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巻ノ百二

        巻ノ百二  百地三太夫

 幸村はこの日霧隠を呼び彼に言った。

「さて、御主もじゃ」

「修行をすべき時ですか」

「うむ」

 その通りだとだ、幸村は霧隠に答えた。

「それでじゃが」

「はい、それで何処の誰のところに参るのでしょうか」

「御主もよく知っておる御仁じゃ」

「と、いいますと」

「これでわかるな」

「あの方ですか」

「うむ、左様じゃ」

「確かあの方は」

 霧隠は幸村が話したその者について彼が察することから述べた。

「織田家の伊賀攻めの時に」

「死んだとじゃな」

「聞いていましたが」

「それがじゃ」

「実はですか」

「うむ、生きておられてな」

 それでというのだ。

「今は伊賀におられるとのことじゃ」

「伊賀の」

 伊賀と聞いてだ、霧隠はすぐに幸村に険しい顔で言った。

「あちらは」

「うむ、今の伊賀はな」

 幸村もそれは知っていて霧隠に言う。

「藤堂殿がおられてな」

「しかも伊賀者達のまさに故郷」

「入るのはじゃな」

「よくありませぬが」

 藤堂高虎は今や家康にとって下手な譜代の者以上に頼りになる者となっている、彼の腹心中の腹心と言っていい。

 それでだ、霧隠は伊賀者達のことも会わせて幸村に言うのだ。

「それでもですか」

「うむ、伊賀といってもな」

 その者はその国にいるのは確かだがというのだ。

「それでも奥深くでな」

「藤堂家も伊賀者達ですら」

「到底じゃ」 

 それこそというのだ。

「知らぬ位にな」

「そうした場所におられますか」

「だからこそじゃ」

「我等も行ける」

「例え伊賀であってもな」

「確かにです」

 霧隠は幸村の言葉を受けて述べた。

「山の深いところに行けば」

「それこそ並の忍の者ではじゃな」

「行く様な場所でないところもあります」 

 そうだというのだ。

「どの国にも」

「伊賀も然りじゃな」

「はい、では」

「そこに参ってな」

「そのうえで」

「御主の修行を頼みたいのじゃ」

「左様ですか」

「御主のその霧の術をじゃ」

 霧隠が最も得意としているそれのというのだ。

「磨いてもらいな」

「より強くなり」

「力にしてもらいたい」

「それで今からですか」

「行きたいがよいか」

「殿のお言葉ならば」

 一も二もない、霧隠は幸村に即座に答えた。

「是非共」

「そうか、ではな」

「はい、これよりですな」

「すぐにここを発つ」

 九度山をというのだ。

「よいな」

「わかり申した、さすれば」

「既に場所はわかっておる」 

 その者の居場所はというのだ。

「今よりそこに行くぞ」

「さすれば」

 霧隠も頷きそうしてだった、二人ですぐに九度山を後にした、そうしてそこから真田の忍道を通ってだった。

 伊賀の奥深くに来た、霧隠はその山の中を見回してそのうえで幸村に言った。

「もうここまできますと」

「誰もじゃな」

「いるのは山の民か獣か」

「それか天狗位じゃな」

「ですな、後は妖怪でしょうか」

 この辺りにいるならというのだ。

「それこそ」

「そうした場所じゃな」

「はい、そしてここにですな」

「あの方がおられる」

「そうなのですな」

「気配は感じるか」

「いえ」 

 そう言われるとだ、霧隠はすぐに周囲の気配を探った。しかしそうしたものは一切感じられず幸村に答えた。

「全く」

「うむ、拙者もじゃ」

「我が師です」 

 だからだと言う霧隠だった。

「ですからそう簡単にはです」

「気配もじゃな」

「探らせてくれませぬ」

 そうだというのだ。

「中々」

「左様じゃな」

「はい、ですから」

 それ故にというのだ。

「これからはです」

「この目で探そう」

「はい、しかしですね」

「ここにいることはわかっておる」

 このことは間違いないというのだ。

「あの御仁はな」

「そうですか、それではですね」

