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巻ノ九十五

                 巻ノ九十五  天下の傾き

 伊佐は幸村と共に米沢において慶次から棒術の稽古を受け続けていた、それは道場においてだけでなく。

 夜には外に出て野を激しく駆けつつ行う、慶次は駆けながら伊佐に棒を繰り出し伊佐は防ぎ反撃を加える。

 突き振る。そうした勝負が続き。

 慶次は伊佐に正面から激しい突きを幾十も瞬時に繰り出してだ、伊佐がそれを全て防ぐのを見てから言った。

「わしは馬に乗っておらぬな」

「はい、松風に」

「それは御主の術がそうだからじゃ」

「拙僧のですか」

「見たところ御主は馬に乗らぬな」

「我等十勇士はです」

 伊佐だけではなくとだ、慶次に答えた。

「馬には乗りませぬ」

「戦の時だけでなくじゃな」

「馬には乗れますが」

 それでもというのだ。

「馬上で戦をすることはありませぬ」

「そうじゃな」

「忍ですので」

 それ故にとだ、伊佐はその普段は穏やかな目を強くさせて答えた。

「ですから」

「だからか」

「はい、忍は馬に乗りませぬな」

「乗られてもな」

「戦の時は」

「馬に乗るのは武士じゃ」

 基本的にそうだというのだ。

「しかし忍の戦ではな」

「使いませぬな」

「だからか、そう言えばわしもじゃ」

 慶次は激しい攻撃を繰り出し続けつつ伊佐にまた言った。

「元はな」

「そういえば前田殿は」

「実は滝川家からの養子でな」

 このことは笑って話した。

「このことは知っておると思うが」

「はい、滝川家は元は甲賀の出で」

「忍の家でな」

「それで、ですな」

「わしも忍術を教わっておった」

 慶次自身もというのだ。

「そうであったわ」

「左様でしたな」

「忍術も一応使える」

 笑っての言葉だった。

「図体があまりにも大きくいささか隠れるのは不得手だがな」

「それでもですな」

「使えるわ、しかしわしは傾奇者じゃ」

 このことから言うのだった。

「どうも隠れるのは性分でなくな」

「だからですな」

「忍術は殆ど使ったことがないわ」

 その出に関わらずというのだ。

「それに前田家におってな」

「養子に入られて」

「槍や馬の稽古が主になってな」

 前田家はそうした家だというのだ、前田利家を見てもわかる通りこの家は純粋な武士の家であるからだ。

「そちらが主になっておる」

「ですな」

「そしてじゃ」 

 慶次はさらに話した。

「こうして伊佐殿に術も教えておる」

「左様ですな」

 伊佐も言った。

「拙僧に」

「うむ、思えば奇遇じゃ」

「若し前田殿が前田家に養子に入らねば」

「その時はここにおらぬかもな」

「そして拙僧にもですな」

「術を授けておらなかったな、傾奇者にもじゃ」

 慶次の生き様であるそれもというのだ。

「ならなかったかものう」

「そうですか」

「そして叔父御とも幾度も殴り合わなかったわ」

 伊佐に棒を繰り出しつつ話した、幸村も共に付き合っているのはいつも通りだ。

「槍の稽古もよくした」

「今の様に」

「そうもしておった」

 修行の中懐かしむ顔も見せた。

「叔父御とはな」

「槍の稽古もされていましたか」

「そうじゃ、この様にいつも荒稽古をしておった」

 さながら戦の命のやり取りの様なだ。

「それをしておった」

「そうでしたか」

「わしもあと少し経ったらな」 

 慶次はこうも言った。

「叔父御のところに行くやもな」

「そう言われますか」

「そうも思う、しかし最後の最後まで傾くか」

 その生き様は貫くというのだ。

「そして真田殿達もじゃな」

「生き様は変えませぬ」

 伊佐と共に駆ける幸村が応えた、忍の中でもとりわけ素早い。しかも幾ら駆けようとも息切れ一つしてはいない。

「それはな」

「わしが言う傾くか」

「そうされます」

 是非にというのだった、幸村も。

「それが傾きならば」

「そうか、ではわし以上に傾きをな」

「貫きます」

「そうしてもらいたい」

