「お顔を上げてください。この鳥怜悧、殿下のお望みとあらば、謹んでお受け致します!」
とは、言ったものの。連続死事件の検屍は他殺の疑いがあるのなら、此れ以上の被害者を生み出さない為の予防、真相究明の大いなる手助けに成り得る、重要な役割だ。本来は経験豊富な検屍官、又は医官の知識と、観察眼が必要になる。それを、みずから頭を下げてまで、こんな小娘に頼むなんて。変わったひと。そうおもいながら、怜悧は暗い回廊で前を歩いている宵鷹の背を視ていた。何故こんな陰気臭くてひかりを感じない回廊にいるのかというと、あれから、案内されるがままに遺体安置所へ向かっており、此処を通り抜けた先が目的地だからだ。
「ど、どうかされましたか?」
くるり、宵鷹が振り返り、怜悧は立ちどまる。視過ぎて不快がられたかもしれない。問い掛けたら、宵鷹は予想に反して視線には気付いていないのか咎めず、すこし顎を引き、暗闇で鈍くひかるまなこのみでゆるく姿かたちをなぞり、凝視してくる。
「消えたかと」
消えるって何だろう。いなくなったのかと、おもったのだろうか。検屍を放棄して逃げる人間とおもわれたなら心外だが。首を傾げていると、いや、と小声というより略口のなかで呟いた宵鷹がみずからのくちびるを覆い、視線を伏せた。よく、わからない。よくわからないが、怜悧はひとまず片掌を胸部に宛て、言い切る。
「此処におります」
「……そうだな。すまない」
僅かにだが、宵鷹の眉間が弛緩した。暗がりでもわかる相変わらずの無表情は読めないながら、納得したのなら良しとして、怜悧は頷いた。無言がいけなかったのかもしれない。気安く会話を交わすのは無礼だと己を弁えて口を慎んでいたが、逆効果で、沈黙が宵鷹の気に障った可能性がある。そう解釈した怜悧は、また歩み出すなり言葉を振った。
「三人のご遺体ですが、他の検屍官の見解は?」
「皆、縊死。自害だという。だが、状況による先入観が死因を判断させたものだと、私は考えている」
「状況、ですか」
自他殺の論争が起こるのは、度々ある。この言い口では宵鷹は他殺の線も疑っており、周囲の者は自害一択で、決め付けているのだろう。決め付ける理由もある筈で、怜悧が促してから黙すると宵鷹は三人の屍体、連続死の詳細を語る。亡くなったのは
「首を吊った状態で発見されている」
「成程。確証バイアスね……」
もし縊死偽装なら、怜悧の前世でも誤認検視が起こった事例は幾つもある。今世にはそぐわない横文字交じりの言葉を、怜悧はつい小さく呟いた。確証バイアスとは、人間は先入観や仮説が既にあると、その持論を肯定する情報にのみ思考が囚われて反証する判断材料を見逃し、間違った答えを正当化してしまう状態のことだ。一種の認知の歪みである。専門的な訓練を受けている法医学者以外なら特に生じ易く、影響もおおきかった。先入観は如何なるときも持たず、屍体は素直に観察するべきだ。
「か……?」
「あ、いえ、何でもありません!お気になさらず」
聞き返され、怜悧は、ぶんぶん首を勢い良く振りまくり、空笑いした。ほほほ、なんて、出したことない声をぎこちなく上げ、宵鷹から怪訝な眼差しを受ける。視線を逸らしたくて無意味に上を視ていたら、急停止した宵鷹の背中に危うく打つかり掛けて、一歩、足をさげた。どうやら、到着したらしい。
「着いたぞ」
重厚な扉が開かれると、冷たさと生温さが共存している空気のふわりとした波が、怜悧の髪を気味悪く撫でた。湿っぽい匂いが鼻腔にはいり込んでくる。怜悧は役目を思い出したように眦に力を入れ、こころを引き締めた。房の中央、三つ並んでいる筵の上に丸裸で寝かせられた屍体へ宵鷹とふたりで近寄り、踞んだ。
