蒼先輩のためとはいえ、兄に電話を掛けるのは正直なところすごく嫌だった。
声を聞くのも嫌だったし、耳から存在を認知するのも嫌だったし、あの人のために何を話せばいいか戸惑うのも嫌だった。
絶対冷静じゃいられない。
電話越しで冷静な風を装ってても、きっと心臓はバクバクと鳴り止んでくれないはず。
一人の今なら認められる。
私――凪原笹は、兄のことがすごく怖い。
どうしようもないくらいに、大嫌いだったお母さんのことを思い出してしまうから。
「――って言っても、まあ、こなすくらいはできるよね」
女子トイレの個室の中。
兄に電話し終え、蒼先輩を店外へ送り出した私は、一人息をついていた。
嫌でも、苦しくても、やらないといけないことはやらないといけない。
電話に出た兄は、最初すごく戸惑ってた。戸惑いを隠そうとしてる感が満載だったけど、私の耳は誤魔化せない。あれは絶対動揺してた。私がいきなり電話掛けたから。いきなり「話がある」なんて言うから。
でも少し、そうやって動揺してくれたのは個人的に助かった。
私が電話をするって行為は、彼にとってメンタルをぐらつかせる出来事だってわかったから。
それを知れただけ、まだ私の心も平穏を保てる。
彼の中で、私の存在がどうでもいいカスのようなものになってしまえば、今後もしも嫌々ながら会ったりしないといけない時に、きっと私は私で動揺してしまう。
動揺して、向こうに弱みを見せて、結果的に強く出れなくて、蒼先輩のために動くことができなくなる。
私はほんとに弱い。
こうやって意地を張って、相手がビビっただの、何だのということで安堵して、震える体を自分で慰めることばかり繰り返してるから。
「…………出よ」
何度も言うけれど、とりあえずやるべきことはやった。
なら後は、蒼先輩の帰りを待てばいいだけ。
合流して、すぐに店を出て、あの人といったいどんな話ができたのか、じっくり聞く。
それでいい。うん。
――なんてことを考え、個室扉に手を掛けた時だった。
タイミング悪く、誰か他のお客さんがトイレの中に入って来る。
……うわぁ、ヤだな。顔合わせたくない。
そう思い、少しだけまた個室の中に留まることにした。
この人が自分の選んだ個室の中に入るか、出て行くかしたら私も出よう。
「………………」
……けど……。
「………………」
なかなか扉の閉まる音だったり、どこかへ行く音だったりがしない。
……え? 何? 何なのこの人……? まさか、幽れ――
「こんなところでごめんね。あなた、芥山高校の一年生、凪原笹さんよね?」
「…………へ…………?」
唐突に外から話しかけられ、頭の中が真っ白になる。
誰……!? じゃなくて、もしかしてこの声……!
「私、芥山の二年で、岡城茜っていうの。もう知ってるよね?」
「えっ、あ、あの」
「たぶん私のこと、蒼から聞いてるだろうし」
「っ……!」
すべてを見透かしてるかのような言い方だった。
その一言に、私の心臓は勢いよく跳ね上がる。
「ごめんね。なんか詮索するような言い方になっちゃって」
「い……いえ……」
小さな声でしか返せない。しかも、その声は若干震えていた。自分でもわかる。
「あなたと蒼がいるの、ここに入った時にすぐ気付いたの。でも、最初は気付いてないフリしてた。その方がお互いにいいのかな、と思って」
「……っ」
「だけど、今さっき竜輝くんがずっと疎遠だった妹から電話がかかって来たって言って外に行っちゃったからね。少し不自然に思ったの。どうして笹さんは女子トイレに向かったのに、竜輝くんは外へ呼び出しされてるんだろって」
「あ……」
「よく見てたら、蒼もその後外に出て行っちゃったし。どういうことかな?」
「…………」
「二人で何か企んでるの? 私と竜輝くん、離れ離れにして」
返す言葉がなかった。
どうしていいのかわからない。なんて言えば角が立たないのか、まるでそれらしい言葉が浮かんでこない。
