巻ノ百十四 島津忠恒
幸村主従は熊本城から今度は薩摩に向かっていた。この時十勇士達は幸村に問うことがあた。
「今の島津家ですが」
「どうもかつてとは違っているそうですな」
「加藤殿が言われていましたし」
「我等も天下のことを調べて聞いておりました」
「うむ、拙者もじゃ」
幸村も応える、一行は一路真田の忍道を通りつつ薩摩を目指している。
「島津家のことはな」
「もう四兄弟の頃ではなく」
「代替わりしてですな」
「今の島津公けが治めている」
「そうなっておられますな」
「随分と色々あったらしいな」
今の主である忠恒が万全に治める様になるまで、というのだ。
「実の叔父上や父君とも争われ」
「そうしてとのことですな」
「今の地位を固められた」
「それが今の島津家」
「そう言われていますな」
「うむ」
その通りだとだ、幸村はまた答えた。
「拙者達が赴いた時とは違う」
「ですな、ではです」
「今からその薩摩に入りです」
「そして今の島津家の主殿と御会いしましょう」
「是非」
「そうしようぞ」
こう話してだ、一行は島津家の領地である薩摩に入った。幸村は薩摩に入ると十勇士達にあらためて言った。
「さて、薩摩じゃが」
「はい、迂闊なことをすれば」
「怪しまれますな」
「些細なことで」
「それこそ喋り方一つで」
「我等は何度か入っておるが」
関ケ原の後も天下の動静を探る中でだ、そうしてきたのだ。
「しかしな」
「それでもですな」
「油断はならぬ」
「それは決してですな」
「そうじゃ」
その通りだというのだ。
「我等の目的は文を届けること」
「今の島津公に」
「それが為にですな」
「迂闊なことは注意し」
「怪しまれぬ様にして」
「そうしてですな」
「先に進んでいきましょうぞ」
十勇士達も頷く、そうして薩摩を進むが彼等の見事な変装と薩摩の言葉によって。
誰も彼等を怪しまなかった、主に忍道を通っていたからでもあるがそれと共に夜に多く歩いていたにも功を奏した。
それでだ、島津家の城である鹿児島城またの名を鶴丸城が見える場所まで来た。
そしてその城を見てだ、十勇士達はこんなことを言った。
「いや、何度観てもです」
「天守がなく然程大きくなく」
「目立たぬ城ですな」
「どうにも」
「うむ、小さな城じゃ」
実にとだ、幸村も言う。
「七十何万石の城としてはな」
「全くですな」
「いや、どうにも」
「見れば見る程小さい」
「大坂や江戸の城とは比べものになりませぬ」
「安土や小田原とも」
そうした巨大な城達と比べれば驚く程小さいというのだ。
「いや、実に」
「小さくです」
「驚く程です」
「最初に観た時はまことかと思いました」
「あれが七十七万石の城かと」
「まことに」
「武田家を思い出すのう」
幸村はまだ元服するかしないかの幼い頃も思い出した、その時に仕えていた真田家のことを。
「武田家は大きな城を持っていなかった」
「はい、城は築かれていましたが」
「それでもですな」
「本城はなく館で」
「実に小さき場所だったとか」
「そうであった、人は城であり石垣であり堀でな」
国にいる者達こそがというのだ。
「城を築いて守るよりもな」
「人がどうか」
「そうしたお考えでしたな」
「あの信玄公は」
「そうでしたな」
「拙者は残念ながら殆ど覚えていない」
信玄のことはというのだ。
「拙者が幼い頃に亡くなられた」
「左様でしたな」
「殿がご幼少の頃ですか」
「その頃にお亡くなりになられ」
「殿もですな」
「殆ど覚えれおられませぬな」
「四郎様は覚えておる」
武田家の次の主であり最後の主となった彼はというのだ。
「よき方であられ」
「主としても将としても」
「そうでしたな」
「殿がお話されていますな」
「時折」
「暗愚どころかな」
巷でそう言う者もいるがというのだ。
「しかし実はな」
「違いますな」
「それは」
