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キネが龍志の家に来てから早くもふた月が過ぎ去った。
固い桜の蕾は知らずうちに綻び今では満開を迎えている。陽光も暖かいものとなり、本格的な春が訪れた。
龍志は何度か社の敷地内の外の山林にキネを連れて行ってくれた。敷地の外ならば、人の匂いもさほど染み付きもしないだろうと……しかし、いくら呼ぼうがタキは姿を現さなかった。
見放された──と、悪い風に考えてしまうものだった。
それに対して、龍志はその都度『下らない事を悩むな』とキネを突っ撥ねる。だが、それはきっと、信じてやれと言いたいのだろうと、もうキネはもう理解出来ていた。
彼はぶっきらぼうだ。その上、愚図な場面を見せれば嗜虐的な顔を見せる事がある。しかし、言葉とは裏腹に根が優しく穏やかなのだとふた月も共に過ごせば充分に理解できていた。
何せ顔に出やすいのだ。口ではそっけなくとも、釣り上がった瞳が優しく細められる様を見ていると自然とそう思えてしまうものだった。
そんな彼と関わる程に、どことなく懐かしいと思えてしまう事はやはり度々あった。
見覚えもない、知らない筈──それでも何か心の奥底で沈殿している気もするが、その深層までは依然手が届かなかった。
詠龍。と、一度だけ蘢の言った明らかに聞き覚えのある名も一つの手がかりだった。しかし、あの剣幕さだ。だからこそ、キネも龍志にそれを訊こうとは思えなかった。ならば、自分で思い出す他は無いだろうとは思った。
だが、その名を思い出そうと深層に手を伸ばす程、頭の奥の方からズキリとした鈍い痛みを感じた。
──ここまで自分が思い出す事に苦を伴うのは、きっと辛い記憶でもあるのだろう。と、思えてしまう。そんな理由が絡んで、キネはその名を深々と考え込む事を諦めた。
しかし、ふた月も共に過ごして困った事は一つだけあった。
それは尻尾を掴まれる事だ──愚鈍さを発揮してしまった時に掴まれる事が殆どだが、何でも無い時にやられる事もあり、その頻度は以前よりも増えた気がした。
単純に反応が可愛くて面白いからと嗜虐的に彼は言うが、やられるキネからすれば堪ったものではなかった。
尻尾を持つ者の感覚で言えば、弱点である尾は胸や尻を触られるのと変わらない。それを彼に言っても『だから何だ、俺には無いからその常識は通用しない』と検討外な事をあっさりと返されて、もはや反論さえも出来なかった。
それを抜かせば、春の日々は気が抜ける程に穏やかなものだった。
「多分、あと数日で桜も多分散り始めるな」
──雨でも降れば、それも早まるものだ。なんて付け添えて。二つの湯飲みに茶を注ぎながら龍志は言う。
「桜は儚いものですね……」
「だが、それに趣があると人はよく言うものだ」
そっとキネの前に湯気立つ湯飲みを差し出した後、彼は自分の湯飲みに口を付けてズッと熱い茶を啜った。
「思えば私……桜を見たのはこの姿になってからは初めてです。記憶にも無いですが、『ああこれが桜なんだ』って遠目から見て直ぐに分かったので、今更ながらに色々知ってたんだなぁなんて思う事が度々あるのです」
いつも通りの他愛も無い会話だった。湯浴みの後、就寝前に彼の部屋の囲炉裏の前で二人並んで茶を飲む事が習慣である。キネは熱々の湯浴みを両手で包み込むように持って、唇をつけと同時だった。
「……なぁ。花で思い出したが、お前は不思議な名前を付けられたものだな」
「え?」
