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1 閉ざされた四季の庭園

 ふと我に返ると朱塗りの門の前にいた。

 その門はとても立派なもので、どっしりとした佇まいをしている。

 どこかの社寺だろうか。しかしこんな場所は知らない。季音は眉を寄せて開かれた門に視線を向けるが、門からは夥しい光が溢れていて向こうの景色は微塵も見えなかった。

 門から優しく麗らかな風が流れ込んでくる。その風に乗って何かの欠片が暖かい陽光を受けて輝きながらふわふわと舞ってきた。

 ──何だろう。と、季音は己の足下を視線を落とす。そこには、まるで薄紅の敷物のように夥しい桜の花弁が散らばっていた。

 今の季節は梅雨だ。桜はとっくに葉桜になってしまった筈だ。おかしい。と、思ったと同時、季音は今先程起きた事を急激に思い起こした。

 ……使える筈もない妖術を使ったのだ。

 そうして自分はそのまま意識を手放した。まさか自分は死んだとでも言うのだろうか。季節を逆巻いたような非現実的が起きているのだから。

 たちまち畏怖を覚えた季音は立派に佇む朱塗りの門から一歩二歩と後ずさりをした。その途端だった。

『何をグズグズとしておるのじゃ。入ってこい』

 あの時と同じ艶やかな声が脳裏に凜と響き渡ったのだ。

『死んだとでも思っておるのじゃろう。阿呆、生きとるわ。そら、さっさと来い』

 続けて言われた後だった。季音の足は導かれるように勝手に歩み出し、輝かしい光を放つ門の中へと踏み入った。

 眩しくて堪らない。だが、門の中に入ったと同時に光は弾けた。

 やがて、穏やかに映し出される視界は息を飲む程に美しい庭園が広がっていた。門脇には暖かな陽光を受けて枝垂れ桜が満開になって咲いている。だが、庭園の遠方を見た途端、季音は新たな不自然を瞬時に悟った。遠くに朱塗りの橋があるが、その近くには紅葉が色付いているいるのだ。更に向こう側には椿らしき花木も見える。

 ある筈もない非現実。季節を全てごちゃごちゃに混ぜたかのよう。美しくも不思議な庭だった。

『死んでいない』と何者かに語りかけられたが、ならばこれはどういう事なのだろう──苦も無い極楽浄土以外に何と形容すれば良いのかも分からない。再び襲いかかる畏怖に竦みそうになった途端だった。再び季音の足は勝手に橋の方に向かって進み始めた。

 朱塗りの橋もこれもまた立派なものだった。欄干かんらんの柱の上には輝かしい金の擬宝珠ぎぼしが乗っており、どこも塗りが剥げた箇所は無い。ふと、橋の下に視線を向ければ、赤や金に白の鯉が泳ぎ回り、浅瀬には濃厚な紫の菖蒲しょうぶが群生していた。橋を渡ると、正面には赤々とした花を沢山付けたの椿の大木があった。その根元には、水仙に桔梗、菜の花がこれまた美しく咲き乱れている。それを横切り、延々と伸びる白砂利の道を進んでいくと今度は辺り一面に曼珠沙華まんじゅしゃげが咲き誇っていた。

 息を飲む程に美しい赤の世界──その中心には淡い紫の屋根の四阿あずまやがぽつりと佇んでいた。

 心なしか風に漂い甘い香りがした。咲き乱れる曼珠沙華まんじゅしゃげの合間に伸びる白砂利の道を進むつれて、四阿あずまやの屋根の正体が藤棚だと分かる。大きな房を幾重にも。漂う優美に甘い香りはこの藤が放っていたものだと季音は気付く。

