ごそごそ、布擦れの音が響く。鳥の羽音に似た効果音は十秒以上は続き、羞恥心より好奇心が勝り始めた怜悧が顔を上げるか悩んでいると、焼餅が視界に飛び込んだ。差し出された白い手指から腕、胸、頸と辿るうちに遂に釣られるように姿勢は戻り、視線は正面を向く。翡翠がちいさな顔に愛らしさを目一杯に溢れさせ、ゆったりと破顔していた。
「食べます?」
「え」
「お酒もありますよ」
焼餅を差し出している右手とは逆の左手にいつの間にか瓢箪が握られており、翡翠は勧めるように揺らすので、怜悧は両掌を向けながら首を振った。出逢ったばかりの少女に施しを受けるのは、慎むべきだと思慮したのだ。
「有り難う。でも、私はだいじょう……」
ぶ、と紡いだときに、くうう、と先程より数倍おおきくながく情けない音を空きっ腹が発し、怜悧が築き掛けた尊厳の壁に亀裂が入る。火照った頬より耳より熱い眦が泪まで禿びりそうになるところで、翡翠が瓢箪と焼餅を押しつけてきた。
「遠慮しないでください。実は癖で、いつも食べ物とかお酒とか持ち歩いてしまうんですが、処理に困ることが殆どなんです。いただいてくれたら、助かります」
「そういうことなら……いただこうかしら」
「どうぞ」
丁寧な語調なのに何処か有無を言わせない声で、しかも助かりますとまで言われてしまえば、これ以上断るのは不自然で、失礼だ。怜悧が善意を受け取ると、翡翠は、にこり、微笑を深めた。
「処理に困るってことは、貴方は食べないってこと? 変わった癖ね」
喋りながら、焼餅を一口齧る。包まれた素朧肉の旨味が舌のうえで溢れ、喉の奥が震えた。美味しい。こんなの美酒で流し込んだら最高に決まっている。試験前なのに飲酒が赦されるのか。判断を善悪の天秤に委ねるには、酒の味を知るおとなといういきものは、あまりに弱く、瓢箪を開けるなり、かっと酒を煽った。
「昔、よく食事を摂り忘れる友がいたんですよ。いつも差し入れをしていたので、美味しいものをみつけたら、そのひとの分も買う癖が抜けないままなんです」
「世話の焼けるひとなのね!」
喉奥に放りこんだ酒が食道を伝い、胃袋におさまるのを感じる。五臓六腑にあつく沁み渡り、ぷは、と息をして口端に垂れるしずくを拭いながら聞いた話から想像したその友とやらの印象を率直に述べたら翡翠がふきだし、腹を抱えてわらった。
「そうですね」
「私、そんなに可笑しいことを言った?」
「いえいえ。ただ、ほんとうにいまも昔も変わらない、困ったさんだと思いまして」
笑壺を突いたつもりはない怜悧が首を傾げると、未だに小さなわらいをとめないまま翡翠が呟いた。そのとき、試験会場である屋敷の扉から出ていく鷺舞が視界の端にふと映る。すぐに行列の先頭に並んでいる女人が招状を門番に視せ、扉を潜った。すると、あまやかに甲走った黄色い声が響き――次いで、それが鼓膜に刺さるほどの恐怖に満ちた悲鳴に変化した。屋敷のなかで何が起きているのだろう。待って、これは、そもそも検屍官試験。もしかして、彼処に用意されているのか。本物の――
「屍体……」
ぼそり、怜悧が呟いた声は翡翠の声と重なり、ふたりは視線を絡ませた。
「貴方も、そう思う?」
「ええ。どんな試験で実力を測るのか疑問でしたけど、恐らくは実際に検屍を行わせた上で何か出題するつもりなのでしょう」
「……そういうことに屍体を使うのって、私はあんまり好きになれないかも」
屋敷の扉から顔面蒼白の女子が逃げるように飛び出して走り去る光景も相俟って、ひとを脅かしたり試したり、そんなことに屍体を使うのは、ひとの命を道具のように利用しているのと同義におもえてならず、怜悧は視線を焼餅に落としながら、呟いた。聲に、嫌悪が隠せない。いのちは、おもいのに。
「貴方なら、そう言うとおもいました」
何故。そう問いたいこころと、くちびるが連動しない。翡翠の口振りは長年寄り添った理解者の口振りの如くのそれで、意外性を指摘することのほうが違和感がある、間違っているように感じた。知り合ったばかりの少女と深く識り合えている感覚になり、怜悧は首を傾げる。
