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第3話 協力

紅紐を絡めた小さな手指、からからと無邪気に笑う声、蒼く澄んだ晴天の空。ああ、これは過去の夢だ。怜悧は瞬時に悟り、情景を俯瞰した。幼い鷺舞と公と怜悧は、庭園で綾取りで遊んでいる。いつしか勝負に発展して、怜悧が左右の手に紐を巻きつけてから両手の中指で紐を取り合い、吊り橋をつくれば、公が紐を両手で摘まみ、下から掬い上げるなり指をひらき、川をつくる。鷺舞は煌々した視線でふたりを交互に視て追っていた。しかし怜悧が両手小指で紐を取ろうとしたとき、顔を、手を、影が覆った。見上げたら、純白の梟が迫っていた。梟は翼、初列風切羽の外縁部にある鋸歯状の構造によって、羽音がない。音なく現れ、金色の虹彩に睨まれて怜悧は動けなくなった。羽毛に埋もれている黒い嘴が、額を、噛んでくる。吃驚して、痛くて、泣いた。


――


ば、と怜悧はまなこを開くと同時に、上体を起こした。脳の半分には悪夢の余韻という泥が纏わりついている。けれど、あの日を振り返れるくらいには機能していて、皮肉だ。この国では、鳥が、神聖視されている。歴代の皇帝も宮廷に棲みつく鷹が選んでおり、それに倣って、鳥に命運を委ねる良家も幾つかある。鳥家もそのひとつだった。家督を継ぐに相応しい一族で最も智のある者を代々、白梟が選択するのだ。だから、本来ならば鳥家を継ぐ長女でありながら白梟に懐かれるどころか噛まれた怜悧は、あの瞬間から智のない愚者の烙印を押された。泣き声で駆けつけた実の父、易知の、失望した眼差しは一生忘れられない。あのときから虐げられていたことに気付いた現在となっては、尚更だ。

「此処は……?私は、確か……」

懐古に蓋をして怜悧は周りを視る。知らない家だった。遠い過去に馳せていた思考を直近の記憶に寄せていく。そうだ、殺人の疑惑を晴らしたあとに鳥家に戻るなり、易知に禁足を強いられるまま薪小屋へ閉じこめられた。わけがわからない流れで易知に禁足を言い渡されるのは、珍しくない。日常茶飯事だったが、あの日は夕餉もなく、翌日の朝餉さえ侍女は運ばなかった。途轍もなく空腹で気持ちが悪くなり、急に視界が歪み――其処までしか、記憶がない。つまり、気を失ったのだろう。いつもなら何潔が鷺舞の目を盗んで饅頭でも差し入れてくれたものだったが、何潔は、もういない。

「小潔……」

沁み沁みと死を実感して、目頭が熱くなる。首を振り、寝台から立ち上がる。取り敢えず現状の確認をしたい。誰かいないか声を張り上げようとした矢先で、ぐらり、三半規管が狂った。しまった、眩暈が。

「君は、何度倒れるつもりなんだ?」

倒れることを覚悟して瞼を瞑ったときに、うまれてくるずっと前から、聞いた覚えがあるような深い声が狂った三半規管を熱くした。強く暖かい感触が腰と脚に回り、引っ繰り返る筈だったからだが宙に浮いた感覚を得て、すぐ、浮いているのではなく誰かに姫抱きされているのだと、わかった。開いたひとみに映ったのは、鷹のようなすこし吊り目の三白眼の青年だ。鼻筋の通った顔立ちで、綺麗に纏め上げた長い髪に冠を被せており、黄袍がよく似合っている。何故だろう。とても、懐かしい。

「医師が低栄養だと言っていた。座っていろ」

ぱっちりと眸を開いたまま視て首を傾げていたら寝台にからだを下ろされ、怜悧は眩暈による不快感が遠退いていくにつれ、我に返った。

「貴方は……」

「殿下!お連れの方、目が覚めたんですね」

誰なのか問おうとしたところで、青年の背後から遅れて追い掛けてきた背の低い老人が、答えと同意義な呼称を発したものだから、怜悧は口をぽっかり開いた。殿下。つまり、この御方は。