 修行をしつつだ、慶次は幸村達のその言葉に頷いた。そしてだった。

 三人で修行を続けた、伊佐は慶次の言う通りに日に日に腕をさらに上げてだった。やがて慶次が思っていたよりも早くだった。慶次にこう言わせた。

「もう充分じゃ」

「では」

「うむ、貴殿はな」

「これで、ですな」

「免許皆伝じゃ」

 伊佐に笑みを浮かべて告げた。

「まさにな」

「左様ですか」

「もう教えることはない」

 慶次はこうも言った。

「では時が来ればな」

「その時はこの術で」

「思う存分戦われよ」

 こう伊佐に言った。

「是非な」

「はい、それでは」

「そしてこれからは」

「一旦九度山に戻ります」

 そうするとだ、幸村が答えた。

「そしてです」

「そちらでも修行じゃな」

「そしてまた山を出て」

「この様にか」

「天下の豪傑の方に教えを乞います」

 時に備えてというのだ。

「そう致します」

「やはりそうされるか」

「はい、今は」

「わかった、ではもうお会いすることもないと思うが」

「これで、でしな」

「別れようぞ」

 慶次は笑顔で言った。

「これでな」

「はい、それでは」

「餞別に酒にするか」

 今彼等は慶次の屋敷の道場にいる、そこで最後の修行を終えたのだ。

「飲むか」

「酒ですか」

「今はな」

「それでは」

「うむ、早速出す」

 その酒をというのだ。

「それではな」

「それがですな」

「別れの杯じゃ」

「そうなりますか」

「そうじゃ、では飲もうぞ」

 こう言って実際にだった、慶次は。

 最後に別れの酒を心ゆくまでだ、幸村そして伊佐と共に飲んだ。そのうえで。

 米沢を発つ慶次と笑顔で別れた、その後でだった。

 彼は自分の屋敷に来た兼続にだ、笑顔で聞かれた。

「楽しんでおったな」

「やはりわかっておったか」

 慶次も笑顔で応えた。

「そうであったか」

「うむ、殿もな」

 景勝もというのだ。

「そうだ」

「迷惑をかけたな」

「ははは、幕府には証拠を見せておらぬ」

 幸村達がいたというそれはというのだ。

「だからな」

「気にせずともよいか」

「そうじゃ」

「そう言ってくれるか」

「うむ、しかしな」

「しかし?」

「上杉家はもうあの御仁と轡を並べることはない」

 兼続は慶次にこのことも話した。

「最早な」

「幕府の中に入ったからか」

「我等は今は徳川家の下にある」

「そういうことじゃな」

「その中で生きるからな」

「だからか」

「そうじゃ、真田殿はわしも殿も嫌いではないが」

 個人としての感情ではというのだ。

「そうであるがな」

「それでもじゃな」

「共には戦えぬ」

「幕府の下で戦うか」

「そうする、しかし御主はどうする」

 兼続は慶次の目を見て彼に問うた。

「そこでまた傾くか」

「ははは、真田殿の様にか」

「そうするか」

「いや、それはな」

 慶次は兼続のその問いにも笑って返した。

「もうわしもな」

「それはか」

「ないわ」

 こう言うのだった。

「もうその時まで生きておるか」

「わからぬからか」

「そのこともあるし生きておってもそこまで傾けるか」

「いや、御主ならな」

 笑ってだ、兼続はその慶次の言葉に応えた。

「そこでそうすると思うが」

「傾くか」

「そうな」

「どうだろうかのう」

「その時はわしも殿も何も言わぬ」

「行ってもよいか」

「好きにせよ」

 これが兼続の返事だった。

「その時御主がしたい様にな」

「それではそうしてよいか」

「遠慮は無用じゃ」

 兼続はこうも言った。

「是非な」

「それでは」

「有無、好きな様にせよ」

「それではな」

「むしろ御主は最後まで傾くことじゃ」

 慶次自身にだ、兼続は告げた。

「天下一の傾奇者としてな」

「最後の最後まで傾いてか」

「生きることじゃ」

「思うがままにか」

「御主らしくな」

「では若しかするとな」

 遠くを見る目で微笑んでだ、慶次は兼続に述べた。

「わしは真田殿と轡を並べるやもな」

「そうしたいならそうせよ」

