




プロムナードの演奏を終え、目を瞑って今の自身の演奏を振り返っていたリア。暫く、何かが起きないか、と思い、静かにしていると、廊下の方から、ガチャリという、鍵を開いたりする時のような音が微かに聞こえた。

リアはその音を聞くと、トムソン椅子からゆっくりと立ち上がって、棚に置いた懐中電灯のボタンを切ってから手に取り、楽譜は譜面台に置いたまま、応接間を後にした。


「...まあ、多分ここ、だよね...」


リアが次に向かったのは、食堂。この廊下に関する場所でまだ行けていないのは、崩れてしまっている階段の先と、食堂にある扉の先。そして、ピアノを弾いた後に聞こえたのは、鍵が開くような音。つまり、消去法で選んでいくと、食堂にある扉が開いた、ということになる。

リアは、食堂にある扉のドアノブに手をかけて、ゆっくりと扉を押した。リアの予測通り、この扉こそ、あの鍵の音がした扉だった。

これまでは、部屋に入る前、必ず部屋の中を懐中電灯で照らしてみて、絵画が無さそうなら入る...としていたリアだが、この部屋から、リアはそれをするのを辞めることにした。理由は単純。たとえ絵画があったとしても、危険を顧みずに進まなければ、この廃墟の真実を知ることができないと思ったからである。

という訳で、早速扉が開いた先に足を進めると、そこには、広い中庭のような場所、というか、中庭があった。


「...」


懐中電灯で先の方を照らしてみると、向かいの壁には、一つの扉が。左の壁には、もう一つの扉が見える。この部屋を上から見たら、多分ほぼ正方形の形になっているのが分かる。

部屋の中央の中庭には、中庭全体を囲むように四つのベンチがあり、真ん中には白い花が咲いていた。リアは、その白い花に惹き付けられるように、中庭に進んで行った。


「...案外、何も無さそう」


白い花の目の前でしゃがんで、リアはそう呟いた。四つのベンチと白い花以外、特に何も無い中庭。ただ、その四つのベンチと白い花...というか、中庭全体が、廃墟にしてはなにか、少しの異常さを醸し出していた。

これまで見てきた他の部屋とは違い、この部屋だけは、しっかりとケアがされている様な雰囲気がある。普通の廃墟の中庭なら、誰も寄り付かないせいで雑草が生い茂っているだろうが、この廃墟の中庭には、雑草が一切生えていない。

それだけなら、まだ、例の超常現象〜、というくだりで説明がつく。しかし、雑草が生えていない、というだけではなかった。お分かりだろうが、白い花が咲いている、という事。それもおかしい。普通に考えたなら、人が寄り付かない廃墟の花なんて、とうに枯れてしまっている。誰かが水やりをしたり、もしくは植え替えたりしない限り、花は咲くはずがないのだ。

それに、白い花に近寄る際に、懐中電灯で照らして軽く見た一つのベンチ。そのベンチにも、埃一つの痕跡すら無かった。むしろ、まるで、水のついた雑巾でしっかりと拭いたように、新品の姿のようなベンチだった。

この部屋、中庭だけ、他の部屋に比べて、異常なほどまでに、人の居た匂いがする。リアはそう思いつつ、ゆっくりと立ち上がった。


「...こっちは...」


食堂に続く扉以外の、前方と左にある、二つの扉。リアはまず、左にある扉に近寄った。ネームプレート...というか、扉に貼りつけられてある、白い紙のようなもの。懐中電灯で照らしてみると、その紙のようなものには、非常階段、という字が書かれていた。

廊下からは、階段が崩れていて行けなかった二階に、思わぬ方法で行けるようになる。...かもしれない。だが、ひとまずは鍵が空いているかを確認することにした。


「...開かない」


まあ、非常階段という名前の通り、なんとなく予測はしていた。リアは扉のドアノブを引いたが、どうやら鍵がかかっているようだった。非常用の階段なんだから、鍵がかかっていても、まあ違和感は無い。リアは非常階段の扉を一旦諦めて、もう一つの扉の方へ向かった。

もう一つの扉には、しっかりとしたネームプレートが置かれていた。そのネームプレートを照らして見てみると、【大倉庫】と書かれていた。

大倉庫も、非常階段のように、鍵がかかっていてもおかしくない。鍵がかかっていたら、中庭を洗いざらい探して、それでも見つからなかったら〜...。リアは、この扉が開かなかった時のことを考えつつ、大倉庫のドアノブに手をかけた。

