巻ノ二十三 箱根八里
幸村主従は駿府を発ち駿河を東に進んで東国に向かった。そこで遂に箱根に来た。
箱根のその山々を前にしてだ、清海が唸った。
「いや、噂には聞いていましたが」
「はい、これはです」
「まさに天下の要害」
こう伊佐にも言う。
「そうそう容易に越えられぬぞ」
「左様ですね」
「まあ並の者なら苦労する」
清海と伊佐にだ、笑みを浮かべて言ったのは根津だった。着物の袖の中で腕を組みつつ余裕の表情を見せている。
「並の者ならな」
「うむ、我等ならばな」
「忍術も身に着けていますし」
「何でもない筈じゃな」
こう言うのだった。
「そうであろう」
「無論じゃ、それこそ飛騨の山でも何なく越えられるわ」
「私もです」
兄弟で根津に言うのだった。
「この箱根にしてもな」
「造作もないことです」
「そうじゃな、ここにいる中でじゃ」
根津は二人の言葉を受けてだった、他の面々も見て言った。
「あそこを越えられぬ者はおるか」
「何でもないわ」
「見たところ思ったより大したことはない」
根津にだ、海野と望月が言葉を返した。
「あれ位越えられなぬてはな」
「どうして忍の術を使えると言えるか」
「あれ位何でもない」
「町を歩く様なものじゃ」
「信濃にはああした山も多い」
その信濃で山賊をしていた由利の言葉だ。
「まあすぐに越えられるな」
「さて、行くとしようぞ」
最初に足を踏み出したのは穴山だった。
「あの程度の山、何でもないわ」
「おっと、先に行くのはわしじゃぞ」
猿飛はその穴山と競おうとだ、彼も足を踏み出した。
「箱根一番乗りじゃ」
「戦でもないのに一番乗りがあるのか」
「あるわ、わしが先に行くぞ」
「まあ待て」
はやる二人をだ、筧が呼び止めた。
「ここは皆で行こうぞ」
「皆でか」
「箱根に入るというのか」
「そうじゃ、只の旅じゃ」
戦ではなく、とだ。筧もこう言うのだった。
「それならばじゃ」
「一番乗りも何もなくか」
「普通に進めばよいか」
「そうじゃ、皆で穏やかに行こうぞ」
「十蔵の言う通りじゃ、急いでも何にもならん」
霧隠も二人にこう言う。
「殿と共にゆうるりと行こうぞ」
「そうか、では殿」
「ここは」
「うむ、確かにあれ位なら我等にとっては何でもない」
幸村は二人に応えてだった、微笑んで述べた。
「しかし足場が悪いのは事実、だからな」
「焦らずにですか」
「じっくりと先に進む」
「そうあるべきですか」
「箱根では」
「歩いているだけで怪我をしては話にならん」
例えそこがどれだけ険しい場所でも、というのだ。
「だからじゃ」
「慎重にですか」
「一歩一歩先に進む」
「そしてそのうえで」
「東国に入りますか」
「そうしようぞ、では行くぞ」
こう告げてだった、幸村は家臣達と共に箱根に入った。箱根は確かに険しいが確かに彼等の足ならば何ともなかった。
それでだ、その足でじっくりと進んだ。急ぐことなく。そうしつつ清海は幸村に言った。
「駿河で富士を見ましたが」
「あの山か」
「やはり殿はあの山は」
「うむ、何度も見てきた」
幸村は清海の言葉にすぐに答えた。
「甲斐においてな」
「やはりそうですか」
「あの山は駿河からだけでなくな」
「甲斐からもですな」
「見ることが出来る」
「それで、ですか」
「甲斐におる時にいつも見ていた」
その甲斐から見た富士を思い出しつつだ、幸村は話した。
「裏から見る富士もよいものだぞ」
「そうですか、では」
「その富士もじゃな」
「機会があれば見たいですな」
「拙者としましては」
今度は筧が幸村に言って来た。
「富士を見てかつ登りたいです」
「そうしたいか」
「はい、是非」
こう言うのだった。
「あの山の頂上まで」
「富士は整地です」
伊佐がその筧に話した。
「その整地にですね」
「入りな」
「どういった場所か御覧になられたいですか」
「何でも険しい山と聞く」
「そして時折火を噴きます」