「実に優れた方」
「立派であられたと」
「そうであった」
実にというのだ。
「滅んだから言われているだけでな」
「実は、ですな」
「言われる様な方ではない」
「そうなのですな」
「そうじゃ、右府殿が凄過ぎた」
信長、彼がというのだ。
「四郎様も退くに退けず」
「鉄砲の前に敗れ」
「そうしてでしたな」
「遂には追い詰められ」
「滅んでしまわれたのですな」
「そうであった、戦も政も暗愚ではなかった」
決して、というのだ。
「むしろその逆でな」
「非常に聡明であられ」
「劣勢の中でも奮起されていて」
「大殿が決して見捨てなかった」
「そうでしたな」
「真田の家は生き残ることを家訓としておる」
何といってもというのだ。
「だからな」
「いざとなればですか」
「四郎様が駄目と見ると」
「その時は、だったのですか」
「情はあってもそれにこだわっていて家が滅ぶなら」
即ち真田の家がというのだ。
「父上はそうされていた、しかしな」
「大殿はですな」
「何としてもでしたな」
「四郎様を見限らず」
「あくまでお護りしようとした」
「そうでしたな」
「うむ、若し四郎様が巷で言われている様な方なら」
暗愚な者ならというのだ、勝頼が。
「決してそうはされなかった」
「どうにもですな」
「それはされずに」
「最後の最後まで四郎様をお護りしようとした」
「上田にお迎えして」
「織田の大軍を前にしても」
「そう決意されたからには必ずお護りするのが父上じゃ」
昌幸だというのだ。
「その自信もおありだった」
「大殿がそこまで忠義を尽くされた方」
「それが四郎様ですか」
「人として決して暗愚ではない」
「そうなのですな」
「うむ、だからじゃ」
それでというのだ。
「四郎様を悪く言うでないぞ」
「わかっております」
「真田家の主君でしたから」
「必ずです」
「その様なことはしませぬ」
「何があろうとも」
「殿に誓います」
「頼むぞ、その武田家を思い出した」
鹿児島城を見てというのだ。
「懐かしさもある、しかしな」
「はい、小さな城なれど」
「守る兵達は凄いですな」
「夜とはいえ強い気を感じます」
「これ以上はないまでに」
「薩摩隼人じゃ」
その城を守る兵達はとだ、幸村は静かな声で言った。
「あの小さな城でもじゃ」
「守りは充分ということですか」
「守る者達が強いので」
「薩摩隼人達だからこそ」
「そうじゃ、しかしな」
幸村は城を守るその薩摩隼人達を見つつ十勇士達に話した、その目は決して諦めてはいない。
「それでもじゃ」
「我等ならばですな」
「あの城にも入られる」
「例え天下の猛者達でも」
「左様ですな」
「うむ」
その通りだというのだ。
「侍従殿のところに行ける」
「ですな、あの城を見ておりますと」
「主殿の場所もわかります」
「それではです」
「主殿の御前にですな」
「これより」
「向かおうぞ」
こう言ってだった、幸村は実際に十勇士達を率い夜の闇に紛れ術も使って気配も消してだった。
忠恒のところに向かった、そして本丸の忠恒のいると思われる部屋に入るとそこにおいてだった。
義弘の若い頃を思わせる顔の男がいてだ、幸村達に言ってきた。
「今夜だと思っておったわ」
「では」
「うむ、待っておった」
微笑んで言うのだった。
「わしもな」
「そうでしたか」
「熊本に来ておった辺りからな」
「その時からでしたか」
「わかっておった、そして今夜にな」
「この城に」
「来ると思っておった、しかし兵達にはな」
勇猛を以て知られている薩摩隼人達にはというのだ。
「何も知らせなかったがこれまで通りな」
「守りを固めさせていましたな」
「それを気付かれず来られぬ様では」
この忠恒の前までというのだ。
「話は聞けぬ」
「そう思われてですか」
「守らせておったが」
「この通りです」98
「よく来た」
