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8 決着の行方

 三対一の闘争開始から数分が経過しただろう。

 静謐せいひつな筈の夜の森は喧噪に包まれていた。

 悲鳴を上げるように地面が裂ける音に、しのぎを削る音。怒号が絶え間無く続いていた。

 季音は依然として拘束をされたまま、黙って争いを傍観していた。

 しかし、その争いの決着が見えるのは案の定早いもので、十分も経たぬうちにタキはへたりと岩の上で四つん這いになって荒い息を吐き出していた。

 地面を向く彼女のおとがいからハタハタと垂れ落ちるものは玉のような汗。その対面で朧と蘢は無傷で彼女の様子を見守っているが、彼らも汗だくになって召し物で汗を拭っていた。

「あの嬢ちゃん結構やるなぁ……」

「こぢんまりとした狸の雌如きと侮っていましたが、妖力の扱い方を心得てますね、素直に手強いです。ただ雑で悪く言えば力押し……朧殿と似ています」

「同感。俺も少し思った」

 朧は苦笑いを浮かべながら肯定した。

「おい嬢ちゃん、まだやるか? 流石に妖力も尽きる限界寸前だろ」

 朧は沢の石を飛び移ってタキに近付き問いかける。すると──。

「当たり前だ……ナメんなクソ鬼!」

 彼女はたちまち目をキッと尖らせて、怒鳴り散らした。

 ……しかしながら、タキに反抗出来る力が未だ残っている事に季音は驚いてしまった。

 朧の言う通りに限界も近いだろうとは目の見えて分かる。察知する事がやっとな程に身に纏った妖気が微弱になっているのだ。恐らく、もう妖術は使えやしないだろう。それに、彼女の脚が今にも崩れ落ちそうな程に戦慄いている事から、体力的限界が近いのだと容易に悟る事が出来た。

「無茶するな降参しろ。式神とは謂わば雇われ妖だ。俺らの主は狐の嬢ちゃんに危害を与える真似なんてしない事は知っている」

 ──不毛だ、話くらい聞け。だから、もう止めろ。と、朧はタキに手を差し出した。だが、彼女は直ぐにその手を叩き払った。

「降参なんぞしない。たとえお前の言う通りであれ、人の飼い慣らされた奴なんかの言葉に耳なんぞ傾けてたまるか。おれは命を張ってでもおキネを取り戻すと言った。それが信念だ」

「その信念はまさに妖の鏡。もはや尊敬に値するが……」

 朧より少しばかり後方に佇む蘢は溜息交じりに呟いた。

 その矢先だった。何か一人ごちたタキは再び四つん這いの姿勢になった。まるで最後の力を振り絞るかのように──毛を逆立てて、牙を剥き出した彼女は低い唸り声を上げた。

「おいおい、まじかよお前……」

 朧が嘆くように言って間もなく、タキは瞬く間に獣の姿に変化した。

 狸らしいずんぐりとした印象の無いしなやかな肢体──それは黒々とした毛並みの美しい巨大な狸だった。獰猛な獣そのものだろう。牙を剥き出したタキはゴゥと咆哮ほうこうを上げて、朧に飛びかかり彼の肩に食らい付く。

 ──一瞬にして噎せ返る程の血の匂いが充満した。

 噛みついた朧を沢に振り投げて、タキは次の攻撃に出ようと前屈姿勢を取る。

 季音は戦慄に目をみはる。

 まるで血に飢えた獣そのものだ。これが本当にタキなのだろうか……と目の当たりにした光景に季音は己の目さえ疑った。

 勇敢で血の気が多い。その様は確かに狸らしからぬとは思っていた。だが、今の『タキ』は自分の知っている親友の少女とはあまりにもかけ離れていた。

 もう止めて欲しいとさえ願った。そもそもは他人だ。本来ならば関わるべきでは無い異種族だ。ましてや自分が元々は人間──と、先程の話の一部始終は聞いていただろう。だからこそ、自分の為に命を投げ出すなんて馬鹿馬鹿しい。確かに、そこまで友として思われる事は嬉しいが、ここまでする必要も理由もどこにも無いのだ。それを叫びたくて仕方ないが、唇は空回りするばかり。季音は得体の知れぬ焦燥に身を震わせた。

「痛ってぇな……」

 跳ね起きた朧は肩口を押さえて瞳を釣り上げた。激昂げっこうしたのだろう。その形相は鬼そのもの──顔面には血管が浮き立ち、見た事も無い恐ろしい気迫で彼はタキを射貫いていた。

 朧も本気で攻撃をけしかけるのだろう。彼の筋張った手は、瞬く間に強靱な鬼らしいものへと変わり果てた。鋭い刃のような爪を剥き出して、飛びかかった朧はタキの顔面に殴るように斬りかかる。

