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4 廃屋と化した神社

 キネが目が覚ました時にはすっかり陽が昇っていた。

 陽の傾きから考えると未だ午前中ではあるが、正午も迫った頃合いだと憶測も立つ。

 昨晩はよく眠れなかった。

 結局、悶々と考えてしまって、ようやく寝付けたのは丸窓から僅かに見える空が白んで来てからだった。昼近く迄眠っていたというのに、どうにも寝た気になれやしない。キネは未だ半分以上落ちた瞼を擦って寝返りを打つ。

 ……思えば、今日龍志は麓の村に行くと言っていた。確か帰りは夕刻──と、そんな事を突如として思い出し、彼女は跳ね上がるように直ぐに床から飛び起きた。

 そうだ。これ程までの絶好の機会は無いだろう。この機を逃せばいつまでここに留まり続けなくてはいけないかは分からない。あの調子だ。上手に丸め込まれてしまう可能性だって無きにしも非ず……キネは寝癖でボサボサになった雪白せっぱくの長い髪を慌てて二つに結い直した。

 それでも、勝手に出て行く事にはやはり罪悪感はある。

 ──狐ではあるが、立つ鳥跡を濁さず。自分がそこにいた形跡を残さない程に掃除をしっかりとした上で出て行こう。未だ彼が帰ってくる迄に時間はある。と、思い立ったキネはいそいそと布団を畳んで掃除の準備に取りかかった。

 はたきで高い場所の塵を取り払い、畳の上を藺草の箒で掃く。それから、激しい床鳴りのする板張りの廊下を拭いて──全ての掃除を終えたのは正午過ぎだった。

 一息ついたキネは、勝手口の竈の隣に置かれた水瓶から一杯水を掬って飲み干した。

(帰ろう……)

 決心を心の中で呟いて。キネは僅かに緊張を含ませた面で勝手口の引き戸に手をかけた。


 外に出るのは、いったいどれ程ぶりだろうか。引き戸を閉じたキネは淡く降り注ぐ弥生やよいの陽光に藤色の瞳を細めた。

 縁側から眺めた事のある風景と殆ど変わりもしない景観だった。

 勝手口の近くには既に耕された畑があって三つの畝の上には若苗が芽吹いている。きっと龍志の育てている作物だろう。 

 自給自足の生活なのだろうか。しかし、この作物の量では恐らく自分が食い繋ぐ程度しか収穫は無いだろう。だから彼が農夫では無いと憶測が立つ。

 ──人は労働を経て生計を立てると彼から聞いた。だからこその『働かざるもの食うべからず』だ。しかし、彼が何をしている人物なのかは不明だった。そんな事を思ってキネはしゃがみ込んで小さな若苗を見つめる。

 だが、キネは直ぐに考える事を止めた。

(違うわ。知る必要も、もうないのよ)

 そう、今まさにここを出て行くのだから金輪際こんりんざい彼に関わる事は無いのだ。思い正したキネは立ち上がり、自分がひと月程生活していた家屋のを改めて振り返る。

 そこに佇んでいた家屋は、案の定のボロ屋だった。人の家屋など遠目でしか見た事も無いが、これほどまでにみすぼらしい佇まいは初めてだ。キネは口をぽっかり開けて家屋を眺めた。

 茅葺き屋根に土の壁。幾らか壁は補強された跡が残っており、かなり年季の入った家屋だと見てくれから理解出来た。

 きっと、秋口訪れる猛烈な暴風を伴う豪雨に見舞われれば吹き飛んでしまいそうな程。見るからに脆弱そうな佇まいをしていた。

 それでも恩人の家である。キネは深々と頭を垂れて家主が不在の家屋に礼を述べた。

 そうして、彼女は笹垣を伝って出口を探す。その最中の事だった。前方に苔生した小さな家屋らしきものが見えてきたのだ。まさか、もう一つ家があったとでも言うのだろうか──眉をひそめてキネは足早に歩み寄った。

