巻ノ百九 姉妹の絆
江戸城の大奥において秀忠の室は正妻であるお江の方だけだ、律儀者でしかも父とは違い女色には淡白な秀忠が妻は彼女以外を欲しなかったのだ。
そのお江がだ、今大奥に置いて不安にかられている顔になっていた。
見れば姉によく似ているがその姉よりも遥かに穏やかな顔立ちだ、その彼女が整った顔御を難しくさせて周りに聞いていた。
「では大坂はですね」
「はい、相変わらずです」
「姉君は勘気を募らせてばかりとか」
「とかく大御所様に腹を立てられ」
「周りも同じお気持ちだとか」
「よくありませぬ」
そう聞いてだ、お江は目を閉じて言った。
「それは」
「全くです」
「あのままですとやがてはです」
「大御所様も捨て置けず」
「厳しい断を下されます」
「妾としてはです」
お江は周りに自身の考えも述べた。
「茶々姉君には末永く暮らして欲しいのです」
「お初様もそう思われていますね」
「先日も奥方様に文を送られていましたが」
「左様でしたね」
「はい」
その通りだとだ、お江は周りに答えた。
「お初姉君も」
「だからこそいつも動いておられます」
「この江戸と大坂の間を動き回り」
「何とかです」
「茶々様をお助けしようと」
「そうだというのに。あの方は」
これ以上はないまでに悲しい顔になってだ、茶々はまた言った。
「何故でしょうか」
「今もですね」
「勘気を起こされてばかりで」
「天下は豊臣家にあると」
「そう言われていますね」
「天下は変わりました」
茶々がどう思おうがというのだ。
「それは既に」
「左様です」
「それはもうです」
「天下は変わりました」
「徳川家のものとなりました」
「もうそれは変わりませぬ」
「そうだというのに大坂から退かれず」
幕府がその地さえ手に入ればいいと思っているその地にだ。
「天下人だと言われていますね」
「右大臣様こそがと」
「今も尚」
「右大臣殿は娘婿です」
お江にとってだ、秀頼は紛れもなくその立場だ。
それ故にだ、お江は情もあり言うのだ。
「悪い様にはしませぬ」
「よき国にはいってもらい」
「そうしてですね」
「平穏に暮らして頂く」
「そうなって頂きますね」
「はい」
その通りだというのだ。
「私が何があってもその様にします」
「あのお話は」
女の一人がお江に言ってきた。
「大御所様と茶々様の」
「あのお話ですね」
「どう思われますか」
「願ってもないお話です」
すぐにだ、お江はその女に答えた。
「そう思います」
「それで全てが丸く収まる」
「これ以上はないまでのお話です」
「ですが」
「はい、茶々姉様はどうしても」
「左様ですね」
「このままではことが悪く転がれば」
そうなってしまえばというのだ。
「どうなるか」
「奥方様はいつも思われていますね」
「あの方のことを」
「どうか幸せになって欲しいと」
「泰平に暮らして頂きたいと」
「願わくば」
遠い目になってだ、お江はこうも言った。
「また三人で共に」
「暮らしたい」
「そう言われますか」
「かつての様に」
「はい、母上と共にいた時の様に」
お市の方だ、三人にとっては心から優しい母だった。
「それが出来ればいいのですが」
「それが出来ずとも」
「どの方も天寿を全う出来れば」
「それも幸せに」
「そう思うのですが」
だがそれはというのだ。
「茶々姉様のご様子を聞けば」
「どうしてもですね」
「それはですね」
「危うい」
「どうしても」
「上様にも申し上げています」
夫である秀忠にもというのだ。
「どうか姉様、そして右大臣殿をと」
「そしてですね」
「上様も決して無下ではないですね」
「そうではありませんね」
「決して。ですが大坂から去らずあのままですと」
それではというのだ。
「どうにもなりません」
「そうなのですね」
「上様にしても」
「どうにもならないと」
「そう言われています、まことに困ったことです」
実にというのだった。
「果たしてどうなるか」