「わしが思うままにか」

「うむ、そうせよ」

 是非にというのだった、兼続も。

「そしてな」

「そのうえで、ですな」

「天下の傾奇者として最後まで傾いてな」

「雲の様にじゃな」

「そうして生きるのじゃ」

 まさに死ぬ時までというのだ。

「よいな」

「その言葉受け取らせてもらうぞ」

「是非な」

「そうしていくわ」

 慶次も頷いた、そしてだった。 

 笑顔のままでだ、兼続にあらためて言った。

「喉が渇いておらぬか」

「茶か」

「久し振りに共に飲まぬか」

「よいのう」

 兼続は茶と聞いてだ、先程とは別の笑みになって応えた。

「ではな」

「これよりな」

「共に飲もうぞ」

 二人はこうして茶を飲み合った、それぞれのことを話したうえで。そしてだった。

 幸村と伊佐は無事に九度山まで戻った、そのうえで自身の屋敷に入ったがそこでだった。幸村はこんなことを言った。

「こうしてこの屋敷に戻るとな」

「やはりですな」

「落ち着くのう」

 こう言うのだった。

「流されておる場所じゃが」

「それでもですな」

「拙者の家じゃからな」

 だからだというのだ。

「そうなってきた、そしてじゃ」

「そしてですか」

「そうじゃ」 

 さらに言うのだった。

「落ち着く様になってきたわ」

「次第にそうなってきましたか」

「しかも妻も子もおる」

 彼等もというのだ。

「だから余計にな」

「ここにですな」

「馴染みを感じておられますな」

「そうなってきた」

「そうなのですな」

「うむ、どうにもな」

 ここはだ、幸村は笑って話した。

「そうなってきたわ、やはりここはな」

「殿のお屋敷ですな」

「休めて落ち着ける場所ですな」

「そうした場所ですな」

「そうなってきましたか」

「住めば都というが」

 まさにというのだ。

「その通りじゃな」

「左様ですな」

「我等もどうにもです」

「ここが好きになってきました」

「親しみを持ってきました」

 十勇士達も口々に言ってきた。

「それでここに帰るとです」

「ほっとする様になってきました」

「どうにもです」

「最初は違いましたが」

「そうもなってきました」

「そうじゃな、しかしそうも思うが」

 それでもとだ、ここでまた言った幸村だった。

「やはりな」

「はい、それでもですな」

「何時かはですな」

「この山を出てですな」

「そしてそのうえで」

「再び」

「世に出たいともじゃ」

 実際にとだ、幸村はこうも言った。

「思っておる」

「そうですか」

「どうにもですか」

「この山を出てですな」

「そして再びですな」

「この世で、ですな」

「もう一度」

「そうも思う、果たして拙者達はどうなるか」

 幸村は不安も述べた。

「また世に出られるかここで終わるか」

「それがですな」

「どうにもわかりませぬな」

「先のことは」

「全く」

「世に出られると信じておる」

 この気持ちはあるというのだ。

「確かにな」

「はい、それはです」

「我等も同じです」

「必ずです」

「我等はまた世に出られます」

「その日が来ます」

「そう思っておる、しかしな」

 そう信じていてもというのだ、人の気持ちは何かと複雑だ。それで信じているのと共にというのだ。

「信じておってもな」

「ついついですな」

「そうも考えてしまいますな」

「若しやと」

「その様に」

「時に大助じゃ」

 幸村は我が子の話もした。

「あ奴はここで生まれた」

「そしてですな」

「このままですな」

「ここで過ごされるか」

「そうなると思うと」

「あ奴は外で過ごすべきじゃ」

 これが幸村の我が子への考えだった。

「他の子達もな」

「左様ですな」

「やはりです」

「この様な狭く寒い山からです」

「出てそしてです」

「外で過ごされるべきですな」

「天下でな、そう思う」

 父としての心からの言葉だった。

「拙者はな」

「全くですな」

「そこはです」

「何としてもそうして頂きたいですな」