 防ぐ事もなく、直に攻撃を受けたタキは地面に転がった。瞬時に朧の妖気が悍ましい程に膨れ上がる。確実に次をけしかけるのだろう。彼は地面に手をついて、怯んだタキを睨み付けた。

 彼のこの姿勢は先程も見た。恐らく、地割れの如く直線状に刃にも似た岩の柱を地面から突き出す大がかりな妖術だ。間髪入れずにまさにそれをけしかけた──それと同時だった。

 タキの姿がみるみるうちに元の姿に戻ったのだ。もう反撃する力も防ぐ力など残ってもいないだろう。頬に深い傷を負ったタキはヘタリと座り目を大きく瞠っていた。

 ……だが、それは朧も同じだった。凄みを含んだ鬼の面のまま。彼は『止まれ』と、がなる。だが、放ってしまったものはもう止まりやしない。

 間違いなく満身創痍まんしんそういのタキが喰らえば死に至るだろう。それは容易く想定出来るもので、季音は血の気の失せた唇を拉げた。

 ────止めて! 嫌っ! だめ!

 空回る唇で、季音が叫んだ途端だった。

(無力で愚鈍な娘。面白い事になってるじゃないか。|妾《わらわ》が少し力を貸してやろうぞ)

 脳裏に響いた声は艶やかで気高きものだった。しかし、おぞましく凄みもある。季音は怖気おぞけを感じた。

 途端に何者かに操られるように勝手に身体が動き始めたのだ。身を締め付ける拘束はたちまち緩んだ事を感じたと同時、足は勝手に駆け出していた。否や、完全に何かに乗っ取られたようだった──視覚のみで他の感覚は微塵も感じられない。

 飛ぶように石を跳ねて、沢の浅瀬で足は立ち止まる。スッと差し出された手はタキの方へ──すると、深い紫の炎の壁がゴゥと音を上げてタキの周囲をぐるりと囲んだ。

 炎の壁は朧の放った妖術としのぎを削り、相殺そうさつし、やがて消滅する。

 先程の喧噪が嘘のよう。静まりかえった沢はせせらぎだけがさらさらと反響していた。

 自分がいったい何をしたかも分からなかった。しかし、間違いなくあの炎は自分が放ったものだろうと悟る事は出来る。妖狐ようこが得意とする妖術──狐火。それによく似たものだったと自分でも分かったのだから。

(そら、満足か。感謝しろ)

 再び脳裏に響いた季音は目をみはる。それと同時に、攻め寄せたのは何とも言えない倦怠感だった。ぷつりと糸が切れたかのように季音は途端に意識を手放した。


  ※※※


 それは怖気おぞけがする程に鋭い妖気だった。殺気にもよく似た凄みを含んでいただろう。

 その凄みを感じたと同時、季音の拘束が剥がれて彼女は動き始めたのだ。

 愚図でトロい。そんな彼女が、狐そのもののように俊敏に駆け出して狐火を放ったのだ。

 沢の浅瀬で倒れてぐっしょりと水に濡れた季音を龍志は黙って抱え上げる。

「主殿……」

 蘢に名を呼ばれたが、龍志は何も応える事ができなかった。

 起きた事をにわかに信じ難かった。まさか、荒神の力を呼び戻したとでも言うのか──そんな憶測も過ぎるが、気を失った季音からは先程の殺気立った妖気は一切感じられないどころか、いつも通りの妖気皆無に戻っていたのだ。

 龍志は眉間に深い皺を寄せた。

 いつか来るであろう結末など、なるだけ考えないようにしていたが、その輪郭は無情にも突然姿を現したのだ。

 ……しかし何故、荒神が表に出て来て、あの場で手助けをしたのかは理解出来ない。否や、親友のタキを助けて欲しいと、季音の願いを叶えたかのようにさえ思えてしまった。

 龍志は蒼白になって黙考する最中だった。

「……おい。どういう事だ、龍。何が起きたんだ」

 対岸から向かって来た朧はタキを担いでいた。きっと、死を悟った恐怖心で失神してしまったのだろうか。タキは固く瞼を閉ざして朧の腕の中でぐったりと眠っていた。

 しかし、どう答えて良いのかも分からなかった。憶測ばかりで、確証出来る事は何一つとして無いのだから……。

「……とりあえず帰ろう。狸の様子は社の中で見といてくれないか。季音を寝かせたら、後で社に傷薬を持って行く」

 嫌な予感ばかりが心の中でざわめいた。直ぐに二匹の式神から顔を背けた龍志は、苦虫を噛み潰すように唇を歪めた。

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