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葉月の始まり。熱も冷えぬ夜に、龍志は
身近な血縁者が死ぬと、離れていようがそれが直感的にわかってしまう。ましてや、怨霊の類いや物の怪、妖が見えてしまうのだから、それは当たり前のようにやって来た。
夜半、丑三つ時。背筋が強ばり薄ら目を開けると、自分が眠る枕元に立つ初老の男がいた。
眠る季音を起こさぬように、龍志は彼女の頭の下に敷いた手を抜き、自分の枕元に立った白い着物を着て立つ男に向き合う。
しかしその男の顔を
(親父……?)
こういった経験は今までに何度かあったものだが、幾度経験しようが血縁者がこうして立っていると驚いてしまうものだった。
父はうつろな瞳でジッと龍志の方を見た後に、季音に視線を向ける。
妖としてのありのままの姿に見えているのだろうか。否やただの狐に見えるのか、人の娘──藤香に見えるのかは一切不明だが、父は僅かに微笑んで再び龍志に向き合った。
死者には余程強い怨念でも無い限り口をきかない。だから怨霊ではないのだろう……父は、一切龍志とは口をきかずにスッと深い夜半の闇に溶けるように消えてしまった。
怨霊にでもなって罵倒された方が良かった。不謹慎にもそんな風に思えてしまった。
何せ自分は、何も言わずに松川の地を離れたのだ。その上、生家に居た頃といえば、非行を幾度も繰り返してきた、素行の悪い放蕩息子だ。怨霊にでもなってくれれば、きっとまともに話し合う事が出来ただろうか──。
何故死んだのか。やりきれない後悔に一つ舌打ちした龍志は再び床に潜った。
「少しばかり帰省しようと思う」
翌朝、龍志は朝食の最中、季音に切り出した。
「突然どうなさったのですか?」
小首を傾げて季音は問う。龍志は煮豆を箸で摘まみながら季音の方に視線を向けた。
「親父が昨晩来て、お前見て嬉しそうに笑ってたんだよ」
言っている意味がよく分かっていないのだろう。季音は眉根を寄せて、菜っ葉のおひたしを摘まんで口に運ぼうとしていた。
「死んだんだよ。白装束をしっかり着てた」
ぽつりと事実を告げた途端、季音の箸から菜っ葉がスルリと滑り落ちた。
何とも言えぬ表情だった。驚嘆か、沈痛か、畏怖か……全てを混ぜたかのような顔で彼女は龍志の方をジッと射貫いていた。
「まぁ昨日死んだとしたら、明日明後日には土の中だ。着いたとしても神葬祭に間に合わん。急ぎで歩いて二日はかかるからな。ゆっくり行くから直ぐにではない」
平坦な調子で龍志は言う。すると、季音は箸を置いて真っ直ぐに龍志に向き合った。
「……朝食が済みましたら、直ぐに支度して山を降りて下さい。留守の合間はお洗濯もお掃除も炊事だって私がどうにかしますから、どうか早く行って下さい」
その口調はいつものような柔らかく気の抜けたものではなく凜然たるものだった。あまりの変化に少しばかり気圧されて、龍志は丸く瞳を開いた。
「別に急がずとも──」と、龍志が返しかけた途端だった。彼女は、ドンと机を叩く。
「ダメです。お父様ならば急ぎ行って下さい!」
──何故、彼女がそこまで言うのだろうか。そんな風に思えて、龍志は季音に視線を送ると、彼女は物憂げに視線を落とした。
「会いに来たという事は、会いたかったんだと思います。私、一度死んで輪廻してますけど、生憎何も覚えてないので詳しい事は分かりませんが……会いたいから会いに行くのだと思います。私だったら、きっとそうします」
その言葉に先程のような威勢は無かった。
だが、ここまで季音が言うのも珍しいとさえ思えてしまう。
「……何だかちゃんと夫婦になれたような気がする」
思わず言ってしまうと、彼女の頬はみるみるうちに紅葉のように赤々と染まった。
「こ、こんな時に……」
「事実だ。あと、こんな時だからだ」
極めて平坦な調子でそう言って、龍志は茶碗に湯を注ぎ、穀物をたっぷり混ぜ込んだ麦飯を掻っ込んだ。
蘢に朧、タキと季音の神獣一匹・妖三匹に見送られ龍志はその日の午前中に黒羽を発った。
旅は徒歩だ。運良く、
最大の難関と言えば、山越えだった。
山賊が潜んでる事は滅多にないが、このご時世は各藩で戦が頻繁に起きているもので、山には田舎侍が駐在している可能性が充分にあった。
だが、龍志の格好は作務衣に手ぬぐいを巻いて草履──と、決して羽振りの良いものではない。それどころか刀などは刃物は一切持ち歩いておらず、髪を剃っていなくとも、この装いならば恐らく修行僧にしか見えないだろうと自負していた。