だが、その扉が開かなかった時のことの予測は、どうやらする必要が無いようだった。扉は、鍵がかかっておらず、しっかりと開く事が出来た。


「...広い」


大がつく倉庫の名の通り、その部屋の中は、しっかりと広い倉庫だった。リアは、懐中電灯で倉庫内を照らしながらその倉庫の中に足を踏み入れた。

倉庫の天井や壁、床は、冷凍室に似ている質感で、至るところに色々なものが置いてある。それは、ダンボールだったり、ドラム缶だったり。あれは壊れてしまったカメラ? あれは...バイオリン? 倉庫に置いてある様々なものに、リアは次々と目を奪われてしまっていた。

鍵などの使えるものがないか、リアは倉庫内をしっかりと確認しつつ、ついに倉庫の一番奥に辿り着いた。倉庫の一番奥、そこには、ダンボールの上に置かれてある、一枚の絵画があった。

リアがその絵画に気づき、懐中電灯で照らしてその姿を見た瞬間。


「っ゛、...!!」


どこからか伸びてきた細い縄のような物が、後ろからリアの首をぐ、ッと絞め付けた。リアの体は、まるで死刑が執行される時のような姿勢で、宙に浮いてしまった。

リアはなんとか自分の首を絞め付ける物を自身の手で離そうとしたが、それが首に強く食い込んでいるせいで、上手く離すことができなかった。

このままじゃ、死んでしまう。そんな事がリアの脳裏に浮かんできた頃には、既に酸素が上手く脳に回っておらず、意識が朦朧としてきていた。体から力が抜けてきて、目の前がジワジワと歪んできて。手に物を掴む力が脳に伝わらず、懐中電灯を落としてしまった時。


『きゃんっ!』


そんな叫び声が絵画から聞こえてきて、それと同時にリアの首を絞め付ける物の力が少し緩んだ。

リアは、その緩んだ物の隙を見逃さなかった。脳がジワジワと熱くなってきている中、リアは力を振り絞って、両手で自分の首を絞める物を思いっきり引きちぎった。


「け゛ほ、っ、ッ゛...」


一気に地面に崩れ落ちて、咳を繰り返すリア。だが、そんな事をしている暇はない。この絵画は、これまでの絵画とは違って、危険だ。

リアは咳を何度か繰り返しながらも、自分の首を抑えながら苦しそうに立ち上がった。


「......゛、」


息を整えつつ、リアは点いたままの懐中電灯を拾って、もう一度置いてある絵画をそっと照らした。


『あ〜ら、もう少しだったのに。ざ〜んねん』


「...なん、なの」


首を抑えながら、照らした絵画。その絵画には、中庭で見た白い花が頭になっている、緑色のドレスを着た女性の姿があった。その白い花が頭になっている女性の周りには、詳しく見えなかったが、緑で描かれた植物の姿があった。

その絵画の題名は、【白き菫の朋友】。リアはその、菫、という、あまり見慣れない漢字を知っていた。それは、スミレ。しろきスミレのほうゆう、それがこの絵画の題名だ。


『ごめんねぇ? 急に首絞めちゃって。遊べるコが来ちゃったから、ついつい』


リアが絵画を見下ろしていると、絵画はどこからが伸びてきた植物のツタのようなものに引っ張られて、宙に浮いた。そして、そのツタにより、絵画はリアの目の前の壁に固定された。


「......何が目的?」


これまでの絵画と対面した時とは違って、リアがするべき事についてのヒントが、全く無い状態。リアは困ったような顔で、絵画にそう告げた。


『う〜ん、そうねぇ。ワタシはあの赤子と違って泣いたりしないし、あの料理長のように何かを欲してる訳でもない。強いて言うなら......、昔のように遊びたいわ』


「...遊ぶ? でもどうやって...」


『そうだ! 謎解きなんてどうかしら』


絵画がそう答えると、絵画を固定しているツタとはまた別のツタが倉庫内をゴソゴソと漁り、謎解き、と大きく書かれている本を取りだした。そして、絵画自身が見えるように本を開いて、ツタでページをペラペラと捲っていた。