「何とか茶々様に慎んでもらいたい」
「その様にですね」
「思われていますね」
「そうだというのですね」
「そうです」
お江は難しい顔のままだった、そしてだった。
このことを実際に秀忠が大奥に来た時に話したがだ、彼も苦い顔になってそのうえでお江に話した。
「それは父上も言われておるわ」
「大御所様も」
「右府はな」
即ち秀頼はだ、将軍であり自分が舅なので殿はあえて付けなかった。そのうえでの言葉だった。
「国持大名にしてじゃ」
「そしてですね」
「官位もそのままでな」
「厚遇して頂けるのですね」
「大坂以外でじゃ」
「やはりそうですか」
「摂津、河内、和泉の三国からな」
まさにこの国からだ。
「出てな」
「別の国においてですね」
「国持大名として遇するが」
「それにはあくまで」
「あの国以外じゃ、大坂城を出てな」
「他の大名と同じ様に」
「茶々殿、お主の姉君もな」
秀忠が難しい顔で妻に話した、彼女のことも配慮して。
「そうしてな」
「そのうえで」
「幕府に従うのならな」
「よいのですね」
「この幕府は鎌倉の幕府とは違う」
秀忠ははっきりと言い切った。
「頼朝公のことは知っておるな」
「弟殿も多くの臣下の方々も」
「次々と殺した」
そうしたことを言うのだった。
「特に身内の者達をな」
「そして誰もいなくなりましたね」
「惨いことをすればじゃ」
「その報いが返ってきますね」
「しかもその様な所業はよくはない」
そもそもというのだ。
「だからな」
「決してですね」
「せぬ」
こう言うのだった。
「この幕府はな」
「だからですか」
「大坂から出て茶々殿が江戸に入られるか、いや」
「いやとは」
「大坂から出てくれるならな」
それならばというのだ。
「幕府としてはな」
「よいですか」
「よい、しかしな」
「このままですち」
「我等もどうしようもない」
幕府としてもというのだ。
「大坂から出てくれねば」
「では」
「お主からも頼む」
秀忠の方からお江に言った。
「お主の上の姉君であるしな」
「畏まりました」
「頼むな」
「姉様の為なら」
お江も必死だった。
「憎くない、いえ」
「愛おしいな」
「はい」
そうした相手だというのだ。
「ですから」
「うむ、ではな」
「何としてもです」
こう秀忠に誓った。
「豊臣家を」
「あの家には千も嫁いでいる」
二人の間の最初の子であるこの姫もというのだ。
「だからな」
「尚更ですね」
「二人の間に子が生まれれば」
「豊臣家の次の主ですね」
「そうもなるからな」
このこともあってというのだ。
「わしも豊臣家は滅ぼすつもりはない」
「大坂さえ出られれば」
「国持大名、石高も高くしてな」
「官位もですね」
「高いままにしてな」
「遇する」
幕府の中でというのだ。
「別格の家としてな」
「有り難きお言葉」
「うむ、しかし気になることが一つある」
「と、いいますと」
「右大臣の官位じゃ」
これのことだった、秀忠が今度言ったのは。
「高い官位じゃな」
「はい、非常に」
「あの若さでじゃ」
元服するかしないかという歳でというのだ。
「右大臣はあまりにも早いな」
「官位が進むのが早いのは」
「よくないな」
「不吉と言われていますね」
「関白殿もな」
秀次のこともだ、秀忠はお江に話した。
「あの様になってしまった」
「そうでしたね」
「やはりどうしてもな」
「官位が進むのが早いのは」
「早く育つ魚な早く食われる」
食われる様な大きさになってだ。
「これは鯛も鰻も同じこと」
「確かに。魚も大きくなるのが早ければ」
「早く食われるな」
「そうなります」
「生き急ぐという言葉もあるからな」
秀忠はこの言葉も出した。
「だからな」
「お拾殿の官位が進むのが早いことも」
「気掛かりじゃ、父上もどうかと思われておる」
秀頼のこのことはだ。
「それをな」
「茶々姉様はですね」
「わかっておられぬ、朝廷に金や銀を送り必死に働きかけておられてじゃが」