「うむ、二人で探そう」

「それでは」

 霧隠は主の言葉に頷き早速探そうとした、しかしここで不意にだった。二人の前に小柄な白い総髪の老人が出て来た。 

 その老人を見てだ、霧隠はすぐに片膝を突き老人に言った。

「師匠、お久し振りです」

「ほっほっほ、気付いたか」

「今まで気付きませんでした」

「いや、気配は完全に消しておった」

 老人は霧隠に穏やかな声で答えた。

「そのわしに気付くとはじゃ」

「それは、ですか」

「見事じゃ」

 そうだというのだ。

「それが出来ることはな」

「そう言って頂けますか」

「それでなのですが」

 今度は幸村が老人に言った。

「百地三太夫殿ですね」

「如何にも」

 その通りだとだ、老人は幸村に答えた。

「左様でございます」

「それがし真田源次郎幸村と申します」

「はい、来られると思っていました」

「既にですか」

「気配で感じ取っていましたし」

 それにというのだ。

「しかも来られる理由があるとわかっていましたので」

「だからですか」

「はい、某に才蔵をですな」

「もう一度鍛えて頂きたいのです」

 是非にとだ、幸村は百地に申し出た。

「是非共」

「そしてその理由は」

「はい、それはです」

「才蔵が再び天下に出て働く為に」

「それがしの下で他の十勇士達と共に」

「ですな、やはり」

「はい、それでなのですが」

「承知しました」

 百地はすぐに幸村に答えた。

「是非共」

「そう言って頂けますか」

「だからこそ参りました」

 幸村達の前にというのだ。

「そう致しました」

「左様でしたか」

「はい、それでなのですが」

「これよりですな」

「修行といきたいですが」

 ここでだ、百地は一呼吸置いてそれから幸村と霧隠に話した。

「それだけでは足りませぬな」

「はい、やはり」

「それがしがどうして生きていたのか」

「織田家の伊賀攻めで」

 霧隠が百地に言った。

「あの時でと思っていました」

「左様じゃな、しかしじゃ」

「あの伊賀攻めからですか」

「わしは屋敷に火を点けて自害したと見せてな」

「実は、ですか」

「そこから屋敷の中にいた者達を連れてじゃ」

 そしてというのだ。

「逃げ延びていたのじゃ」

「そうだったのですか」

「他にも多くの周りの者達がそうした」

「そうでしたか」

「それで生き残っておってな」

 そしてというのだ。

「わしはここに逃れて暮らしておるのじゃ」

「そうでした」

「今は一人で暮らしておる」

「故郷には」

「うむ、伊賀はもう服部殿のものとなった」

 伊賀者、彼等はというのだ。

「だからな」

「それで、ですか」

「わしは隠居してな」

「ここにおられるのですか」

「そうじゃ」

 その通りという返事だった。

「これでわかったか」

「はい、よく」

「そういうことでな」

 百地は弟子に温和な笑みで話した。

「わしはここのおるのじゃ」

「わかりました」

「さて、ではな」

「これよりですな」

「修行じゃが」

「はい、それがしに再び忍術をですな」

「霧の術を軸にな」

 霧隠が最も得意とするこの術をというのだ。

「もう一度教えていくぞ」

「わかり申した」

「うむ、そして免許皆伝までじゃ」

 まさにその時までというのだ。

「授けるぞ」

「お願い申す」

「それでじゃが」

 百地は霧隠にさらに話した。

「わしの家で寝泊まりしてもらうが」

「修行の間は」

「何処にあるか見付けられなかったか」

「はい、実は」

 それで探しあぐねていたとだ、霧隠も答えた。

「左様でした」

「ほっほっほ、そうであろう」

 百地は霧隠のその言葉に笑ってだ、まずはこう返した。

「わしも隠しておるからのう」

「それでは」

「うむ、見るのじゃ」

 こう言うとだった、彼等が今いる山の中の少し向こうの平たくなっている場所に小さな庵が見えた。その庵を見て幸村も霧隠も唸った。

「まさか」

「お師匠様の術で」

「そうじゃ」

 その通りというのだ。