『ン〜...、そうね。三問連続で解けたら、この部屋からちゃんとここから出してあげるわ』


その言葉を聞いて、リアは倉庫の扉の方を向いた。倉庫の扉には、ツタがビッシリと張り付いていて、リアは瞬時にここから出れなくなっている、ということを察した。


『ただし、一門でも間違えたりしたら〜...』


絵画が言葉を伸ばすと同時に、扉の方を向くリアの背中に、ぴと、と伸びてきたツタが当たった。


『永遠に私の遊び相手になってもらうわ。死ぬギリギリの所まで虐めて、虐めるのを辞めて生かして......ふふ、想像しただけでも笑えてきちゃった』


「......」


リアは、そんな言葉に怖気付くどころか、表情を一切変えぬまま、絵画の方を向いた。


「なるつもりは無いから」


『うふふ、そう。それこそやり甲斐があるわ』


絵画は高らかに笑って、また本をペラペラと捲り始めた。


『...決めた! 第一問。空にかかる綺麗な橋は』


「虹」


リアは、即答した。考えるより先に答えが出た。幼少期、よく読書をしていたリアは、起きている間、ずっと脳が働いている。そんなリアにとって、この問題は簡単すぎた。


『な、なんでそんなにも即答出来るよ〜...』


「...小学生でもこれくらいすぐ分かる」


『う〜〜ん...困ったわね』


絵画は焦りつつ、急いで難しい問題を探そうとした。...が、難しい問題は全く見つからなかった。何故なら、その本は、明らかに幼児向け、小学生向けの謎解きの本だったから。ページが進むにつれて、少しずつ難しくなっている。しかし、難しいとこの本で称される問題でも、リアにとっては朝飯前の問題かもしれない。

絵画は、非常に困っていた。


『......ど〜うしようかしら。あの子ならこれくらいの難しさなら引っかかってくれそうだけど...』


「...まだ?」


『待ちなさいよ、少しくらい。...と、この問題なら...』


絵画は、何かいい問題を見つけたのか、ツタを使って、本を絵画と近づけて、吟味するようにじろりと問題を見た。


『よし来た、第二問! え〜...チェスの終わり、道草の始まり、アキレス腱の中心。これらが指すものは?』


その問題を聞くと、リアは目を瞑って、静かに考え始めた。


「...もう一回聞かせてもらえる?」


『え〜? だ〜め♡』


リアは、その絵画の、自分に対する問いの答えを聞いて、考えていた答えが確信に変わった。

この問題は、まず、チェスだとか、道草だとか、アキレス腱だとか、関係の無いものを並べて、問題文を複雑にさせ、聞いてる側の人を混乱させる。しかし、この問題の鍵はそこではない。この問題の鍵は、単語の後に出てきた、終わり、始まり、中心、という三つの言葉。

チェスの終わり、と聞けば、終局やチェックメイトなど、色々な単語が頭に出てくる。そこに間髪入れず、道草の始まり、という言葉を出して、まだチェスの終わりの意味も分からぬまま道草の始まりを考えなきゃいかなくなり、聞いてる側の人は混乱する。更にそこに、アキレス腱の中心なんて言葉が出てきて、ますます混乱する。だが、そんなに難しく考えすぎず、もっと頭を柔らかくすれば、この問題は簡単に解けるのだ。

チェスの終わりの言葉の、す。道草の始まりの言葉の、み。アキレス腱の中心は、平仮名にすると「あきれすけん」のれすとなるが、片仮名と漢字を用いて書く「アキレス腱」の方の、れ。

つまり、この謎解きの答えは...、


「すみれ」


となるのだ。

リアは、最初こそ少し戸惑ったものの、すぐにこの問題の意図を汲み取って、最終的にはいつもの余裕な表情で絵画にそう告げた。


『...正解〜。やるじゃない。偶然ね、菫』


絵画は、リアが正解の言葉を言ったのを聞くと、ポイ、と見ていた謎解きの本をどこかに投げ捨てた。


『やっぱり本なんかより、最後は自分の頭が頼りになるわ』


「...その頭で考えるくらいなら本を見た方がマシだと思うけど」


白い菫の花が頭で、人間の頭では無いのだから、脳は無いのに、こいつは何を言っているんだ。リアはそう思って、思った事をそのまま言った。

リアは純粋すぎる少女だ。他人...、他"花"への思いやりが欠けている。


『アハ、一本取られたわ!』


絵画は、そのリアがした発言を彼女なりのジョークと捉え、笑って返して見せた。


『...じゃ、最後の問題行くわよ? ある館に、父、母、娘、という三人の家族が住んでいました。三人の関係は良好でしたが、ある日が訪れると、その家族の関係が、崩れてしまいました。それは何故でしょう?』