「申し遅れた、私の名は黄宵鷹。姓は黄、名は宵鷹だ。鳥家を訪ねたら君が倒れていたので、勝手ながら医家に運ばせてもらった」

黄宵鷹。その名は誰もが知っている。やはり、この国の第二皇子。怜悧はまた飛び上がらん許りの勢いで立ち、頭を垂れながら拱手した。

「失礼しました!私は鳥怜悧。姓は鳥、名は怜悧です。この度は殿下のお手を煩わせて申し訳……」

詫びる途中、ぐう、と腹の虫が鳴り、怜悧は赤面した。気不味過ぎる沈黙が流れる。顔を上げられないでいると、宵鷹に双肩を押され、また寝台へ座らされた。

「あの……本当に申し訳御座いません」

謝罪を聞いているのか疑わしい程に気にした素振りなど全く無く、宵鷹は無言で背後でからだを左右へそわそわ揺らしている落ち着きがない老人へ、片掌を差し出す。老人は持っていた汁物が入った碗と匙をそこへ乗せた。そして、それはそのまま宵鷹から怜悧に渡され、老人が穏やかな声で語り掛ける。

「大したものじゃないが、お食べなさい」

「とんでもない!有り難う御座います」

察するに、老人は医家の者、医師だろう。診察は疎か、食事の用意までしてくれて感謝しかない。怜悧は何度か小さく礼をして碗を視た。野草が入った汁物のほこほことした湯気の匂いを嗅いでいたら、生唾が溢れてくる。ゆっくり匙で掬い、ひとくちふたくち食べると温かさが空の胃に染み渡る。汁を啜り、腹が満たされるあいだに確り頭が回るようにもなるもので、情報が整理できた。すぐ考えたのは、前世について、だ。法医学者であったということ、それに伴う法医学の知識は憶えているが、総ての記憶が蘇ったわけではなさそうだった。空虚感と焦燥感があり、なにか、欠けている。そんな気がする。じぶんを殺した相手が誰なのかさえ、思い出せない。

「失礼ながら殿下は何故、我が鳥家へ?」

いや、今は前世ではなく今世のことを考えるべきだわ。そう思考を切り替え、怜悧は宵鷹に問い掛けた。正確に訊ねるのなら鳥家は鳥家でも薪小屋にまで入らなければ怜悧を発見できないので、細かく突き詰めたかったが、割愛した。気を遣ったのか、医師が視界の端で家から出ていく後ろすがたが視える。

「君に用があったんだ」

「私にですか?それは一体、どのような……」

まさかの怜悧個人を訪ねにきていたとの返答に吃驚したが、ならば、薪小屋へ足を踏み入れたのも頷けると、敢えて割愛していた疑問が解消される。用とは何だろう。この黄宵鷹というひと、第二皇子について怜悧が知っている情報は少ない。観察使としては真面目に従事しており、民や帝の憂いを晴らしているのに、冷たいひとだとよく噂をされている印象はある。余談だが、実際、こうして対面した怜悧としては、表情の乏しさと目つきの悪さで誤解され、損しているだけにおもえた。

「君は、検屍の心得があるな」

「いえ、私は」

「謙遜はいい。昨日の都での推理は見事だった。その知識は、何処で学んだものだ?」

「何処で、というか、その……」

咄嗟に否定をするつもりが遮られ、質問が降り掛かる。謙遜したつもりはない。第二皇子に検屍の心得があると断言できる自信家など、そう存在しないだろう。しかも観察使というと、前世の記憶がある怜悧としては警察と同種だという印象が強い。元法医学者のくせに、白黒の巡回車が通ったら何にも罪を犯していないのに緊張する感覚が邪魔して、上手く言葉を紡げない。前世で学んだと言うわけにもいくまい。単純に説明が難しく、怜悧は、視線を彷徨わせた。

「話し難いのならば、言及はしない。ただ、良かったら私に協力してくれないか」

「協力?」

「ああ。――鳥怜悧。君に、ある三人の検屍をお願いしたい」

言いながら、第二皇子である宵鷹が拱手礼しようとして怜悧は驚愕から碗を落とした。高貴な身分の御方に、そのようなことをさせてはいけない。立ち上がり様に、その腕を下方から押しあげるように掴み、とめた。

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