「……可笑しい」
三人を順に検屍する。三人共、くっきり縄の痕が頸にあった。だが、首吊りならば頸動脈洞が圧迫され、反射で血圧が低下してから数秒で意識喪失する筈が、苦しんだ痕がある。吉川線だ。怜悧は左へ首を傾げて、更なる手掛かりを得るべく屍体の全体を視ていく。瞼を親指で開き、溢血点を発見する。それから、足先を視て今度は右へ首を傾げた。
「やはり、首吊りではないわ」
「何故わかる?」
「ひとは死ぬと心臓が止まり、血の巡りも、なくなる。そうなると、どうなると思います?」
「……巡らないなら、沈むだけ、か」
問い掛けに問い掛けで返して得た答えは正しく、怜悧はひとつ頷いてから説明を続けた。
「そう、血は重力により沈みます」
三人の内、右端に位置する皓轩の屍体の左胸部をさした人差し指を、循環しない血液の沈降を表現するように、下へ向ける。
「沈んだ血は皮膚から透け、視認できるようになる」
つまり、死斑。死んだひとの皮膚に現れる赤紫や紫青の斑点を、怜悧は語っていた。死んだときにからだの下側となった部分に、死斑は必ず現れる。仰臥位での死は、背面部に。首吊りでの死は、下半身に。酷い痣のように広がるのだ。それなのに、三人の屍体は下半身に死斑は存在しなかった。
「確かに三人共、足に血は溜まっていないな」
「何より首に爪の痕があります。絞殺かと……あれ?」
鑑別を終えてから三人の人相を改めて視たら、怜悧は、何処か見覚えがある気がした。怜悧が男のひとと接する機会は少ない。鳥家に雑務を押しつけられたり、禁足で行動を制限されたりで、主に自由に外に出ていないからだった。必然と、知るのは鳥家に出入りする鷺舞の愛人くらいのものだから、この三人を知る筈は――其処まで思考したところで、怜悧は殺害されたのは武官ばかりの事実に気付いたと同時に、いまは亡き三人が、それぞれ鷺舞と戯れ合っている情景が、記憶に浮かぶ。そうだ、彼等は鷺舞の愛人と噂されていた。
なにせ鷺舞ときたら公という夫がいながら浮気三昧で、そういう存在は複数いた。複数いる筈なのに侍女殺しの冤罪を擦り付けられた昨日、傍らにいたあの武官しか、此処数日間は見掛けていない。安直な結論だ。単純で、推理とも呼べない。初歩的な検屍なのに確証バイアスが働いたことで惑わされていただけなのだから、真相さえ陳腐だとして意外性はない。一層のこと、清々しい。
「わかっていた。だから、見逃した……」
じぶんにしか聞こえない声量で口に出すことで、怜悧は情報を纏め、整理していく。
「どうした?」
「……犯人に心当たりがあります」
「本当か」
武官、鷺舞、吉川線、絞殺、偽装。一片一片の違和感が暴れまわり、ひとつに繋がる。怜悧は脳裏で素早く状況証拠を揃えて確信を呟きはしたが、どうしても全然思い出せない、わからないことがひとつだけあり、でも、ううん、と、腕を組んで何回も首を傾げては、唸った。すると、宵鷹に双肩をかるく掴まれる。
「誰なんだ?」
「それが……わかっているのに、わからないんです」
「どういう意味だ」
「本当に困ったわ――名前が、わからないのよ」
犯人の。付加した声に、空気が凍った。予想した疑問符が多分に付く一音は、響いてこない。叱責を覚悟していた怜悧としては逆におそろしく、怖ず怖ずと宵鷹を薄目で確かめる。ときには豆鉄砲を食らったら鷹もこんな風になるだろうか。想像してしまうくらい瞬いた三白眼と、ぽっかりひらいた形の良いくちを視た。申し訳ないやら可笑しいやらで、怜悧は眉を八の字に下げ、わらった。