 藤棚の四阿あずまやの前まで辿り着くと季音の足はぴたりと止まった。

 美しい藤の天井だった。薄紫の大きな房は地面に向かって垂れ下がり、淡い陽光に光る花弁は輝かしい。それはまるで、紫水晶の集合体のようで──

 その美しさにすっかりと心を奪われて、恐怖心はすっかりと薄れていた。季音は藤棚を見上げたまま自然と四阿あずまやの中へと踏み入ったと同時だった。

「よく来た。だが遅い」

 後方から艶やかな声が再び響く。だが、今度は脳裏に震え伝わるようなものではなく、直接的に話しかけられたようで季音はハッと目を瞠る。

 同時に感じたのは悍ましくも鋭い妖気だった。恐る恐る後方に振り向いたと同時──季音の思考はピタリと止まった。

 ……そこに居た存在は、自分と同じ姿をしていたのだから。

 雪白せっぱくの髪にピンと立った狐の耳。彼女は自分が召しているものと全く同じ装束を纏っていた。

 だが、その顔立ちは鏡で見た自分の顔と少し違うだろう。淡い紫──藤の瞳は同じだが、丸く垂れ下がった自分の目の輪郭とは違って、彼女は目は妖艶に釣り上がっていた。それに髪は結っておらず、腰までつきそうな程に長い雪白せっぱくの毛髪はふわふわと生暖かい風に靡いている。

 背丈も見てくれも同じだが、顔立ちだけが違う。当然のように、不気味に思えてしまった。

 そんな彼女は、四阿あずまやの柱に背を預けて煙管を吸っていた。

「何じゃ。死人でも見る形相ぎょうそうで……」

 言葉と同時に煙を吐き出して、彼女は季音をジッと射貫いた。

「……貴方は誰? 私は、どこに居るの」

 震えながら季音は尋ねる。すると、彼女は藤色の瞳を丸く瞠った後、豪快かつ高らかな笑い声を上げた。

「ああ、本当に愚図じゃの……分からぬのか。あんたはわらわわらわはあんたじゃ」

 彼女は季音に向かって煙管を突き立て、緩やかな弧を描く。

「……私、なの?」

「愚図は何もかも忘れたのか。そうじゃ。妾はあんたじゃ。もう一人の自分とでも思え。別に何もせぬ。死んでもおらん。怯えるでない」

 淡々と告げると、彼女は再び煙管に口付けて深く煙を吸い込む。

『もう一人の自分』は納得せざるを得ないだろう。何せ、顔立ちが違う以外の容姿全てが一致するのだから。だが、自分の筈がないだろう。未だ信じがたい部分はあるが龍志の告白で自分は元が人だとはもう理解しているのだから。

 ならば彼女は何だ──結び付く答えは、”自分が狐の姿である理由”としか良いようも無い。季音は眉根を寄せた途端、以前龍志とした他愛の無い会話から知ったある存在をふと思い出した。

「貴女、まさか私の守護霊……?」

 ──そうに違いない。確信を得て季音が尋ねたと同時、彼女はゴホゴホと煙に噎せ始めた。だが、取り乱したのも一瞬だった。彼女は直ぐに、季音の方を涙に濡れた瞳で睨んだ……かと思えば、薄紅の唇を開いて豪快かつ高らかに笑い始めた。

「そうさ、そう思え」

 彼女は肩をプルプルと震わせながら答えた。思い当たる事を言っただけだ。何がそんなに可笑しいかは分からない。

 だが、瞳を細めて笑む穏やかな顔に絆されて畏怖の心は薄れ始めた。次第に、馬鹿にされているような気さえしてきて無性に腹も立ってくる。季音は思わずむっとして、目を細めて彼女を睨む。すると、彼女は『悪い悪い』と言って、季音に向き合った。

「そいで、ここがどこかって質問だね。ここはね、あんたのここにある箱庭じゃ」

 彼女は人差し指で、季音の左胸の上部を突いた。

「……心?」

「そう。妾は、ここに住んでいるのさ。ここは妾の創り出した完璧な庭。妾はここであんたをいつも見守っている。美しいじゃろう? 気に入ったか?」

「……美しいとは思うわ。普通ならありえもしない光景が広がってるのだから」

 思ったままを告げると、彼女は恐ろしい程妖艶に笑んだ。背筋が凍り付く程の美しさだった。その笑顔を真正面から見て、たちまち脳裏に鋭く突き抜けたのは潜在的な懐かしさだった。