──妖の名は、草花や木、天候や気象現象など全てが自然に結びつくものである。獣の妖に関して言ってしまえば、記憶を引き継いでいるのだから、元の名を名乗る事も多いが、それも殆どは自然的なものばかりだった。
キネ。確かに不思議な名ではあるだろう。それを名付けたタキにおいては『滝』を彷彿させる名だから可笑しくは無い。だが、キネの名は自然物は結び付かなかった。
『お揃いだから別にいいだろ』と、付けられたその名の由来をふと思い出してしまったキネは少し恥ずかしくなって視線を僅かに反らす。すると、龍志は眉根を寄せて首を捻った。
「乏している訳ではない、ただ不思議に思っただけだ。蘢が良い例だろう。神獣は妖とは別とは言え、あいつも同じ規則が採用されている……まぁ、赤飯みたいな草の名だな」
「そうなんですね。私の名前は親友のおタキちゃんに付けられたので。お揃いなのです」
「……なぁ。そのタキって言う奴だが、まさかとは思うが狸の妖か?」
一拍置いて彼の言った言葉にキネは
何せタキがどんな妖かなんて彼には一度も言った事が無かったのだ。
ただ黙って頷けば、龍志は『なるほど』と頷いて、書き物机に
「多分だけど、こういう事じゃないか?」
片手で硯を刷りながら龍志はキネを手招きする。
黙ってキネが近寄れば、彼は出来たての墨汁を筆に染みこませて真っ新な紙の上に『たぬき』『きつね』と、文字を綴った。
自分は元々、ただの狐の筈。しかし、それがはっきりと読めてしまった事にキネは少しだけ違和を覚えたのも束の間、龍志は双方の二文字目に斜線を引いた。
「間を抜いた……よってタキとキネ。そういう事か? あくまでこれは推測だが、そのタキとやらはあまり狸らしくないだろ」
新たな驚嘆でキネは口をあんぐりと開いてしまった。その答えがまさにそのままだから。
「そ、その通りです。でもどうして……」
「ただの憶測だったけどな。お前が微塵も狐らしくないから」
龍志はあっさりと告げた。だがキネの頭の中は未だ驚嘆で働きやしない。しかし、彼の言った言葉は次第に脳裏をズンと強く打ち、たちまち羞恥が込み上げたキネは頬を桃色に染めて唇をモゴモゴと動かした。
──つまり、愚図で正真正銘の間抜けと言いたいのだろう。
「ひ、ひどいです! 確かに私、間抜けで愚図ですけど!」
思わず捲し立ててしまえば、間髪入れずに彼はキネの肩を叩いて宥めに入る。
「それもそうだが、人の俺から見ても
──と、思うって言いたいだけだが。と、告げる彼の言葉は語尾に行く程にどんどんと小さくなっていった。
よく見れば、彼の頬が僅かに赤く染まっていく事が分かる。初めて見せる表情だ。しかし、彼の言葉全てが自分に宛てられたもの──と、悟った瞬時、キネの頬は更に赤々と色付いた。一方、彼は段々と居心地が悪くなったのだだろう。一つ咳払いをした後『さてと』と、仕切り直した。
「少し無礼だったかもな。詫びとなるか分からないが……丁度、良い字が思い浮かんだ」
言って龍志は紙を新しく用意して、再び筆に墨を含ませる。丁寧に筆をしごいて、彼は『季音』と丁寧に文字を綴った。
しかし、先程の字とは全く違い複雑なそれをキネは読む事が出来なかった。それが漢字と呼ばれるものだとは潜在的に理解する事だけは出来た。
「漢字ですか?」
訊くと、彼は『よく分かったな』なんて言って僅かに唇を綻ばせる。
「──暦を捲る毎に聞こえるもの。芽吹きに花々の開花。やがてそれは枯れ果て霜が降り雪が積もる。即ち、歩み日々感じる”季節の足音”その頭文字を取り
まるで呪いを詠唱するかのよう。龍志の言葉はいつにもなく、どこか尊厳たるものだった。