「その富士に機会があれば登りな」
そうしてというのだ。
「どういった場所か見たいのじゃ」
「そう言うとわしもじゃ」
筧に続いて猿飛も言うのだった。
「一度あの山に登ってみたいと思っておる」
「御主もか」
「うむ、そしてどういった場所か見たいのじゃ」
こう言うのだった。
「面白いと思ってものは全て見なければ気が済まぬ」
「御主らしいな」
猿飛が笑って言うとだ、根津が笑って突っ込みを入れた。
「好奇心旺盛なこと猿の如しじゃ」
「だから猿飛なのじゃ」
「その苗字は最初からであろう」
「それでもじゃ、実際に猿の様に動き猿とも話が出来る」
「御主の祖父殿に教えてもらってじゃな」
「そうしたことも出来る」
「確か猿飛大助殿だったな」
海野がその猿飛の祖父の名前を出した。
「伊予の忍の」
「そうじゃ、わしは祖父様に色々と教えてもらってじゃ」
「忍になったのじゃったな」
「わしにとっては師でもある」
それが彼の祖父猿飛大助だというのだ。
「何でも教えてもらっては」
「よき師だったのじゃな」
「そうじゃ、今も伊予におるぞ」
「では伊予に行く時があれば」
穴山が言った言葉だ。
「我等挨拶をせねばならんのう」
「ははは、その時はもてなすぞ」
「そのことも楽しみにしておるぞ」
「海の幸に山の幸にな」
その両方を出すというのだ。
「酒もあるしのう」
「そして蜜柑もか」
由利がこの果物を出した。
「伊予といえば」
「よく知っておるな」
「話は聞いておる、では伊予に来たならばな」
「蜜柑もじゃな」
「食うとしよう」
「しかし。御主は確かに猿じゃな」
望月は猿飛が一行の中でとりわけすいすいとだ、箱根を進んでいるのを見て言った。
「山に強いわ」
「山暮らしの猿だからのう」
「それでか」
「そうじゃ、こうした場所もじゃ」
「苦労せずに進めるか」
「この通りな」
「ふむ。その足ならばな」
霧隠は冷静にだ、猿飛の動きを見つつ述べた。
「天下の何処でもすぐに苦労なく行けるな」
「その自信はある」
「やはりそうか」
「ただ。山は得意でもじゃ」
ここでだ、猿飛はこんなことも言った。
「山暮らしだからのう」
「木登りもじゃな」
「猿じゃからな」
笑ってまた言った猿飛だった、今度は自分からだ。
「それも得意じゃ」
「そうじゃな、生粋の山育ち故にじゃな」
「しかも泳げる、わしに山で負けることはないぞ」
「おっと、それを言うならわしもじゃ」
由利はその猿飛に笑って言った。
「わしも山では負けぬぞ」
「そういえば御主もな」
「そうじゃ、山暮らしが長かったからな」
「信濃の山でだったな」
「鎖鎌に風の術だけではないからな」
「山を進み木に登ることもか」
「自信があるからな」
生粋の山育ちの猿飛に負けない位だというのだ、由利は猿飛に不敵な笑みを浮かべてそのうえで言うのだた。
「負けぬぞ」
「では勝負するか」
「望むところじゃ」
「待て、山ならわしも自信があるぞ」
「わしも山には強いわ」
海野と清海もだった、二人に言って来た。
「山で修行しておったからな」
「山に篭っておった時も長いからのう」
「御主達にも負けんぞ」
「素手で熊を返り討ちにしたこともあるからな」
「何っ、では勝負をするか」
「今ここでな」
「待て、ここでどう勝負をするのじゃ」
こう言ってだ、霧隠は四人をやれやれといった顔で止めた。
「先に先に進んではぐれるつもりか」
「はぐれるのは前提か」
「特に御主はな」
猿飛にもだ、霧隠は言った。
「何かとおっちょこちょいだからな」
「わしはそんなにおっちゃこちょいか」
「相当にな、軽率な真似はするな」
「ううむ、だからか」
「そうじゃ、それにここもまた獣が多い」
周りを見回してだ、霧隠はこうも言った。
「狼や熊が殿を襲ったらどうする」
「そうじゃな、殿をお守りせねばな」
「ここは離れるな」
幸村の傍からというのだ。
「よいな」