リアは、問題文はそれだけか、と絵画を何秒か見つめた。が、絵画は喋ろうとする気が一つも無いようだった。


「...待って。その問題じゃ、まだ答えが一つに」


『いずれ分かるようになるわ』


リアが喋っている途中で、絵画は、謎解きの第一問を出した時リアにされたように、リアの言葉を遮った。そして、その瞬間、最初に絵画を見た時と同じように、ツタがリアの首を後ろから絞め付けていた。

しかし、今回は、リアの体が宙に浮くことは無かった。さっきリアの首を絞めていたツタよりもはるかに大きい、人間の腕ほどのサイズのツタ。そのツタが、リアの頸動脈を上手く絞めていた。命を無くす為の絞め方ではなく、気絶をさせる為の絞め方。


「......"、...」


絵画に向かってまた懐中電灯を落としてみても、首を絞めるツタが緩むことは無かった。リアは、なんだか目の無い絵画に見つめられているみたいだな、と霞んできた意識で思い、懐中電灯のボタンを押して光を消した。

そして、それの僅か数秒後、リアは酸素が脳に回らずに、失神してしまった。






「......っ、」


脳がジンジンと痛む中、リアは冷たい床の上で目を覚ました。天国か地獄か、それか、まだ自分が知らぬ死後の世界にでもいるかとリアは思ったが、どうやらそれは違うようだった。

どうやらここは、リアが失神させられた、大倉庫のようだった。それも、あの絵画の置いてあった目の前、倉庫の一番奥。リアはそれに気づくや否や、急いで自分の近くに転がっている懐中電灯を持って立ち上がり、絵画があるであろう壁を照らした。

だが、そこに絵画は無かった。おかしいな、と思って最初に絵画があったダンボールの上を照らすと、過去に戻ったかのように絵画が置かれてあった。けれど、ある事によって、リアが決して過去に戻ってはいないことが分かる。絵画の上には、小さなメモと鍵の様な物が置いてあった。それが、過去に戻っていないという証拠だった。

リアはしゃがんで、その小さなメモを手に取り、懐中電灯で照らした。




【小さなメモ】

リアちゃんへ

さっきは遊んでくれてありがと〜♡ 久しぶりに遊べて満足したわ!

近くに置いてあるカギは、私からのプレゼント! 上手く使えるといいわね〜♪

また近いうちに遊びましょ! またね〜

白き菫より




これまでの人生で受け取ったことがない、手紙のように出来ているメモ。リアはそのメモを見て、なんだか嬉しく感じてしまった。いきなり後ろから首を絞めて気絶させるようなやり方は気に入らないが。この手紙自体は嬉しかった。

メモを内側に折り畳んで、リアは次に、近くに置いてある鍵を手に取った。当然のように付いているタグには、【非常階段用】と書かれていた。


【非常階段の鍵】


メモと鍵をそれぞれ手に取ると、リアはもう一度絵画を懐中電灯で照らした。絵画は、さっき見た時と変わりがないようだし、リアに話しかけてくる訳でもない。

きっと、この絵画に写っている白き菫とやらは、遊び相手が欲しかったのだろう。それで極端に何かに困っていたりした訳では無いが、孤独というものは、二文字では表せないほど辛いもの、ということをリアは知っていた。


「...また、来るから。...多分。だから、もっと良い謎解きを考えて待ってて」


リアは、そう言って絵画に背を向けた。背後からは、あの高らかな笑い声が聞こえた気がした。

倉庫の扉にビッシリと張り付いていたツタの姿は、もう無かった。だが、その代わりと言わんばかりに、倉庫の扉には一枚の紙が貼ってあった。リアはその紙を、恒例行事と言わんばかりに剥がして、懐中電灯で照らした。




【日記の切れ端・3】

今日で、中庭に白い菫を植えて一週間。娘は、妻と私が相談して中庭に植えた白い菫を、とても気に入ってくれていた。

初日に娘に「このお花の名前はなんて言うの?」なんて聞かれて、私が「菫だよ」と答えると、娘は「じゃあすみれちゃんだね!」なんて言ってはしゃいでいて、とても微笑ましかった。