銀よりも金だ、秀吉の好みで豊臣家は金の方を多く持っていてそれは今も変わっていないのだ。
「かえって危うい」
「そのことも」
「もう右大臣になっておるから遅いが」
「これ以上の官位は」
「今は早い」
むしろ早過ぎたというのだ。
「そしてこのこともな」
「妾が」
「言って欲しい、そなた達のことは聞かれるな」
「はい」
お江、そしてお初の言葉はというのだ。
「昔から聞いて頂けます」
「ならばな」
「私とお初姉様で」
「止めてもらいたい」
「わかりました」
「治部や刑部なら止められた」
苦い顔でだ、秀忠は関ヶ原の結果刑場や戦の場で消えた彼等のことも思った。そのうえでの言葉だった。
「こうした時もな」
「確かに。あの方々なら」
「我等が死なせたが」
それでもと思い仕方がなかった、お江の気持ちを思うと。
「そなたの姉君を止められる者がいなくなった」
「大坂には」
「さすればそなたもそここまで苦労はしなかった」
こう思い苦い顔になるのだった。
「やはりな」
「はい、ですが」
「言っても仕方がない」
石田や大谷のことはというのだ。
「我等が死なせただけにな」
「尚更ですね」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「言っても仕方ない、だから止めよう」
「わかりました」
「しかしな」
「今の大坂はですね」
「止められぬ者は同調する者達だけじゃ」
大坂城にいるのはというのだ。
「まことにな」
「それではですね」
「危うくなる一方じゃ」
「だから余計にですね」
「そなたとな」
そしてお初にというのだ。
「頼みたい、よいな」
「承知しています」
お江も必死だった、それで大坂の姉に必死で文を送り続けた。茶々にしても流石に妹に言われては大人しくなる。
それでだ、その度にこう言うのだった。
「承知はしました」
「お江様のお文ですね」
「それのことは」
「そうです」
こう周りの女御衆に言う。
「まことに」
「ではこの度は」
「お江様に免じて」
「動きませぬ」
こう言うのだった。
「そうします」
「わかりました、それでは」
「その様に致しましょう」
「修理達にも伝えるのです」
大野、そして片桐等家老達にもというのだ。
「このことは」
「はい、では」
「その様にしていきましょう」
「今は」
「そう、今は」
あくまでという言葉だった。
「そうしていきます、ですが」
「それでもですね」
「それは今であり」
「これからはですね」
「また時が来れば」
「何としてもです」
茶々は諦めていない顔で言った。
「わかっていますね」
「お拾様を関白に」
「是非にともですね」
「早いうちに」
「そうなって頂く為に」
「そうです」
だからこそというのだ。
「よいですね」
「はい、わかっています」
「ここはです」
「是非そうしていきましょう」
「今は止まっても」
「やがては」
周りの女達も言う、大坂は今は止まったがそれでもだ。秀頼を早いうちに関白まであげるつもりだった。
だからだ、茶々も言うのだ。
「ですから今はお江の言葉を受けますが」
「それでもですね」
「今だけで」
「また動きましょうぞ」
「必ず」
「そうです、金も銀もあります」
朝廷に働きかける為のそれもというのだ。
「ですから
「使えるものはあります」
「公暁の方々にも帝にも差し上げ」
「そうしてですね」
「早いうちにお拾様を関白に」
「そうしていきましょう」
「そうです、近いうちにまた動きます」
こう言ってだ、そのうえでだった。
茶々は今は止まるつもりだった、しかしそれは今だけでまた朝廷に秀頼の官位を上げるつもりだった。
だがこの動きは幕府もわかっていてだ、家康は崇伝にこう言った。
「大坂の金や銀じゃが」
「実に多いですな」
「そしてその金や銀を使ってじゃ」
「右大臣殿をさらにですか」
「官位を高めようとしておる」
このことを言うのだった。
「尚もな」