「うむ、それならな」
「御主達もじゃ」
霧隠は由利達に顔を向けて彼等にも言った。
「そうそう軽率な真似はするでない」
「確かにな、常に殿のお傍にいなければ」
「はぐれるのも愚じゃ」
「迂闊に勝負をしてはならんな」
「そういうことじゃ。しかしここは」
また周りを見回してだ、霧隠箱温度はこう言った。
「箱根は我等なら普通に越えられるが」
「大軍を越えることは難しい」
筧も周りを見回して言う。
「確かにここは守りとしてかなりじゃ」
「東国に入るにはな」
「ここから東国に軍で入るには難しい」
根津はその目を鋭くさせて述べた。
「それも軍が大きければ大きい程な」
「だから東国から西国への行き来は難しいのですね」
伊佐もだ、周りを見回しつつ言った。
「昔から」
「そうじゃな、甲斐から行くにしても」
望月は箱根が駄目なら、と話した。
「信濃の山と森を越えてじゃしな」
「だから東国は本朝の中にあっても独特なのじゃな」
幸村も言った、ここで。
「頭ではわかっていたが今身体でわかった」
「実際に箱根に今入り」
「そしてですな」
「殿もですか」
「おわかりになられましたか」
「うむ、この箱根は天下を分けるところじゃ」
その東国と西国を、というのだ。
「ここを越えることは容易ではない、信濃もな」
「ではです」
筧が幸村に問うた。
「まだかなり先のことですが」
「羽柴殿がじゃな」
「はい、あの方が天下を目指されるなら」
その時はというのだ。
「東国にも入られますな」
「天下統一には無論東国も入る」
「だからですな」
「当然東国にも入られるが」
これはその通りだというのだ、幸村も。
「その為にはこの箱根か信濃を越えねばならん」
「では」
「箱根を越えることは難しい、しかしな」
「それでもですか」
「越えられることは越えられる」
それは出来るというのだ。
「確かにこの道は我等でなければ進みにくい、しかしな」
「進めることはですな」
「進める」
それは可能だというのだ。
「だからじゃ」
「それで、ですか」
「進むのが難しく遅く疲れてもな」
それでもというのだ。
「人が進める場所であるのは確かじゃ」
「では、ですな」
「ここを大軍で通ることは出来る」
「では」
「うむ、羽柴殿は必ずここを通られる」
天下統一を進めるその中でというのだ。
「やがてな」
「では小田原も」
「あの城もじゃな」
「ことと次第によっては」
「そうなるであろう」
攻めることになるというのだ。
「北条殿の対応次第じゃが」
「羽柴殿に従えばよし、ですか」
「そうじゃ、しかしな」
「従われぬならば」
「ここを越えてな」
そしてというのだ。
「小田原も攻める」
「そうなりますか」
「確かに小田原は大きいという」
その小田原城はというのだ。
「しかしな」
「それでもですか」
「攻められない城はないですか」
「陥ちぬ城はない」
「そう仰るのですか」
「その通りじゃ、この世に陥ちぬ城なぞない」
断じてという言葉だった。
「どの様な城でもな」
「陥ちる」
「殿はいつもそう仰っていますな」
「敵の数が多ければ」
「そして守る者達が至らねば」
「城は大事じゃ」
それは、とも言う幸村だった。
「堅固な城はやはりよい、しかしな」
「人は城ですな」
「人は石垣」
「そして壁であり堀ですな」
「ただ堅固な城は通りにくいだけじゃ」
そうしたものに過ぎないというのだ。
「しかし守る者達がよければ」
「これ以上はないまでに堅固になる」
「そうなるのですな」
「だから人も必要だと」
「いつも仰っていますな」
「そしてじゃ、やはりそれでもじゃ」
これ以上はないまでに堅固な城を優れた者達が多くいてそれで守っていたとしてもとだ、幸村はさらに言った。
「陥ちぬ城はない」
「難攻不落と言えど」
「決して陥ちぬ城はない」
「そうなのですな」
「それがわからぬのでは兵法を知らぬということ」
