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9 巡り捲りし戀華の暦

  ※


 恐らく、藤夜が自分の身体から引き剥がされる迄は自分はここに居るのだろう。季音は、藤夜に言われた通り、藤棚の四阿あずまやの方へと足早に向かっていた。

 稚児は四阿あずまやの前に置かれた書き物机の前にちょこんと座っていた。だが、季音が来た事に気付くと、立ち上がりよちよちと歩み寄ってきた。

「どうしたの?」

 稚児を抱き寄せ、季音は濡羽色ぬればいろの髪を撫でてやる。すると、彼は季音の顔を見た途端に首を傾げた。

 恐らく藤夜と勘違いしていたのだろう……確かに見てくれはよく似ているが顔も声も明らかに違う。当たり前の話ではあるがこの子は藤夜と過ごした時の方が長い。あちらに懐いてると改めて悟り、季音はほんの少し落胆し一つ息を吐き出した。

「私は藤夜様じゃないわ。今、藤夜様は表に出てるの。あなたは何をしていたの?」

 尋ねてみると、彼は季音の手を引っ張って書き物机の前まで拙い歩みで近付く。そうして、若草色の帳面を季音に渡すとぱっと明るい笑顔を咲かせた。

「読んで欲しいのかしら……?」

 数日前に見た事がある帳面だった。確か、藤夜が短歌を綴っていたものだ。いったい何だと言うのだろうか……季音は、ぱらぱらと項を捲る。すると彼はある項で紅葉のような小さな手を差し入れた。ここを読んで欲しいと言っているのだろうか……。

 彼の方を向くと、稚児は丸い黒曜石の瞳を細めてこくりと頷いた。どちらかというと自分によく似た顔立ちだが、そんな表情はやはり龍志によく似ているだろう。季音は彼を見て思わず息を飲む。

「分かったわ。ちょっと待って頂戴……」

 そう言って、季音が帳面を見た時、それが自分に宛てた文だと気付いた。

 文字の羅列は総じて謝罪だった。

 高慢な彼女にしては、とてつもなく素直な懺悔だろう。季音は思わず目を瞠る。それは達筆で何項にも渡って事細かに書かれていた。そして最後には「お前の起こした一つの奇跡が私を憎悪の苦しみから救った──」と感謝の言葉が綴られていた。


 ──時代ときを越え 

 歩む彼岸は 程遠い 

 めぐめくりし 戀華れんかこよみ


 添えられた短歌を詠み、季音は静かに帳面を閉じた。

「脆弱な私は神頼みしか出来なかった……寧ろ、別の意味で言うなら、ここまで彼岸を遠ざけて現世に留めさせてくれたのは藤夜様の所為であってお陰としか言いようも無い。それがあっての奇跡……だけど、決して許されざる事象を招いた」

 ──身に覚えも無いが沢山の命を消しただろう。大切な存在を奪っただろう。だけど、自分の無力さを認め、しかと生きて償う事が、本当の償い──と、呟くように季音が一人ごちた途端だった。

 脳裏には、獣の咆哮ほうこうが轟き渡る──同時に、季音の意識は霞み始めた。瞬く間に遠くからジワジワと近付くように迫るのは、体中に駆け巡る鮮烈な痛みだった。

「ごめんなさい、来て早々だけど私が今度は表にいかないと……」

 きっとそうだと認識して、屈んだ季音は稚児の頭を優しく撫でた。

「ねぇ、あなたにお願いがあるの。あと半年くらいの時が経ったら、必ず私とあなたのお父様に会いに来て……約束よ、私はそうさせる為に本当の奇跡を起こす為に耐えて耐えて頑張るしか出来ないけど、必ず生き抜くから、諦めたりしないから」

 季音は彼に手を差しのばし、小指を突き出した。すると、彼は小指を絡めて一つ頷く。

『分かった、おかあさま。だから生きて……僕をおとうさまにも会わせて』

 ──ぼくに本当の四季を見せて。と、付け添えるように告げて稚児は優しく微笑んだ。

 まるで間接的に話しかけるかのように震え伝わる声は鈴の鳴るような愛らしいものだった。季音は頷き、四阿あずまやを後にする。痛む身体を引き摺るように、ようやく朱塗りの門まで辿り着くと、彼女は高々とそびえる門を睨んだ。

