巻ノ二十 三河入り
三河に入った幸村達はそののどかな姿を見てだった、心地よいものを感じそのうえでだった。
村に町を歩いてだ、その細かいところを見た。民の顔ものどかでありとても戦国の中にあるとは思えないものだった。
その三河の中を見つつだ、猿飛が唸って言った。
「ううむ、上方よりもな」
「ずっと落ち着いておるな」
穴山が猿飛に応えた。
「のどかでな」
「そうじゃな、上方も落ち着いておったが」
「ここはまた違う」
一行が巡ってきたこれまでの国とは、というのだ。
「安心している感じがするのう」
「これが徳川殿の国か」
霧隠は目を瞠っていた。
「上方程豊かではないがな」
「それでも落ち着きが違います」
伊佐も言う。
「徳川殿を信頼しておるからこそかと」
「ふむ。徳川殿のお人柄を知ってか」
根津はその目を鋭くさせつつもそののどかさを見ていた。
「それでか」
「ううむ、確かにまとまっておるがな」
海野がここで言うこととは。
「豊かではないな」
「上方よりはな」
望月も言う。
「美濃よりもさらにじゃ」
「しかし皆の顔はさらによいぞ」
清海は微笑む彼等の顔を見ている。
「何も困ったことはない様な、何かあっても大丈夫という様な」
「それだけ徳川殿が信頼されておるのか」
由利は首を傾げさえしていた。
「民達に」
「そうであろう、それも徳川殿の政がよくな」
筧も言う。
「徳があるということじゃ」
「徳川家康殿は戦上手で知られておるが」
最後に言ったのは幸村だった、彼が言うことはというと。
「政もよくそしてな」
「徳、ですか」
「徳をお持ちですか」
「民に信じられ頼られる様な」
「そうした方ですか」
「そうじゃな、温厚で公平な方とも聞いておる」
家康のそうしたところもまた知られているのだ、その心を以て政にあたることも。
「それが民達にもわかっていてな」
「この様にですな」
「民達の顔を穏やかにしている」
「そしてよき国にしている」
「そうなのですな」
「そうじゃ」
まさにその通りだとだ、幸村は家臣達に答えた。
「天下にこれだけの徳を持った方はな」
「おられぬ」
「そう言われますか」
「うむ」
その通りというのだ。
「羽柴殿とはまた違う」
「羽柴殿は確かに人を惹きつけられるそうですな」
「それも相当に」
「何でも天下の人たらしとか」
「そこまで言われているとか」
「うむ、その様じゃな」
秀吉の人たらしについてだ、幸村も言う。
「あの方はな」
「しかしですな」
「あの方はですな」
「徳がおありかというと」
「徳川殿の様なものとは違いますな」
「徳川殿の徳は落ち着く徳じゃな」
人のそれはというのだ。
「三河に入ってわかった」
「ですな。天下人になれる様な」
「そうしたものですな」
「若しや」
幸村はこうも言った。
「徳川殿は天下人の資質があるやもな」
「羽柴殿と同じだけ」
「そうしたものをお持ちですか」
「徳川殿も」
「そう思われますか」
「そうも思えてきた、この三河の姿を見てな」
その落ち着いたまとまりを見て、というのだ。
「その様にもな」
「天下は羽柴殿のものとです」
「殿も我等も思っていますが」
「まさかここで」
「徳川殿にですか」
「いや、天下は羽柴殿のものとなる」
このことは間違いないとだ、幸村は十人の家臣達に述べた。
「既にその地盤は固まりつつある、柴田殿を倒せば」
「羽柴殿が天下人となる」
「それはもう決まっていますか」
「そうじゃ、しかしな」
それでもというのだった、幸村はここで。
「跡がな」
「羽柴殿のですか」
「後継の方が、ですか」
「羽柴殿にはおられぬ」
「そのことが問題になりますか」
「三好秀次殿がおられるがな」
秀吉の妹の子であり彼にとっては甥にあたる人物だ。出来はともかく秀吉の数少ない親族の一人として知られている。
「あの方だけじゃ」
「羽柴殿にはお子がおられぬ」
「そのことが問題ですな」
「もう四十を過ぎておられますが」
「それでもですな」
子がいないことがだ、秀吉の泣きどころだというのだ。
「そこが厄介ごとになると」
「あの方にとって」
「しかも羽柴殿は一代で上がられた方じゃ」
幸村は秀吉のこのことも指摘した。
「代々の譜代の家臣がおられぬ」
「そういえば」
「あの方は百姓から上がられました」
「ですから譜代の家臣の方はおられませぬ」
「一門の方も少ないですし」
