目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
7 そこは〝魂〟の宿る場所

 日が暮れる頃までの記憶はあった。だが、ふと気付くと、視界は明るくて朱塗りの門の前に居る事に季音は気付いた。

 あの庭だ。季音は迷う事もなく開いた門をくぐり、白砂利の敷き詰められた道を進む。

 思えば、入れ替わってからというものの藤夜の声は聞かなかった。それに、自分の身体を乗っ取ろうともしなかった。あんな事をしておいて、よくも素直に身体の中に居たものだ……そんな風に思いながら、季音は藤棚の四阿あずまやを目指して歩む。

 下に菖蒲しょうぶの群生する朱塗りの橋を渡り、椿の大木を横切って、やがて辿り着くは曼珠沙華まんじゅしゃげの群生地。その真ん中にぽつりと佇む四阿あずまやまで辿り着くが、そこには藤夜の姿は無かった。

(何処にいったのだろう……いったい何を考えているのだろう)

 成す術が無いとしても、憎悪は渦巻いていた。

 季音は四阿あずまやの中を見渡す。ぱっと視界に入ったものは書き物机だった。その上には煙草盆と、若草色の帳面と筆用具が乗っている。

 導かれるように季音は帳面を手にとってぱらぱらと捲った。

 龍志に負けず劣らずの達筆だった。内容は日記のようなもの。それから、短歌を幾つも綴られていた。

 それをひとつひとつ目で追うと、全てが恋を詠うものだと気付き季音は神妙に眉根を寄せた。

 神とは言え、あの方にも思い人が居たのだろうか。そんな事を思った途端だった──

「……人の歌集を覗き見るなど趣味が悪い」

 冷ややかな声が後方から響き、季音は直ぐに振り返った。そこには、案の定、藤夜が煙管を燻らせて佇んでいた。

「……散々私の様子をここから眺めていたのだから、おあいこでしょう」

「それもそうじゃな。どうだい、あんたも一句、歌でも綴ってみるかい。そこに書く事を許してやろうぞ」

 高慢に言って、藤夜は座るように促した。

 当然ながらそんな気分ではなかった。ふつふつと蘇る怒りは治まりやしない。

「嫌よ。貴女は何がしたいの? 貴女にだって誰かを思う気持ちはあったのでしょう……」

 季音は若草色の帳面を彼女に投げつけた。

 帳面は彼女に肩に当たり地面に落ちる。それを直ぐに拾い上げて、彼女は無言のまま頷いた。

「……詠龍様が、龍志様が何をしたというの。確かに彼は、貴女が私の身体を奪った後に冷たい石の中に封印したわ。それを恨んでいるというの? 貴女は、そもそも私の身体を手に入れて何をしたかったというの!」

 すると、彼女は『それも恨んでおるな』と、妖艶に笑いながら言った。

「……あの男の神通力を持っておるだろう。それは紛れもなく、神の子孫の証。あやつの先祖は社に居た前代の神さ。前代の神は人に現を抜かして人に成った。そして妾に神の代理を押しつけた。わらわの気など何も知らずに有無を言わせずに押しつけた」

 ──幾百年か時を経た頃、あやつの子孫が哀れなお前を連れて帰ってきた。丁度良い入れ物だと思ったさ。そこで長年かけて築き上げた荒魂あらみたまで荒神に墜ちてやった。末代まで祟る復讐の為……と、全てを告げて藤夜はほくそ笑む。

 季音は血が滲む程に唇を噛みしめた。そういう事だったのか。だから報復の為に自分達を陥れたのか。気付けば季音は藤夜に掴みかかっていた。

「──っ、ふざけないで! あなたが恨む前代の神と子孫である詠龍様や龍志様は同一ではないわ。怒りを向ける矛先が違うじゃないのよ。それで私の身体を乗っ取った挙げ句に自分を護る蘢様の対を消滅させたというの? 確かに私は貴女に生きたいとは縋ったし、貴女の存在を信じるしか無かったわ!」

 こんなに剣幕になって怒り散らしたなど記憶の中では初めてだろう。恐ろしい相手に物を申している自覚はあるが、自分のやり場の無い気持ちの方が圧倒的に勝っていただろう。

 季音は彼女を四阿あずまやの柱に押しつけて力強く睨み付けた。

「だけど、全てが不自然よ。何故、封印が解けた後から私で居させてくれたの。乗り変わるくらい簡単よね……でも、私はそれで過去の願いは叶えて貰えたと思ってる。でもさっきの言葉で一つだけ分かったわ。あなた、そもそものやり方がおかしいわよ」

「ほぅ。愚図な藤香が妾に説教と……聞いてやらん事も無い」

 対峙した彼女は涼しい顔色を一つも変えずに季音を見つめる。

「……私の気など。そういったわよね? だから、あの歌を誰に詠ったかは見当がつく。あなた、前代の神を想ったのでしょう。どうしてそれを本人に言わなかったの。有無を言わせず押しつけた? 一言の自己主張くらいは出来たでしょう。貴女はきっと私よりも、うんと頭が良い筈よ。それくらい分かってたじゃないのかしら?」