忠恒は微笑み幸村主従に述べた。
「ではな」
「これより」
「話を聞かせてもらう」
幸村達にというのだ。
「是非な」
「では」
幸村も応えてだ、忠恒に加藤との話を全て話し加藤からの文を手渡した。忠恒は幸村から受け取ったその文を読み終えるとだ。
これまで以上の笑みを浮かべてだ、こう言った。
「全て聞いて読んだ」
「はい」
「加藤殿、貴殿等の考えもわかった」
こう言うのだった。
「全てな」
「左様ですか」
「そしてだが」
さらに言う忠恒だった。
「わしの返事だが」
「それは一体」
「貴殿は口が固い」
幸村を一目見てこのことを見抜いていた、そしてそれだけではなかった。
「噂にも聞いておる」
「だからですか」
「そこにいる者達もそうである」
今度は十勇士達のことを述べた。
「だから言うが」
「はい、それは」
「島津家は幕府に従っておるが」
だがそれはというのだ。
「表のこと」
「左様ですか」
「島津は島津じゃ」
そうした考えだというのだ。
「幕府に心まで服してはおらぬ」
「そうですか」
「うむ、そして太閤様には敗れたが」
秀吉の九州攻めにだ、ここで四兄弟のうちの歳久と家久がこの戦の後それぞれ家の責を取って切腹か急死している。
「右大臣様に恨みはない」
「では」
「うむ、右大臣様が来られるなら」
この薩摩にというのだ。
「よい」
「それでは」
「しかし薩摩は動けぬ」
引き受ける、だがそれでもというのだ。
「疑われるつもりはないからな」
「だからですな」
「大坂で戦が起こってもな」
「加わらぬのですな」
「理由を付けて断る」
幕府からのそれを受けてもというのだ。
「そうする」
「そうですか」
「つまりじゃ、貴殿等が無事に右大臣様を薩摩までお連れしたならばじゃ」
「その時は」
「幕府の者は一度この国に入ってもな」
「二度とですな」
「出さぬ」
薩摩を出る前に消す、そうするというのだ。
「だからな」
「それでは」
「右大臣様は必ずお護りする」
「薩摩まで来られたら」
「その時は間違いなくじゃ」
こう約束した。
「だから安心せよ」
「わかり申した、では」
「薩摩までお連れしたならばじゃ」
「お願い申す」
「その時はな」
忠恒は確かにだった、幸村に約束をした。
「わしも島津家の主にして七十七万石を預かる身」
「その誇りで以て」
「約束する、我等は鎌倉の頃よりここにおった」
この薩摩そして大隅にというのだ。
「だからな」
「約束をされたからには」
「決して破らぬ」
それを見せた言葉だった。
「必ず」
「それでは」
「では時が来ればな」
「また、ですな」
「会おう、そして貴殿は」
「はい、これよりです」
幸村は忠恒に確かな顔で答えた。
「九度山に向かいまする」
「そうするか」
「そしてです」
「時が来るのを待つか」
「そうします、何もなければ」
「そのままか」
「九度山におります」
流されたまま隠棲するというのだ。
「このまま」
「そうか、しかしな」
「それでもですか」
「その時もじゃが」
幸村主従を見つつだ、忠恒は彼等にこんなことも言った。
「わしが幕府に話してな」
「そうしてですか」
「流罪を解いてもらうが」
「そしてですか」
「三千、いや五千石貴殿が望めば一万でもじゃ」
禄を出してというのだ。
「召し抱えるが」
「いえ、それは」
「よいか」
「はい、それには及びませぬ」
笑って言うのだった。
「ご安心下さい」
「そうか、よいのか」
「このまま終わりたくはないですが」
「終わってもか」
「それも天命かと」
こう考えているというのだ。
「ですから」
「そうか、そこまで言うのならな」
「はい、九度山で終わるか」
「大坂で勝つか」
「それが適わねば」
「その時は来るがいい」
こうも告げたのだった。
「是非な」
「その様に」
「右大臣様は血筋が続く限りな」
「島津家がですか」
「約束通りじゃ」