「開きなさい、私は希望を捨てないわ。この奇跡は手離さない」

 何も出来ない愚図だけど、痛みには強い。必ず乗り越えてみせる。私が黄泉には逝くのは今じゃない。往生際の悪い根性だけはあるわ──と、そんな言葉を告げたと同時、門は眩い光を放ちながらも開いた。



 ──瞼を開くと、視界は案の定霞んでいた。

 凍える程に酷く寒かった。季音は背を丸めて、呻く。頭が割れてしまいそうな程酷い頭痛だった。だが、その感覚がどこか懐かしいような感じさえしてしまう。それでも負けじまいと、彼女は上体を起こし上げた。

「おい、大丈夫か……!」

 甲高い罵声に顔を向けると、瀧が近付いてきた。

「龍志様は……蘢様に朧様は……」

「龍志が今結界の中に押さえつけている。藤夜から荒魂あらみたまを取り出す段階に入った。蘢と朧がその役目を担った。とりあえずおれは、お前が目を覚ました時に傍に居てやれと言われいる」

 ──よく頑張った、もう少し頑張れ。と、抱きしめられて、季音は彼女の背に手を回す。

 彼女の背の向こうでは、白銀の結界が煌々とした光を放っていた。絶え間無く響き渡るのは獰猛な獣の咆哮ほうこうで……季音はたちまち目をみはる。

 ただ聞くだけでは咆哮ほうこうだ。だが、それは明かな慟哭どうこくだった。

 酷く深い悲しみ嘆いているようにさえ聞こえてしまう。深い後悔に嘆いているようにさえも思えてしまった。

 ……これが自分に取り憑いていたありのままの藤夜なのだろう。結界の中心部にあるものだは、藤色に光る小さな光の球体だった。姿形もないが、その球体こそが藤夜の魂なのだろう。

 それは離れていても凄まじい瘴気を放っている事は分かった。

 巨大ないぬの姿と化した蘢は牙を剥き出すが、近付こうものなら無数の手を形成して彼を払う。また、朧が爪を剥き出して飛びかかろうものの、それも同じように払いのける。

「先程からずっとこうだ。……しかし、回復したとは言えあいつは本調子でもない。あいつも限界に近いと見受ける」

 瀧はばつが悪そうに言い龍志の方に視線を向けた。彼は玉のような汗をかき、地面に踏ん張るように足を開き延々と詠唱していた。だが、声は既に枯れ果てたかのようにしわがれていて、今にも崩れ落ちそうだった。

 ──自分が生かす為に彼から精気を奪った。このような食い違いや擦れ違いさえ無ければ、このような事にはならなかったのだろう。

 祈った自分、応じた神……災いは共犯だ。季音は血が滲む程に唇を噛みしめた。

「お瀧ちゃん……お願い、肩を貸して。藤夜様と話がしたい」

 懇願するように告げた途端だった。瀧は剣幕になって季音を睨んだ。

「馬鹿か! お前はもうただの人だ。妖でも神通力を持った陰陽師でもやっとで気を保ってる。お前が近付けば、瘴気にやられて気が狂う! また憑かれる事になる! 本末転倒だ!」

 その勢いだけに気圧されてしまいそうだった。だが、季音は直ぐに首を横に振って、よろよろと立ち上がった。

 確かにもうただの人だろう。ふと胸元に溢れた髪を見れば、髪は色素が抜け切った雪白せっぱくのままだが、今の自分には尻尾が無い事を悟れる。耳の聞こえも少しだけ悪い事から、恐らく耳も人のものになったのだろうとは分かった。