「天下をそのお目で広く見られて欲しいです」

「そうも思う、だからこそ余計に感じるわ」

 これからのことへの不安、それをというのだ。

「どうにもな」

「ですな、しかしです」

「先のことがわからぬなら」

「それならばですな」

「今は余計にですな」

「修行に励むことじゃ」

 それは続けるべきだとだ、幸村は十勇士達に答えた。

「不安を感じる位ならばじゃ」

「それを振り払いですな」

「忘れるまでにですな」

「修行に励む」

「それがよいのですな」

「そう考えるのは何故か」

 不安を感じるのかというのだ。

「それは心に余裕があるからじゃ」

「そしてよからぬことを考え」

「そうしてですな」

「そうしたことも考えてしまう」

「そうなのですな」

「そうじゃ、ならばじゃ」 

 そう思わない為にもというのだ。

「よいな」

「はい、これまで以上にです」

「修行に励みましょう」

「そしてそうした弱い性根を抑え消して」

「そのうえで」

「備えるのじゃ」

 来ると信じているその時にというのだ。

「わかったな」

「はい、では」

「その様にしていきましょうぞ」

「これからも」

「ではな」

 幸村はここまで話してだ、十勇士達にあらためて告げた。

「これよりじゃ」

「はい、修行ですな」

「それをしますな」

「今より」

「うむ、外は雨じゃが」

 それでもというのだ。

「わかっておるな」

「忍に雨も嵐も雪もありませぬ」

「雨であろうと何であろうとです」

「修行を行う」

「そういうものですからな」

「そうじゃ、雨の中で動ける様になるのもじゃ」

 それもまた、というにだ。

「忍はな」

「だからですな」

「ここは修行ですな」

「それに励みますか」

「その後で風呂に入る」

 雨の中での修行の後でというのだ。

「そのうえで温まるぞ」

「はい、それでは」

「冷えた後は温まりましょう」

「風呂を楽しみにして」

「そうして」

 こう話してだ、そのうえでだった。

 彼等は雨の中で修行を行った、激しい雨であったがそれでもだった。山の中を駆け回り木刀を打ち合わせ手裏剣も投げた。

 十一人で激しい鍛錬を行いだ、それからだった。

 共に風呂に入った、その風呂の中でだ。幸村は言った。

「よいのう」

「はい、修行の後は風呂ですな」

「特にこうした雨や雪の後は」

「身体を冷えた後は」

「風呂に限りますな」

「これが一番よいですな」

「全くじゃ、こうした修行の後は風呂じゃ」

 幸村は自分の冷えた身体が急に温まっていくのを感じつつ応えた。

「身体が冷えてもな」

「それでもですな」

「その後で、ですな」

「身体を温める」

「それが大事ですな」

「そうじゃ、さもないと身体を壊す」

 冷えたままではというのだ。

「だからな」

「修行ならばですな」

「その後で身体を温める」

「身体を冷やしたままにはしない」

「それもしっかりとしておくのですな」

「身体は冷えたままにしていいことはない」

 幸村は以外の知識もある、忍としてそれを備えているがそちらの書もよく読んでいてそこから備えたものである。

「だからな」

「こうしてですな」

「身体を温め」

「そのうえで休む」

「そうすべきですな」

「そうじゃ」

 まさにというのだ。

「だからじゃ、今はな」

「この風呂で身体を温め」

「そうして休みますか」

「ゆっくりとな、我等の鍛錬は永遠じゃ」

 死ぬ、その時までだ。

「己の道の為でもあるからな」

「修行、鍛錬は己の心を鍛えるものでもある」

「身体だけでなく」

「それ故にですな」

「修行は続けますな」

「こうした場所におろうとも」

「時が来ずとも」

「そうじゃ、心身は始終鍛えていくものじゃ」

 まさにというのだ。

「そうしていくものだからな」

「はい、では」

「明日もですな」

「修行に励みましょう」

「心身を鍛え」

「是非な、それで拙者はじゃ」

幸村な風呂の後自分が何をするのかも家臣達に述べた。

「風呂の後は学問じゃ」

「ううむ、流石は殿ですな」

