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4 取り戻した記憶と大きな過ち

   ※


 ────帝の妾の子として生まれた自分は生まれついて病弱だった。

 薬師もさじを投げる不治の病は、悪霊や魑魅魍魎ちみもうりょうの仕業によるもの。

 そこで父が自分の主治に当たる者として陰陽師、藍生詠龍を側に置いた。挙げ句果てに、父は藤香の伴侶として詠龍を選んだのである。

 きっと彼からすれば、押しつけられるような婚姻だったに違いない。それでも彼は、自分を大事にしてくれただろう。

 冗談を言ってからかったり少しばかり意地悪な面もあるが、総じて彼は優しかった。ふとした時に優しい笑みを向けてくれた事、冷える身体を温めるように同じ床で抱き寄せて眠ってくれた事に優しく触れてくれた事。幾度も接吻くちづけしてくれた事……直接的な言葉で告げる事はなくとも、態度だけで深く愛してくれていたと思えた。

 婚姻よりもっと昔、彼が宮廷に来た時から密かに憧れを抱いていた相手と一緒になれた事は、生涯の中で最も幸運であり幸せな事だと藤香は思っていた。

 しかし、詠龍の見抜いたまことの原因は悪霊の仕業でも魑魅魍魎ちみもうりょうの仕業でもなく”ただの病”だった。

 彼の出来る事は回復への祈祷だけ。当然、容態は回復に向かう事は無かった。婚姻して一年と経たずに容態は悪化し、藤香は宮廷を追い出される羽目になった。

 主殿から遠い離れに住んでいるとしても、病が宮廷内に蔓延する事を恐れたのだろう。それに、二年も三年も看ていたにも関わらず、微塵も回復の兆しが見えない事から、詠龍もそれにて宮廷及び朝廷での責務は解任されてしまった。

 だが、良い意味で〝自由の身〟になったとも言えるだろう。誰にも干渉される事も無く、哀れむ目でも蔑むような目でも見られる事もなくなったのだ。

 そうして、二人が赴いた先は、詠龍の生家──黒羽の地だった。

 しかし、藤香は気がかりだった。詠龍は、自分の病の所為で婚姻を押しつけられて、専門外の病を治せぬ所為で御役御免おやくごめんとなったのだから……。

 それにも関わらず詠龍は藤香を見放すような真似はしなかった。その件においての文句は愚か、態度も変えずに甲斐甲斐しく世話を焼き続けた。

 申し訳ないと何度も詫びたが、彼は『気に病みすぎれば不細工になる』だのそんな意地の悪い冗談ばかり言っていただろう。

 その裏を返せば彼なりの『大丈夫』『気にするな』──藤香はただただ幸せに思った。

 来る日も来る日も布団の中で生活を送り、時より調子が良い時は彼の目を盗んで社に参拝に向う事が藤香の日課だった。調子さえ良ければ毎日のように社の神に手を合わせただろう。

 ──早く身体が良くなりますように。詠龍様と色んな季節の花や景色を見に行けますように。いつか詠龍様の子を宿せますように。と、そんな密やかな神頼みをいつもしていただろう。

 その年の暮れ……深々と雪は降る凍てつく冬の夜に女神は突然訪れたのだ。

 ──願いを叶えてやろう、だから代わりに身体を貸して欲しいと。確かそんな事を頼まれただろう。

 だが、もうその時には自分の死期が間近に迫っている事くらいは藤香も分かっていた。散々無謀な願い事を黙って聞いてくれた唯一の神様だ。そのくらいは別になんとも思わず、藤香はそれに合意した。そこで己の記憶は途切れてしまったのだ。



 過去の全てを取り戻した季音は真っ白な顔で朱塗りの門を呆然と眺めた。自分の心に住まう狐──その正体は、社の女神だった。

 それを悟ったと同時、彼女が自分の身体に入った後の光景が浮かび上がってくる。

 ……布団から跳ね起きて、抗えない破壊衝動に狂ったように家財道具を蹴散らした。出てこいと、その血を絶やしてやると──半狂乱になって物騒な言葉を叫んだ己の髪は瞬く間に白々と染まり、狐の耳と尾が生えて今の自分と全く同じ風貌と成り果てた。