「これはじゃ」

「ううむ、そうでしたか」

「そして御主にもじゃ」

「この術をですか」

「使える様になってもらう」 

 こう言うのだった。

「是非な」

「そうですか」

「ではな」

「はい、これより」

「励もうぞ」

 修行にだ、こう言ってだった。

 霧隠は早速だ、幸村も含めて三人でだった。百地の修行を受けた。その修行は実に厳しく激しかった。 

 霧隠は霧の術を使ってだ、こう言った。

「この術も」

「まだじゃ」

 百地はぴしゃりと言った。

「それではな」

「左様ですか」

「今御主は隠れたな」

「はい、霧を出して」

「そうした、しかしな」

 それでもというのだ。

「完全に隠れてはおらなかった」

「そうでしたか」

「姿は見えなかった」 

 それ自体はというのだ。

「しかしじゃ」

「それでもですか」

「気配はじゃ」

 それはというのだ。

「隠していなかった」

「霧に姿を隠して」

「それに安心してじゃ」

 それでというのだ。

「気配まではじゃ」

「隠していませんでしたか」

「姿を隠して油断するでない」 

 到底というのだ。

「だからじゃ」

「それで、ですか」

「気配にも気をつけよ」

 こう言うのだった。

「よいな」

「わかり申した、それでは」

「もう一度じゃ」

 霧隠にまた術を使わせる、そしてだった。

 術を使わせる中でだ、百地は霧隠にこうも言った。

「霧になり姿を消してじゃ」

「そしてですな」

「御主は自慢の剣技も使うが」

「その剣技もですか」

「気配も消すのじゃ」

 それも忘れるなというのだ。

「よいな」

「確かに。気配まで消さねば」

「目を誤魔化すだけではじゃ」」

「足りませぬな」

「人は目だけではない」

「耳もありますな」

「そして気も察する」

 それ故にというのだ。

「だからこそじゃ」

「そうしたことまで気をやる」

「そうして戦うのじゃ」

 これが百地の言うことだった。

「よいな」

「はい、それでは」

「霧は目だけではない」

「あらゆるものを隠す」

「そうした術じゃ」

 これが百地の言う霧の術だった。

「御主の霧の術も見事じゃが」

「目だけですか」

「相手のそれだけをくらましておる」

「そしてそれでは足りぬ」

「相手の六感の全てをじゃ」

「くらましてこそですな」

「真の霧の術じゃ」

 そうしたものだというのだ。

「そして御主はな」

「それが出来るのですな」

「だから言うのじゃ」

 そうしたことまでというのだ。

「今な」

「そうですな、では」

「御主はまだまだよくなる」

 百地は弟子に強い声でこうも言った。

「だからわしもじゃ」

「ここまでですな」

「教えておるのじゃ」

 そうだというのだ。

「御主ならばこそじゃ」

「それでは」

「そして霧はじゃ」

 霧自体についても話すのだった。

「ただ隠れる、くらますだけではない」

「毒ですか」

「霧に毒を含めればどうなる」

「かなりのものとなります」

 霧隠は百地にすぐに答えた。

「広まるものですし」

「それも使う術は知っておるな」

「はい」

「そのことも考えよ、ただしじゃ」

「自身や共に戦う者達のこともですな」

「考えてじゃ」

 そしてというのだ。

「使うことじゃ」

「そうした霧はですな」

「この術はしっぺ返しもある」

 百地が今言ったそれがというのだ。

「だからじゃ」

「使うべき時に使い」

「無暗に使わぬことじゃ:」

 それが大事だというのだ。

「くれぐれもな」

「承知しました」

「これは心ある者だけが使う術じゃ」

「若しそうでなければ」

「おぞましい術となる」 

 そうなってしまうというのだ。

「そこは気をつけるのじゃ」

「皆殺しの術ですな」

「強い毒を霧に含めて使えばな」

 まさにその時はというのだ。

「そうなる、城ですらもじゃ」

「まさにその毒霧を使えば」

「皆殺しに出来る、しかしな」

「無暗に敵を殺す術は」

「御主達が使う術か」