こういった危うい場所は、
そうして、無事に山を降りた頃には日が暮れ始めていた。金もろくに無いのだから無論野宿となる。龍志は橋の下に座り、そこを一晩の宿とした。
薪に火を灯し、通りがかりの茶屋で包んで貰った大福と団子を出してそれを夕飯にしようとしている最中だった。川の方からちゃぷちゃぷと音が聞こえて、そちらを見ると水面から顔を出した
「少し食うか?」
交友的に声をかけてみるが、
全く違う生き物に突然声をかけたら人であれ妖であれ大抵は驚くだろう。仕方ない。そんな風に思って、彼は一人大福餅に齧り付いた。
その翌日、昼過ぎに龍志は松川に辿り着いた。
残暑厳しい蝉時雨の日差しの中で潮風は香る。社寺の石段を登り、後方を振り向けば、海には幾らか漁師の小舟が出ていていた。見慣れた景色の筈だが何だか、やはり二年も経てばひどく懐かしく感じるものだった。
再び前を向き、龍志は石段を登り始めて間もなく。境内に辿り着いたものの、そこに響くのは蝉の声だけで人の声は一切しなかった。いつもであれば参拝客で賑わっている筈だが、誰一人としておらず、まるで時を止めてしまった空間に来てしまったかのような錯覚を覚えた。
鳥居の脇を通り、手水舎を横切って本殿を横目に歩み、やがて後方に佇むどっしりとした家屋に龍志は辿り着いた。だが、玄関はピタリと閉ざされていた。
──埋葬祭故の留守だろうか。
だが、一応は自分の家だ。龍志は戸に手をかけようとした時だった。ガラリと引き戸が開き、そこに姿を現した存在に龍志は目を瞠る。
母だった。二年ぶりに会ったが、見ない間に随分と老け込んでしまったように映った。元々小柄で細身ではあったが尚にか細くなっただろう。髪も白髪が増えたように思う。その顔は青白く憔悴しきっていて黒々とした瞳の眼光はほの微弱なものへと変わり果てていた。
「
そのか細い腕のどこにそんな力があったのかは分からない。母は龍志の両腕を力強く掴んで、彼の身を揺すった。
「ああ、ただいま」
それしか返答出来やしなかった。すると、顔を上げた母はたちまち、龍志の胸に顔を埋め慟哭した。
「父さん、死んじゃったよ」
おいおいと声を上げて泣く母に、気の利いた言葉は何一つ出やしない。ただ出来る事と言えば、母の折れそうな程に細い背を撫でる事だけで、龍志は深く息を吐き出す。
「親父、俺にも会いに来たよ。だから少し戻ってきた。
母は未だ嗚咽をしゃくり上げているものの直ぐに頷いてくれた。
神葬祭は死後翌日──昨晩行ったそうだ。埋葬祭は今朝行ったばかりだそうで、居間の神棚には白紙がかぶせられて、社殿の入り口がしっかりと塞がれていた。
死は突然だったそうだ。突然倒れて、医者が駆けつけた時には既に息を引き取っていたそうだ。恐らく頭の血管が切れたのだろうと推測されている。
神棚に
「そういえば兄貴は?」
話しかける事も少しばかり気まずく思えてしまった。龍志は母から視線を反らして問うが、少しばかり視界に映る彼女は、泣きながらも慈愛溢れる優しい笑みを浮かべていた。
それが酷く痛ましく思えてしまう。薄情とは思うが直視する事も出来なかった。
「
「そうか、なら少し手伝って来る。兄貴とも少し話しがしたい」
そう言って、龍志がその場から立ち去ろうとした時だった。母に袖を掴まれて龍志はハッと母の方を向いた。
未だ黒々とした瞳は溺れるように涙に濡れているが、その眼孔は先程よりも強い光が差していた。
「ねぇ龍ちゃん、貴方は今どこに居るの。どこに行っちゃったの、もう戻らないの?」
元より、宮司の兄の補佐をする
きっと、戻って来いと言いたいのだろうと憶測は容易い。だが、成すべき運命を見据えて松川を去ったのだ。龍志は直ぐに首を横に振るう。
「黒羽に居る。陰陽道に進むことにした、俺にしか出来ない事を成し遂げる為に家を出た」
「龍ちゃん、貴方……未だ見えるの?」
母も一応は、龍志が人で非ず者が見える事は知っている。
きっと『見える』とはそれを言いたいのだろう。龍志は一つ頷いて正面から母にしっかりと向き合った。
「ああ、だから会いに来た親父がはっきり見えたんだよ。悪いが俺はここに戻る気は無い。分かってくれ、その件も兄貴と話したい。それとすまなかった」
──育ててくれて、産んでくれてありがとう母さん。と、龍志は深々と頭を垂れた後、その場から去った。
後方からは母の啜り泣く声が聞こえてきた。それに酷く胸が軋んだが、龍志は草履を履いて本殿へと向かった。