「左様ですな」
「官位は高くともよい」
家康はそれ自体はよいとした。
「お拾殿はな、しかしな」
「あまりにも早くですな」
「それはよくない、早い昇進はじゃ」
「かえって不吉」
「しかも竹千代より高くなるとな」
「流石にそれは」
「幕府としては不都合じゃ」
だからだというのだ。
「それはな」
「だからですな」
「抑えてもらいたいが」
「お江様の文で今は止まられましたが」
「しかしじゃ」
「あの方は止まらぬ方です」
崇伝も茶々のその気質をわかっていて言う。
「何としても」
「そうじゃ、どうもな」
「だからですな」
「お主の知恵を借りたいが」
「それではです」
ここでだ、崇伝は家康にこう言った。
「大坂に寺社の普請をしてもらいますが」
「そこで金や銀を使ってもらうか」
「はい」
それが崇伝の知恵だった。
「茶々殿は信心の深い方なので」
「だからじゃな」
「これには絶対に乗られます」
「そしてじゃあな」
「そこに金や銀を使われますし」
しかもだった。
「そちらに力を注がれている分です」
「朝廷への働きかけもじゃな」
「それも出来ませぬ」
この効もあるというのだ。
「ですから」
「ここはか」
「そうしてもらいましょう」
金や銀を寺社の普請に使わせようというのだ。
「是非な」
「わかりました、それでは」
「そしてじゃな」
今度は家康から言ってきた。
「さらにあるな」
「金や銀を使いますので」
「いざという時にな」
「それがなければ」
「兵も集められず」
「兵糧も武具もです」
そういったものもというのだ。
「集まりませぬので」
「余計によいな」
「はい」
まさにというのだ。
「ですから」
「ここはそうするか」
「それでよいかと」
「ではその知恵使わせてもらおう」
「かつて太閤殿がされましたな」
「鳥取でのことか」
「はい、敵の兵糧を買い占める」
実際に秀吉が鳥取でしたことだ。
「そうしてです」
「敵の兵糧をなくしたな」
「あの様にです」
「我等もだな」
「大坂の金や銀をなくさせ」
そうしてというのだ。
「茶々殿のそうした行いを止め」
「戦の危険もな」
「なくしていきましょう」
こう家康に言うのだった。
「是非」
「よいことじゃ、そして我等はな」
幕府としてはとだ、家康は自分達のことも話した。
「このままじゃな」
「佐渡等の金山からも貿易からも」
「富を得るか」
「銀や金を」
「そうするか」
「はい、それとですが」
ここで崇伝は表情を変えた、暗いものにさせそのうえで家康にあらたまって話をしてきた。
「虚無僧や拙僧の宗派の僧達の話を聞きましたが」
「大久保家の領地でか」
「あの者達の影があったとか」
「左様か」
「はい、姿は見なかったとのことですが」
それでもというのだ。
「影はです」
「あったか」
「見た者がおります」
「そうか」
「拙僧も最初はです」
崇伝は怪訝な顔になり家康に述べた。
「大久保殿に限ってです」
「切支丹とつながってるなぞじゃな」
「こう言っては何ですが」
こう前置きして言うのだった。
「上総介殿、お父上も含めて」
「そのうえでじゃな」
「大久保殿を陥れようとしていると思いましたが」
「その話を聞いてか」
「若しやと思いはじめています」
「そうか、お主も」
「服部殿に調べてもらうことはです」
家康のその決定はというのだ。
「お早いことでよかったかと」
「そうか、しかし影だけか」
「尻尾も見えなかったとのことです」
「姿は見せぬか」
「そうそう迂闊なことはせぬ者達の様です」
切支丹、つまり伴天連の者達はというのだ。
「やはり」
「それだけに余計にじゃな」
「表の伴天連の者達ではありますまい」
教会を建てそこで信者を増やしている様な、というのだ。
「妖しきの者達でしょう」
「本朝を乗っ取ろうとしている」
「表の者達ですら他の教えを認めず危ういのです」
「ならば裏の者達はじゃな」
「尚更です」
危ういというのだ。
「ですから」