これが返事だった。
「お護りする」
「そうですか」
「しかしな」
「はい、表立ってではですな」
「それは出来ぬ」
到底、というのだ。
「その時は右大臣様はじゃ」
「お亡くなりになられた」
「そうなってじゃ」
「薩摩に入られても」
「それは一介の浪人」
表向きはそうなっているというのだ。
「それに過ぎぬ」
「そうなりますな」
「無論わしも右大臣様についてはな」
「お亡くなりになられた」
「そう確信しておる」
そういうことになるというのだ。
「一介の浪人が暮らしておる」
「それだけですな」
「貴殿等もな」
連れて来る幸村達にも告げた。
「薩摩に来てもな」
「はい、既に死んでいる」
「そうなってもらう、召し抱えても」
「名は違う」
「そうなってもらう」
幸村自身にも言うのだった。
「それでよいな」
「はい」
幸村は忠恒に一言で答えた。
「願いが果たされるなら」
「そうなってもか」
「構いませぬ」
幸村は忠恒に厳かな声で答えるばかりだった。
「それは」
「誇りである名を捨ててもか」
「そうなろうとも」
「そこまで言うか、やはりそなた達は見事じゃ」
忠恒は幸村そして十勇士達の心を知ってだ、唸って言った。
「真の武士じゃ」
「そう言って頂けますか」
「忍んでそこまでのことをしようとはな」
「だからそう言って頂けますか」
「うむ、そなた達こそまことの武士」
忠恒はまた言った。
「その心確かに受け取った、だから死ぬでない」
「その時は」
「一人もな」
主従全てがというのだ。
「死ぬでない、そして薩摩に来るのじゃ」
「そしてそのうえで」
「願いを果たすのじゃ」
「その時が来れば待っておる」
忠恒の声が暖かかった、そこには確かなものがあった。
「必ず来るとな」
「それでは」
幸村も応える、そしてだった。
主従は忠恒とのやり取りを終えて静かに告げた。
「ではこれより」
「山に戻ります」
「そうさせて頂きます」
「酒があるが」
忠恒は帰ろうとする主従にそれを勧めた。
「どうか」
「いえ、それは」
「よいか」
「はい、それはです」
酒、それはというのだ。
「ここにまた来た時に」
「そうか」
「そうして頂けるでしょうか」
「わかった」
確かな声でだ、忠恒は幸村に答えた。
「ではその時が来ればな」
「その様に」
「しよう」
「それでは」
幸村は頷いてだ、そしてだった。
あらためて十勇士達と別れを告げて薩摩を後にした、薩摩を後にした彼等はすぐに九度山に戻った。
そして九度山に入ると昌幸の前に出たが。
その昌幸の顔を見てだ、幸村はほっとして言った。
「お元気そうで何よりです」
「今はな」
「まだ、ですか」
「死期は迫っておるが」
しかしとだ、昌幸は幸村に微笑んで話した。
「こうして生きておる。気もしっかりしておる」
「その様ですな」
「お主が帰って来るまではと思っていたが」
「まだですな」
「生きておる、一日でも長く生きて」
「そうしてですな」
幸村も応えた。
「やはり」
「次の戦で最後の働きをしたいが」
「それはですか」
「出来ぬであろうな」
自分で言うのだった。
「やはり」
「そうですか」
「今は無事でもじゃ」
「近いうちに」
「世を去る」
そうなるというのだ。
「間違いなくな」
「やはりそうですか」
「しかしわしは何とかじゃ」
「生きることをですか」
「その様に務める」
必ず、というのだった。
「最後の最後まで」
「それで今も」
「こうしてお主達の前におる」
九度山に帰って来てすぐに自分のところに挨拶に来た彼等の前に姿勢を正して座しているというのだ。
「ここにな」
「何よりです、やはり」
「生きてこそじゃな」
「父上がいつも仰っている通り」
真田の教えだ、まず何といっても生きること。それこそが第一でありそれからだというのである。
「ならですな」
「少しでも長く生きてみせるわ」