 やがて家屋らしき佇まい向こう側から見えてきたものは朱塗りが殆ど剥がれた鳥居だった。それを見ただけで嫌な程に胸が軋んだ。まさか、神を奉る社だったのだろうか。

 だが、そこにはもう神は居ないのだろう──と、キネが悟るのは直ぐだった。

 木造建ての社は風化寸前だった。

 もはや社と言って良いかも分からない廃屋である。かろうじて原型はあるが所々ささくれた板が浮いていて、何時崩れ落ちるか分からない程に朽ちていた。社の正面に設置された賽銭箱があるが、それだって板が腐食している。

 更によく見てみれば、一対で居る筈のものが一匹しか居ないのだ。

 台座は残っているものの、口を閉じたいぬだけで獅子の方はどこにも見当たらない。

 はっきりとその光景を見た途端、キネの心臓は嫌な程に早く脈打った。

 言葉さえ出なかった。得体の知れぬ恐怖が心を蝕み足は竦んでしまう。知らない景色の筈だ。けれど、どこか知っているような気さえもしてしまい、彼女は一歩二歩と後ずさりをした。

 ハッと一匹だけ残ったいぬの方を向けば、睨まれているような錯覚さえ覚えた。

「ごめんなさい」

 思わず溢れ落ちた言葉は謝罪だった。 

 だが、言った自分でさえ、いったい何に謝ったのかは分からなかった。何かやましい事をした覚えはない。

 確かに妖という〝卑しい身分〟で神を護る誇り高き獣をじろじろ見てしまった事は不敬にも値するだろう。たとえ、その中に魂が宿っていないとしても良くない事だとキネは思った。

 ──この場所にこれ以上居るべきではないだろう。

 彼女は即座にいぬに背を向けて走り出した。


 崩れ落ちそうな鳥居をくぐり抜ければ、見えない程下の方まで苔が生い茂った石段が続いていた。下降すれば山を降りてしまう事になる。彼女は直ぐに階段から外れて、斜面のきつい竹林を手をついて昇り始めた。

 位置はよく分からない。だが、だいぶ麓の方だとは憶測が立つ。兎に角、上へ上へと昇っていけば、きっと知っている場所に辿り着くだろう。そんな風に思って、キネはがむしゃらになって急斜面を昇った。

 心臓が痛い程に高鳴ったままだった。ましてや、ひと月以上もろくに動いていなかった所為もあって、身体が鈍っていたのだろうか。直ぐに息が上がってしまい、彼女は少し昇った後に抱きしめるように竹を掴んで背で息を吐き出した。

 その途端、キネのピンと立った狐の耳は物音を察知してピクリと動いた。

 得体の知れぬ気配だった。何者かに尾行されている──それに感付いて、彼女の肩はたちまち戦慄いた。

 龍志は未だ帰っていない筈だ。だから彼ではないだろう。それに自分は獣同様に自分は鼻が利く。彼の匂いははっきりと覚えているもので、彼ではないと直ぐに理解した。

 だが、追ってくる存在に匂いなんて無い。後方を振り向いたが誰もおらず、静謐に静まり返った竹林が広がっているだけだった。どこか安堵してキネは一つ息を吐き出した。きっと焦りから来る勘違いだろうか──と、思った矢先だった。

 何か金属質な音を聞いた。ふと、視線を落とせば、自分の首筋に金属質な鋭い輝きが映った。ハッとしたキネは視線をゆっくりと下方へ落とせば短刀が宛がわれていた。やはり憶測は間違いではなかった。それを改めて確信すると、たちまち身が強ばるように戦慄きキネは息を殺して横を向く。

 直ぐに視界に映った色彩は自分の毛並みにもよく似た白々としたものだった。だが、その白みは少しだけ黄の色彩が混じった月白げっぱくで──息をする事も忘れてキネは自分の真横に居る存在を見上げた。