「ここはじゃな」
「服部殿によく働いてもらうべきです」
「十二神将全てを連れて行く様にさせた」
「それでは」
「相当な者達でもな」
「はい、隠れることは出来ませぬ」
伊賀者達の間でも手練れ揃いの彼等が全ているならというのだ。
「必ずや」
「そうじゃな、ではな」
「はい、このままです」
「あの者達に調べさせ歯向かうならな」
「その時も考えてですな」
「あの者達を行かせた」
服部と十二神将達をというのだ。
「そうさせたのじゃ」
「では後は」
「半蔵がやってくれるな」
「そう思います」
「必ずな、しかしじゃ」
家康は崇伝に苦い顔でこうも言った。
「わしは覚悟しておる」
「大久保殿が、ですな」
「切支丹とつながりよからぬことを企んでいれば」
「その時はですな」
「成敗する」
その苦い顔で言い切った。
「何としてもな」
「大久保家自体を」
「譜代中の譜代、あの家の者達には何かと助けてもらっていたが」
「それでもですな」
「その時は仕方がない」
「何としてもですな」
「すべきことをする」
家康がというのだ。
「さもなければ天下は治まらぬからな」
「天下の為にはですな」
「本意でないこともせねばならん」
「それが天下人、一の人ですな」
「それがわかったわ」
将軍、そして大御所になってだ。家康もそのことが実際にその身からよくわかったのだ。それで今も言うのだ。
「よくな」
「だからですな」
「大久保家もそうであるし」
「他のことも」
「全ては天下万民の為じゃ」
「それは出益ねば」
「天下はまた乱れる」
そうなってしまうこともだ、家康はわかっていた。
だからだ、今も言うのだ。
「腹は括っておる」
「既に」
「その時はわしも迷わぬ」
「さすれば」
「どうしても切支丹は捨て置けぬからな」
このことが念頭にあってだった、家康は腹を括った。それ故に言うのだった。
「そうする」
「むしろです」
「断固たるものにせねばな」
「これが民百姓の並の罪ならです」
そうしたものならというのだ。
「別にです」
「罪一等か二等は減じてな」
「大目に見てもいいですが」
「むしろそうせねばな」
「はい、惨い刑や厳しい法はです」
「本朝には馴染まぬ」
「あの織田様でもです」
信長もとだ、崇伝は家康もよく知るこの者の話もした。
「確かに重罪人には容赦しませんでしたが」
「それでもな」
「多少の罪はさして気にされませんでした」
「あれで民百姓には寛容な方じゃった」
「はい、ですから」
「民百姓には寛容でな」
「仁の心を忘れてはなりませぬ」
崇伝は民百姓、天下の殆どの者に対してはそうならないと考えていてそれで家康にも言った。
「決して、ですが」
「切支丹となるとな」
「その話が違いまする」
「無暗な殺生は論外にしても」
「あえて厳しいことをせねば」
そうしなければというのだ。
「本朝を乗っ取られてしまいます」
「そうなっては何もならぬ」
「そうなりますな」
「全くじゃ」
「そうじゃ、だから大久保家についてもな」
「伴天連が関わっているとなれば」
「容赦せぬ、しかし」
家康は大久保家、彼にとってはまさに譜代の中の譜代の臣の家である彼等について思いそれでこうも言った。
「あの者達は何を考えてじゃ」
「若し伴天連とつながっておるなら」
「それは何故じゃ、しかもどうも彦左衛門辺りはじゃ」
その大久保家の者であってもというのだ。
「そんなことは一切知らぬな」
「あの御仁は文字通り武辺です」
「至って不器用な男じゃ」
そしてその不器用さがまたいい、家康はこうも考えていた。
「文字通り槍一筋の者」
「だからこうしたことについては」
「知る筈もない」
家康は彼については確信して言った、言い切ったと言ってもいい。
「断じてな」
「ですな、話を聞いても」
「かえって驚くわ」
「そうなりますな、やはり」
「うむ、しかしな」
「本家については」
「違う、あの者達は何を考えておるか」
深く考える顔でだ、こうも言った家康だった。