キネは藤色の瞳を大きく見開き彼の方を向く。すると、彼は一つ息を吐き出した後に『と……趣ある裏の意味どうだ?』なんて、鼻からふと息を吹き出し笑みを溢した。
どうしようも無い程に心の奥底がムズ痒かった。どうして良いのか分からない程に、頬に昇った熱が下がってくれなかった。
「……どうしよう。おタキちゃんが付けてくれた名前、もっともっと好きになっちゃった」
──嬉しい。と、思わず漏れ出た言葉は、淀みも無い素直なものだった。
崩れてしまった言葉遣いに直ぐに気付いて、キネは慌てて唇を塞ぐ。すると龍志は、キネの肩をやんわりと掴み緩やかに精悍な面を近付けた。
「お前本当に可愛いな」
唇と唇が触れあってしまいそうな程の間近。彼が言葉を発する程にその吐息が自分の唇を擽った。その感覚も束の間──龍志はキネを抱き寄せ、腕の中に納めて首筋に唇を寄せた。
「やっぱり柔いんだな。髪も首筋も頭がクラクラする程良い匂いがする……」
……どうしてこんな状況になったのだろうか。と、咄嗟に思うが、キネは目を白黒とさせて、あわあわと慌てふためくばかりだった。
しかし、これだけは理解出来る。種族は違えど、一応彼は自分を雌だとしっかり認識はしているのだ。このまま流されてしまえば、きっと途方も無く淫靡な事をされてしまうのではないかと──夜這いと勘違いされて組み敷かれた事を思い起こしてしまい、キネは彼の肩を押した。
「あ、あの……」
「ああ、悪い……つい」
『つい』とは何だろうか。そんな事をふと思ってしまうが、自分の鼓動があまりに煩くて、それ以上は何も考えられなくなってしまった。
彼は直ぐに身を剥がして、硯と筆を片付け始めた。
「さて、寝るか?」
背を向けた彼はぽつりと告げるが、季音は未だ呆然としたままだった。しかし、自分の視界いっぱいに再び彼の顔が近付き、季音はたちまち目を瞠る。
「……おい、部屋に戻れ。そんなに俺と寝たいのか?」
途端に時は動き始めた。季音は慌てて後退り、唇をあわあわと動かした。
「流石にそこまで拒否されると……俺でも少し傷付く」
心底つまらなそうに龍志は言うが、季音はぶんぶんと首を横に振った。
「いいえ、その。でも……素敵な意味、本当にありがとうございます」
鼓動は高鳴ったまま。季音は彼の顔を見ずに襖を開けて部屋に戻った。
その日の夜半だった。
季音は就寝前の出来事が忘れれず、時よりぶり返す頬の熱の所為で眠れずにいた。
丸窓から見える月の傾きから間もなく日付を跨ぐ頃合いだと悟り、いい加減に寝ようと、季音が寝返りを打った途端だった。
襖が開く音がしたのだ。静かにではあるが、はっきりと分かる。
あまりに驚嘆して季音が飛び起きると、そこには
──夜這い。
夜半、男が女の部屋に逢瀬に来る事。その逢瀬は、無論艶やかな意味も含まれるもので……。
部屋に戻るまでのやりとりがああだった故に自然とその言葉が過ぎってしまうものだ。季音は言葉を出す事も忘れて、顔面を赤々と染めて彼を見上げた。
「なんだ、起きていたのか。いや、起こしたか?」
一方、こんな夜半に部屋に踏み入ってきたというものの龍志は存外平然としていた。
「案外眠くならずふと思い立ったが……麓へ花見に行かないか? こんな夜中じゃ人なんぞ居ない。山を降りて直ぐに桜の木もある。月も出ているからはっきり花も見えるだろ。一日くらい昼過ぎまでぐーたらするか?」
──散る前に見に行こう、夜遊びしようぜ。なんて、少し戯けた調子で彼は告げた。
だが、彼の顔は至って真面目なもので全くふざけてもいなかった。それが何だか滑稽に思えて、季音は直ぐに頷いて差し伸ばされた彼の手を取った。