「こんな夜遅くにどこへ行くの、お二人さん?」
これほどに驚いたのはいつ以来だろう。記憶にない。
心臓が何かで殴られたみたいな感覚に陥り、そこから凄まじいスピードで鼓動する。
額には一気に汗が浮かんだ。背中がゾクリとする。
「あ、茜……!」
「茜……先輩……!?」
「うふふふっ。二人そろってびっくりって感じだね。笑っちゃう。私に声掛けられた瞬間、蒼なんて軽く跳ねてたし。くふふふっ」
「っ……!」
そりゃそうだろ。
もう0時を優に超えてる。
まさか笹以外の誰かから声を掛けられるだなんて想像すらしてなかった。
茜の家も隣ではあるけど、さすがに寝てるだろうって思ってたのに。
「で、お前の方こそ何の用だ? こんな時間に。まさか俺たちが外へ出てくるタイミングを自分の家から伺ってただなんて言わないよな?」
「あははっ。さすがにそんなわけないよ。自意識過剰、蒼」
「わかんねぇよ。お前ならやりかねない。昔から岡城茜ってのはそういう女だ。それに気付けてない奴らは色々騙されるんだろうけどな」
……俺含め。
「可愛いもんね、私。仕方ないよ。騙す気なんて全然ないのに」
「はっ。よく言う」
鼻で笑いつつ、俺はさりげなく笹を自分の体の後ろへ隠してやった。
茜を見た瞬間からブルブル震えてる。明らかに様子が変だった。
「悪いけど、何も用が無いんだったらもう行く。あるんなら、手短に話してくれ」
「用はないよ。私、夜風に当たりたくてたまたま外に出て来ただけだから」
「……あっそ。そういうことなら、じゃあな。良い夜を」
「ふふっ。うん」
そんなやり取りをして、俺は笹の手を引きながら茜の傍を通り越して行く――
――が、だった。
「ねえ、蒼?」
何も用が無いと言ったくせに、通り越してすぐのところで茜は俺の名前を呼んできた。
俺も無視すればよかったのだが、気付けば茜の方を見ぬまま足を止めていた。
笹はそんな俺の腕へ助けを求めるように抱き着いてくる。震えは未だ止まらないままだ。
「なんかさ、ちょっと昔に戻った? 最近までと違って、えらく素っ気なくなったね」
「……何のことだよ?」
「ほら。そういう口調も。なんか乱暴。最近まではどっちかというと優男口調だったのに。怖いよ」
「知らねーよ。無意識。あと、そういうのもうお前には関係ない」
「え。普通に関係あるよ? だって私たち幼馴染じゃん」
「幼馴染だから何だって言うんだよ。別に家族でもないし、友達みたいなもんでしかないだろ。縁だって簡単に切れる」
「切れないよ?」
「いや、切れるって。現にお前は切ってきたじゃん、俺のこと」
「切ってないけど」
「は……?」
振り返ってみると、微笑を浮かべる茜。
訳がわからない。どう考えてもこいつから俺は関係を切られた立場だ。
何を以てしてそんなことを言ってるのかまるで意味不明だが、こいつの価値観に踊らされることほどしょうもないことはない。
彼氏と付き合いながら他の男と関係を持つし、男に浮気をされても何も感じず、むしろ悦に浸るような女。
幸せの基準が掴めず、掴もうと努力してみても、次第に酔ってくる。気持ちが悪くなる。
前までの俺はそれに一つも気付けてなかった。だから好き勝手やられ、ボロボロにさせられた。もう振り回される必要もない。
俺が俺を解放してやらないと。茜から。
「そっかー。まあでもそうだよね。蒼には言ってなくて、これは笹ちゃんに言ったんだっけ?」
「……?」
疑問符を浮かべる俺の傍で、笹が話を振られて体をビクつかせる。