その家康にだ、崇伝ははっと気付いた顔になってだ。そのうえで主に対してこうしたことを言った。
「伊達殿では」
「伊達か」
「はい、あの御仁はおそらくですが」
「まだ天下を狙っておるか」
「非常に野心の大きな方です」
「そして切支丹ともな」
「はい、支倉殿のことで」
この者の話も出た。
「気になる動きもあります」
「南蛮と密かに結ぼうとしておるか」
「そうでは、そして」
「その時はか」
「はい、辰千代様を」
家康の六男であり正宗の妹婿である彼をというのだ。
「そうでは」
「辰千代か」
家康はその名を聞いて顔を顰めさせてこう言った。
「前からじゃ」
「あの方についてはですか」
「あの勘気をどうかと思っておる」
気性が激しい、このことに気をつけているというのだ。
「しかも無類の頑固者じゃ」
「ご幼少の頃からですな」
「度々注意しておるがな」
「それがかえって」
「わしがあ奴を嫌っておるという話になっておる」
それでというのだ。
「これは濡れ衣じゃが」
「あの方のご気質は」
「困っておる、しかもな」
「はい、ご舅の伊達殿が」
「あの者は厄介じゃ」
「島津家や毛利家と同じく」
「表では従っておるが」
その実はというのだ。
「それはあくまで表だけじゃ」
「何時牙を剥くかわかりませぬな」
「毛利や島津は天下を望んではおらぬ」
例え幕府に思うところがあってもだ、家康はこのことははっきりと見抜いているのだ。
「しかしな」
「伊達家はですな」
「違う」
彼等とは、というのだ。
「だからじゃ」
「この度のことは」
「よく調べさせるか」
服部達にというのだ。
「そうするか」
「ではこのまま」
「うむ」
まさにというのだ。
「伊賀者達にな」
「頑張ってもらいますか」
「そうする、若しやな」
「この度のことは」
「わしが思っている以上にじゃ」
「大きいですな」
「天下を揺るがすまでにな」
それ程までにというのだ。
「大きいやもな」
「その可能性が出てきましたな」
「そうじゃな、ことと次第では」
「今お考え以上に厳しいことを」
「せねばならぬか」
覚悟をしている言葉だがその覚悟はさらに強まっていた。
「そうも思った」
「左様ですか」
「そして辰千代もな」
彼の子もというのだ。
「我が子、そして大藩を預けておるが」
「いざという時は」
「断を下す」
「改易もですか」
「そこからの蟄居もじゃ」
藩として断を下すだけでなく、というのだ。
「考えておくか」
「改易ですか」
「やり過ぎか」
「これが外様の分家の小さな藩ならともかく」
「大藩、しかも身内であるからな」
「相当ですな」
「そうじゃな、しかしな」
それでもと言う家康だった。
「いざという時はな」
「断を下さねば」
「天下に示しがつかぬからな」
だからこそというのだ。
「ここはじゃ」
「辰千代様もですか」
「そうする」
「左様ですか」
「政に贔屓があってはならぬな」
「はい」
このことについてはだ、崇伝もその通りだと答えた。
「それは乱れる元です」
「悪事は誰が犯してもじゃ」
「然るべき裁きを下してこそです」
例えそれは一等二等断じてもだ、裁きは必要だというのだ。
「政は定まります」
「その通りじゃな」
「極端を言えば大御所様もです」
天下人である家康自身もとだ、崇伝はあえて言った。
「法を守らねばならず」
「いざという時の裁きはじゃな」
「受けねばなりません」
「それが政の理じゃな」
「はい、ですから」
「それ自体はお主も賛成じゃな」
「ですが」
それでもとだ、崇伝はまた家康に言った。
「これは大きなことですな」
「わかっていて言っておるのじゃ」
「ことと次第によっては」
「辰千代、そしてあ奴の藩にもな」
「断を下されますか」
「天下の為にな」
「そして伊達家も」
「あの家、そしてあの男は特にじゃ」
伊達政宗、この男については家康は猛禽を見る目で語った。
「危険な野心を持っておる」
