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第8話 記憶

「誰か! 誰かきて……っ!」

助けを呼ぶ鷺舞の声は雨音に掻き消される。その横顔を雨水の礫が殴り、弾けた。怜悧は水滴を滴らせながらも公の横に寄り添い、膝を突く。懐から取り出した手巾で傷口を押さえた。大丈夫、急所は外れている。救かる。言い聞かせ、血が染みて滲んでくる布巾の上から両掌で圧迫止血する。体重を掛けていたら、公の片手が揺れ、鷺舞へ伸ばされた。息も絶え絶えに呻いて舞舞と何度も呼んでおり、怜悧は声を張り上げ、鷺舞を手招きする。

「舞舞! 阿公が呼んでる。来て、代わって」

「む、無理よっ、どうすればいいかわからないもの!」

「体重を乗せて、強く押さえて」

頭を抱えていた鷺舞が首を振ったが、怜悧は無理矢理に腕を引っ張って連れてくると鷺舞のぶるぶる震えまくる手指を手巾に導いて、宛てさせた。直ぐ様に立つことで有無を言わさずに退路を奪い、五歩程離れた位置から、ふたりを視る。すると、公は鷺舞の頬から顎、顔全体のかたちを確かめるように何度か撫で擦る。

「何で……」

「ちょっと、ね。嫌な予感がしたから悧悧の後を尾けてみたんだ」

「そうじゃないわ!! そうじゃない……何で」

「何で、君を庇ったのかって……そう訊きたいの?」

何で、という疑問に此処にいる経緯を最初に答えた公に鷺舞は怒鳴った。本当に知りたいのは、経緯ではなく、理由だ。夫を顧みない浮気女。鷺舞には少なからずその自覚があるのだろう。得手勝手、寡廉鮮恥。不肖な妻を何故、庇ったのか。公は察したのか、問い返してから、破顔した。

「――君が、僕の妻だからだ」

鳥が謳うように円やかな優しい声で告げてから、公は、腹の痛みを思い出したように低く呻いて眉を顰めると、瞼を伏せた。がくり、力が抜けた腕が水溜まりに沈む。視ていた怜悧は肝が冷えたが、直に浅い呼吸音が響き、脱力する。気を失ったのだろう。

「何なのよ、……を、……くせに」

鷺舞と公の頬を、水滴が打った。きり、と歯を軋ませる鷺舞が忌々しげに紡いでいる後半が、雨音が邪魔して、聞き取れない。わからない――ど、と懐かしい感覚が、怜悧を襲う。そうだ、生きている人間のことは、いつもわからない。誰だって、心までは解剖できないからだ。屍体は雄弁で、嘘を吐かない。生きている人間のほうが余程に恐ろしい。そんな、前世から漠然と抱いていた、こわいというきもちがふと蘇り、頭痛がした。まるで、頭蓋に亀裂が走っていくような、経験のない痛みだ。

「俺、俺っ、……そんなつもりはなくて」

ぱしゃり、水溜まりが踏まれ、赤黒く濁る水が跳ねた。波紋の真中にある履物から視線を上へ遣ったら、行思が鮮血に塗れた刀身を慄かせていた。がたがた、小刻みに身慄いする行思の眸の芯が光彩を喪っていくにつれて、薄ら寒くなる。動かなければいけない直感が働くのに、頭痛が酷くなるばかりで、額に掌を宛てた。

「舞舞は……そうだ、言う通りだ、関係ない。ぜんぶ、俺が勝手に仕出かしたんだ……」

「阿思?」

自嘲する乾いたわらいをこぼしたあとに、二足三足と、蹌踉めいた行思は後退り、上げた刃縁をみずからの頸に宛てがう。鷺舞が長く濃い睫毛を上げ、呼んだときには遅かった。

「ごめんな」

まるでその一瞬だけ天地から他の音が消失したように、波紋に滴り落ちる一粒の水の瞬きにも似た静かな声が、はっきり鼓膜に響いた。瞬間、行思は頸を掻き切った。血が噴き出し、紅い飛沫を撒き散らしながら崩れおちる行思のからだは横たわる。鷺舞は、もう叫ばなかった。蒼ざめたくちびるは微動打にせず、ただ、眸がぐるりとまわったあとに、気絶した。公の上に重なり、倒れる。

怜悧は、行思から視線を逸らせずにいた。距離や雨粒はこの眼を隔てられない。一太刀で裂かれた、頸の切創。なんて、あまりにも躊躇いのない、きれいな切り口――ずきり、頭痛が続くなか、怜悧の瞼から熱いみずたまが溢れた。行思は途中こそ鷺舞を刺そうとしたが、最期は自決により愛するおんなを護ったのだと、それだけは、確かな真実だと、わかったから。

いつの間に、隣にいたのか。宵鷹が眦に親指を添わせ、涙を拭う。こんな惨状を目の当たりにしても顔色ひとつ変えないのに、その指先だけは、どうして優しいのか。

ちぐはぐな表情と仕種に言葉を失う。

「……君はよく泣くな」

そう言われたとき、脳髄が心臓みたいにどくりと鳴り、頭が割れそうな酷い激痛がした――卵の心象が浮かぶ。それは思い出し切れていない前世の記憶なのだろうか。そのひとつの卵が、記憶の殻が、破られた。溢れ出した記憶が断片的に頭を駆け巡り、怜悧は強く瞼を瞑った。宵鷹の声と遠い記憶の中の誰かの声が、重なる――


――


「羽鳥」

記憶の海のなかで呼ばれ、不思議と聞き馴染みがあり、怜悧はすぐに納得した。羽鳥。羽鳥恵理ハトリエリ。そういえば、前世はそんな名前だった。鉤形で銀色の解剖台と屍体が眼前にあり、前世の怜悧、恵理の片手指には、解剖刀が握られている。涙の粒が眦に浮かび、顎をしゃくった。ああ、前世も解剖の度に感情移入してよく泣いていた。何十、何百人もの屍体に触れていながら、死に敏感で、ずっと、慣れなかった。呼ばれたほうを向くと、宵鷹と瓜二つの青年がいて、こちらを凝視していた。驚いた。そっくりだとか似ているだとかそういう次元ではなく、宵鷹そのものだ。 誰――

「また泣いてるのか? 本当に、君はよく泣くな」

言われてから記憶の荒波が押し寄せてくる。解剖室での解剖、論議から談話室での珈琲を手にした語らいから、居酒屋で呑んでふたりで支えあいながら帰った日まで、彼と共に過ごした時間が、一場面一場面、脳裏に現れ、継ぎ接ぎの記憶が纏まる。思いだした。彼は、鷹野朔タカノサク。研究機関の同班で働く、前世の同僚。そして――私の、好きだったひと。


――


「鳥怜悧?」

どうして、忘れていたのだろう。思いだしたと同時に、怜悧がみひらいた眸からは一層、涙がはらはらと迸る。瞼裏を灼きそうなくらい熱い涙は雨水と交ざりあって、温く、幾筋も顎先まで伝う。とまらないのに、意識が、遠退きはじめた。涙の膜で揺らいだ視界が閉じていく。たった今取り戻した、いちばん大切な記憶のなかに在る聞き間違えようがない声と同じ声が鼓膜に満ちながら、怜悧は気を失った。

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