河川敷の水飲み場で軽く笹の擦り傷を洗い、そのまま俺は自宅へ彼女を連れ帰った。
当然だが、その『連れ帰った』って言葉にいやらしい意味はない。ただ、笹の傷の手当てをしてあげようってだけの話だ。誤解だけは勘弁。
家に着くと、父さんも母さんもまだ仕事から帰ってなかった。好都合。
俺は笹を二階にある自室へ連れて行き、持って来た救急箱からガーゼと医療用テープを取り出し、それらで擦りむいた膝の部分をがっちりとガードしてあげた。これで雑菌が入ることもないだろう。ひと段落だ。
「……ありがとうございます。ほとんど初対面なのに、ここまでしてもらって」
「って言っても、初対面だと思ってるのは俺だけなんだろ? 凪原さ――じゃなくて……笹……は俺と面識があるって言ってたじゃん」
「んー、まあ、それは……そうですね」
俺の部屋のカーペット上で体育座りをし、宙を見上げながら笹は頷く。
「だろ? ほんと記憶にないんだけど……。もう教えてくれよ。いつ会ったのか」
「まあ、ざっくり言うと高校のオープンキャンパスですかね。去年の話です」
「え……去年?」
もっと昔だと思ってたぞ、おい。
「当時私は中学生だったんですけど、芥山高校の校内って複雑でわかりにくくて。迷子になってたところ、先輩は声を掛けて助けてくれたんですよ」
「迷子……? ……あ。ちょっと待て……! なんか記憶にあるぞ……!?」
休憩中、道に迷った女の子を保護した記憶がある。
「でしょ? まったくー。一年前の出来事くらい覚えてて欲しいですよ、蒼先輩」
「でもちょっと待て。その時保護した女の子は三つ編みで、メガネをかけてたはずだ。性格だって大人しめだったはず……」
「そんなの二、三日あればイメチェンできる範疇じゃないですか」
「え……。じゃ、じゃあまさか本当にあの子が笹……?」
笹の方を見やって問いかけると、うんと頷く。
びっくりだった。思わず「うぇぇ!?」と声を出してしまう。それくらい雰囲気が変わってたから。制服の着こなしとかも。
「う、嘘だろ……!? 気付くわけないよそんなの。今はビッチっぽいのに……」
「むぁー! 先輩ヒドー! ビッチとか女の子に絶対言っちゃダメなセリフ! だいたい、今も別にそんな派手ってわけじゃないですよね? 髪の毛を若干染めた程度で」
「……まあ、言われてみればそうだな。地毛とも言えなくない」
「ですよね? ふふんっ」
勝ち誇った表情で自分の髪の毛をサラサラ撫でる笹。
だけど、すぐに「あっ」と口を開け、続けてきた。
「でもでも、先輩的にはどっちが好みですか? 今の茶色系か、それとも黒か」
「えらい唐突な質問だな」
「だって、気になるじゃないですか。私、正直今のこの髪色気に入ってますけど、先輩が黒が好きだって言うんなら黒にしちゃいます」
「なぜ……?」
「そんなの決まってるじゃないですかー。ふふふっ。好きだからですよ~」
そのセリフを聞き、ドキッとは――……しなかった。
見ろ、あの顔。
小悪魔っぽく俺をからかう気満々の表情。
絶対嘘だろ。ったく。
「……はいはい。歳上の男子をからかうんじゃないの。その言葉は気安く使っていいモノじゃないからな。わかった?」
「えー。わからないですよー。だって、私ほんとに先輩のこと好きなんですもーん(笑) ふふふっ(笑)」
「はぁ……」
深々とため息。
「なら、具体的に好きになったところ言ってくれ。即座に五個言えたらある程度は信じてやる」
「傷の手当してくれたこと傷の手当てしてくれたこと傷の手当してくれたこと傷の手当してくれたこと傷の手当してくれたこと」
「いや全部同じじゃねーかよ! しかも、たった今したことだし!」
「いいじゃないですか。先輩、同じことを挙げちゃダメなんて言ってないです(笑)」
「ち、ちくしょう……からかいやがって……! お前は一休さんか……!」
「一休み一休み~」
「うるせえわ!」
言いながら、ゆるゆると溶ける液体みたいにその場で寝転ぶ笹。
初めて来た男の部屋の中だってのにこいつは。
よっぽど俺、舐められてんだな。まあ、別にもういいけどさ……。はぁ。
「大丈夫ですよ、先輩。今日は私がくつろいでますけど、今度先輩に膝枕してあげます」
「あぁ、そうかい。ありがとよ」
こいつ、もしかしてまた俺の部屋に来ようとしてるのか……?
