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第9話 誤解

――私はね、鳥葬がいいの。そう澄みとおった声で語る前世のじぶん、恵理の声が記憶の水鏡に波紋をつくり、脳裏を揺蕩う回想に耽る。あの日は、研究機関の同班の仲間で晩酌していた。低価格で全品均一の庶民の味方の居酒屋。此処には、よく通っていた。店内は無垢木材を基調とした空間だ。饒舌な鳥が囀る樹の下にいるような賑やかさが、好ましかった。

焼鳥の心臓を一口食べる。あっさりとしていながらも、ぷりっとした弾力のある歯触りが美味しく、含んでから麦酒で流し、語らう会話の内容は、何処からどうなってそんな話題になったのか希望の葬送についての議論で、可笑しすぎる前世の情景に、ほくそわらう。こんな話をしたこともあったっけ。

「肉体を天に届けたら、来世への転生を促せられるって夢のある理論に加えて遺体が鳥に食べられ、自然循環になるの、無駄がないわ。鳥葬、とてもいい。いいわ」

「死体損壊罪で捕まるが、仕方無いか……」

常識から著しく逸脱した珍妙な倫理観を熱弁し、恵理が頻りに頷いていたら、向かいにすわる朔が麦酒を片手に覚悟した表情で呟く。朔は、冷静で大人に視える見目でその実、天然で愉快なひとだ。真顔で巫山戯たりする。本気か冗談か判断が難しい。法医学者としては、検屍で動揺したときは一度もなく淡々と真実を探る。陰と陽。氷と焔。冷たさと、熱さ。夏と冬がまぜこぜになって、季節を喪っているような、そんな彼に、恋をしていた。いつも涙を拭う冷たいゆびに、堪らなく焦がれていた。

「鷹野、やってくれるの?」

期待に満ちた声で問い掛けたら、隣と、斜め向かいから溜息が聞こえた。

「ふたり共、さては出来上がってるな」

「出来てるの間違いじゃないですか?」

「……態と煽ってる?」

「いいえ、まさか」

おとなびた女の声に若々しく張りのある男の声が返し、何故か御互いに後半刺々しさを言葉の響きに纏わせる。出来上がってるも出来てるも、同じ意味ではないのか。疑問におもいながら、そのふたりを視るのに、逆光でも浴びているみたいに輪郭のなかみが黒く塗り潰されて、顔が、姿が、わからない。このひとたちは、誰だろう。知っている筈なのに、懐かしいのに、思いだせない。


――


「悧悧、悧悧ってば」

視界で羽扇がひらひら揺れ、怜悧は瞬いた。白昼夢から意識が浮上する。寝台にいる公が上体を起こしており、覗きこまれると、にがわらいした。そう、此処は郭家。あの凄惨な雨夜から一日が経過しており、怜悧は鳥家で目覚めてから、すぐに現状の確認も兼ねて公の見舞いに訪れていた。道中で複数の侍女から聞いた話によると、怜悧が気絶したあとに宵鷹が迅速に医者を呼び、郭家と鳥家にも協力を呼び掛けて、事態を収束させたようだ。止血が正確だったお陰もあり、公は一命を取り留めた。

「ごめんなさい、ぼんやりしてたわ」

「大丈夫……っ、う」

「大丈夫じゃないのは貴方よ。安静にして」

息を乱して脇腹を押さえた公を注意したら、ご尤もだとおもったのだろう。乗りだしていた身を寝台に戻して、座りなおした公は深々と息を吐きだした。

「舞舞は、どうしてる?」

「目が覚めてから、引き籠もってるらしい」

問えば、概ね予想通りの返答だった。宵鷹と鷺舞の噂は事件の調査の為だった事実は広まり、代わりに自決した行思との関係性を誰もが揶揄り、鳥鷺舞は情夫多き女と悪評高い噂が都中で闊歩している。出歩き難いだろう。ただ、救いがあるとすれば、一連の事件の全ては行思の独断であり、鷺舞は巻き込まれた被害者の扱いで世人が認識していることだ。鷺舞が関与しており、共犯ならば行思に襲われるわけないと、顛末を知らない人間による思い込みから、罪に問われていない。公が鷺舞を庇った美談も話題になっているからこそ、行思ひとりが嫉妬で 殺人を犯した罪人となり、事件は幕が閉じられていた。侍女殺しの件だけは鷺舞とて全くの無関係ではないが、実行犯ではない。これで良いのかもしれない。だって、鷺舞が責められたら、行思が報われない。怜悧は行思の最期を悼み、組んでいる腕に爪をたてた。