 この感覚は龍志に初めて会った時や退廃した社を見た時と同じだ。確実に会った事や見た事があるのだろう。それを悟り、季音はそっと瞳を伏せる。記憶の水面に手を入れて、底に沈む沈殿物に手を伸ばす。深く深くその深層へ──もう少しで掴めそうな気がした。だが、痛烈に拒むように手は届きもしない。季音は『だめ』一つ息をついて、瞼を持ち上げた。

 彼女は季音には目もくれず、煙管をふかして庭を静かに眺めていた。その横顔はどこか物憂げで寂しそうにさえ映り、季音は少し胸が軋んだ。

「ねぇ、私、元はただの人間だったのでしょう。妖に成ったにも関わらず妖気が無いってそれで納得してたの。どうして私、妖術が使えたのあれは貴女の力よね。どうして────」

 ──どうして表に出てきたのか。どうして自分に憑いたのか。と、全てを告げる前に彼女は『愚図』と季音を冷ややかに罵倒した。

「確かに愚図よ。だけど、当然の疑問だわ」

 気圧されそうになりながら負けじと言い返せば彼女は一つ鼻を鳴らした。

「随分言うようになったじゃないか藤香。忘れたなら忘れたままの方が良いに決まっておる」

 ピシャリと突っ撥ねて、彼女は季音を睨む。

 その名を知っているという事は、間違いなく彼女は全てを知っているのだろう。ならば食い下がる訳にはいかない。たかが自分に憑いた守護霊、結局は自分相手だ。そう言い聞かせて、季音は怯えながらも彼女を睨み続けた。大した威圧も無く恐ろしくも無い睨みはそれでも届いたのだろう。観念したかのように彼女は大きな溜息を吐き出した。

「……ただの暇つぶしの気まぐれじゃ。妾との関わりを知りたいようじゃが『以前、お前に恩を着せられた狐の魂が黄泉に旅立つあんたに同化して背後霊にでもなった』とでも思え。雑に言おうが馬鹿と丁寧に言おうが、そうとしか形容できぬまい」

 ようやく季音は納得した。それならば人が狐の妖に輪廻した事も不自然ではないだろうと。

「それで私、貴女に何の恩恵を与えたというの? どうして私を呼んだの」

「……知る必要も無いさ。ただあんたと話がしてみたかっただけさ」

 短く告げた彼女はツンとそっぽを向く。それから間髪入れずに『門まで送るからもう帰れ』と彼女は季音の袖をひっ掴んだ。

 帰路は来た道をひたすら戻るだけ。朱塗りの橋を渡り、四季を跨いだ花々が咲き乱れる庭を抜けて、やがて朱塗りの門へと辿り着く。門は依然開いたままだった。その果てはやはり輝かしいもので、目映さに季音は目を細めた。

 門の外側のからは、聞き覚えのある複数の声が靄がかって響いてくる。自分の心の中……と、言われた言葉を季音は改めて納得してしまった。

「……ねぇ。貴女、名前は?」

 門の前に立ち止まって思わず彼女に尋ねると、未だ袖を摘まんだままの彼女は釣り上がった瞳をジトリと細めた。

「愚問だな。妾はお前なのだから季音に違いないだろう。だが皮肉な事に、遠い昔にあったまことの名もあんたと同じ藤の名を持つ」

 呆れた調子でそれだけ言うと、彼女は季音の肩を門に向かってグイと押した。

「いいかい。妾に会った事は誰にも言うな」

 釘でも刺すかのような言い方だった。だが、確かにそれもそうだろう。自分の守護霊に会っただの言えば、皆にどんな顔をされるのかも分からない。それにいちいち言う程の事でも無いだろう。そんな風に思って、季音は後方を僅かに振り向いた。