 何事かと飛び起きてやってきた詠龍の顔は蒼白としていた。

 何せ、その時にはもう自分は人の姿でもなく、大きな雪白せっぱくの獣と成り果てていたのだから……。

 濃ゆい紫の狐火を纏い、藤色の瞳を囲うように朱の紋様が浮かび上がり、己の尾はみるみるうちに九本に割けた。

 ──見つけた。と、彼に爪を立て、まず真っ先に彼を殺そうとしただろう。だが、詠龍は獅子といぬの二体の神獣の式を呼び寄せて変わり果てた藤香と対峙した。

 破壊の衝動は獅子を殺めても尚治まる事は無かった。

 社を飛び出して沢を下り、狸の妖の群れに襲いかかり血を浴びて満足すれば、人の里に降りて一晩中散々に暴れ回っただろう。

 やがて、日が昇る頃にようやく僅かに気がぎ、暁に再び詠龍は自分の前に現れた。そうして彼の手によってほこらに封じられた──。


 雪崩れ込む情景に季音は目を瞠る。信じ難いがこれが全てなのだろう。これが自分の背負ったごうなのだろう。

 そして、恐らく自分を完全に滅する事……それが彼の背負った輪廻の宿命なのだろう。

 理解すると、止め処なく涙は溢れて止まらなかった。

 こんなのは無いだろう。酷いだろう。あんまりだろう……。

 だが、無力で神頼みしか出来ない脆弱な自分が招いた災いに違いない。

 しゃくりあげた嗚咽を溢した季音は激しく門を叩く。

 自分の事が見えていたのだから、声はきっと届いているだろう。季音は言葉にもならぬ叫びを上げて、門を叩き続けるがそれは無情にも動きもしない。

「出して……! 返して! 私の身体を返してよ! 私の龍志様に酷い事をしないで!」

 ──お願いだから返して。と、彼女は懐にしまいこんだ御札を取り出した。

 吉河神社の縁起物──彼の亡き父に貰ったものだ。想いはいくらあれど、無力な自分はやはり祈る事しか出来やしなかった。ふと、再び脳裏に浮かぶ白き獣の姿に季音はその名を思い出した。まことの名は自分と同じ藤の名を持つ──藤夜ふじよと。

「藤夜様、開けて……! 私の身体を返しなさい!」

 季音は御札をくしゃくしゃになる程に握りしめたその時だった。

 藤色の炎が自分の手から溢れんばかりに溢れ落ち札を燃やす。その須臾しゅゆ──立ちはだかる門は桜吹雪を舞上げて開いた。



 我に返ると、見慣れた龍志の寝室だった。朝を迎えたのか、随分と明るくなり障子の隙間か朝の淡い陽光が溢れ落ちていた。

 穏やかな朝の情景だった。

 しかし、漂う臭いは噎せ返る程の血の香りだった。

 静謐せいひつに包まれた部屋の中、自分の下からはか細い息の音が聞こえてきた。季音が自分の下に視線を下ろす──そこには、龍志が血塗れになって横たわっていた。

 背筋まで凍り付いた。自分が……否や、藤夜が何をしたのか想像する事も恐ろしかった。季音は急いで彼から退いた。

「……龍志、様?」

 まるで虫の息の彼に問いかける。すると、彼は緩やかに瞼を持ち上げて、黒々と澄んだ黒曜石の瞳を開く。だがその瞳は今、生命力など微弱にしか感じられず、死の影さえ見えた。

「季音……だよな?」

 静かに問われて季音はただ頷いた。身体の震えは止まらない。それなのに皮肉にも自分の具合に不調など無く、あんなにも纏わり付いていた気怠ささえすっかり消え失せていた。

 ふと、自分が何かを握りしめていた事に季音は気がついた。視線を自分の右手に向けると血濡れた藤の簪があった。

 瞬く間に顔を強ばらせた季音は簪を投げ捨てる。

 カツンと襖にそれが当たる音だけが無情にも静かな空間に響き渡った。

 聞き取れないような小さな声で、彼はもう一度自分の名を呼んだ。何かを言いたいのだろう。季音は畳に震えた手をついて、彼の口元に耳を寄せた。

「……蘢に朧とタキを呼んできてくれ。お前は少し社から離れていろ。社を出て、東に進んで山を三つ超えろ。そこは何もない。妖も人も居ない。硫黄臭い火山地帯がある。雨風もしのげる洞窟もあっただろう。俺の精気を食ったし、あと三日くらいは頑張れるか? ……お前は、俺が来るまで、そこで大人しく待っていろ。必ず迎えに行く」

 血の気の冷めた唇を動かして、彼は更に言葉を続けた。

「ただのボロ屋だが、ここは輪廻前からの我が家だ。こんな場所でやりあえば家が壊れる。恨み晴らしなら付き合ってやるから、そのくらい我が儘を聞け……ってさ、お前の中の狐に伝えてくれ。あいつ、お前には恨みも無いらしい」

 季音は頷き、涙で濡れた瞳で龍志を見下ろした。すると、彼は血の気の失せた手を伸ばして、季音の髪をすくうように撫でた。

「……おい。そんな顔をされると、俺が死ぬ寸前みたいに思えるから止めろ」

 こんな状況でどうして、そんな冗談が言えるものだろう。そんな風に思えてしまうが、季音は彼の言葉をのみ、涙を拭って一つ頷いた。

 龍志は安堵したように笑む。それから一拍も立たぬうち、彼は卒倒するように眠りに落ちた。

 彼の生命力は妖並──蘢の言った言葉を信じる他なかった。

 眠りに落ちた彼の胸が僅かに上下している事を確認すると、季音は床に置かれた自分の着物を持ち、ボロ屋を飛び出して一目散に社へ向かった。だが正面まで赴くまでもなく、蘢も朧にタキも社の端で立ち尽くしていた。

「季音殿です、よね……?」

 赤々とした瞳を丸く開いた蘢は短刀を握り季音を真っ直ぐに見つめて問う。季音はただ無言で頷き、再び溢れ落ちる涙を拭い彼らの方を向いた。

「……蘢様、朧様、それからおタキちゃんも……龍志様の元へ行って、ください。私は言い渡された約束の場所に向かいます」

 ただそれだけを告げて。季音は鳥居の脇を通り抜けて、社を後にした。

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