「いえ」

 即座にだ、霧隠は首を横に振って答えた。

「決して」

「それがし達確かに使えますが」

 それでもとだ、幸村も百地に言った。

「そうした術も。ですが」

「それでもですね」

「はい、使いませぬ」

 使える、それは事実にしてもというのだ。

「人の命を無下に奪うなぞ」

「やるべきことではない」

「そう考えておりまする」

 それでというのだ。

「ですから決して」

「それがよいかと」

「戦はどうしても人の命を奪います」

「しかし」

「はい、それでもです」

 それは事実にしてもというのだ。

「何があろうともです」

「無下に殺すものではない」

「戦で人を殺めるのは最低限のことで」

 無駄な命を奪うことはしてはならない、幸村が生まれてから誰よりも強く心に刻んでいおとだ。

 それでだ、霧隠も言うのだ。

「我等十勇士もです」

「それぞれじゃな」

「使おうと思えばです」

「そうしたことも出来るな」

「はい、しかし」

 それでもというのだ。

「それは決してです」

「使わぬか」

「我等全員同じです」

 無駄な殺戮をせぬことはというのだ。

「強く心に誓っておりまする」

「だからじゃな」

「それはしませぬ」

 師匠に対して強く答えた。

「それは我等主従全員がそうです」

「ならそうせよ」

「はい、力を使わず」

「そしてな」

「しかもですな」

「御主達は歩むべき道をわかっておるな」

「はい、殿の歩まれる道です」

 幸村を見ての言葉だった。

「それは」

「その通りじゃ」

「殿は武士の道を歩まれます」

「ならばじゃ」

「我等十人は」

「真田殿をお守りしてじゃ」

 武士の道を歩く幸村をというのだ。

「従い家臣として友として」

「そして義兄弟として」

「歩め、よいな」

「そう致します」

「真田殿の道は王道でも覇道でもない」

 百地は幸村が天下を望んでいないことをわかっていた、それで霧隠にもこう言ったのである。

「極めんとされる道じゃ」

「武士のそれを」

「そうした道もある、だからな」

「我等はですな」

「その道を歩め」

 こう言うのだった。

「よいな」

「はい、それでは」

「ではその為の術をな」

「これよりですな」

「授ける」

 霧隠、彼にというのだ。

「そうするぞ」

「わかり申した」

「そして強くなってな」

「殿と共にですな」

「道を行くのじゃ」

 百地は微笑み弟子に告げた。

「よいな」

「そうさせて頂きます」

「それではな」

 霧隠にだ、百地は己の術を授けていった。そして霧隠もまたその術を行っていきそうしてだった。

 強くなっていった、霧にだった。

 眠り薬を入れて出した、するとその霧でだ。

 山の多くの獣達が眠った、百地はそれを見て言った。

「よきことじゃ」

「これで、ですな」

「強き術こそ正しく使うべきじゃ」

「だからこそ」

「そこに強き毒を入れずな」

「眠らせる程度ですな」

「そうしたものを含ませてじゃ」

 そうしてというのだ。

「わかり申した」

「それでよい、その術でな」

「いざという時はですな」

「戦うのじゃ」

 こう霧隠に告げた。

「よいな」

「さすれば」

「間違っても毒を入れてはならぬ」

 殺す様なそれはというのだ。

「無駄な命を奪うな」

「断じて」

「それは忍術ですらない」

「外道ですな」

「それじゃ」

 まさにそれだというのだ。

「御主は外道になるな、何があってもな」

「そのお言葉肝に銘じておきます」

「真田殿は非常に澄んだ目をしておられる」

 幸村のその目を見ての言葉だ。

「そして御主もな」

「殿と同じく」

「よい目をしておる」

「だからですな」

「そのままじゃ」

「澄んだ目のまま」

「戦いそして志を遂げていくのじゃ」

 それ故にというのだ、百地も。

「霧にもそれを活かせ、霧に死に至るものを入れれば魔道になる」

「魔の道ですか」

「幕府を見よ」

 家康が興したそれをというのだ。