「庇うわけじゃあないですけど、太子殿下はね、決して命を軽く扱っているつもりではないとおもいますよ」
「……何故?」
「あの弟溺愛主義者のこと。弟君に相応しい女子を選抜するのなら、手を抜きたくないんでしょう。最終日には太子殿下自ら試験官となり、見極めるらしいですし……つまり、本気なんです」
「本気なのは……理解できなくもない、けど」
招状に予め記載されていた、試験の日程と詳細を脳裏に描く。全三回の試験が各々三日間掛けて行われ、各回の採点を最終日に合計した結果で合否を定める、よくあるお決まりの流れだ。確かに、試験で本物の屍体を扱うのなら、第二皇子妃の座が目的で検屍の心得はない人間の大半が、この初日で篩い落とされるだろう。遊び半分の参加者は求めていないのだという意図は汲み取れるが、それは、元より数人の命より弟を優先しているからこそ出来うる発想で、本気という名の免罪符を行使しているやりかた。理解はできても、同調はできない。
「納得は可能だとして、共感は不可能って表情ですね? それで良いんですよ」
「どうして、わかるの?」
「貴方って、わかり易いですから」
眉と眉のあいだに翡翠のほそい人差し指が伸び、指腹でまんなかをぐりぐりされる。彼女の云う通りわかり易くいつの間にか刻んでいた皺が、ほぐされていく。
「本気だからって屍体を利用している事実は変わりないですが、弟君が大切なあまり、命の重さをはかる天秤がぶっ壊れてますからね、あの男は」
語りながら翡翠は怜悧の手にある残り半分程度の焼餅をそ、と取り上げ、半分から更に半分に割ると左右の掌にそれぞれ乗せてみせた。天秤を表現しているのだろう。おなじ質量の筈の焼餅なのに著しく右手を沈められた。喩えば、一の命と百の命を天秤に掛けたとき、その一が大切なひとなのか他人なのかで、百より一に傾くことは有り得るのかもしれない。少なくとも、鷹揚の天秤では百どころか一と一でも命の重さは平等にならないのだ。図解を受けた心地で、改めて認識する。
「だから、そんな頭の可笑しいひとに共感なんてしなくて良いんです」
そう付け足しながら焼餅をまた渡してくる翡翠の声は、溜息が交じっている。太子殿下に無礼なのだが、不敬を指摘する気にはなれなかった。何故だろう。太子殿下、鷹揚という人物を語るとき、彼女の言葉の端々には棘が纏わりついている。まるで、鷹揚と親しく、人柄を熟知しているからこその愚痴だ。怜悧は、首を傾げた。
「貴方は、太子殿下と仲が良いの?」
「全然! 真逆で、互いに憎しみしか御座いません」
「そ、そう……?」
ばっさり。喩えるなら、そんな効果音が翡翠の如何にも貼り付けた笑顔の裏に視え兼ねない気迫で返答されて、怜悧は、ふたつに割れた焼餅を食べてから先程と逆側へまた首を傾げはじめた。互いに憎しみしかないのならば或る種、相思相愛なのでは。喧嘩するほど仲がいいとも言うくらいだし、そういえばそんなふたりを、むかし、知っていたような。
「あんな男より――私は、貴方と仲良くなりたいです。師姐」
突然、柔和に聞き慣れない呼びかたをした翡翠の声が、朧気に意識に漂う言葉の響きに重なって聞こえた。また前世の記憶が蘇る前兆なのか。卵の心象まで、浮かぶ。けれど、卵には一筋うすく罅だけがはしり、割れない。漠然と重なった似て異なる呼称が何かわからないまま、心象が薄らいでいってしまう。これは、だめだ。まだ、思い出せない。ただ、師姐と、この子に呼ばれるのは、耳馴染みがいい。しっくりくる。それに、何だかとても気が合いそうだ。
「ええと、よくわからないけど……是非、こちらこそ、よろしく?」
どうして師姐という呼びかたをするのかも、何故仲良くなりたいのかもよくわからないまま、首を傾げながらに怜悧が同意を伝えてみたら、翡翠はふわ、と、きれいにほほえんだ。あたりが眩しくなるくらいの無垢な微笑に迫り上がる懐かしさが、わからなくて、もどかしくて、こめかみがすこしだけ痛くなり、ひとみをほそめた。