「舞舞なら、心配ない。彼女は強いからね」

然も知ったように、というか、実際、知っているのか。公は妻を見透かした言葉を呟く。今更、怜悧の脳裏には鷺舞を護った背中が過ぎった。

「阿公って……舞舞のこと、ほんとうに好きなのね」

そういえば、と。思い出して取り付けた言い様になる。怜悧からすれば、それくらい意外ではあった。ふたりの成婚は両親の意向に従ったもので、愛などないと勝手に決めつけていた。先日、公が身を挺して鷺舞を庇う瞬間を視るまでは。

「ああ……悧悧は、覚えているかな。僕が昔、神童だの才児だのって、囃し立てられていたこと」

「覚えてるわ。貴方は幼いながら大人並に賢く、才徳があった」

過去を切り出され、怜悧は頷く。幼少期を振り返ると、公は同年代の童に比べたら遥かに知能が高く、何事にも秀で、賞賛されていた。

「そう、大人並にね――じゃあ、大人になったら?」

どうだった。訊かれ、言葉に詰まる。公は、確かに賢く才智に溢れた神童だった。だが、それ以降にその才能は周囲の者の期待に沿わず伸びなかった。大人並の知能は子供だからこそ評価されたものであって、つまり本当に大人になれば、凡人に成り果てる。喩えば花畑のなかで早咲きの一本だけ枯れ、嘗ては集った鵯が去るように、公が冠礼を受けたあとは誰も残らなかった。

「皆、僕に興味を示さなくなった――でも、舞舞だけは違った。だって、彼女はこんな凡人との縁談を手放しで喜んでくれたんだよ……嬉しかった」

公の眸は、過ぎ去る鳥の影を追う眼差しに似て、遠くを視ていた。きっと、舞舞を思い浮かべているのだろう。知らなかった想い出話に聞き入っていると、ゆるやかな微笑みひとつで空気を切り替えた公から意味深な視線を寄越され、怜悧はかるく瞠目した。

「喩え、それが君への当てつけだとしてもね」

「当てつけ?」

当てつけ。どういう意味だろう。鷺舞は、公との成婚で何かを見せつけているつもりだったのか。怜悧としては当時、純粋に祝福を贈っていた記憶がある。両親の決定とはいえ、目出度い成婚に変わりなく、愛がなくとも、幼馴染として過ごした情がある。未来は明るいだろう。金色の鷺の刺繍が施された紅色の婚礼衣装を視て、そう安堵さえしていた。鷺舞の思惑が、わからない。怜悧が首を傾げたら、公は微笑を深めた。

「舞舞はね、君が僕を好きだって思ってたんだよ」

「は!?」

「しかも、僕が君を好きだって、ずっと誤解してる」

「わかってるなら、否定して!!?」

衝撃的発言が公の口から繰り出され、怜悧は久々につい大声を爆発させた。それから、ふ、と、雨音に遮られた鷺舞の声を思い出した。想像が正しければ、あのとき、まさか。怜悧は疑問が湧くまま震える人差し指を向け、問い掛ける。

「待って。この前、貴方が気を失ったあとに舞舞が何か言っていたのよ。くせに、しか聞き取れなかったけど、あれってもしかして……」

「あー、わかった、わかった。『何なのよ、怜悧姉様を好きなくせに』って言ったんだろうね、たぶん。舞舞の口癖なんだ。可愛いよね」

やはり、そういうことか。怜悧は膝から崩れ落ちるなり寝台端に突っ伏した。成程。大嫌いな姉への嫌がらせで好きなおとこを寝取った筈が見当違いな挙句、夫は姉に片想いしている。そんな誤解をしてしまっていたなら、鷺舞の滅茶苦茶な素行にも得心がいく。口癖になるほど不安にさせていながら、何故、弁解しないのか。怜悧はすぐに顔を上げ、公を恨みがましく睨んだ。

「阿公、貴方ね……」

「僕だって、ちゃんと否定したさ。だけど、舞舞は全然信じないんだ。君だけだよ、好きだよ、愛してるよって幾ら伝えても駄目。しかも、これまた当てつけのつもりなのか、浮気ばかりされて……お手上げだよ」

女誑しの好色な男子が吐くような科白の選択が原因で、失敗している気がする。鷺舞には嘘臭く聞こえているのだろう。語彙力を磨いてほしい。言うにも言えないで、怜悧は胸に溜まる重い息を、態とらしいくらいの深さで吐くしかできなかった。

「どうして、そんな誤解を……」

「まあ――僕は、君に特別な感情を抱いてはいるしね」

「はいはい。幼馴染として、ね」

そういう発言が誤解を招くのよ。思いはしてもさらりと聞き流し、頭を両掌で抱える。ぬるい風が頬にあたってまた公へ視線を移したら、顔を仰いだ羽扇でくちびるを隠しながら、三日月のように和めた眦をしていた。

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