今日なんて、読書の時間、普段は書斎で読むのだが、あまりに菫が好きすぎるのか、中庭のベンチに座ってなぞなぞの本を読んでいた。断ることはしなかった。

感性が豊かだと、創造性が必要な職業にも充分就けるようになる。勿論娘の将来は娘に決めさせるつもりだが、妻や私のように、色々な事を思える人になって欲しいと願う。




これまで見てきた二つの日記の切れ端よりも、断然ポジティブな内容。リアは日記の内容に微笑しつつ、自分が思っていたことに、一つ間違いがあることに気づいた。

それは、この館が、最初に見たあの手紙の娘の父一人が住んでいる館だと思っていた、ということ。リアはてっきり、あの手紙の内容などからそう勘違いしていた。

しかし、この館は、父、母、娘の三人家族が住んでいる館である。それが、今見た日記の内容から分かった。そして、同時に、白き菫が最後に出した謎解きの問題。それも、この廃墟となった館の真実に繋がっている、という事に気づいた。


「...こんなに幸せそうなのに、」


ある日が訪れると、その家族の関係が崩れてしまう。リアは、その既に分かっている事実を受け入れたくなかった。リアの見た順番で時系列が間違っていなければ、赤子の例、料理長の例があった後に、この幸せそうな家族の話が書かれている。

今見ている日記の切れ端のような幸せが崩れてしまう、という事実を分かっていながら、廃墟の真実をまだ追求しようとする。リアはそんな自分を、大層な幸せ者だな、と思いながら、紙を内側に折り畳んだ。

自分が倉庫で何分、何時間の間気絶をしていたか分からない。もしかしたら絵画ちゃんが心配しているかもしれない。リアはそう思って、一度絵画ちゃんが待つ部屋へ向かう事にした。



ーーー



『リア、おそかったね』


部屋の扉を開いた瞬間、そんな声がリアに向かって飛んでいった。


「...どれくらい経ってた?」


『くわしい時間はいえないけど、六時間くらいかな』


それぐらいの時間、あの倉庫で気絶していたのか。リアはそう驚くと共に、部屋の中に足を踏み入れた。

そして、持っている小さなメモ、非常階段の鍵、日記の切れ端を全て机の上に置くと、リアは机の近くの椅子を持って、お菓子を一緒に食べた時のように絵画ちゃんの元に近づいて椅子を置き、その上に座った。


『リア、どうしたの?』


椅子に座ると、リアは絵画ちゃんをジッと見たまま、何も喋らなくなってしまった。見つめられている絵画ちゃんは、何か悪いことでも言ったりしたかな、と思って、リアに問いを投げかけた。


「...絵画ちゃんは、絵画ちゃんの事、覚えてる?」


『? どういういみ?』


少し黙って見つめていた後、リアは絵画ちゃんに向かってそう問いかけた。が、返ってきたのは、曖昧な返事。

リアは、絵画ちゃんのことを、疑っていた。それは、悪く疑っている訳では無いが、これまでリアが出会ってきた絵画が物語ってきたから、そう思わざるを得なかった。

書斎の赤子も、冷凍室の料理長も、大倉庫の白き菫も。これまで出会ってきた絵画に描かれている人は、全てこの館に関係がある者だった。そして、一際異質なのは、今リアの目の前に居る、彼女。絵画ちゃんなのだった。


「...ほら。誰に描かれたとか、自分の名前とか...」


三枚目の日記の切れ端に記載がされていた、あの、白き菫と仲がいいと思われる、この館の持ち主であろう父の娘。リアは、その娘こそ、この絵画ちゃんなのではないか、そう疑っていた。

物証は少ない。少ないどころか、無いに等しい。だが、何よりも、絵画に描かれているということ。それと、セーラー服を着ているということ等、まあ、無理矢理理由を作ろうと思えばいくらでも作れるのだが、リアはそれらの理由から絵画ちゃんを疑っていた。


『しらない。だれかもしらない。名前も、まだつけてもらってない』


いつも淡々と、短い言葉で喋る絵画ちゃん。そんな絵画ちゃんが、少し饒舌になりながらそう喋った。それが素の反応なのか、それとも焦っているのか。それは、リアに判別することは出来なかった。