幸村は一言で言った。
「愚者と言う他ない」
「そういうことですか」
「では幾ら小田原城でもですか」
「陥ちる」
「そうなりますか」
「謙信公も信玄様も攻められたがな」
幸村はこの二人の名将の名前を出した。
「しかし陥ちなかったが」
「それでもですか」
「陥ちる時は陥ちる」
「そうなりますか」
「とてつもなく大きな城ですが」
「守る将兵も多いですが」
将兵が多いのは北条家の勢力が大きいからだ、関東のかなりの部分を領有しているだけにその兵の数も多いのだ。
「しかしですな」
「それでも陥ちる時はですか」
「あの城でも陥ちる」
「そうなりますか」
「そうじゃ、しかしそれでも見るべきじゃな」
幸村は相模の方を見つつ述べた。
「小田原にもな」
「ではこれより」
「この箱根を越えて」
「そして、ですな」
「小田原に行きましょう」
「そうしようぞ、ただここはただ通るだけではない」
幸村は笑みになってだ、十人の家臣達に言った。
「この箱根はただ険しい山が連なっているだけではない」
「そういえば確か」
「この箱根は温泉もあり」
「それがかなりいい湯だとか」
「では、ですか」
「そこに入ろうぞ」
その箱根の温泉にというのだ。
「よいな」
「はい、それでは」
「これよりですな」
「箱根の湯に入り」
「そこで一休みですな」
「それと共に垢も落とすぞ」
旅のそれもというのだ。
「まだ旅の途中だがな」
「はい、では」
「箱根の湯にも入りましょう」
「そしてそこで楽しみましょうぞ」
「風呂もまた」
家臣達も幸村に笑顔で応えてだった、そのうえで。
箱根を進む中温泉を訪れてだった、そうして。
湯に入り疲れを癒した。家臣達は幸村と共に湯に浸かりながら生き返った様な顔になってそのうえで言った。
「いやあ、いいですな」
「やはり風呂はいいものです」
「身体が温まりです」
「汚れも落ちます」
「いいことばかりですな」
「身体は常に奇麗にすべきでな」
幸村もだ、彼等と共に湯に入りながら言った。
「そして温めた方がよい」
「冷やすよりもですな」
「温めた方がよい」
「そうなのですな」
「無論温め過ぎてもよくない」
それはそれでともだ、幸村は言った。
「冷え過ぎたら風邪をひき熱過ぎたら倒れるな」
「はい、どちらもどちらで」
「過ぎるとです」
「そうなってしまいます」
「そういうことですか」
「そうじゃ、程々であるべきじゃが」
それでもというのだった。
「どちらかというと温めた方がよい」
「身体はですな」
「そうあるべきですな」
「だから風呂もですか」
「よいのじゃ。この湯にしても蒸し風呂にしてもな」
どちらもというのだ。
「汗もかくしな」
「そういえば汗をかきますと」
「その後随分気持ちよくなりますな」
「何か身体から毒が抜けた様な」
「そうしたものになりますな」
「そうなのじゃ、実際にな」
その汗をかくこともよいと言う幸村だった。
「だから風呂はその意味でもよいのじゃ」
「汗もかくからこそ」
「そのこともありですか」
「風呂はいい
「左様ですな」
「そうじゃ、風呂は出来るだけ入るべきじゃ」
今の様にというのだ。
「ではこれからも入られる時ならばな」
「入るべき」
「左様ですな」
「そして身体を奇麗にし温め」
「汗もかくべきですな」
「そういうことじゃ、そして拙者は一人で入るのも好きじゃが」
それでもとだ、幸村は家臣達を見回して笑って述べた。
「こうして大勢で入るのも好きじゃ」
「では我等はですか」
「これからもですか」
「こうしてですか」
「共に入ってもいいのですか」
「殿と」
「こうした場ではそうしようぞ」
温泉や大きな風呂ではというのだ。
「これからもな」
「畏まりました」
「ではこれからもです」
「殿と共に風呂を楽しませてもらいます」
「この様に」
「そうしようぞ、では今日はここの宿で一泊じゃ」
この日のこともだ、幸村は話した。
