人の声も、テレビの声も、物音さえほとんどないリビング。
聴こえてくるのは、目の前にいる笹の息遣いと、自分の心音だけだった。
「……蒼先輩……。実は私、先輩のこと……」
「……っ……」
「………………す………………っ」
す。
潤んだ瞳で、訴えかけるような表情の笹は、その一言をなんとか捻り出し、やがてバツが悪そうに俺から目を逸らした。
このタイミング、二人きりの状況。
唐突ではあったものの、俺は笹からその言葉を言われる覚悟ができていたんだ。
だから、冷静ではいられなかったけど、しっかりと彼女の目を見ることができた。
そして、彼女の名前を呼ぶこともできた。「笹」と。
「……笹……。俺のことが……なに……?」
「………………『なに?』って何ですか……?」
「え……?」
赤面し、逸らしていた瞳をこちらへ戻す笹。
ジト目だった。ジト目で俺を見つめてきながらの問いかけ。
「なにって何ですか、って……何だ……?」
「なにって何ですか、って何だ? って何ですか?」
「…………いや、あの……え、えぇ?」
赤くなった顔のまま、ジト目で口元をもにょもにょさせながらなおも問いかけ続けてくる笹。
もう、なんか色々ヤケっぽかった。
俺は引きつった笑みを浮かべ、一つため息をついた。
「その……俺に何か言おうとしてたみたいだけど……いいの?」
「………………」
「……さ、笹……?」
心配するかのように軽く彼女の顔を覗き込む俺。
すると、笹は「っ~」と声にならない声を漏らし、身悶えしながらおもむろに俺の使ってたスプーンを手に取る。
そして、そいつでカレーをすくい、俺の口へぶち込んできた。
思わずむせそうになる。
「っ! ぐっ、ごほっ! な、何すんだよ……!」
「…………なんか……ちょっとムカついちゃいました……」
「は、はい?」
ムカつく……? どういうことだ。
「蒼先輩……どうしてそんな余裕あるんですか……?」
「余裕……?」
あぁ、なるほど。そういうことか。
なんとなく言葉の意味が察せられて、俺はとりあえず口に放り込まれたカレーを咀嚼する。で、飲み込んでから答えた。
「……別に。余裕とか、そんなのはないよ」
「でも、私が近付いたのに、珍しく顔逸らさなかった。……てか、私が逸らしちゃいました……」
「俺が笹に慣れてきただけだと思う。笹と一緒にいても、普通にしてられるっていうか」
「じゃ、じゃあ慣れないでください。先輩は私に慣れず、また私が顔を近付けたらドキドキしてください」
「……君……ほんと何言ってんの……?」
「私にもわからないですよ……。何言ってんだろって自分でも思いますしぃ……」
「……(汗)」
しまいに笹は赤くなってる自分の顔を手で隠し、「あぁぁぁ」とか声を出してしゃがみ込んだ。さっきまでのドキドキを返して欲しい。何なんだこれ。
「……ですけど、蒼先輩。もしも、もしもですよ?」
「うん。なに?」
「もしも今さっき、私が本来言おうとしてたことを本当に言ってしまってたら……そ、その………………どうしてました……か?」
「……っ」
くそ。可愛いな。
そんな言い方で上目遣いしてこないで欲しい。シンプルに思ってしまった。可愛いって。
「そ、それは……」
「あ。蒼先輩、顔赤くなった」
「えっ……!?」
指摘され、俺は顔に手をやる。
いや、手をやっても何もわからないけど、とにかく反射的に手をやってしまった。
にまーっと笑みを浮かべる笹。
そんな君だって未だに赤面してるんだが。
俺はぎこちなく咳払いしてから答えた。
「さ、さぁ? その状況に陥ってないから答えようもないかな」
「陥った仮定でちゃんと考えてください! 私がさっきちゃんと言おうとしてた言葉を言えてたら、蒼先輩はなんて答えましたか? どうぞ」
どうぞ、じゃないよ……。
なんかズルくないか? ズルいんじゃないかこれ?
笹はちゃんとその言葉を言おうとしてないのに、俺だけ謎にその返しを答えさせられてる理不尽さ。
答えの先取り。漫画のネタバレみたいじゃん。笹さん、あんた絶対海賊サイトとかで漫画のネタバレ読んでるタイプですよね? ズルいんですよ、あれ。
グルグルと頭の中で必要ないことだけは駆け巡る。
「答えてください、蒼先輩」
しゃがみ込んでたところから立ち上がり、座ってる俺に顔を寄せてくる笹。
その時ばかりは、俺も目を逸らすしかなかった。
さっきはほんと、なんで目を逸らさずにジッと笹を見つめられたんだろう。自分がわからんです。怖いです。
「っあぁぁぁ! もう! わかんないよ! わかんないけど、俺も答えるんじゃないか?」
ヤケになり、笹を弱々しく押し返しながら叫ぶ俺。
「どう答えるんですか? ちゃんと答えたくださいっ」
「だから、『す』って! 『す』って答えるよ! 『す』ってぇ!」
「ふぇ……!?」
だ、ダメだ。なんかよくわからないけど、必要以上に体力を使った感。何も運動とかしてないのに。
テーブルに右肘をつき、俺は首を前に折っていた。落ち着け、心音。鳴り止め、心音。
「……え……えとー…………」
「なに……? 答えたけど……? 文句ある……?」
「な、ない……でしゅ……」
言って、笹はキッチンの方へ走って行った。
そこで電気も付けずに冷蔵庫の方を向き、もじもじしながら俺に背を向け続けるのだった。