 ──せめて、身体を貸したのだから全てを言いなさい。と季音が怒鳴った途端だった。藤夜はたちまち薄紅の唇に弧を描き高らかな笑いを溢した。

 何がおかしいというのだろうか。季音は彼女を見据えたまま眉根を寄せるが、彼女は依然、肩と背を震わせて腹の底から笑っていた。

「笑う事ないじゃない、私は本気で聞いてるのよ!」

 額に青筋を立てて、季音は叫んだ途端だった。

 四阿あずまやの入り口の方からガサリと物音がした──はっとした彼女が顔を向けるとそこには齢二、三歳程の小さな男の子が立っていた。

 人の子だろう。妖らしき特徴は微塵も見えなかった。あまりに突然……それも意外な来訪者に季音は自然と藤夜に掴みかかっていた手を離した。

 青光りする程に黒々とした濡羽色ぬればいろの髪に陶器のように白い肌、その顔立ちは優しく柔らかい。心なしかその面は自分に似ているだろう……。そんな風に季音が思った矢先だった。

「なんじゃい、煩くしてしもうたか。起きたのかい?」

 稚児はよちよちとした歩みで歩み寄る。藤夜は近寄ってきた稚児を当たり前のように抱きかかえた。

 ────この子は誰?

 季音は、じっと稚児の方を丸い目で見つめる。すると彼も季音と全く同じ表情で彼女の顔をまじまじと見つめた。

「嘘じゃろ、なぁ冗談じゃろ……まさかと思うが、あんたこの子が分からぬのか?」

 やれやれと呆れた調子で藤夜に言われて、季音は小首を傾げて彼女に視線を向ける。

「文月の上旬程じゃったか……あんたと邂逅して間もなく、この子は現れた。あんたは夏の終わりから酷く体調が悪くなったじゃろう? そして、ここはあんた心の中…魂が宿る場所だ」

 ──どういう事か分からぬのか……と、藤夜は呆れ混じりに添え告げる。

 季音は目をみはって稚児を再び瞳に映す。

 自分によく似た顔立ちに、青光りする程の濡羽色ぬればいろの髪。丸い瞳を彩る色彩は黒曜石の如く黒々と澄みきっていて。まさか……この色彩の特徴には色々心当たりがありすぎるだろう。

 ──そんな事があるものだろうか。季音ははっと藤夜の顔を見つめると『やっと分かったか』と呆れ面を見せた。

「え、うそ……そんな」

 季音は唇を手で押さえて、唖然として稚児を見下ろした。

『夏の終わりからの不調』『魂が宿る場所』と、この言われて、この稚児が龍志と自分の子だと理解したが、にわかに信じられやしなかった。

 確かにどう足掻いても双方によく似た特徴を持ちすぎている、その上心当たりは大いにありすぎるのだから──認めざるを得ないだろう。

「授かる授からないは別として、心当たりは大いにあるじゃろう……何度も何度も何度も」

 相変わらずに呆れた口調で藤夜に言われて、季音はたちまち頬を赤く染めた。

 憑依されて非ず者に成っているとは言え、子が授かるなんて事はあるのだろうか。季音は上気する頬に手を当てて藤夜に視線を向ける。

「全く……天晴あっぱれとしか言いようもない」

 藤夜が途端に無邪気な笑みを見せて言うものだから、季音は頓狂とんきょうな声を上げてしまった。

「ちょ、ちょっと待って、どういう事なの……色々とおかしいわ!」

 季音は取り乱して稚児を抱きかかえた藤夜に詰め寄れば、彼女は未だ笑いが治まらないのか、肩をわなわなと震わせていた。その妖艶に釣り上がった眦にもうっすらと涙が滲んでおり、それを掬って彼女は唇に弧を描く。

「……せいぜいあんたが幸せを満喫した後に、その身を乗っ取って復讐してやろうと思ったが……新たな魂を宿すなど、もはや奇跡としか思いようもない。この所為で全てが馬鹿馬鹿しくなって、毒気も恨みも抜けてしまったよ。妙に懐かれるわでろくに動けもしない」

「ちょっと待って。それで積年の恨みが晴れたですって? でも、龍志様の精気まで奪って酷い事をして……貴女、言っている事と行動が滅茶苦茶だわ!」

 季音は目を白黒とさせて彼女を問い詰める。すると、藤夜はふぅと一つ息をついて『そうじゃな』と肯定した後、緩やかに唇を開いた。

 ──初めこそは、いずれ季音を庭に閉じ込めて龍志に復讐してやろうと思っていた事はまことらしい。だが、新たな魂がやってきた事によって、藤夜は完全に毒が抜け切ってしまったそうだ。

