「いらっしゃい蒼。それから、竜輝くん」
それは、いたって普通の挨拶だった。
玄関の扉を開け、現れた制服姿の茜。
微笑を浮かべてこちらを見つめているものの、その表情には、なぜか喜びや悲しみ、焦りなどの感情が伺えない。
何を考えているのかわからなかった。
俺は生唾を飲み込み、彼女を見つめ返す。
そして、口を開こうとしたのだが――
「おい、茜! てめぇ、どういうことだよ、さっきのセリフは!」
俺が何か言うより先に、竹崎が茜の元へズカズカ歩み寄る。
で、遠慮なく力を込めて手で突き飛ばした。
男の力。それも、結構本気のように見えたから、茜は後退して尻もちをつく。
つい、反射的に大丈夫かと彼女を心配しそうになるが、冷静になった。
今の茜は、俺からすれば拒絶すべき対象だ。
不用意に助けたりとか、そういうのはしない方がいい。これ以上変な感情を向けられても困る。
「説明しろ! 納得いくように正直に話せ! じゃねぇとてめぇ、ヤることヤるぞ、おら! 女だからって俺は容赦しねぇからな!?」
「……」
「無視してんじゃねぇよ! 本気でグー入れられてぇのか!? あぁ!?」
尻もちをついた状態の茜は、竹崎に襟元を強引に掴まれ、力なくうつむいてる。
何も言葉を発さない。
怯えてるのか。怖がってるのか。
何を考えてるのかわからず、眉をひそめてると、
「うふ……ふふふふっ……」
彼女は静かに笑い始めた。
そして前髪を乱れさせたまま、妖しい色の瞳で、目の前の竹崎……ではなく、俺を見つめてきた。ゾッとする。
「ねぇ、蒼くん? 今、蒼くん一瞬私を助けようとしたよね?」
「は……?」
「私、見逃さなかったんだから。突き飛ばされて、心配してくれたんだよね? ね、蒼くん???」
「そんな、別に――」
「あはっ! アハハハハハハハッ! 嘘つかないでいいんだよ??? ちゃぁんと、私はもうこの目で事実を捉えたから」
「っ……」
「はぁ……嬉しいなぁ……嬉しいなぁ。蒼くん、蒼くんっ。私の蒼くんっ。呼び方も昔のモノになっちゃう。ふふふっ。やっぱり私たち両想いなの。両想いに決まってるの」
「ち、違う! そんなんじゃない!」
「そんなんだよ!? そんなんなの! 今の蒼くんと私は両想い! 自分の本当の気持ちを隠してるだけだよ! ね、素直になろ?」
「ち、違っ……」
「じゃあ、たくさん言ってあげたらいいかな? 蒼くんは私が好きなんだって」
「そ、そんなの――」
「蒼くんは私が好き蒼くんは私が好き蒼くんは私が好き蒼くんは私が好き蒼くんは私が好き蒼くんは私が好き蒼くんは私が――」
「っせぇんだよ! 黙れや!」
ガツッ。
鈍い音がした。
竹崎だ。
竹崎が、狂気に染まる茜の顔を、思い切り自身の拳で殴り倒す。
正気じゃない。
荒くなった呼吸の中、冷や汗を流しながら、俺はどこか安心していた。
そのどうしようもないほどの暴力のおかげで、茜は止まった。玄関の石床に横たわる。血が飛び散っていた。
笑いが込み上げてくる。
……ほ、ほら、見ろ。訳のわからない妄想ばかり口走るからだ。
でも、何で? 体の震えが止まらない。
ぶるぶる震えて、それなのに怖いくらい笑えた。
涙も出てくる。
ダメだ。あの時と同じ。
感情が迷子になってきた。やばい。やばいよ。
「……あーおくーん……」
「……あ?」
「むかしから……そうだったよねぇ……? あおくんはぁ……わたしが……いたいいたーいになると……たのしそうにしてくれてたよねぇ……」
「なっ……!?」
よろめきながら、起き上がる茜。
口元からは血が流れ、薄暗くなってる今でもはっきりとわかるほどに腫れている。
けれど、その口元を歪ませてにこりと笑った。
相変わらず、視線の先は俺。
茜はずっと俺のことばかり見てくる。
目の前にいるのは竹崎なのに。俺のことばかり。
「ありがとねぇ……りゅうきくん。わたしにぃ……いたいいたいしてくれて」
「お、お前……!」
「もっとしてほしいんだけどぉ……だめぇ? あおくんがよろこんでくれるの……。もっとひどいことぉ……わたしにしてぇ?」
「き、キチガイ女……! く、来るな……!」
「してよぉ……! もっと、もっと、もっと、もっとぉ!」
「来るなぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ヤケクソに振り回す竹崎の拳が、今度は茜の腹部に入る。
重たい音だ。
茜はその場で嘔吐した。
でも、小さい子どもが親の反応を見るみたいにして、ニヤニヤしながら俺の方を見つめる。
俺の感情は既に迷子だった。
涙を流し、ただ笑う。
完全に昔に逆戻り。
自分が本当に好きな女の子が誰だったのか、よくわからない。
笹。
その名前が脳の中の一ページに書かれただけで、思い出を振り返ることができない。
なのに、茜の記憶だけは、辞書みたいに何ページにもわたる。
そうか。
そうかもしれない。
本当に俺が好きなのは――
「蒼くんが好きなのは、私だよ?」
岡城茜。なのかもしれない。
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振り返れば、俺と茜は、小さい時から異常だった。
小さい子ども同士なのにもかかわらず、寂しさと好奇心と気持ちよさから性行為に及んでいたし、互いの体に傷を付け合っていた。
そして、そういうことをしようと提案したのも、すべてが俺からだ。
俺は、正常な倫理観を持つ人間からすれば、ネジの飛んだ存在で、誰かにそれを指摘されて、無理やりそんな自分を抑え込んだ。
でも、そんなのはもういいのかもしれない。
結局、人は自分らしく生きないと訳がわからなくなる。
訳がわからなくなったら、それは死ぬのと同じだ。
死にたくはない。死にたくはないから、訳がわからなくなるのだけは勘弁。
あと、最後に一つ。
これは、正常じゃない俺が見たことだから、もしかしたら幻覚かもしれない。
叫ぶ竹崎を、茜は風呂場に誘導し、ナイフで滅多刺しにした。
もう用済みだから。
そう言ってたような気がする。
でも、その後彼女は俺にそのナイフを渡してきた。
次は、それを使って私を刺すの。
楽しそうに茜は言う。
そうすれば、きっと俺はすごく楽しい気分になるらしい。
そこからの記憶はなかった。
楽しかったのか、まるでわからない。
わからないけど、目の前に、動かなくなった茜がいたのは覚えてる。
何だ。嘘つきだ。
楽しいどころか、全然何も覚えてない。
茜の奴、楽しくなるって言ってたのに。
そもそも、茜はどうして俺を家に呼んだんだろう。
わからない。
何もわからなかった。