 猿飛は風呂の中で唸って言った。

「学問も忘れませぬか」

「殿が学問をしない日はないですな」

 清海の言葉もしみじみとしていた。

「修行だけでなく」

「我等は十蔵以外は学問は疎いですが」

 海野も言う。

「殿は違いますな」

「まさに文武両道」

 根津の言葉は確かなものだった。

「学問も励まれるとは流石は殿です」

「そして武芸だけでなく軍略も備えられましたし」

 霧隠の言葉も主を素直に讃えたものだった。

「人の上に立つのなら学問も必要ですか」

「そしてその文武で、ですな」

 穴山の目は幸村を向いていた、素直な敬意がそこにある。

「時が来ればことを為されるのですな」

「では我等はそれぞれの力で」

 由利は風呂の中だが畏まった。

「その殿をお助けしましょう」

「及ばずながらです」

 望月も言う。

「我等日々励みその力で殿と共に進みまする」

「学問に励まれる殿と共に」

 まさにとだ、伊佐が述べた。

「道を進んでいきます」

「では殿、今宵もですな」

 最後に十勇士の中で随一の学門の持ち主筧が応えた。

「書を読まれますか」

「今宵は太平記を読む」

 この書をというのだ。

「そして兵法と人のあり方を学びたい」

「太平記から」

「そうされますか」

「是非な」

「そうする」

 まさにという返事だった。

「それに拙者は学問も好きじゃ」

「ですな、お若い頃から」

「よく書を読まれています」

「そして鍛錬に励まれ」

「強くもなられていますな」

「そちらについても」

「うむ、真田は智でも戦う家じゃ」 

 武芸だけでなくだ。

「父上もそうじゃな」

「はい、大殿にしましても」

「実際にですな」

「学問に励まれ」

「そうして備えられましたな」

「智もまた」

「そうであったからな」

 昌幸、彼もだ。

「わしもじゃ」

「智恵をですな」

「これからも備える様に励んでいく」

「学問をされ」

「そのうえで」

「そうしていく、では太平記を読む」

 今日の悪問ではというのだ。

「これからな」

「はい、お励み下さいませ」

「そちらも」

 十勇士達は幸村にこう言った、そしてだった。

 幸村は実際に太平記を読んでいった、そのうえで兵法等も学んでいった。そして次の日のことであった。

 まだ赤子の大助に太平記の話をしようとした、しかしそこで妻に言われた。

「まだわかりませんよ」

「赤子だからか」

「はい、ですから」 

 夫に微笑んで言うのだった。

「それはです」

「まだ待つか」

「そうされて下さい」

「それではな」

「まだ暫くお待ち下さい」

「大助にも学問をしてもらいたいな」

「そしてですね」

「そうじゃ、確かな者に育ってもらいたい」

「文武を備えた」

「心もな」

 それもというのだ。

「即ち心技体を全て兼ね備えた」

「拙者以上の武士になってもらいたい」

 幸村は我が子を見つつ微笑んで述べた。

「是非な」

「それでは」

「大助の物心がついたならじゃ」

 その時はというのだ。

「是非な」

「武芸も学問も」

「教えたい」

「そうですね、しかし」

「拙者はじゃな」

「旦那様は優し過ぎます」

 妻だけあってだ、幸村のその気質がわかっていて言うのだった。

「どうしても」

「だからじゃな」

「十勇士の方々もまた」

「どうもな」

「武芸は天下無双であられても」

 一騎当千と言ってもいい、幸村も含めて彼等にはそこまでの強さが確かにある。だが彼等はそれでもというのだ。

「そのご気質は優しく」

「厳しいことはじゃな」

「戦の場ではともかく」

「うむ、共に激しく汗を流すが」

「それでもですね」

「お互いに怒鳴ったり殴ったりすることはない」

 修行の時にというのだ。

「決してな」

「厳しいことを言われることも」

「ない」

 そうしたこともだ、幸村自身が言った。

「どうもな」

「今も大助に甘いですし」

「甘過ぎるか」

「旦那様らしいですが」

「だからか」

「はい、若し大助を天下一の武士にされたいのなら」

「父上が言っておられた」