「わかり申した。では」
「何とかな。それで天下じゃな」
「何かありましたか」
自分達が肥後そして薩摩に行っている間にとだ、幸村は父に尋ねた。
「まさかと思いまするが」
「うむ、大久保家じゃな」
「何かよからぬ話がありますな」
幸村もその話は天下を巡っているうちに聞いている、その草木や獣、虫の声まで聴けるその耳で。
「切支丹がどうとか」
「それが実際にな」
「つながっておられた」
「しかも伊達家の話もある」
「伊達家ですか」
そう聞いてだ、幸村は察した。伊達家が関わっているとなるとだ。
「では」
「あの家は南蛮と関わっておる」
「支倉殿もつかわしており」
「南蛮の力を借りてな」
「この天下を」
「手に入れようとしているやもな」
こう言うのだった。
「少将殿を立てて」
「そうして天下の実験を握る」
「そうお考えやも知れぬ」
「大久保殿は少将殿のお付きでしたし」
「つながるな」
「はい」
確かにとだ、幸村も答えた。
「これで」
「それでじゃ」
「幕府もですか」
「服部殿と十二神将を全て向かわせておる」
幕府の忍達の中でも特に優れている彼等がというのだ。
「だからな」
「この度のことは」
「今わかっておる限りではな」
「危ういですか」
「かなりな」
厄介な事態になる、昌幸は幸村に話した。
「わしはそう見る」
「左様ですか」
「幕府の中も騒動が起こる」
「そしてその騒動によっては」
「天下も乱れるやもな」
こう我が子に言い後は帰ってきた祝いとして酒を出しそれを共に飲んだ。昌幸は今は無事であったが。
幕府は違った、家康は一旦駿府に戻ってきていた服部に告げていた。
「わかった、ではな」
「はい、これより」
「お主に全てを任せる」
まさにと言うのだった。
「ことここに至ってはな」
「多少以上の犠牲も」
「止むを得ぬ」
険しい顔で告げた言葉だった。
「殺生もじゃ」
「伴天連の者達も」
「あの者達も出来る限り追い払うだけにしておきたいが」
「そうもいきませぬ」
服部は能面で顔を隠している為に表情を見せない、翁の能面は皺と妙な笑みを見せているだけだ。
「どうにも」
「ではな」
「はい、それでは」
「お主に任せた}
「そして確かな証拠を手に入れ」
「わしが断ずる」
その全てをというのだ。
「大久保家はな」
「そうされますか」
「しかしな」
「はい、伊達家はですな」
「あの者は尻尾を掴ませぬわ」
政宗、彼はというのだ。
「あ奴はな」
「どうもです」
「既にじゃな」
「はい、影が見えませぬ」
それすらもというのだ。
「どうにも」
「ではな」
「既に察しておられ」
「離れておるわ」
幕府の目に見える場所からだというのだ。
「だからな」
「大久保家だけですか」
「断を下せるのはな、そしてな」
「少将様は」
「あ奴は天下なぞ望まぬ、気性は厄介じゃが」
忠輝のその気質から言うのだ、その厄介というそれを。
「しかしな」
「天下はですな」
「興味がない」
そうした者だというのだ。
「あ奴の預かり知らぬところでじゃ」
「話が動いておった」
「そうじゃ」
こう言うのだった。
「だから断ずるのは」
「大久保殿だけですか」
「この度は最早な」
「徹底的に」
「断ずるしお主もじゃ」
服部にしてもというのだ。
「よいな」
「はい、我等も一切躊躇なく」
「お主達はいざとなればそうしてくれる」
家康もわかっている、そのことが。だからこそ彼等に対して強い声で今も命じたのである。
「忍としてな」
「その所存です」
「だから頼む、それではな」
「はい、これよりですな」
「春日局が来た」
この駿府にというのだ。
「他の用で駿府に寄ったついでの挨拶というが」
「実は」
「竹千代のことでな」
家康は既に呼んでいた、春日局が何故自分に会いたいのかを。
「だからな」
「はい、それでは」
「お主はすぐに戻れ」