すると、無言になってしまった私を見かねたのか、茜先輩が続けてきた。変わらない、淡々とした口調で。
「……私ね、たぶん、あなたに誤解されてる気がする」
「……誤解……ですか?」
「うん」
何の誤解だろう。
胸がキュッとする。
「蒼から、私に関しての悪いこととか、色々吹き込まれたんじゃない? あの女はすぐに男を乗り換える尻軽だ、とか、俺を簡単に捨てた女だ、とか言って」
「へ……!?」
「それで蒼にそそのかされて、私と竜輝くんをつけ狙うようなことしたりとか」
「そ、それは違います! そんなこと、蒼先輩はしてません!」
はじかれたように私が言うと、茜先輩は少しの無言の後、クスッと笑った。
「すごい勢いで否定するのね。そっか。違ったんだ」
意味ありげな物言いだ。
何が言いたのかはよくわからないけど、私は続けた。
「蒼先輩は……、そんなフラれたりしたからって、茜先輩のことを悪く言うような人じゃありません。私にも、自分が悪かったって言ってましたし」
「へぇ。私のこと、やっぱりあなたには言ってるの」
「ダメ……なんですか?」
「いいえ、別に。ただ、そういう系統の話をしてるんだなぁって思っただけ」
「そういう系統って、恋愛ってことでしょうか?」
「そこはご想像にお任せ」
言いながら、茜先輩はクスクス笑う。どことなく楽しそうだった。
私はずっとドキドキしてるのに。
「笹さんは、蒼のことが好きなの?」
「え!?」
「だって、さっきからすごく蒼のことを庇うし、そうなのかな? と思ったんだけど」
「そ、そんなっ……、い、いきなり過ぎじゃないですか!?」
「ふふふっ。そう? 私、そこのところ、すごく気になってる。でも、別にいいんじゃない? 好きでも。蒼、今誰とも付き合ってないだろうし」
「っ……。そういう問題でもない気が……」
「そういう問題よ。フリーなら、人は別に誰と付き合ってもいいでしょ? ね?」
フリーじゃない段階で兄と一緒になった人がそれを言うのか、と思った。
でも、それはその通りだ。
今、蒼先輩にアプローチを掛けても、別にそれは問題にならない。
ただ、物事はそんな簡単な話じゃない。
人には、それぞれ思いがあるから。
一方的に思いを伝えるのは、ただの暴走でしかない。無謀はしない主義だ。私は。
「……そうだとしても、私は蒼先輩に今想いを伝えるとか、そういうことはしないです。あなたと違って」
「あら、そう。残念」
「それに、先輩は今でもたぶん、茜先輩に未練があるんです」
「……」
「もう一度茜先輩とヨリを戻したいと思ってるのかはわからないですけど、過去の悪かった自分を悔いて、前に向かって進もうとしてる。そんな段階にいるんです」
「……へぇ」
「だから、そんな頑張ってる先輩をまた困らせるようなことはしない。私が今、先輩にできることは、隣に居てあげることだけですから。あなたと違って!」
二回目は、さっきよりも強調して言ってやった。
蒼先輩と茜先輩。二人の間で何があって別れに繋がったのか、詳しくはわからない
けど、あの蒼先輩が何か悪いことをしただなんて考えづらい。
茜先輩が兄に騙されただけなんじゃないか。私の考えは揺らがなかった。
「そういうことなので。私、お先に失礼します」
個室の扉を開けて、そこに立ってた茜先輩と対面しつつ、私は頭を下げる。
彼女は冷淡な色を顔に貼り付け、何かを考えてるみたいだった。無言のままだ。
「兄と一緒に猫カフェ楽しんでください。たぶん、もうじき戻ってくると思いますので」
「……ちょっと待って。笹さん」
呼び止められ、私は出入り口の扉を押すのを中断。
「……何ですか?」
振り返り、首を傾げた。
彼女は表情を崩さないまま、こっちにゆっくりと歩み寄って来る。
「明日、二人きりでまた話せないかな? 場所はどこでもいいし、何かごちそうするから」
「へ……? ど、どうして、ですか?」
「私が蒼と別れた本当の理由、そこでちゃんと教えてあげるから」
蒼先輩と別れた本当の理由。
そう言われて、私に断ることなんてできなかった。