「徳川殿は魔道か」

「いえ」

 霧隠は師にすぐに答えた。

「決して」

「そうじゃな」

「織田殿は覇道でありましたが」

「徳川殿はどちらになる」

「王道かと」

 それだというのだ。

「あの方は」

「そうじゃな、そうしたことは決してされぬな」

「大御所殿も他の方も」

「確かに謀は使われる」

 それはというのだ。

「戦国の世のままな、しかしじゃ」

「外道はですな」

「されぬ」 

 それは決してというのだ。

「大御所殿も他の御仁もな」

「霧に毒を入れることは」

「あくまで王道を進まれる」

 家康も彼の周りの者達もというのだ。

「謀も王道の謀じゃ」

「そうしたものであり」

「わしが思うに真田殿と御主達は幕府とは相容れぬ」 

 幸村、そして十勇士達はというのだ。

「決してな、しかしな」

「王道に外道で挑んでは」

「話にもならぬ」

 その様な有様ではとだ、百地ははっきりと言い切った。

「左道で天下を取った者もおらぬわ」

「はい、確かに」 

 霧隠は百地が霧の中に隠れ彼の後ろに来てそこから一撃を浴びせようとしたのをかわした、彼もまた霧となってだ。

 そうして百地の横に現れ剣を繰り出す、百地の杖にその一撃を防がれつつもそのうえで言った。

「一人たりとも」

「古今東西な」

「一人もおりませぬな」

「左道はそうしたものじゃ」

 つまり外道、魔道と言われるものはというのだ。

「ただ人を殺め惑わすだけのものでじゃ」

「天下をどうかするものではない」

「正しくな」

「そうしたものに過ぎず」

「徳川殿に対したいならじゃ」

「そうした道に堕ちるな」

「真田殿と同じ道を歩め」

 まさにそちらをというのだ。

「よいな」

「わかりました」

「それではな、鍛錬に励んでいくぞ」

「正しき道のそれを」

「その目のままでいよ」

 澄んだそれでというのだ。

「これからもな」

「才蔵も他の者達もよい目をしています」

 このことは幸村も言った。

「どの者も多くの戦を経てきましたが」

「それでもですな」

「荒んだものはありませぬ」

 それこそ一欠片もというのだ。

「澱みも汚れも」

「ですな、正しき道を真田殿に従い歩んできたが為に」

「だからこそ」

「いい目をしておるので」

 霧隠達十勇士はというのだ。

「そうなっております」

「それでは」

「真田殿は正しきお心を持たれ」

 そしてというのだ。

「才蔵達を率いて行かれて下さい」

「それがしの道を」

「そうすれば才蔵達もです」

 霧隠との稽古を続けつつの言葉だった、霧で互いに姿を消し攻めてかわし合いつつの言葉だった。

「必ずです」

「それがしと同じ道を進み」

「正しき心のままでおります」

「それがし次第ですか」

「まず大事なのは」

 まさにというのだ。

「それです」

「それがしの心ですか」

「大丈夫だと思いますが」

「心はですな」

「これからもです」

「確かに保ち」

「進まれて下さい」

 くれぐれもというのだ、そうしたことを話してだった。幸村も霧隠も百地の修行を受けた。それは寝る間も惜しんで行われていた。

 飯の時と寝る時以外はまさに修行の日々だった、だが。

 晩飯の時に星を見てだ、幸村は言った。

「凶星が」

「ありますか」

「はい」

 その星を見てだ、幸村は百地と才蔵に話した。晩飯は山の獣と山菜や茸を鍋にしたものだ。

「一つ、幕府の中に」

「そうなのですか」

「幕府の中に」

「重臣の方がお一人」

 幸村は星を見つつ話していく。

「落ちます、それも一族ごと」

「一族ごととは」

 そう聞いてだ、霧隠は眉を曇らせて言った。

「それはまた」

「大きいな」

「はい」

 まさにというのだ。

「それは」

「どうもそこもまでのな」

「凶兆がですか」

「出ておる」

 星にというのだ。

「それがな」

「厄介ですな」

「果たして幕府のどなたか」

「そこまではですか」

「拙者にもわからぬ」

 その星の動きを見つつだ、幸村は霧隠に話した。