「そしてじゃ」
「伊豆、そして相模」
「そう進んでいきますな」
「そうする、当然鎌倉にも寄る」
この町にもというのだ。
「よいな」
「はい、では」
「鎌倉にも行きましょうぞ」
「幕府のあったあの場所にも」
「是非共」
「鎌倉はよい場所と聞く」
幸村はその鎌倉についても話した。
「景色もよいし守るにも適しているという」
「ああ、あの町はですな」
「三方が山で残るは海」
「では、ですな」
「守るに適していますな」
「そうしたところも見ますか」
「そうする」
こう家臣達に言うのだった。
「そして小田原じゃ」
「わかりました」
「では小田原にも行きましょう」
「あの町にも」
「そして上田に帰るのですな」
「そうするとしよう」
こうしたことを話してだった、幸村は今は箱根の湯を楽しんだ。そうして湯を楽しんで酒を飲み一泊してからだった。
宿を出てさらに先に進む、そしてだった。
伊豆に入ってだ、幸村は伊豆の海岸を歩きつつ共にいる家臣達に言った。
「ここもいいところじゃな」
「ですな、この海も」
「奇麗な海ですな」
「波も見事で」
「よい海です」
「この海からさらに行くと伊豆の島々がある」
幸村あはその海の先の方を見ても話した。
「そしてその島に源実朝公が流されたが」
「そこで自害したとも言われていて」
「若しくは琉球まで行って王になられたとも」
「その辺りはっきりしておりませぬな」
「どうにも」
「拙者は王になっていて欲しいと思っている」
幸村は己の望みを話した。
「あれ程の豪の方があのまま散ったのではな」
「残念であると」
「そう思われるからですか」
「うむ、それではやはりな」
残念だとだ、幸村は言葉の中でこうした言葉も含ませた。
「そう思うが故じゃ」
「ですな、やはりあの方はです」
「王になっていて欲しいですな」
「是非共」
「そして身を立てていて欲しいですな」
「そう思う、あの方は弓で船を沈められたそうじゃしな」
こうした話が実際に残っている、実朝の弓は相当なものでその腕は八幡太郎義家にも匹敵するとも言われているのだ。
「それだけの武勇の方じゃしな」
「ですな、しかし」
ここで最初に言ったのは清海だった。
「源氏はどうにも」
「身内同士で争ってばかりでしたね」
伊佐が兄に応えた。
「平家との争いの際にも」
「そうじゃ、まず身内で殺し合っておった」
猿飛も言う。
「頼朝公と義仲公といいな」
「保元の頃からじゃな」
源氏の争いが何時からとだ、穴山が言った。
「あの家は身内で殺し合ってばかりじゃった」
「それで義朝公のご兄弟がおらんようになった」
由利はその目を顰めさせている。
「そして義朝公が殺されて」
「頼朝公の代もじゃ」
眉を曇らせてだ、根津も言った。
「義経公ともじゃったし」
「挙句は実朝公が公卿殿に殺され」
望月は頼朝の子、孫の代の話をした。
「誰もおらんようになった」
「結局身内同士で争い一人もいなくなった」
霧隠はそこに忌々しげなものを見てその整った顔を歪めさせた。
「血は完全に絶えた」
「本当に見事に誰もいなくなったな」
海野も言った。
「完全にな」
「為美公の血筋は一人もいなくなった」
筧も実に残念そうな顔で言う。
「源氏嫡流はな」
「結局身内で争ってばかりでじゃ」
「それで誰もいなくなった」
「源氏はそうした家で」
「実朝公にしてもな」
「平家にも確かにそうした話はあった」
幸村も残念そうにだ、源氏の争いのことを彼等の本来の宿敵である筈の平家のことから話した。
「保元の乱で清盛公はご自身の叔父と争われた」
「でしたな、あの方にしても」
「平家にしてもそうしたことがありました」
「しかしですな」
「それからは」
「身内で争うことはなかった」
幸村は海を見つつ言った、伊豆のその海を。
「壇ノ浦で滅ぶまでな」
「多少のいがみ合いがあったにしても」
「それでもでしたな」
「平家は身内で争うことはなかった」