「膝枕とか、してもらったことありますか?」
「してもらったことって……そんなの……」
言われてよみがえる記憶。
茜にはよく膝枕してもらってた。
ふかふかで、茜の優しい石鹸の香りがして……それで……。
「へ……!? ちょ、せ、先輩……!?」
「え……? あ……! あれ……!? な、なんか勝手に……!」
気付けば俺は一人で泣いていた。
いやいやいや。そんなつもりまったくないのに。
意思とは別にダバダバ涙が込み上げてくる。もはやギャグだ。笑ってしまう。
「は、ははっ。す、すまん。なんかよくわからん。勝手に出てくる」
「……ちょっと……すみません。私、無神経でした……」
「い、いやいや。いいよいいよ。笹は別に何も悪くないんだし」
ただ、たまたまあの男の妹だというだけだ。
本当に何も悪くない。この子に八つ当たりするのだけは絶対に違う。
「…………蒼先輩」
「ん? 何だ?」
俺は目元を袖で拭いながら、あくまでも明るい語調で言った。
雰囲気を変なものにだけはしたくなかったんだ。
「もしかしてですけど、私に対して気を遣ってくれてますか……?」
「え?」
「だって、私は言った通り先輩の彼女さんを奪った竹崎竜輝の妹なんですよ? 傷の治療をしてあげるなんて言っといて、部屋に入るなり真っ先に乱暴に問うてくるかと思ってました。暴力的な八つ当たりをされることも覚悟してたくらいなのに……。全然何も聞いてきてくれませんし……」
「は、はい? ち、ちが、そんなことは――」
「ないこと無いです。先輩は私に対して気を遣ってます。もっと私のこと、イライラのはけ口にしてくれていいのに」
「するかそんなこと! 絶対にしないわ!」
「何なら、襲われても……何も反抗しません……。私の兄は……それくらいのことを蒼先輩にしてしまった。……最低で、最悪の人間です……」
「………………」
「ほら、早く先輩」
誘うように言って、勢いよく笹は制服を脱ぎ始める。
俺はギョッとした。
「殴ってもいいです。性的なことでも構いません。何でもしていいですから」
「だからそんなのしない」
「遠慮はいらないです。ほら、手を貸して。こうして――」
「――!?」
むにゅっという感覚が手のひら全体に伝わる。
俺の右手は笹に捕まれ、彼女の胸へと強制的に持って行かれた。
「やめろって!」
語調を強め、強引に彼女の手を振り払う。
初めてだった。茜以外の女の子の胸に触れたのは。
けど、気分は良くない。ドキドキもしない。
それよりも湧き上がってくるのは、ひたすらに辛さだった。
「笹は悪くないだろ!? たまたま竹崎の妹だっただけだ! それなのに、責任を取ってエロいことをとか、暴力されてもいいとか、そんなわけないって! やめてくれ! 頼むからそういうのだけは!」
「っ……!」
「確かに俺は君に気を遣ってたのかもしれない。真っ先にちゃんとどうして俺に近付いてきたのか聞くべきだった。こんなことをするためだったんなら、すぐにでも家へ帰す。今後俺の前にも現れないでくれ」
「そ、それは……!」
「違うのか?」
「違う……とも言い切れないところはありますけど……その……」
「なら、もう帰ってくれ。俺にそういうのはいらない」
言いながら、俺は立ち上がった。
そして、目の前に座る笹を家から追い出そうとするが――
「ち、ちがっ、違います! 違います! 断言します! 違いますから!」
「……本当に?」
「本当です! 本当! 今度は嘘じゃないです!」
……それなら、話を聞いてあげることにする。
俺は笹の腕を掴もうとしていた手を自分の元へ戻した。
「本当は…………私、蒼先輩の復讐のお手伝いをしようと思って近付いたんです」
「…………は…………?」
「竹崎竜輝から茜先輩を取り戻すお手伝い、私がします。なので、お力添えをさせてください」