 季音は焦茶色の双眸そうぼうを見開き、真っ直ぐに瀧を見つめた。

「確かにそうよ。だけど大丈夫。相手は神様だけど、あの方ともお瀧ちゃんみたいに良い友達になれそうだって私、思ったの。それに私ね、藤夜様に文を貰ったのだけど、ここじゃ返事も書けないわ。だから直接口で言わなきゃいけないの」

 静かにそれを告げると、季音は瀧を横切って歩み始めた。

 それは今にも倒れそうな程のおぼつかない足取りだ。それでも着実に一歩一歩と結界の方へと近付いていった。

 歩む程に頭が煮えくり返る程熱く痛んだ。吐き気だって催してくる。季音は、懐から簪を取り出して強く願った。

 ──どうか、辿り着けますように。思いが届きますように。だが、途端に酷い目眩に襲われて崩れ落ちそうになった途端、背後から誰かに支えられた。

「一人で何でも決めやがって……馬鹿か! 一緒に行ってやる、人なんか大嫌いだが、お前は好きだ、だからお前を信じる!」

 案の定、瀧だった。彼女は季音の腕を肩に回して、ゆったりとした歩調で歩み始めた。

 結界へと近付く程に瘴気はより濃厚なものへと代わり果てた。堪らず咳をすれば、自分の手にはべったりと血が付着した。それでも季音は、やっとの思いで詠唱を続ける龍志の元まで辿り着いた。

「龍志様、お願い結界を解いて。貴方も限界の筈です」

 季音が言ったところで、彼はぴたりと詠唱を止めて、季音の方を向く。彼も彼で満身創痍まんしんそういだった。荒く呼吸を吐き出し、玉のような汗をかき、立っている事がやっとな程だった。

「……馬鹿かお前、また取り憑かれるぞ」

 瀧と同じ事を彼はぽつりと告げて、再び藤夜と彼は向き合った。

「大丈夫です、私には貴方の妻として、新たに宿した魂の母として、揺るがぬ心があります。そして……私は貴方と同じくらいに彼女を信じています。どうか、私を信じて下さい」

 季音は彼の頬を撫でて、穏やかに笑んだ。すると、彼はたちまち結界を解く。それと同時に崩れ落ちるように、地面に膝をついた。

 ──結界が解かれた途端、瘴気はより濃いものになって襲いかかる。濃い藤色に怪しく光る魂は無数の腕を伸ばす──その途端に、辺り一面が赤々と染まった。

 曼珠沙華まんじゅしゃげだ。恐らく、幻術だろう。

 それは凄まじい瘴気を放ちながらも咲き誇る。頭上には白銀に煌めく蝶が鱗粉をまき散らして無数と飛び交っていた。これも恐らく藤夜の幻術で……やがて、その鱗粉は一カ所に集まり、白々とした雪白せっぱくの大きな狐が姿を成す。

 九つの尾を持つ獣は世にも恐ろしい形相ぎょうそうだった。

 だが、季音は彼女が美しいとさえ思ってしまった。秋の夜風に靡く九本の尾は、誇り高き瑞獣すいじゅうの何よりもの証──否や、彼女においては神の成れの果てとも言うのだろうか。

 蘢も朧も瀧もその瘴気に身を戦慄かせていた。それでも牙を剥いたまま、爪を剥いたまま、刀を構えたまま……ぐるりとその狐の周囲を囲んだ。季音はその中心、満開の曼珠沙華まんじゅしゃげの群生の中で佇む九尾の狐と化した藤夜におぼつかない足取りで歩み寄った。

「藤夜様お手紙と素敵な歌をありがとうございました。この前も言ったけれど私は貴方を許しません。ですが、脆弱な私は共犯ですからね……だから咎める筋合いも無いのです。だから貴方は謝るなんてしなくたって良い。高慢ちきなままで居て下さい」

 藤夜は牙を剥いたまま、季音をじっと睨んでいた。だが、襲いかかる気配もなく、ただじっと佇み見据えているだけだった。

「それで、もう一つだけお願いがあるのです。身分違いも甚だしいですが……私の友に成ってください。そして、私達の生きるこの黒羽を見守る神へと戻って下さい。もう貴女に二度と会えないのは寂しいですが、いつまでも貴女を敬い慕います。後の余生も貴方に見守られたいです」