ただ、どちらにせよ、今の絵画ちゃんは何か異様な空気を纏っている。それだけは、リアでも簡単に分かった。


「...そっか。じゃあ、いつか見つかるといいね」


『うん』


絵画ちゃんが嫌な思いをするのが嫌だからか、リアは早々に話を引き上げ、立ち上がってその椅子を持ち、元に置いてあった位置に戻した。

何か少しでも情報を持っていたら、一気にこの廃墟の真実に近づくかもしれない。そう思って絵画ちゃんに問いかけたのだが、案外そう簡単にこの廃墟の真実は明かしてはくれなさそうだ。


『逆にしつもんしてもいいかな』


椅子を置いてから、机の目の前で黙って立ち止まっているリアに、絵画ちゃんはそう話しかけた。


「...答えられることなら、なるべく答えるけど」


椅子も戻してしまったし、今は、別に嫌いとか、そういう感情がある訳では無いけど、顔を見て話そう、とは思わないでしまい、リアはそう答えながら部屋に置いてあるソファに座った。


『リアは、なんでここにきてくれたの?』


それは、今まで「何故」を知ろうとしてきたリアに対する、「何故」の質問だった。

リアは、ここに来て以来、自分についての情報は、名前しか公開していない。ミステリアスの度が過ぎる彼女のことが気になったのだろう。絵画ちゃんは、先に自分がされた質問の意図を、リアは私ともっと仲良くなりたいのかな、なんて思っていたから、きっとそれも理由に含まれている。


「...別に絵画ちゃんなら教えてあげてもいいけど」


『リアがつらくならないなら、ききたいな』


「全然辛くないよ、むしろ馬鹿らしくて笑えるくらい。普通が嫌だから、逃げ出しちゃった、ただそれだけ」


リアは、静かにぽつりと、誰に言い聞かせる訳でもないような声でそう言った。


『それだけで、ここにきてくれたの?』


「うん、それだけ。そのそれだけが辛かったから」


誰もが抱えている、普通、という物。全知全能の神以外、いくら何かに秀でている天才でも持っている、普通、という面。それがリアにとっては、とても苦しいものだったらしい。


「天才でも凡才でもない、普通。頭は良くなければ悪くもないし、特別好きな分野もない、嫌いな分野も。運動も、少しだって出来るけど、得意な何かがあるって訳でもない。友達だって、特別仲良い人も居ないし、ピアノだって辞めちゃって」


『でも、普通って、』


「良い事なんでしょ? 分かってるよ。お母さんもお父さんも、友達も先生も、みんなそう言って、みんな相手にしてくれなかった」


つい感情的になってしまって、リアはそう言いながらソファからダンっと足音を立てて立ち上がった。そして、また座ろうか、とソファを見たが、リアは何かまだ納得しきってないような顔でソファから離れて、絵画ちゃんの方に向かった。


「...ねぇ。絵画ちゃん。貴女もそっち側の人間なの」


植物が巻きついている額縁に手を添えて、リアは絵画ちゃんに落ち着きながらそう話した。巻きついている植物には、どうやら棘が生えていたらしく、その棘はリアの手の平の肌をぷつりと貫通させた。だが、じわじわと手の平に細く血の橋が輝く姿を見ても、リアは額縁に手を添えることを辞めなかった。


『普通を肯定する人間、ってこと? なら、たぶん、私もそっちの人間なのかも』


「...そっか」


リアは、絵画ちゃんのその返答を聞くと、ゆっくりと絵画の額縁から手を離した。

ここでもし絵画ちゃんが、リアを慰めようとして無理に自分の意見を変えようとする、そんな人間というより絵画だがだったなら、リアはもう冷凍室にでも閉じこもって、一人で死んでしまおうか、と思っていた。

でも、絵画ちゃんは、ちゃんと絵画ちゃんだった。


「...それなら安心した」


『そう? よかった』


普通が嫌でここに来たリア。そんなリアは、明らかに普通でないこの廃墟に足を踏み入れた時点で、もう普通の少女ではなくなってしまっている。その事実に、リアはまだ気づいていない様だった。


「...じゃあ、また。行ってくる」


『うん。いってらっしゃい、リア。またね』


「...うん」


リアは会話を終えると、絵画ちゃんに背を向けて、扉の方に歩いていった。


「...あ、忘れてた」


大人びたリアも、年相応にお茶目なところがある。リアは一度向けた背を返し、机に近づいて非常階段の鍵を手に取り、また扉に近寄った。そして、忘れ物は無いな、と一応確認してから、リアは扉のドアノブに手をかけた。





コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?