「どうもな、しかしな」

「それでもですか」

「何かよからぬことが起こるのは間違いない」

 このこと自体はというのだ。

「幕府、そして天下自体にな」

「よくないことが」

「嫌なことになりそうじゃ」

 そうしたものだというのだ。

「どうもな」

「左様ですか」

「この凶兆によってじゃ」

 幸村はさらに言った。

「さらなる禍があるやも知れぬな」

「そこまでのものだと」

「そうも思った、一つの過ちがさらに過ちを呼び込む」

「そうしたものだと」

「そうやもな」

「ふむ、それがしは星のことはわかりませぬが」

 百地も夜の星を見て言う。

「真田殿がそう言われるなら」

「確かだと」

「そう感じました」

「左様ですか」

「はい、しかし」

「しかしですか」

「よからぬことはです」

 どうにもとだ、百地もその顔に不安を宿らせて言った。

「起こらぬ方がよいですな」

「全くです」

「そう願います」

「この世に凶兆は常に転がっていてです」

「それが芽になりますな」

「それも世の中です」

 幸村はふとここで彼の義父だった大谷のことを思い出した、業病に罹り苦しんだ彼のことをだ。 

 そのうえでだ、こう言うのだった。

「ですから」

「それで、ですな」

「何かが起こります」

「それが悪いことでも」

「このことが気になります、しかしです」

「我等はここにいますので」

 霧隠は幸村に話した。

「ですから」

「うむ、何かをすることはな」

「出来ませぬ」

「ましてや幕府のことじゃ」

「余計にですな」

「幕府は心ある方が多いにしても」

 それでもというのだ。

「その心ある方に何かあるのなら」

「残念なことですか」

「近頃四天王方々も代替わりが進んでおりますな」

 ここで百地はこのことを言った。

「四つの家全てが」

「はい、どの方々もお亡くなりになられました」

 幸村も百地にこのことを答えた。

「関ヶ原まで活躍された方々は」

「そうなられましたな」

「人は必ず去るもの」

 例え誰手もというのだ。

「ですから」

「それで、ですな」

「どの方もです」

 千代の者達全てがだ。

「この世を去られていっています」

「そうなっていますな」

「そしてです」

「次の代の方々にな」

「移っておりまする。ただ代替わりもあって」

 幸村さらに言った。

「これまで四天王の方々のお力が強かったですが」

「それがですな」

「今は本多殿の分家の」

「あの親子の方々に」

「そして柳生殿、天海殿や崇伝殿がです」

「幕府で力をお持ちですな」

「武から政に移っています」

 今の幕府はというのだ。

「そうなっています」

「天下を治める様になっていますか」

「戦で勝つのではなく」

「ふむ、大きく変わっていますな」

「その幕府でのことです」

 凶兆が見られたのはというのだ。

「果たしてこれはどういうことか」

「やはり気になりますな」

「どうしても」

 そうだとだ、幸村はまた答えた。

「そこは」

「変わり目での凶兆となると」

「余計にです」

「おかしなことになる」

「そうなるものなので」 

 平時の時のそれよりもというのだ。

「ですからそう思いまする」

「そうですな、さてどうなるか」

 百地も考える、しかしだった。

 三人共食べ終えるとだ、百地はあらためて言った。

「このことに気をつけつつ」

「はい、そしてですな」

「今は」

「休むべきかと」

 こう言うのだった、霧隠にもかけた声だった。

「今は」

「ですな、幕府のことであり」

「我等にはですな」

「おそらくですが殆ど」

「では」

「はい、休んで」

 そしてというのだ。

「また明日です」

「修行にですな」

「励みましょうぞ」

 こう言うのだった、そしてだった。

 彼等はこの日は休んだ、そしてまた修行に励むのだった。

 しかしこの頃だ、江戸では秀忠が難しい顔で幕臣達に言っていた。

「わしも父上と考えは同じじゃ」

「豊臣家については」