その任を任されている場所にというのだ。
「よいな」
「はい、では」
服部は家康に応えすぐに風の様に姿を消した、そして。
家康は春日局と会った、あばたはあるが整った顔の女だ。秀忠の長男である家康の乳母を務めている。
その春日局がだ、家康に拝謁してから申し出たのだ。
「この度のことですが」
「駿府に来てじゃな」
「はい、大御所様にお会いしたのをお願いしたのは」
「竹千代か」
「はい、近頃上様も奥方様も」
二人共というのだ。
「ご次男の国松様を可愛がられ」
「そしてじゃな」
「ご嫡男の竹千代様はどうも」
「うむ、確かにな」
「大御所様から見ましても」
「確かにな」
どうにもとだ、家康も言うのだった。
「二人共国松の方を可愛がっておるな」
「どうにも。それで」
「やがては国松をか」
「私の考え過ぎであればいいですが」
「はっきりと言うが」
「やはり」
「それは杞憂じゃ」
家康は春日局に優しい笑顔で答えた。
「二人共それはな」
「はっきりとですか」
「わかっておるな」
「では竹千代様が」
「次の将軍じゃ」
秀忠のというのだ。
「三代目の将軍となる」
「上様も奥方様もそのことはですか」
「よくわかっておるわ」
「では国松様は」
「ただ可愛がっておるだけじゃ」
それに過ぎないというのだ。
「親というものは勝手じゃな」
「子でもですか」
「うむ、自分の子の間でも可愛い可愛くないがあってな」
情としてそれがあってというのだ。
「二人は国松の方が可愛いのじゃ」
「お子として」
「しかし次の将軍はな」
「あくまで」
「竹千代じゃ」
「そうなりますか」
「だからな、お主はじゃ」
「安心をして」
「二人もわかっておるしわしもじゃ」
大御所である彼もというのだ。
「お墨付きを与えておるな」
「はい、次の将軍だと」
「なら大丈夫じゃ、ただしな」
「ただし、ですか」
「わしは源氏長者じゃが源氏の様なことはしたくない」
こうもだ、春日局に言うのだった。
「父上も祖父上も殺されておるしな、特に身内同士のああしたことは」
「しれはならぬと」
「常に思っておる」
これが家康の考えだった。
「源氏のあの因縁はな」
「繰り返してはならぬと」
「そうじゃ」
「若し繰り返せは」
「何もかもなくなる」
「家自体が」
「そうじゃ」
源氏は身内同士で殺し合い誰もいなくなった、そうしたことは絶対にしてはならないというのだ。
「だからな」
「はい、それでは」
「身内はな」
徳川家の者はというのだ。
「出来る限りじゃ」
「血生臭いことにならずに」
「そしてじゃ」
さらに言うのだった。
「徳川、松平で幕府を支えていくことじゃ」
「わかりました」
「うむ、しかしな」
「それでもですか」
「やはり一度はな」
どうしてもとだ、家康は苦い顔で言うのだった。
「そうしたことはあろう」
「どうしても」
「室町の幕府もな」
その幕府もというのだ。
「あったな」
「はい、尊氏公も義持公も」
「弟殺しがあった」
それをしてしまったというのだ。
「残念なことにな、しかしな」
「この幕府では」
「出来る限りじゃ」
「避けることですか」
「それは忌まわしいし力も削ぐ」
徳川家ひいては幕府のというのだ。
「だからな」
「幕府の中で」
「盛り立てるのじゃ」
こう春日局に話した。
「よいな」
「徳川家自体を」
「そうじゃ、将軍だけではない」
「家そのものをですか」
「贔屓にはせぬが」
しかしというのだ。
「家全体をじゃ」
「大事にし」
「そしてじゃ」
「幕府を栄えさせていきますか」
「鎌倉の幕府の様なことは絶対に避ける」
身内同士の殺し合い、それはというのだ。
「絶対にな」
「では」
「お主にもそれを頼む」
春日局、彼女にもというのだ。
「よいな」
「上様だけではなくですか」
「時には非情になろうともな」
そうせざるを得ない時があってもというのだ。
「それでもじゃ」