 幸村は妻に父のことも話した。

「厳しいことはな」

「義父様がですね」

「されるとな」

「そうですか、では」

「そこは父上にお任せするか」

「それがよいかと」

 妻は幸村に微笑んで答えた。

「旦那様ではやはり難しいので」

「厳しくすることはじゃな」

「はい、ですから」

「ではな」

「そのことはそうされて」

「そしてじゃな」

「旦那様と十勇士の方々はそれぞれのやり方で」

 幸村達のそれでというのだ。

「大助をお育て下さい」

「ではな」

「私もそうしますので」

「母としてじゃな」

「そうします」

「では頼むぞ。しかしな」

「しかしとは」

「うむ、この山に入ってからじゃ」

 九度山にとだ、幸村はこうも言った。

「子を授かるとはのう」

「これまでどうしてもでしたね」

「子を授からなかったが」

「それも縁でしょう」

「縁か」

「はい、子は望まずとも出来る時もあると聞いております」

 その夫婦がだ。

「そして望んでも得られない時もあれば」

「以前の我等の様にな」

「そして今の私共の様に」

「授かることもじゃな」

「あります、それは全てです」

「縁か」

「人がどうしようとも果たせない時があるのが子作りというもので」

 そしてというのだ。

「我等はです」

「今がそうした縁であったか」

「それならば」

「大助を育ててじゃな」

「また子を授かりましたし」

 己のその腹を見ていとおしげに撫でてだ、妻は幸村に話した。

「産ませて頂きます」

「頼むぞ」

「必ずやよき子を」

「子は何人でも欲しい」

 幸村は顔を綻ばせて言った。

「拙者としてはな」

「それでは」

「またよい子を産んでくれ」 

 幸村は妻に温かい声をかけた。

「是非な」

「そうさせて頂きます」

「その様にな、子はやはりな」

「かすがいですね」

「銀や金よりも尊い」

 幸村はこうも言った。

「万葉集にもあったが」

「歌ですか」

「うむ、拙者は歌は今一つ苦手じゃが」 

 歌うのはだ、幸村はそちらの自信は乏しい。学問として自身も作ったりしているがそれでもそちらはなのだ。

「しかしな」

「その歌はですね」

「覚えておる、万葉集のものじゃ」

「そうですか」

「そしてその通りだと思っておる」

「旦那様は富には興味はおありではないですが」 

 妻にしてもそうだ、彼女もまたそうしたものには興味がない。ただ夫と共にいられ母であることを望んでいるのだ。

「しかしです」

「この言葉はじゃな」

「その通りだと思います」

「まさにじゃな」

「はい、子はかすがいです」

「その通りじゃな」

「それでは」

 夫にあらためて言った。

「これからも」

「子をもうけていこうぞ」

「そうしますか」

「そして拙者に何かあればな」

「その時は」

「兄上を頼るかよき方を頼ってな」 

 そうしてというのだ。

「子供達を頼む」

「それでは」

「無論拙者も死ぬつもりはないが」

 それでもとだ、幸村は妻にさらに話した。

「それでもな」

「世は何があるかわからないので」

「それでじゃ」

「何かあれば」

「頼れる者に子を任せよ」

「そうした方はおられるでしょうか」

「直江殿とは知己であるがな」

 兼続、幸村は彼の名を出した。

「しかしな」

「それでもですか」

「兄上の他にもな」

「頼りになる方はですね」

「どなたかいれば有り難い」

「そう言われますか」

「そうもな、そうした方がおられれば」 

 幸村は袖の中で腕を組み妻に話した。

「よいのだが」

「どなたかおられれば」

「そう思う」

「何とかなって欲しいですね」

「そのこともな」

 夫婦で話した、幼い大助を共に見ながら。幸村は九度山に入ってから子宝に恵まれる様になっていた。しかしそれはそれで一つの悩みにぶつかっていた。



巻ノ九十五   完



                        2017・2・15

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