「天下を狙っているからこそ」
「しかも力もある」
伊達家の仙台藩の力、そして政宗自身の資質である。
「あと二十年早く生まれていたら奥羽を一つにして天下の争いに出ていたであろう」
「ですな、あの方ならば」
「そうした者だからこそな」
「ここで、ですか」
「潰せる様ならじゃ」
「潰されますか」
「その野心、衰えておらぬわ」
政宗をよくわかっているからこその言葉だ。
「だからこそ辰千代の奥にあ奴の娘を迎えた」
「その野心が戦を起こされる」
「そう思ってな、しかしその野心がじゃ」
「あの時は豊臣家に向かいましたが」
「今度は幕府に向かうやも知れぬ」
「牙を剥く前に」
「倒す」
まさにやられる前にというのだ。
「そうするぞ」
「大久保家と伊達家、そして辰千代様に悪いつながりがあれば」
「全てな」
「上総介殿はそこまで見ておられたでしょうか」
「どうであろう、一度本人に聞いてみるか」
是非にというのだ。
「そうしてみるか」
「そうされますか」
「そして半蔵にはな」
「そうしたこともですな」
「調べてもらおう」
切支丹を結ぶ糸にした大久保家と伊達家、そして松平忠輝の関係もというのだ。ただ大久保家と切支丹のことだけでなく。
「そうするか、そしてな」
「拙僧もですな」
「虚無僧や禅宗の坊主達から話は聞けるな」
「はい、今も」
「ではじゃ」
「是非にですな」
「その者達から聞け」
彼等のことをというのだ。
「密かに送り調べもしてな」
「そのうえで」
「しかと聞いてじゃ」
そしてというのだ。
「見極めてわしに知らせてもらうぞ」
「そのうえで」
「わしに助言も頼む」
そうしたこともというのだ。
「わかったな」
「畏まりました」
崇伝も応えた、そしてだった。
家康はまず正純から話を聞く前に天海を呼び彼の八卦でこの度のことを占ってもらった。その時にだった。
天海は家康にだ、強張った顔でこう言った。
「占いの結果ですが」
「どうであったか」
「凶と出ました」
「左様か」
「それもかなり悪い」
凶は凶でもというのだ。
「そうしたものでした」
「そうか、かなり悪いか」
「残念ながら」
「覚悟はしておったが」
「はい、しかも」
天海は家康にさらに言った。
「このことはこれに終わらず」
「さらにか」
「悪いことが起こる様です」
「左様か」
「しかしここで膿を出し切らねば」
「後々までじゃな」
「災いとなるかと」
その危険もあるというのだ。
「ですから」
「ここはじゃな」
「出来る限り人を死なせるべきではありませぬが」
「それでもじゃな」
「膿は出し切りましょうぞ」
「どうもあ奴はな」
家康は大久保家の主だった大久保長安のことも思った、老中として権勢も振るってきたがもうこの世の者ではない。
「華美を極めた暮らしにな」
「それにですな」
「うむ、妾が七十人も八十人もおってな」
「供の者達を連れて天下を練り歩いても」
「したい放題だった」
家康は苦い顔で言った。
「どうにもな」
「それを見ましても」
「既に膿となっていたか」
「大御所様としましては」
「わしも捨て置けずその場の藩の者や奉行達に無体はさせぬ様に銘じておったが」
しかしというのだ。
「相手は佐渡の金山を握りな」
「その後は老中にもなられ」
「権勢を極めていた」
「そうした方では」
「誰も何も出来なかった」
「そのうえで」
「したい放題となっておった」
まさにというのだ。
「それが厄介であった」
「そしてその権勢がまだ。ですな」
「大久保家に残っている、あ奴の子達はそうしたことはせぬが」
父と違いだ。
「しかしな」
「それでもですな」
「ことと次第ではじゃ」
「大久保家を潰し」
「あ奴の子達もじゃ」
「罰しますか」
「そうする」
その覚悟もしているというのだ。
「天下の為にな」
「天下を考えますと」
「やはりどうしても」
「時として厳しくせねばならぬな」
「これが民百姓ならば」
「甘やかすのはよくないが」
しかしというのだった。