「そうなのですな」

「うむ、お拾殿は千の婿じゃ」 

 それになるというのだ。

「そのこともあるしな」

「だからですな」

「それで、ですな」

「上様にしましても」

「豊臣家については」

「潰すつもりはない」

 そうだというのだ。

「そこまではせぬ、あくまでな」

「他の大名家と同じくですな」

「扱いそうしてですな」

「国持大名でいてもらう」

「そうなのですか」

「そう考えておる」

 まさにというのだ。

「わしもな、しかしじゃ」

「それでもですな」

「それには条件がありますな」

「豊臣家を潰すには」

「それなりの条件が」

「そうじゃ」

 まさにというのだ。

「茶々殿が江戸に入ってな」

「そして大坂もですな」

「あの城から出てもらう」

「そうしてもらいますか」

「是非共」

「そうじゃ、わしも大坂が手に入ればじゃ」

 そうなればというのだ。

「よいと思っておる」

「大坂が手に入れば」

「そこから西国を治められますし」

「天下の財も集まります」

「あそこさえ手に入れば」

「豊臣家は潰すに及ばぬ」

 まさにというのだ。

「そこまでせずともよい」

「左様ですな」

「大坂さえ手に入れはです」

「もう豊臣家を潰さずともです」

「特にいいですな」

「そこまでせずとも」

「豊臣家も大坂がないとな」

 この場所から出ればというのだ。

「何の力もない」

「左様ですな」

「大坂にいるから財も集まりますし」

「それにあの大坂城にもいます」

「だからこそ力があります」

「しかしその大坂から出れば」

「何でもないわ」

 所詮はというのだ。

「だから茶々殿が出ずともな」

「豊臣家には大坂から出てもらう」

「そういうことですな」

「では、ですな」

「豊臣家は大坂から出てもらう」

「それでいいですな」

「それが条件ですな」

「後は大和にでもな」

 この国に移らせてというのだ、幕府にとっては。

「国替えをしてじゃ」

「そうしてですな」

「もう後はですな」

「百万石にでもして」

「官位も高くし」

「それでよいわ」

 大体家康と同じ考えだった。

「おおよそな、しかしな」

「締めるところはですな」

「どうしても締めますな」

「そうされますな」

「うむ、大坂から出てもらう」

 これは絶対だというのだ。

「そしてどうしてもな」

「切支丹はですな」

「これからの大御所様のお考え次第では」

「こちらも」

「あれはよくない」

 切支丹はというのだ。

「幕府にしてはな」

「民を奴隷にするなぞ」

「言語道断です」

「信じられませぬ」

「その様なことをするとは」

「全く以て」

「切支丹であらずんば人にあらず」

 秀忠は目を顰めさせて言った。

「どう思うか」

「平家と同じ、いえ平家より酷いかと」

「実際は平家はそこまでではありませんでした」

「家臣には寛容でした」

「しかしあの者達はです」

「他の者に寛容ではありませぬ」

「むしろその逆です」

 まさにというのだ。

「ですから

「あの者達については」

「崇伝殿の言われる通りです」

「許してはおけまえぬ」

「本朝には置けませぬ」

「そうじゃ」

 まさにというのだ。

「だからな」

「はい、それでは」

「あの者達は」

「わしも同じじゃ」

 その考えは家康と、というのだ。

「本朝には置けぬ」

「天下万民の為」

「何としてもですな」

「幕府は国も民も保たねばならぬ」

 その双方をというのだ。

「万全にな、だからな」

「切支丹は許せぬ」

「そういうことですな」

「そうじゃ、あと本朝の銀が貿易でどんどん外に出ておったが」

 日本の外にだ。

「これもじゃ」

「はい、防いでいきますか」

「大御所様のお話の通りにされて」

「そのうえで」

「うむ、止める」

 そうするというのだ。

「どうも南蛮の者達はそこでも胡散臭い者が多いわ」

「信仰でも商いでも」

「そのどちらでも」

「本朝を狙っている」

「そうした者が見受けられますな」

