浮気現場、否、浮気の浮気現場に現れた行思はぶつぶつ恨み言を呟きながら、宵鷹と鷺舞に迫る。猿芝居だが、何も知らぬ鷺舞だけ気付きもしないので、演技ではない素直な反応だ。故に、騙されてくれたのかもしれない。この囮作戦は囮を狙った瞬間を押さえ、言い逃れできぬ状況にして漸く成功と言える。つまり殺人未遂の現場を上手くつくり出す為の囮だ。襲わせたい。もう一押し。息を殺して視ていると宵鷹は行思にも怜悧にも気付いているらしく、視線が搗ち合う。怜悧は頷き、見護った。まだ、あと少し。行思を引き寄せてほしい。
「殿下……」
ところが、一段と語尾を高ぶらせた、鷺舞の声を聞く。密着して尚無抵抗な宵鷹の態度を、肯定と捉えたのか。鷺舞は瞼を伏せてくちびるをかるく突き出した表情で、宵鷹にくちづけを求めはじめた――どうしてそうなる。待って、だめ。怜悧は身を延ばして、前のめりになる。何が嫌なのか考えるのも如何でも良いくらい嫌で嫌で、実際は三秒に満たないのに、怜悧の体感では時の流れが異常になった。ふたりの顔と顔が近づいていく速さが、厭に緩慢なせかいが、片手を伸ばしたとき、元に戻る。煽られた行思が怒号を放つや否や背後から飛び掛かり、宵鷹の頸に掴み掛かったからだ。
「舞舞から離れろ!」
「え、阿思!?」
驚愕した鷺舞が今更気付いた行思を呼ぶなか、宵鷹は、徐に前に倒した頭を勢いに乗せるがまま再度上げると、行思の顔面に頭突きをした。行思が蹌踉めけば空かさず手首を掴み、前方へ傾いた脚を払い様に背中から地面へ投げつける。背負い投げだ。一連の動作に無駄はなく、鍛えられた膂力と武芸の才能が窺え、視ていた怜悧は、ぽっかり口をひらく。一朝一夕の鍛錬では得られない、身の熟し。
「これが引っ掻き傷か」
ぐい、と行思の袂を捲り、宵鷹が確認する。其処には、予想通り大小様々な引っ掻き傷が残されていた。確信を深めたのは、手指に残る擦過傷。縄を使用したときに、摩擦で皮膚が剥がれたのだろう。
「周子涵、山謨業、管皓轩。そして、何潔。この四人を殺したのは、お前だな? 莫行思」
「ち、違う!」
断定した問い掛けに、行思が宵鷹の手指を振り払った。立ち上がり、飛び退き、違う違うと、何度も首を振って繰り返し無実を主張する行思の否定は譫言じみていて、異様で、解り易く動揺していた。
「四人? どういうこと……何潔だけではないの?」
そろり、行思の傍らにからだを寄せた鷺舞が、訊いた。その問いが引っ掛かり、怜悧の片眉が跳ねる。これは、好機。出番だ。此処から、違和感を突き崩すしかない。背筋を伸ばし、堂々とした足取りで、行く先をまっすぐ確り見据え、歩きだす。夜の闇に潜めていたすがたを、月あかりの下に晒した。
「何潔だけ? 舞舞、それはつまり何潔のことだけなら、知っていたということ?」
「怜悧姉様……!どうして……どうなってるの……」
「質問しているのは、私よ。答えて」
違和感を指摘したら、鷺舞はこぼれ落ちそうなくらいに双眸を瞠り、しかし、すぐ宵鷹と怜悧を交互に視てから思惑自体察したのか、みずからの失言に気付いたのか。怜悧が簡潔に返答を催促すると、かんばせの上半分から血の気を喪わせた。
「……らない、知らない!何も知らないわ!何なのよ、阿思が犯人なんでしょう?だったら早く如何にかすれば良いじゃない……!こんな人殺し、私には関係ない!」
ちいさな母音から始まった鷺舞の否定は、徐々に高々と勢いを増し激しく捲し立て、夜空に響き渡り、谺する。鷺舞はみずから近づいたくせに、行思を突き飛ばした。一方で、怜悧は睫毛を伏せ、推理する。
幾ら否定しようと、鷺舞が潔の殺害のみ知っていたのは明白だ。ずっと潔が何故殺されたのか、理由だけ不明瞭だったが、いまの反応で、大方の予想がついた。鷺舞と行思は、逢引の現場を潔に視られ、咄嗟に焦った行思が頸を絞め、殺したのではないだろうか。ふたりで秘密を共有したあたり、その線が高い。何より、他の被害者、武官三人の頸には縄の痕、索条痕が残っていたが、潔は手の痕、扼痕だった。潔だけは索状物を用いず、手指で殺した。連続殺人の中で唯一衝動的な殺害と考えるのが妥当だろう。だが鷺舞が浮気三昧なのは、鳥家どころか郭家にも知れ渡っている事実。視られたからといって、今更、口封じする必要はなかっただろうに。
「舞舞……そんな……俺は、お前の為に!」
鵺みたいに嗄れた声が行思から漏れ、怜悧は、はっと、瞠目する。行思が、佩く刀を抜いていた。月光を浴び、蒼白く鈍いひかりでぎらついた鋒が鷺舞へ向いている。鷺舞の保身に走った一言一句は行思にとっては残酷で、裏切りだったのだ。行き過ぎた愛が殺意に掏りかわる。このままでは鷺舞が危ない。宵鷹が舌を打つ音がして、怜悧が駆け寄ろうした瞬間――視界の端を、影が動く。
その影は此の場の誰よりも速く、鷺舞と行思のあいだに飛びだし、刃に突き刺された。
「……阿公?」
誰が、身を挺して鷺舞を庇ったのか。見知った深灰色の羽扇が地に転がり、そのからだが、倒れたとき。怜悧は理解したと同時に、名前を呼んだ。眼が合ったら、公は苦痛に歪んだ表情で、けれども、何処か安堵したように口端にだけ、薄ら笑みを浮かべた。どうして、此処に。訊いている場合ではない。一拍遅れて、鷺舞の絶叫が、空気を劈く。悲鳴が罅をいれたように澄んでいた夜空に黒々とした暗雲が押し寄せ、奇しくも、唐突に、驟雨が降りはじめた。