「それでもな」
「情はですな」
「かけてな」
そうしてというのだ。
「罪は一等か二等減じるが」
「こうしたことは」
「それも出来ぬ、ではな」
「はい、それでは」
「凶、それもとてつもないことでもな」
「向かわれますか」
「わしが逃げてどうする」
天下人の自分がとだ、家康は言った。
「何といってもじゃ」
「向かわれますな」
「そうじゃ、わしが第一にじゃ」
まさにというのだ。
「向かいそうしてな」
「そのうえで」
「ことを収める」
「わかり申した」
「ではな、それで話は変わるが」
ここで家康は天海にこう尋ねた。
「お主は権勢等は求めぬな」
「昔からそうしたことには関心が及ばず」
「仏門にか」
「はい、そして学問にです」
「興味があるか」
「左様です」
天海はすぐに答えた。
「昔より」
「お主もう八十かそれ位というが」
「左様ですな」
「これまで謀よりも神仏や風水から天下の政をわしに言ってくれた」
そしてだったのだ、天海は。
「江戸についてもな」
「都を見てもわかる様にです」
「天下を長く穏やかに治める為にはか」
「はい、決壊も必要であり」
「江戸もじゃな」
「しかと神仏の結界を築くことが大事です」
それこそがというのだ。
「ですから大御所様にもお話したのです」
「成程な」
「江戸は都と同じく四神相応の地です」
「青龍、白虎、朱雀、玄武がおるか」
「その中央にいれば」
まさにというのだ。
「天下は治まります」
「平安にじゃな」
「都から治める場合と同じく」
「それでわしに色々と教えてくれたか」
「そうなのです」
「謀よりも教えか」
「拙僧の場合は」
「わかった、ではな」
「はい、これからも」
「教えてもらう」
何かと、というのだ。
「頼むぞ」
「その様に」
「江戸は栄えるか」
「今はまだはじまったばかりですが」
「やがてか」
「数十年もすればです」
「天下一の町となるか」
家康は目を光らせて天海に問うた。
「まさに」
「今人が急に集まっておりますな」
「関東、いや天下からな」
「江戸城を囲んで」
「人が集まりか」
「はい、そして」
それに加えてというのだ。
「商い等も盛んになり」
「栄えていき、か」
「天下一の町となります」
「信じられぬな、まだ」
家康は嘆息する様にしてこうも言った。
「それがな」
「最初に江戸を見た時を思えば」
「何もない草原だった」
当時の江戸はというのだ。
「廃城の如きみすぼらしい城があるだけだった」
「あの江戸城ですな」
「小田原や鎌倉の方が栄えておってな」
北条家の本拠地の相模や伊豆のことだ、鎌倉はかつて幕府がありまだ人がそれなりにいるのだ。
「それと比べるとな」
「まさに何もない」
「見てこれは駄目だと思ったわ」
当時の徳川家二百五十万石の本城には全く相応しくなかったというのだ。ましてや城下町なぞ影も形もなかった。
「到底な」
「しかしです」
「それもじゃな」
「しかと治めればです」
「天下一の町となるか」
「はい」
まさにというのだ。
「拙僧がこれまで申し上げてきた通り」
「そして今まさにか」
「出来てきております」
「あの江戸がのう」
「さらに賑やかになっていきますぞ」
「これからもか」
「泰平になればさらに」
こうもだ、天海は家康に話した。
「それが拙僧の願いです」
「天下が泰平になり町が栄える」
「そうしたこそがです」
「お主は長く生きていてそれだけ戦乱を見てきたからか」
「おそらく余計に想っているのでしょう」
自分でもこう言うのだった。
「やはり」
「左様か、ではわしはな」
「はい、泰平と繁栄をですな」
「江戸、そして天下にもたらそうぞ」
「さすればこの天海これからも」
天海は家康に畏まって応えた。
「尽くさせて頂きます」
「頼むぞ」
家康も応える、占いの他にそうしたことも話してそのうえでだった。天下の為の政をそのかなり老いた身体で進めていくのだった。
巻ノ百九 完
2017・6・1