 自分より僅かに背丈の高い程度だろう。この世の者とは思えない程に麗しい顔立ちで、一見見ただけでは雄か雌かも分からない。

 だが、喉元にある僅かな膨らみだけで雄だと分かった。少年と青年の中間──とでも言った風貌だ。

 その装いはまるで巫覡ふげきのよう。紺に白を基調とした清楚な装いをしていた。

 綿のようにふわふわとした長い月白げっぱくの毛髪は鬣のように広がり、その側頭部にはちょこんと短いのいぬの耳が立つ。毛髪同様にふわふわとした太く大きな尻尾……その姿と気迫からキネは彼の正体を直ぐに悟った。きっと先程の一匹だけ残されたいぬだろうと。

 穏やかに下方へ曲線を描く輪郭を彩る目立ちは赤く萌える山茶花さざんかに似た赤色。暖かい色の瞳ではあるが、瞳の奥底は冷え冷えとしていた。そんな視線があまりにも恐ろしく感じてキネは畏怖に唇を震わせながらゆっくりと言葉を紡ぐ。

「ごめんなさい。ただの妖の私如きが貴方をじろじろと見てしまい……」

 きっと見られた事が不快だったのだろう。素直にキネは詫びた。

 しかし、護る神の気配さえ無いあの廃社だ。まさかあのいぬの魂が宿っているなど思いもしなかった。キネは、ガタガタと震えて俯いた。

「聞いた通りに、随分と愚図だ……」

 形の良い水紅色ときいろの唇が紡ぐ声は透き通ったものだった。赤々とした山茶花さざんかの瞳をジトリと細めたいぬは一つ溜息を吐き出して仕切り直す。

「僕はただのしきだ。貴様が出て行くような真似をすれば引っ捕らえて連れ戻せと言われている」

 ──式。と、言われた言葉を理解する事が出来なかった。

「どういう……」

「主を知っているだろう。吉河龍志の名は……」

 いまだに理解が追いつかなかった。

 吉河龍志──自分の恩人の名だ。訊かれた事にキネは震え上がりながらも頷いた。

 ……妖を見たことはある。と、彼は言っただろう。だが、社のいぬに関しては霊獣に分類されるだろう。確かに見てくれは妖と大差はない。だが、その位置付けや格はかなり高いものだ。

 ──龍志はただの人の青年ではなかったのだろうか。キネは困惑した。『主』と確かにいぬは言った。それでは、このいぬを従えているかのように思えてしまう。

 まさか現人神だと言うのか……キネの思想はぐるりぐるりと混沌と渦巻いた。

「無礼を承知で尋ねます。龍志様は何者ですか。人ではないのでしょうか」

「式を従え、悪しき悪霊や妖を祓う──神通力を扱う陰陽師だ」

 キネの思考はたちまち停止する。なぞるようにもう一度、彼女はいぬの言葉を心の中で復唱した。『妖を祓う』その言葉だけが嫌に心の中に残り、まるで思い岩のように心の深層へと急速に沈下していった。

「私は……彼に殺されるのですか……?」

 言葉に出した途端、身震いはより激しいものへと変貌した。 

 桜色の唇はたちまち赤みを失い青く冷える。白々とした肌も血の気は完全に消え失せ、青白いものに変わり果てた。 

 ────あの親切も、昨晩の言葉も何もかも……自分を出し抜き貶める為の演技なの?  私は私は……殺される為に騙されたの?

 理解が追いつかずキネは今にも卒倒しそうになってしまった。

 ふらりと足場を崩し、途端にいぬに背を受け止められた。必然的に山茶花さざんかの瞳と視線が交わってしまう。しかし、相変わらずその瞳の中には暖かさを微塵も感じられない。

 彼はゆるゆると首を振って、形の良い唇を開いた。

「それは知らぬ。逃げた時には捕らえろとだけ命じられた。戻るぞ。逃げるのであれば、僕を打ち破って逃げるんだな。妖力も持たぬ狐如きに打ち破られる事も無いだろうが」

 冷々とした口ぶりだった。抗えば殺される事くらい容易く理解出来てしまう。それは無謀に決まっているだろう。キネは瞬時にそれを悟り黙って彼に従った。

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