「それは」
「そうであった」
それが平家だったというのだ。
「あの家は身内ではな」
「争うことなく」
「また家臣も平家の下にあり」
「殆ど裏技なかった」
「そうでしたな」
「源氏よりも裏切った者は少ないやもな」
幸村もこう言うのだった。
「それだけまとまりのよい家であったのだ」
「では清盛公も」
「そうした方だったのですな」
「悪く言われていますが」
「実は」
「戦国の世では身内同士が争うのは常」
このこともだ、幸村は言った。
「多くの家でそうしたことがあった、しかし」
「それは本来あってはならぬこと」
「源氏の様になるからですな」
「果ては誰もいなくなる」
「そうなりますから」
「そうじゃ、それは当家も同じじゃ」
真田家にしてもというのだ。
「身内で争うことは避けねばな」
「ですな、何があろうとも」
「身内で殺し合うのは愚の骨頂」
「まさに」
「それはせぬ、生きる為に策を使うことはっても」
それでもというのだ。
「当家は身内で殺し合うことだけは避ける様にしておる」
「それが大殿のお考えですか」
「そして兄上様の」
「無論殿もですが」
「そうなのですな」
「そうじゃ、源氏の轍を踏んではな」
それでは、というのだ。
「本当に家が滅ぶわ」
「源氏は直系が完全に絶えました」
「その様に身内で殺し合った結果」
「あの様になってはならない」
「それ故に」
「それは避ける」
また言った幸村だった。
「父上、兄上もその様にお考えじゃ」
「家を守ることはあっても」
「殺し合うことはですな」
「何としても避ける」
「そうしますか」
「それが家を保つ第一じゃからな」
身内で殺し合わない、それこそがというのだ。
「絶対にな」
「それに尽きますな」
「まさに源氏の様になればです」
「例えどれだけ栄えても意味がありませぬからな」
天下を取ったとしても、というのだ。彼等も。そうした話もしつつだった。一行は伊豆の海を見つつ先に進んでいた。
そしてだった、漁師達が主従を見てこう言った。
「あの、宜しいでしょうか」
「何じゃ?」
「旅のお武家様方と見受けますが」
「左様じゃが」
猿飛が漁師達に答えた。
「それが何かあったか」
「はい、実はお願いがありますが」
「何じゃ?海賊でも出たか」
「いえ、海賊でありませぬが」
そうではないとだ、漁師の中でとりわけ大柄な男が答える。
「鮫が出ておりまして」
「鮫か」
「はい、それも一匹や二匹ではありませぬ」
「どれだけ出ておるか」
「二十はおります、どの鮫も大きく気が荒く」
「それでか」
「我等は今海に出ることが出来ないでおります」
漁師は困った顔で言うのだった。
「それでお願いがありますが」
「鮫退治か」
「はい、お礼は用意してありますので」
「それはよい」
幸村がだった、漁師に答えた。
「別にな」
「と、いいますと」
「困っている者を助けるのは武家の務め」
これが幸村の返事だった。
「だからじゃ」
「それで、ですか」
「すぐに海に出てじゃ」
「鮫を退治して下さいますか」
「我等が全て乗れるだけの大きさの船はあるか」
「はい」
漁師は幸村にすぐに答えた。
「それでしたら」
「ではその船を貸してもらおう」
「それでは」
「うむ、すぐに出る」
海にだ、こう答えてだった。
幸村達は漁師達から船を借りてだった、そうして。
すぐに海に出た、すると早速彼等の乗る船の周りに鮫達の背鰭が出て来た。そうして船の周りを泳ぎだした。
その鮫達を見てだ、幸村は落ち着いた声で言った。
「鮫ははじめて見た、海に出たこと自体もな」
「信濃にいてはですか」
「そのこともですな」
「当然ですな」
「そうじゃ、しかしじゃ」
そのはじめて見る中でだ、二人は言うのだった。
「ここは漁師達の為にな」
「はい、この鮫達をですな」
「全て退治しましょう」
「そして漁師達の悩みを打ち消しましょうぞ」
「ではな」