「うむ」

 そうだとだ、秀忠は答えた。

「御主達もそう思うな」

「切支丹のことや伴天連のことを見ますと」

「やはりそうかと」

「南蛮貿易は実入りがありますが」

「そうした危うさもあります」

「そうじゃ、明も近頃屋台骨が危ういというし」

 この国もというのだ。

「あちらの帝がどうにというな」

「はい、何も政を執られずです」

 本田正信が秀忠に話した。

「宮中に篭られ」

「酒色に溺れておられれるか」

「朝議に出られることはないとのことです」

「そうか」

「そして傍の者達が好きにしてです」

 本多は宦官とは言わなかった、彼にしても本朝になかった存在なのでどうにもわからないものだからだ。

「政は大いに乱れているとか」

「そして民は苦しんでおるな」

「重税と無策により」

「そうした有様が続いて長いな」

「もうかなりです」

「ふむ、明も倒れるやもな」

 秀忠は本多のその話を聞いて述べた。

「やがては」

「はい、相当に屋台骨が強くそうそうとはならぬと思いますが」

「それでもじゃな」

「その様な有様ですとです」

「国が倒れぬ方がおかしいな」

「左様です」

「幕府としてはなってはらなぬことじゃ」 

 その明の様にはというのだ。

「決してな」

「その通りです」

「政に励む身を慎み」

「民を第一に考えていくべきです」

「全くじゃ、竹千代にもそれは言っておく」

 嫡男の彼にもというんだ。

「どうも奥は国松の方を可愛がっておってな」

「国松様がお可愛い」

「そうなのですか」

「やはり我が子じゃ」

 だからこそというのだ。

「可愛い、しかし竹千代も我が子でじゃ」

「しかもご嫡男です」

「だからですな」

「次の将軍は竹千代様ですな」

「あの方ですな」

「それは変わらぬ」 

 決してというののだ。

「父上もそう言われておるな」

「はい、大御所様も決めておられます」

「跡継ぎは竹千代様とです」

「まだはっきり言われていませぬが」

「その様にです」

「しかも乳母もよい」

 秀忠は竹千代の育て役である女のことも話した。

「あれがおる限り竹千代は大丈夫じゃ」

「ですな、あの方ですと」

「安心していいですな」

「うむ、それに多くの者達が竹千代がいいと言っておる」

 幕府の中でともというのだ。

「だから竹千代で決まりじゃ」

「跡継ぎはですな」

「あの方にされますな」

「その様にされますか」

「うむ、奥もこのことはわかっておる」

 跡継ぎのことはというのだ。

「竹千代にすべきということはな」

「そうですな、奥方様もです」

「確かに国松様を可愛がっておられますが」

「それでもです」

「そのことはご承知です」

「ならばですな」

「竹千代様で決まりですな」

「変わる筈がない」

 竹千代が秀忠の次の将軍であることはというのだ。

「それはな、しかし国松はわしの息子の一人」

「では然るべき立場にされますか」

「その様にされますな」

「元服されたら」

「その時はですな」

「そうじゃ、そうする」

 まさにというのだ。

「国松も大名、それも駿河にでもな」

「あの国をお任せしますか」

「国松様には」

「そうされますか」

「うむ、竹千代が将軍でじゃ」

 そしてというのだ。

「国松は然るべき家の大名としてな」

「竹千代様、幕府をお助けする」

「そうした立場にですな」

「そうなって頂けますな」

「そうする」

 国松についてはというのだ。

「そしてな」

「はい、それでは」

「そうされますか」

「駿河をお任せし」

「竹千代様、幕府を助けて頂きますな」

「そうした風にしていこう」

 こう言うのだった、そしてだった。

 秀忠は幕府のこれからも見据えてしっかりとした政を行っていた。幕府は次第に盤石になってきていた。



巻ノ百二   完



               2017・4・8


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