ひとが、ひとを名前抜きで説明するには、一体如何程のことばが必要だろうか。遺体安置所から移動した一軒の茶屋にて、怜悧は懸命に言葉を模索していた。眼の前の卓には扁桃と棗が盛られた皿と、柑橘の匂いを漂わせる青茶が宵鷹の計らいにより用意されているが、口にするどころか目にもしていない。導き出した真実をそのまま述べるのなら、連続死事件の犯人は鷺舞の愛人の武官で間違いなかった。付け加えて言うのであれば侍女殺しも同一犯。動機もある。
「……特徴は? 名前がわからなければ、どういう者か可能な限り教えてくれ。私が知っているかもしれない」
嘲笑を孕んでいない、真摯な語調。向かいに座している宵鷹の眼差しはひかりを宿したまま些かの揺らぎもなくまっすぐで、不興を買ったかもしれない杞憂が晴れた。呆れられていないのなら、やはり、言葉を尽くしたい。特徴を伝えたいが、際立って美しいだとか醜いだとか、印象がない。あれだけひとに夥しい数の爪痕を刻ませていながら、こころは引っ掻けもしない極平凡な武官だ。表現に迷い、怜悧は右手指で眉間を揉む。
「よく鳥家に出入りしている武官です。その、私の妹、鷺舞と親しく……」
「彼女の愛人か」
右手は眉間、左手は広げて前方に出し、久々に再会した知人の名を忘れたひと宛らに、ほら、確かあのひとよ、あのひと、と言わん許りの姿勢で説明していた怜悧は、途中での突っ込み同然の相槌に硬直した。愛人などど、皇族の御前で避けていた単語をあっさり言い放たれると気不味い。咳払いしてから、頷く。
「ご存知だったのですね」
「ああ。確か、名は
「いいえ、正しくは四人です」
莫行思。彼、そんな名前だったのね。今更覚えた語感を反芻し、怜悧は左右に首を振った。確信に満ちた声で、判然と訂正した上で、尚且つ証言を続けていく。
「実は、先日の侍女殺しも莫行思の犯行なのです。私が無実を証明したとき、腕を隠していましたから。恐らく証拠が、引っ掻き傷が残っているのでしょう」
「何故、君はその場で指摘しなかったんだ」
「莫行思が、余りにいつも通りだったからです」
当然誰もが抱く疑問が宵鷹の口から出るのは、予想通りだった。いつもどおり。この六文字、一語を強調して、怜悧は濁りない響きで言い切る。
「どういうことだ?」
「人殺しをした人間というのは、正常であれば何処かに動揺が出るものなのです。けれど、あのとき。莫行思は腕を隠しはしましたが、様子は可笑しくなかった」
前世で人殺しを幾人も視てきた。犯罪心理学も学んだ。だからこそ、怜悧には、わかる。通常、初犯の人間なら平静を装おうとしても何かしら綻びがうまれる。だが、先日の行思は普段と全然変わりなく、鷺舞に寄り添い、落ち着いていた。腕を咄嗟に隠したのも、或る意味では動揺ではなく、冷静な殺害の隠蔽。可笑しくないのが、可笑しかった。怜悧があのときに視ぬ振りをしたのは、余裕が無かったのも一因だが、余罪を追及したい心算があったからだ。
「ひとの死と隠蔽に慣れ過ぎている――異常なんです。だから、余罪を疑い、泳がせました」
「その余罪が、これか」
「はい。絞殺された三人に、私は見覚えがありました。その、皆、鷺舞の……」
「成程。動機もあるな」
視線を交わらせ、首肯する。御相手だとか愛人だとかの発言を躊躇するあいだから、宵鷹が頷いたので、怜悧は瞬いた。説明の手間が省けるくらい思考回路が俊敏で、鷺舞の愛人である三人を嫉妬で殺害した行思の動機まで理解する、あたまとこころの、柔軟さ。尊敬に値する。なにも云わなくたってわかってくれる、信じてくれる。根拠のない安心感を、怜悧は宵鷹に抱きはじめていた。出逢ったばかりなのに、随分、口と舌がずっと滑らかに動いている。
「ですが、これは間接証拠と私の証言という人的証拠、動機のみで成り立つ結論です。このまま罪人として捕縛したとして、言い逃れされるかもしれません」
「決定打としては、弱いか……」
懸念を語り合うと、宵鷹が徐に扁桃のひとつを摘まみ、指腹で弄る。まるで、盤上の駒を眺めるような思案顔に怜悧も釣られて表情を険しくする中、思い出したように青茶をひとくち含んだ。
「聞いたかい? 鳥家の侍女殺し騒動」
「知ってるぞ。まだ犯人が捕まってないんだって?」
「そうそう、物騒だねえ。何でも、聞くところによると怪しいのは……」
不意に、周りの卓で盛り上がる噂話が耳に入る。やはり仕方がなかったとはいえ、公衆の面前で姉妹喧嘩に近い応酬で無実を訴えたので、知らない者はいないだろう。鳥家の長女が此処にいることは疎か、何なら第二皇子、高貴な身分の御方がいることにも気付かず、好き勝手に犯人の予想を飛び交わせては、忍び笑いして話題として騒動を消費し、楽しんでいた。怜悧の推理も現時点ではこういった憶測と変わりはないだろう。侍女殺しの件は兎も角余罪である三人の武官殺しまで認めさせるには、今ひとつ証拠不足に感じる。
「これは、使えるかもしれないな」
犯人の莫行思に自白でも促せない限り、難しい。怜悧が諦念に至り掛けて溜息を吐いたとき、宵鷹の三白眼が、きらりとした星に似た光彩を覗かせた。
「噂を流そう。黄宵鷹が鳥鷺舞に懸想している、と」
「……はい?」
青茶を噴き出し掛けて、寸でのところで喉に流し込む。けへんけへん噎せてしまい、生理的な涙が滲んでくる。いま、殿下は何て言ったのかしら。小さな声で、大きなとんでもない提案をされたような。怜悧が鼓膜を疑って問い返したが、巫山戯ているとは程遠い、笑いの気配も微塵も窺えない真顔で、宵鷹は扁桃を口に放っていた。かるく咀嚼してから、こくり、嚥下している。表情から意図が読み取れない。
「兄上にも協力を仰ぐ。噂を広めるには、適任だしな」
兄上。第二皇子の宵鷹の実兄となると、皇太子。確か、名は
「殿下……」
「耳を貸してくれ」
声を潜め、宵鷹が手招きする。怜悧は今更人目を憚って梟のように首だけ曲げて周りを視回してから、近寄り、おとなしく耳を寄せた。その耳を両掌で覆うかたちで、宵鷹は密談を続行した。いいか、これは囮作戦だと――意を決した低音で囁かれる。如何にもお堅く冷静沈着な面構えをしているのに想定外な作戦内容だった。意外と遊び心があって、大胆なひとなのかもしれない。怜悧は心象を改め、固唾を呑んだ。