「盛り立てることですか」
「それを第一にするのじゃ」
「将軍家自体を」
「徳川家も松平家もな」
「その両方を」
「そう頼むぞ」
家康の声は穏やかだった、そして。
その声でだ、彼はまた春日局に言った。
「竹千代はお主に任せるが」
「幕府も」
「そちらを担う者の一人になってもらいたい」
「おなごでもですか」
「ははは、そこは人による」
家康は笑って春日局に返した。
「優れた者ならじゃ」
「おなごでもですか」
「任せられるものは任せる」
そうするというのだ。
「そして仕事をしてもらう」
「だからですか」
「お主には幕府も頼む」
そちらもというのだ。
「よいな」
「そこまで言われるとは」
「嘘は言わぬ」
笑みを浮かべたままでの返事だった。
「決してな」
「では命にかえて」
「頼むぞ、これが茶々殿ならな」
彼女ではというと。
「とてもじゃ」
「任せられませぬか」
「あれこれ話を言うが」
「あの有様では」
「どうしようもない」
絶対にというのだ。
「だからじゃ」
「幕府におられても」
「そこはお主とは違う」
どうしてもというのだ。
「わしにしてもな」
「そういえば切支丹のことですが」
春日局もこで言った。
「どうも大坂では」
「認めるか」
「そうした噂を聞いておりますが」
「わしもじゃ」
駿府の家康もとだ、春日局に答えた。
「その話は聞いておる」
「そうでしたか」
「多少のことは大目に見られてもな」
「切支丹のことは」
「あれだけはな」
「わしも看過出来ん」
「若し大坂がそれを認めれば」
「その大坂からじゃ」
「切支丹が天下に流れ込む」
「それでは他の藩が禁じてもな」
言うまでもなく幕府の命でだ。
「大坂から天下にそうなる」
「大坂は天下の要地ですし」
「あそこから東西に行ける」
「切支丹達も」
「そうなっては恐ろしいことになる」
「だからこそ」
「切支丹だけは認められぬ」
例えそれが大坂であってもというのだ。
「お主にも言うがわしは大阪が欲しいのであってな」
「豊臣家自体は」
「構わんからな」
滅ぼすつもりはないからというのだ。
「大目に見ておるのじゃ」
「ですが切支丹は」
「それだけはならんからな」
「それでは」
「若し切支丹を認めれば」
大坂、即ち豊臣家がだ。
「その時は断ずる」
「それしかありませぬか」
「そうじゃ、大久保家にしてもな」
「切支丹が」
「関わっておるからな」
だからだというのだ。
「それが間違いなくなってきた」
「やはりいますか」
「半蔵に先程命じたばかりじゃ」
その彼のことも話した。
「いざという時はな」
「断固として」
「動けとな、とかく切支丹は別じゃ」
「民を売り奴婢として使うなぞ」
「許せる筈がなかろう」
「はい、恐ろしい話です」
実際春日局はその顔を強張らせて答えた。
「その様な話は」
「だからこそじゃ」
「民を護る為にも」
「国もな」
切支丹達はというのだ。
「認められぬわ」
「幕府としては」
「天下を預かっておるのじゃ」
「それでは」
「認められぬ」
絶対にとだ、また春日局に言った。
「だからわしも決めた」
「太閤殿がそうされた様に」
「これでも時を置いたな」
「はい」
幕府としてはだ。
「暫くそうされて考えておられました」
「その間動きも見ておったが」
その切支丹達のだ。
「変わらなかった」
「国を乗っ取り民を奴婢にしようとする」
「本朝の外に売ってな」
「だからこそ」
「わしも決めた」
国、そして民を護る為にというのだ。
「そういうことじゃ」
「妾も同じ考えです」
「切支丹については」
「その動きを見ていますと」
「そうじゃな」
「見過ごせませぬ」
信仰を認められないというのだ。
「ですから」
「ここはじゃな」
「禁ずるべきです」
「そしてそれに逆らう者がおれば」
「断ずるしかないかと」
誰であろうとも、というのだ。