 それは、神にさえ予想だにしない奇跡を結んだのだから。

 全てが馬鹿馬鹿しいと思って彼女は復讐を止めようと考えたそうだ。だが、一つの身体に三つも魂を入れている状況だ。それが藤夜一人の力では支えきる事が出来ず龍志から精気を奪ったのだという。

「妾は荒魂あらみたまを自らの怨念で創り出し、荒神に墜ちた──とは言え、内に潜んでいるのならば荒魂あらみたまの干渉は大して受けやしない。ほぼ素じゃ。だがな、表に出れば自我を失う」

「ならば、どうして……私を呼び出して言わなかったの」

「このまま持つようなら、妾はここに居続けようと思ったんじゃ。そもそも長い事憑依した所為で身体の外に簡単には出れん。だから何も干渉せず、守護霊として見守り、お前は子を産んで生きれば良いと思った。だがな、先程言った通りに魂が三つに増え、新たな魂が育つ程に話が変わったのじゃ。死にかけのあんたの身体が健常に動くのは妾の力が作用している。だが、魂が育つとなるのは膨大な力が必要──妾一人じゃ身体を支えきれなくなったのじゃ……」

 そもそも、命日となる日に取り憑いた……と、そこまで告げると彼女は言葉を詰まらせた。

 なんとなく言わんとしている事は季音は分かってしまった。

 つまり、あまりに生命力が足らないから、龍志の精気を奪いそれを力にしたのだと……。

「妾も元は、獣の雌じゃ。子はおらんかったが、子を愛おしく思うであろう気持ちは想像も出来た。だから、子殺しなど出来ぬ。この奇跡を流し、妾の手でお前を殺すなど出来ない。妾はお前に恨みなど微塵もないのだから……」

 真っ直ぐに藤色の瞳を向けて、彼女は告げた。

 その本質は優しき獣──そんな風に思えてしまった。

 言葉を出せなかった。喜び、悲しみ、僅かな憎悪と……形容出来ぬ、感情に気付けば季音は子を抱く藤夜ごと抱きしめていた。

「こんな時まで愚図でごめんなさい。私、貴女にどんな顔をすれば良いかも分かりません。ですがこれだけは言わせてください……私は、脆弱な自分に漬け込み利用した貴女を許せませんが、以前の私は持った全ての願いを叶えてくれた事だけは感謝しています」

 藤夜は何も応えなかった。ただ、稚児は何も言葉を発する事もなく丸い瞳で季音を真っ直ぐに射貫いていた。

 そのまま、どのくらいそうしていたのだろう。幾許か時を経た後、藤夜は季音の髪を撫でた。

 流石に長い事抱きしめていたのだから、離せという事だろう……季音は彼女から退いた。

 だが藤夜は季音の腕を引っ張った所為で、直ぐにこつりと額と額が合わさる。

「……のぅ、ただ一つだけだが、あんたとこの子を生かす方法がある事を思いついた。それにはあんたの夫……あの陰陽師の力が必要じゃ。どうする?」

 間近で見た彼女の瞳はとてつもなく強く、真摯なものだった──。



 ──生かす方法。それは荒魂あらみたまを浄化し、和魂にきみたまとしたものを季音の身体に入れるという手段だった。

 だが、その為には、藤夜を表に出し、彼女の魂を引き剥がさなくてはいけない。

 その途端に、季音は人──藤香に戻る事になる。時を止めているのだから、恐らく急激に朽ちるように老化し死に至る事は無いと彼女は言った。だが、命日に取り憑いた程だ。幾らか龍志の精気で寿命も延びているだろうが、子を宿しているのだからその分、命を削る事となる。

 無論、藤夜は表に出た時点で荒魂あらみたまの影響を直に受ける事となる。恐らく、ものの数分も経たぬうち自我を保てなくなるだろうと……魂だけの存在と成り、憎悪でどのように動くかは自分でさえ分からぬと言う。それを龍志が浄化すると──。

 極めてそれは、成功の率は低いだろうと藤夜は言った。更に彼が季音を信じてくれるかも怪しいと言う。

 確かに、あのような真似に出たばかりだ。洗脳されたと思われてもおかしくない事象である。

 だが、信じるか信じないかに置いては龍志を信じる他無いだろう。

 更に言えば、それが彼に出来るか出来ないかは定かでもないが、呪う事や祓う事──それは彼の専門分野なのだから任せる他は無い。


 ふわふわとした尾を膝掛けにして、季音は膝を抱えて洞窟の外の空を見上げた。

 雨は降る気配も無さそうだ。頭上には煌々と明るい月が浮かび、清んだ空気に星が眩い程に瞬いていた。少しばかり肌寒い。だが、凍える程の寒さではなかった。彼の精気のお陰か、気分の悪さも無く、今は凪いだ状態だった。このまま三日が過ぎれば良いが──そんな風に思って、彼女は穏やかに眠りに落ちた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?