「話したよね? 私と笹ちゃんの二人で蒼を半分こしよ、って。私的にはまだ蒼のこと全然好きなんだよ? 特に今の感じはすっごくいい。かっこいいよ、蒼」
「やめろよ。気持ち悪い。冗談でも勘弁してくれ」
「くふふふっ。ひどいなぁ。でもその感じがいいんだって。私の好きだった蒼が戻ってきた。どうしよ。ごめんね笹ちゃん。この調子だと私、半分こにできそうにないかも」
そう言ってゆらゆらと歩み寄って来る茜。
笹は本気で怯え、必死に叫んだ。「来ないでください」と。
それでも茜の歩みは止まらない。
俺も後退しながら茜の接近を拒絶するも叶わず、気付けば背を壁に付けてしまう。
目の前には、月の光を帯びた妖しい目の茜がニタリと笑ってる。
怖い。
次第に俺もそんな感情を抱いていた。
笹の体だけはなんとか抱くように守りつつ茜を睨み付ける。
「やめろ……! 来るな……! もう……これ以上俺たちに関わらないでくれ……!」
「えー? 蒼からそんなこと言うんだー。竜輝くんのこと陥れて、次は私に何かする予定なのかなーって思ってたのにー」
「……まさかお前、それで俺たちを迎え撃つために……?」
「あははっ。だから違うって。そういう感じじゃないから。たまたまー」
本当にか? 信じられない。
「でも、そのたまたまに今は感謝。すっごく幸せな気分」
「……は?」
「本当のこと言ってね、私別に竜輝くんのこと好きじゃなかったんだ」
「っ……!」
「私は、私と付き合う前の蒼がすごく好きだった。すごくすごくすごく……本当に……すっごく!」
その顔には狂気しか浮かんでなかった。
初めてだ。好きと言われて恐怖を覚えたのは。
「お前と……付き合う前の俺……? どういうことだよ……?」
「自覚ない? 今の蒼のこと」
「今の俺……?」
困惑するように首を傾げると、茜はそんな俺の頬を冷たい手で触れてきた。ゾワっとする。
「悲しくて、寂しくて、ずっと大切な人から愛されたいって思い続けてた時の蒼だよ」
「……何だ……それ?」
「わからないよね? 当然だよ。だって、捨て去りたい自分だったんだもん」
「……???」
「でもね、蒼。私はそんな蒼が大好きだったの。そんな蒼を愛してあげたいって思ってた。だから私、付き合ったんだよ?」
「……っ」
「けど、それが失敗だった。あなたが幸せになった途端、魅力的だった蒼は消えちゃったから。ギリギリな蒼は消えちゃったから」
「……ほんと、さっきから何を……」
「ねぇ、蒼? 今度は消えないでくれる? 私、何度でもあなたを裏切るから」
「は……?」
「あなたが幸せになったら他の男とヤるし、愛の言葉も囁く。よくわからない男の好きなように自分を染めて、蒼の手から離れていくよう見せかける努力もするし、あなたに酷い言葉だって何度も掛けてあげるし、あなたの友人だって私ぐちゃぐちゃに壊してあげるし、あなたに近寄る下衆なメスネコも立ち直れないくらいボロボロにしてあげる。徹底的にあなたを孤独にさせてあげる。だから――」
――ねぇ、もう一度私と付き合って?
今度はもう、失敗なんてしないから。
悲しみに暮れる蒼の傍には、サンドバッグみたいになってる私がいればいい。
覚えてる? 私、昔蒼に壊されたんだよ?
めちゃめちゃに酷い言葉を掛けられたし、ゴミみたいな扱いを受けてた。
でも、それが私にとっての愛だった。
寂しくて一人だった蒼は、私がいないとダメになっちゃう。
だから傍にいて、それが愛だなぁってすごく幸せだったの。
もう一度、私にそれを感じさせてよ。
絶対。絶対に離さない。離れてやらない。
蒼は私がいないとダメだって、今はわかったから。
「大好きだよ。蒼くん」