「それを破ったらどうなるの?」

 少しふざけて訊くと、彼女は一つ舌打ちを入れて、目を細めて季音を睨んだ。

「……永遠にこの庭に閉じ込める。さぁ行け」

 その口ぶりは凄みがあった。脅しではなくまるで本気のよう──それから間髪入れずに、彼女は季音を門に向かって突き飛ばした。

「幸せに成れ、妾はそれを望む」

 霞んでいく視界の先、彼女の薄紅の唇が狡猾に弧を描いた事だけがやたらと印象に残った。



 ──次第に聞き馴染みのある少女の掠れた声が聞こえてきた。

 それは罵声だろう。何を言っているかは分からないが、相当機嫌が悪そうだった。

(おタキちゃん、どうしたのかしら……)

 その声の正体を悟ったと同時、季音はパチリと瞼を持ち上げる。だが、瞳を開いた途端に見た光景に季音は絶句してしまった。

 横たわった自分の上で取っ組み合うタキと龍志の姿があったのだから……。

「おいおいおい! 落ち着け!」

 朧はタキの腰を抱き押さえつけていた。

「主殿! 粗暴な妖の言葉如き相手にしてはなりません!」

 片や、龍志の腰には蘢はしがみついていた。

「離せ蘢。この狸の小娘、どこまで人の話を聞かない。こいつ今度こそは泣かせてやる!」

「ふざけるな肉欲獣!」

 随分と剣幕だった。いったい何の騒ぎだ。季音は目を点にして寝たまま傍観していると……。

「季音殿、目……開けてますよ……」

 と、蘢がぽつりと言って。龍志とタキは取っ組み合いをピタリと止めた。

「何を……して、いるの?」

 思わず聞いてしまうと、季音の横たわる布団の端に皆して一斉に大人しく座った。

「狸の嬢ちゃん案外起きるのが早くてな。あんたが心配で起きたら直ぐにここに来たんだよ」

 朧は季音に視線を向けずにそう言った。その隣でタキは肯定に幾度も頷く。

「そしたら、主殿が沢の水で濡れた貴女の装束を脱がして着替えさせてる最中でですね……」

 朧同様に、季音の方には目もくれずに蘢が切り出した。それと同時に、大抵の流れは理解出来てしまう。つまりタキはそれを見て、誤解をして怒ったのだと。

「水に濡れてるのに、そのまま布団寝かす馬鹿がいるか。この狸は何も話を聞きもしねぇ」

 龍志は唇を拉げて正面にお行儀良く座ったタキを睨んだ。 

 きっと、中途半端な状態で寝かしたのだろう。だから朧も蘢は見向きもしなかったのだと季音は改めて悟った同時、布団の中の自分が浴衣は愚か襦袢さえも纏っていない事に気付いて季音は顔まで布団を深々とかぶった。

「龍志様ありがとう。おタキちゃん別に大丈夫よ……龍志様は着替えさせてくれてただけ、だから本当にきっと、多分……大丈夫、大丈夫よ」

 とんでもない羞恥で声は震え上がっていた。まさか起きて早々にこんな事になっているなんて思いもしなかった。もはや、先程の不思議な邂逅も一瞬にしてどこかに吹き飛んでしまう程である。季音は布団をかぶったまま首を横にふるふると振った。

「……皆さんあの、部屋から出て」

 着替えたい。ただそれだけを告げると、静かに立ち上がる音とその場を去る足音が二つ聞こえてきた。恐る恐る季音は布団から顔を出す。そこには未だには龍志とタキが座っていた。

「……ふ、二人も」

 おどおどに言うと、タキは大きな息を吐き出して席を立つ。

「龍志様も……私、もう大丈夫ですので、着替えるので部屋から出て下さい」

 未だ片隅に残った龍志に問いかけると、彼は非常に複雑な顔を浮かべていた。

「お前、ちゃんと藤香……ちがう、季音だよな」

 ぽつりと言われた言葉に季音はただ黙って頷いた。

 使える筈もない妖術を使ったのだ。彼も何か滞りを感じるのだろう。

 自分の中には狐は確実に居る。だが、あの庭での邂逅は言わない事が約束だ。自分に対して敵意など無いとは言え、破ればあの庭に自分を閉じ込めると言ったのだから……。

 少しだけあの邂逅を言いたい気持ちは芽吹いた。だが、言うべきではない約束なのだから。季音は何も言わずに彼に微笑んだ。

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