幸村はここまで言うとだった、すぐにだった。
服を脱ぎ褌だけになった、手には小刀を持っている。他の者達もそれぞれ小刀や苦無を持っていてだ、そのうえで。
幸村にだ、確かな笑みで言った。
「ではこれより」
「海に入ってですな」
「鮫達を倒しましょうぞ」
「六郎、御主がじゃ」
幸村は海野に顔を向けて彼に声をかけた。
「軸となってくれるか」
「泳ぎの達者な拙者がですな」
「そうじゃ、そしてじゃ」
「鮫達をですな」
「倒していくぞ」
「畏まりました、それでは」
「よいか、一匹一匹をじゃ」
二十匹の鮫達のうちでというのだ。
「十一人で確実に倒していくぞ」
「二十匹を一度に相手にするのではなく」
「一匹一匹をですな」
「確実に倒し」
「そうしてですな」
「減らしていきまするな」
「見たところ鮫達は群れを為してはいるが」
その二十匹程の鮫達は、というのだ。
「しかしまとまってはおらん」
「そういえば確かに」
「動きはばらばらです」
「動かしている者はおらず」
「めいめい勝手にですな」
「動いているだけですな」
「数がおるだけじゃ」
ただそれだけだというのだ。
「まとまってはおらん」
「では、ですな」
「我等は一匹一匹をですな」
「確実に倒していきまするか」
「一匹を確実に倒し」
そして、とだ。さらに言う幸村だった。
「他の鮫達は幻術で惑わす」
「それがしの」
筧が応えた、無論彼も褌だけの姿になっている。
「それで、ですな」
「よいな」
「畏まりました」
「鮫は鼻がよいというが目を晦ませばな」
「その分よいですな」
「だからじゃ」
それで、というのだ。
「わかったな」
「わかりました」
筧は幸村の言葉に頷いてだ、そしてだった。
彼はその幻術を使った、それは海の中を完全に覆った海藻だった。幸村はその幻を見つつ筧に問うた。
「これがじゃな」
「それがしの幻術です」
「鮫に絡まりそうじゃな」
「鮫は動きを止めると死にます」
筧は己の学識から話した。
「それで動きを止める様な場所をはっきり見せますと」
「怯むか」
「はい、ですから」
「幻として藻を出したか」
「藻は出ますが」
しかしというのだ。
「ただの幻ですので」
「我等は通り抜けられるな」
「これで鮫達を惑わしつつです」
「うむ、一匹ずつ我等で倒していこうぞ」
「殿、息継ぎは忘れずに」
海野はこのことを言うことを忘れていなかった。
「そうしてです」
「そうじゃな、それをしつつな」
「戦いましょうぞ」
こう話してだ、そしてだった。
一行は次から次に海に飛び込んだ、鮫達は藻を見て怯んでいた。だがそれで幸村達に来る鮫はいてだった。
そのうちの一匹にだ、幸村は。
海の中で小刀を上から下に一閃させた、するとその一閃した切り先から気の刃が出て海中を飛んでだった。
鮫の鼻先を割った、そして。
他の者達もだ、それぞれだった。
海中からだ、刃を振るって気を放ってだった。
その鮫を切り刻んだ、鮫は海の中に大量の血を流して底に沈んでいく。だがそこに共にいた筈の鮫達が群がってだった。
我先に噛み付きだ、そのうえで。
身体を激しく駒の様に回転させつつ喰らう、清海はそれを見て言った。
「仲間を喰らっておるぞ」
「あれが鮫じゃ」
その清海に筧が答えた。
「群れておっても仲間が傷付いたり死ねばな」
「喰らうのか」
「鮫に敵も味方もない」
「喰らうだけか」
「それが鮫じゃ、だからじゃ」
「あの様にしてか」
「仲間を喰らっておるのじゃ」
そうしているというのだ。
「あの様にな」
「そうか、何とも惨い魚じゃな」
「しかしそれが鮫というものじゃ」
共に群れている同じ種でも喰らうものだというのだ。
「そう思っておくことじゃ」
「左様か」
「しかしじゃ」
ここで言ったのは霧隠だった。
「ああして仲間を喰らっているのはよいこと」
「うむ、我等にとってな」
穴山も今は鉄砲ではない、海の中で褌一枚で小刀を手にしている。