「さもないと恐ろしいことになります」
「このこと言っておくか」
家康は目を鋭くさせて言った。
「大坂に」
「今からですか」
「いや、わしから直接言うとな」
即ち幕府から今大坂に対してありのままに言えばというのだ。
「茶々殿が反発されてな」
「聞かれませぬな」
「お主もそう思うな」
「強情に過ぎる方なので」
だからだとだ、茶々も答えた。
「ですから」
「それでじゃ」
「大御所様からお話することは」
「今は出来ぬ」
そうだというのだ。
「残念だがな」
「では」
「頃合いを見てどうにかしてな」
「大坂にわかって頂く」
「そうしよう」
「そして切支丹だけは」
「認められるとな」
茶々にわかってもらうというのだ。
「そうする、しかしこのこともな」
「若しもです」
春日局は自ら家康に言った。
「茶々様が」
「わしの正室であればな」
「苦労しませんでした」
「全くじゃ、わしは側室は多いが」
この辺りは秀吉と似ている。
「しかしな」
「肝心のご正室は」
「長くおらぬ、だから丁度いいと思ったが」
「茶々殿が断られ」
これは今もだ、しかもこのことにも頑なだ。
「それで」
「流れてな」
「そうですね」
「全く、わしとしては悪意はない」
このことについてもというのだ。
「豊臣家にとってもよい話であるのに」
「それがですな」
「流れておるわ」
「残念なことに」
「全く以てな」
「だからですね」
「このことも上手く話せておらぬ」
困ったことにというのだ。
「わしなら茶々殿も止められるが」
「はい、幕府でしたら」
「わし以外にも止められる者がおるな」
「僭越ながら妾も」
春日局は強い声で家康に言った。
「出来まする」
「うむ、お主ならな」
家康もそうだと返す。
「出来るな」
「必ず」
「そうじゃ、だから幕府ならな」
「出来ますが」
「今の大坂にはおらぬからな」
「切支丹のことも」
「どうしたものか」
家康は難しい顔で述べた。
「困ったものじゃ」
「若し切支丹を許されますと」
大坂、つまり茶々がだ。
「その時は」
「再び乱れる」
天下がというのだ。
「下手をすればな」
「戦になる」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「だから何としてもな」
「それは止めて頂き」
「そしてじゃ」
「大坂を出て頂き」
「後は静かにしてもらう」
こう言うのだった。
「多くの者に言っているがな」
「そしてその為には」
「切支丹はな」
「認めてもらっては困る」
「これは天下の大事じゃ」
それになるというのだ。
「公のな」
「天下万民を守る為のことなので」
「わしも看過出来ぬ」
「そうなるので」
「何かと手を打っておくか」
「茶々殿も流石に」
ここで春日局は知恵を出した、そしてその知恵を家康に述べた。
「妹殿達のお言葉は聞かれますので」
「それじゃな」
「奥方様と」
お江、彼女とというのだ。
「そしてです」
「姉妹のもう一人の」
「常高院様にです」
三姉妹の次女だ、茶々の上の妹であり秀忠の妻であるお江の二番目の姉である。幼い頃から仲のよい姉妹である。
「出て頂きますか」
「それがよいか」
「大坂ではどうも」
「茶々殿を止められぬからな」
「そうとしか思えないので」
だからだというのだ。
「ここはです」
「それがよいか、しかし姉妹の絆が頼みか」
「そうかと。先程大御所様が言われましたが」
「血じゃな」
「それの絆こそがこの度は」
「最後の頼みか」
「そうなるかと」
こう家康に言うのだった。
「ですから」
「わかった、ではその様にしておこう」
「いざという時は」
「戦にならずにことが穏便に済む様にな」
こう言ってだ、家康は春日局の言葉を受けた。そのうえで小笠原家だけでなく大坂のことについても手を打っていくのだった。
巻ノ百十四 完
2017・7・9