 血の気の失せた震えた手で季音は、藤夜の口の前に簪を差し出した。

「これは、藤香だった私の何よりも大切な宝物です。けれど私は今、季音という素敵な名前を持っています。貴女が私に取り憑いたからこそ……知れた外の世界、出来た友、彼と歩めた季節、そして何よりもの宝物を授かりました。同じ花の名を持つ貴方に友の証として、ここまで生かされた感謝の礼として私の宝物を貴方に捧げます。どうか受け取り、心を鎮めて下さい」

 私は、貴女を慕い敬います。と今一度、季音が述べ、一拍置いた後だった。

 ──藤夜は、季音の差し出した簪を銜えた。

 その途端に、悍ましい瘴気が周囲に暴れ回った。それは突風となり、遠くの山々の木々をまでも揺らす。辺り一面が眩い程の光に包まれて、曼珠沙華まんじゅしゃげの花は赤から白へと変わり、きらきらとした光の粒子に変わり果てた。


 暴れ回る暴風の中、曼珠沙華まんじゅしゃげの花はたちまち白銀の光となりきらきらと周囲に漂う。

 瀧は季音の名を叫んだ。朧は瀧に駆け寄り、彼女を庇うように背を向け彼女を抱き寄せた。蘢は崩れ落ちた龍志を護るように壁となる。轟音はやがて遠くへ遠くへと遠ざかると同時、瘴気は薄まっていった。


 季音がふと我に返ると、朱塗りの門が目の前にあった。その門に背を預けて藤夜が立っていた。季音は小首を傾げて藤夜に歩み寄る。

「あれ、藤夜様どうしてここに……」

 先程までの事を思い出して、季音は眉尻を下げた。出て行く事に成功したのではないのか。

 だから自分が人に戻ったのではないのかというのに、これはいったいどういう事なのだろう。それどころか、先程までの事への理解が追いつかず、季音は不安気に藤夜を見つめる。

「無事に終わったさ。何もかも……最後に礼くらい言いたくてね。挨拶に来たのさ」

 なんとも律儀な獣だろう。そんな風に思えて、季音は微笑んでしまった。

「藤香……いいや、今の名は季音か。贈り物をありがとう。あんたとの友の証として、それをいつまでも大事にするよ。あと、わらわからはこれを……」

 そう言って、彼女はきらきらとした淡い藤色の光を放つ玉を季音にそっと差し出した。

「これが……荒魂あらみたま?」

 掌に収まる程のものだった。それを、受け取って季音はじっと見つめるが、とてつもなく美しい球体だった。

 涼やかな色合いにもかかわらず暖かい。それに、僅かに優美な藤の香がして何だか日溜まり溢れる藤棚の下に居るような気分になった。

「そうじゃ。あんたの夫が浄化してくれて和魂にきみたまとなったもの。それで、力を使い果たしたのか卒倒しちまったみたいだけどな」

 彼女はククと少しばかり苦笑い溢す。

「妾があんたに捧げる友の証じゃ。それを、庭の好きな場所に置いておけ。妾も簪を大事にする。社に戻ったらこれを神殿に祀ってくれないか?」

 そう言って、藤夜が季音に簪を手渡すと、彼女は煙になり簪に吸い込まれれていった。

 事は全て終わったのだ。それを悟り、季音は門をくぐって四阿あずまやに向かう。藤棚の四阿あずまやに辿り着き、書き物机に置かれた若草色の帳面の上に美しき藤色の玉を置いた。

 そこに稚児の姿は見えなかった。だが、明かに気配はあるのだから、きっとこの庭のどこかに居るはずだ。

 もう話はしたのだから、これ以上は話す事も無いだろう。それに彼の言葉だってはっきりと聞いたのだ。あと数ヶ月と経てば、きっとこれでもかという程に沢山話す事が出来るのだから。

 季音は簪を大事に握りしめて、四季折々の花が咲き乱れる庭を後にした。

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