「その間に多く倒せる」
「一匹ずつな」
「では殿」
由利は自前の鎖鎌を手にしていて幸村に言う。
「あの様にして仲間を喰らっているうちに」
「一匹ずつな」
「倒していくぞ」
「それでは」
由利は幸村の言葉に頷いた、そしてだった。
また一匹だ、今度は伊佐に襲ってきた鮫がいたが。
伊佐はその鼻先を手にしている錫杖で突いた、それで衝撃を与え回りから他の者達が気を放ってだった。
また一匹倒す、それを繰り返し。
瞬く間に二十匹倒した、それからだった。
一行は船に戻ってだ、身体を拭いてから服を着てだった。傍にいた漁師達が乗っている船のところまで行って言った。
「この通りじゃ」
「何と、瞬く間にでした」
「鮫を全て退治したとは」
「それもお一人も怪我することなく」
「ははは、我等は皆水の中でも龍や蛟と一対一で戦い勝てるのじゃ」
望月は笑ってだ、その漁師達に答えた。
「だからな」
「鮫達もですか」
「あの様にして」
「そうじゃ、しかも我等には殿もおられる」
望月は幸村にも顔を向けて話した。
「殿の智恵、采配もあるからな」
「そういえばです」
「お見事な戦い方でした」
「鮫を一匹一匹倒し」
「先に幻術も使われていましたし」
「我等だけでは流石に二十匹もの鮫が相手では苦しい」
このことは根津が言った。
「しかし殿の見事な采配があればな」
「それで、ですか」
「勝てると」
「戦は強いだけでは駄目じゃ」
ただそれだけでは、というのだ。
「やはりそこに采配がないとじゃ」
「幾らお強くとも勝てぬ」
「そういうものだとですか」
「仰るのですな」
「その通りです」
伊佐も微笑んで答える。
「戦は強さとです」
「頭」
「その二つがあってこそですな」
「勝てるものなのです」
こう言うのだった、伊佐も。
「ですから我等は勝てました」
「そういうことですか」
「あの凶暴な鮫達にもですか」
「その二つがあれば」
「あの様に勝てますか」
「そういうことじゃ、とにかく鮫達は倒した」
海野も満足している顔で漁師達に話す。
「これで安心して漁が出来るな」
「はい、有り難うございます」
「全てお武家様達のお陰です」
「それでお礼はよいとのことですが」
「せめてお武家様達のお名前を聞きたいのですが」
「我等の名前か」
「はい」
幸村にも答えた。
「宜しいでしょうか」
「うむ、ではな」
幸村も名乗りならと頷いてだ、そしてまずは家臣達に言った。
「それぞれ名乗るのじゃ」
「畏まりました」
まずは十人が名乗ってだった、そのうえで。
最後に幸村が名乗った、漁師達はその名を聞いてから言った。
「真田幸村様ですか」
「そうじゃ、覚えてくれたか」
「はい、今しがた」
「はっきり覚えました」
「そのお名前忘れませぬ」
「決して」
こう言って約束するのだった。
「我等を助けて下さいましたし」
「それに鮫達を瞬く間に倒したそのお強さ」
「決して忘れませぬ」
「何があろうとも」
「そうか、ではまた機会があれば会おうぞ」
幸村は彼等のその言葉に微笑んで応えてだった、そのうえで。
漁師達と別れ村を後にして鎌倉に向かう、十人の家臣達はその道中で主に対して満ち足りた笑顔で言った。
「よかったですな、漁師達を助けられて」
「やはりこうした行いはよいものですな」
「民の笑顔が見られますし」
「務めを果たしたと感じます」
「武士は民を守るもの」
こう言うのだった。
「だからな」
「ですな、これは当然のこと」
「その当然のことを果たしたこと」
「それで笑顔が見られる」
「まさに本懐ですな」
「そう思う、ではこの満ち足りた気持ちのままでな」
幸村も笑顔である、その顔で十人の家臣達に言うのだ。
「鎌倉に向かおうぞ」
「頼朝公の町に」
「これより」
家臣達も応えてだった、そのうえで。
一行はその鎌倉に向かっていた、東国の旅も続けていた。
巻ノ二十三 完
2015・9・8