軒下からぶら下がる氷柱が透明の雫を落とす晴れた昼下がりの事だった。
キィキィと甲高く鳴く声が響いていた。しかしそれは決して鳥の囀りでは無い。
その正体は、モフモフとした
キネは四つん這いになって板張りの廊下を水拭きしていた。だが、その手際はかなり悪いもので、彼女は度々引っ掛かり躓いていた。
そもそも纏っている衣類は自分のものでもない。
────どうしてこうなってしまったのだろうか。
その思考はもう幾度目になるかは分からない。キネは大きな溜息を吐き出して、廊下に併設された縁側の方を向いた。
ここへ来てから早いこと一ヶ月以上が経過するだろう。あの時に漂っていた香りといえば、梅の花の匂いだった。だが、今ではそれはすっかりと消え失せて桃の花の香が漂い始めている。
その変化から着実に春が近付いている事は分かる。あとひと月も経てば、桜咲く本格的な春も訪れる──。
(私はいつまでここに居ればいいのかしら……)
不安に思って眉尻を下げたキネはすっかり掃除を止めて、庭の景色を眺望した。
自分が今居るこの家屋がどんな外観なのかなんて分からない。内装があまりに古い事から相当なボロ屋と想像も容易いが、どんな場所にあるかは分からなかった。
何せ未だ外に出る事が許されていないからだ。
きっと、山の中だろう。とは分かる。だが笹垣の向こう側は高く高く茂る竹藪で、周りがそれしか見えないのだから、位置情報は微塵も掴めやしなかった。
心配か落胆か。自分でもどちらの感情かも分からぬ溜息しか出てこない。
(帰らなきゃ……)
キネがぽつりと心の中で呟いたと同時だった。
突如、尻尾を掴まれる感触を覚えた。たちまち背筋から甘い痺れが這い上がり彼女は『きゃん』と子犬に似た鳴き声を漏らして前屈姿勢のまま崩れるように床に突っ伏せた。
「……お前、本当にトロいな。床拭きにどれだけ時間かけるんだよ。日が暮れる」
──ボヤボヤするな。なんて、呆れ混じりに付け足して。頭上から落ちてきた声は低く平らなものだった。キネは焦燥に唇をモゴモゴと動かしながら振り向いた。
青光りする程に黒々とした
身に纏うものは、
──素敵。と、彼を幾度見ようが素直にそう思って見とれてしまう。だが、今現在のあられもない己の体勢を思い出して、キネは即座に姿勢を正す。
「とりあえずな。約束は覚えているだろ。やることはちゃんとやってくれ。働かざる者──」
「……食うべからず」
合言葉のように言葉の続きをキネは言った。すると、彼は『宜しい』と短く応えて、縁側で足袋を穿き始めた。
彼の名は
広い背中に繋がるうなじが妙に色っぽくて美しいとさえ思えてしまった。それに、人独特の丸い耳の形も未だ神秘的なものように見えてしまって、キネは息を飲む。
しかし、キビキビと働かなくてはまたどやされてしまうだろう。ふと我に返ったキネは掃除を再開しようと雑巾がけの前屈姿勢を取った矢先だった。
「──ああ、そうだ」
途端に会話を切り出した彼にキネは吃驚した。
ぱっと振り返ると、深い黒曜石の瞳と直ぐに視線が交わり、キネの頬の熱はたちまち弾けた。
あくまで水拭き掃除をしているだけ……ではあるが、腰を高く上げて前屈した姿勢は獣の妖のキネにとってはとてつもなく恥辱的な格好だった。
いたたまれない程に顔を紅潮させたキネは直ぐにへたりと腰を落とす。
「サボるなら夕飯を減らすぞ」
切れ長の目をジトリと細めた龍志は、呆れた調子でキネを突っ撥ねる。対して、キネは直ぐに首をブンブンと横に振った。
「違います! その、だって……私だって雌なんです! 床を綺麗にするとは言え、こんな格好を殿方に見られるのは恥ずかしいのです!」
「ああ。確かに、まぁ獣の妖からしてみりゃ……」
……交尾の姿勢と同じ。と、思っていた事を彼はようやく理解してくれたのだろう。
だが、彼がその続きを平然と言おうとするものだから、キネはすかさず『言わなくて結構です!』と、悲鳴に近しい叫びを上げた。
そんなキネの様子はさぞ面白かったのだろう。彼は『そう』なんてあっさり切り返すと、唇に怪しく弧を描く。その上、瞳に『もっと虐めてやりたい』とでも言いたげな嗜虐の色を射し始めている。
……これはまずい流れだろう。そう悟って、キネは身を竦めた。
このまま彼の調子に嵌められてしまえば、問答無用で存分に弄られるのだろう。また尻尾を掴んで反応を楽しむ……なんて破廉恥な事もやり兼ねない。そんな憶測も容易く、彼女は知らん顔をして掃除を始めた。
別に、龍志は普段からこうではない。通常の彼と言えば、非常にぶっきらぼうな気質で、口数は決して多い方ではない。ひと月程一緒に生活しているが、希にこういった嗜虐的で危うい顔を見せる事があるだけだ。
その兆候が見え始めたのは一週間程前だろう。それだけの時間があれば、何が原因となって嗜虐的な面を見せるのか薄々と分かってしまう。
それはきっと、愚図な面を見せた時だろう。ドジを踏んだり、極度に恥ずかしがったりすれば彼の嗜虐癖の格好の餌食になってしまう。それが分かって、キネはなるべく毅然とした態度を取る事を努めていた。
「……私、一応は病み上がりですけど」
そっぽ向いたまま、手だけはしっかりと動かしてキネはキッパリと言う。その言葉の直後、彼は一つ吐息を溢した。
「阿呆。骨に異常なし。傷は完治。打撲も完治。とっくに治っているだろ。ほら、さっさと掃除を終わらせろ。夕飯は油揚げに豆腐に菜っ葉ぶっ込んだ味噌汁だから頑張って床を磨けよ」
さらりと述べると、彼は手を伸ばしてキネの頭をワシャワシャと撫でた。
『──ああ、そうだ』の続きは、味噌汁の具材の事を言いたかったのだろうか。
油揚げに豆腐──知ってしまった人の食。それらは現在、キネの大好物だった。
初めて食べた時に感動した記憶は新しい。その時、彼は何も言わずに勝手におかわりをよそって持ってきたのだ。……つまりは完全に胃袋を掴まれてしまったのである。
頑張ればご褒美があるとでもいうように、好物を出してくれる仄かな優しさは嬉しく思えてしまった。そんな事をまじまじと考えると、妙に心の奥底がむず痒くなった事を自覚する。
だが、特に返す言葉も見当たらない。せめて礼は言うべきか──そんな黙考から覚めた時には、彼は既に庭に出て納屋の方へと足早に向かって行った。
(──ああ、どうしよう。私、どうすればいいの。おタキちゃん助けて)
縁側から覗く薄雲漂う初春の青空を見上げて、キネは大好きな親友の名を何度も心の中で何度も呟いた。