「弟君の秀長殿がおられるが」
秀吉を支える彼だ、賢弟として知られている。
「やはり少ない」
「普代の家臣がおられぬ」
「そのこともですな」
「厄介なことですか」
「あの方にとっては」
「だから子飼いの方や他の家の重臣を取り立てておられるが」
普代の家臣がおらず一門衆もいないという弱みを補う為にだ、秀吉自身がそのことが痛いまでにわかっているのだ。
「しかしじゃ」
「それでもですな」
「あの方にはそうした方がおられぬ」
「そしてそのことがですか」
「あの方のもう一つの弱みですか」
「拙者と御主達も一代からのものじゃが」
十人は譜代ではない、幸村は彼等にも言った。
「羽柴殿とは違う」
「はい、言われてみれば」
「羽柴殿は天下人、殿は侍」
例え真田家の次男であってもだ、幸村の資質はそれだ。秀吉の様に天下人になろうとし天下を治めんとする者ではないのだ。
「そこが、ですな」
「違いますな」
「しかも殿は上田に代々の家臣がおられます」
「真田家に仕えておられる方々が」
「しかし羽柴殿は違う」
「そこも弱みですか」
「拙者はよいのじゃ」
幸村は自分自身のことを言った。
「御主達が譜代であろうとそうでなかろうと構わぬ」
「我等の場合は」
「別にそれでもですな」
「構うことはない」
「羽柴殿と違い」
「我等は共に戦い共に生き共に死ぬ間柄じゃ」
それが幸村と彼等の主従だというのだ。
「羽柴殿の様に天下を巡って戦い天下を治めることはない、主従ではあるが友でもある」
「我等は殿の友」
「家臣であると共にですか」
「そうした間柄でもありますな」
「確かに」
「共に義兄弟の間柄となったな」
幸村は十人にこのことも告げた。
「そういうことじゃ」
「家臣であり友であり兄弟でもある」
「それが我等ですか」
「そうした意味で羽柴殿とは違うのじゃ」
その主従がというのだ。
「だから拙者達はよい、しかしな」
「羽柴殿はそうはいかぬ」
「そこが、ですな」
「違う」
「そうなのですな」
「そこも弱みじゃ。譜代ならば多くはその家から離れぬ」
その家に代々仕えている、まさに生死を共にする間柄だというのだ。
「羽柴殿、いや羽柴家にはまだそうした家臣がおられぬのじゃ」
「それが羽柴殿にどうなるか」
「羽柴殿の後は」
「それが問題ですか」
「拙者はそう思う」
こう言うのだった。
「後継と譜代、一門のこと。それに」
「それに、ですか」
「まだありますか」
「羽柴殿の弱みは」
「ではその弱みは一体」
「何でしょうか」
「羽柴殿は何であられるか」
突き付けた様な言葉だった、秀吉自身のそのことを。
「あの方は」
「?と、いいますと」
「殿、それは一体」
「どういうことですか?」
「だからじゃ。羽柴殿はどうしてここまでなられた」
幸村が十人に問うたのはこのことだった。
「百姓からな」
「はい、織田家に入ってです」
「一介の足軽からのし上がり」
「城持ちにまで取り立てられ」
「万を数える軍勢も任される様になり」
「今は」
「そこじゃ、羽柴殿は織田家の家臣であられた」
幸村はこのことをだ、確かな声で話した。
「紛れもなくな」
「しかし今は、ですな」
「ご自身が天下を目指されていますな」
「実際に天下人になろうとされている」
「ということは」
「本来は織田家を盛り立てるものじゃ」
織田家の家臣だからである、幸村は秀吉のそのことを言うのだ。
「清洲でのお話でもそうなっていた」
「織田家の主は三法師殿でしたな」
「二条城で倒れられた信忠殿のご嫡男の」
「あの方が信雄殿の後見の下主となられる」
「と、いうことはですな」
「三法師殿、そして後見の信雄殿の家臣でなければならぬ」
それが筋だというのだ。
「天下人を目指すのではなくな」
「では羽柴殿は」
「簒奪、ですか」
「織田家を乗っ取った」
「そうした方ですか」
「殆どの者が言わぬがそうじゃ」
まさに簒奪者だとだ、幸村は指摘したのだ。
「あの方は簒奪者、つまりな」
「そこにもですか」
「羽柴殿の弱みがあると」
「そのことにも」
「正統かどうかというとな」
秀吉、ひいては羽柴家の天下それはというのだ。
「疑わしい、いや」
「道理がない」
「奪った天下ですか」
「羽柴殿の天下は」
「そこにも弱みがありますか」
「奪ったものは奪われる」
幸村は厳然とした口調で言い切った。
「そうなるものだからな」
「では羽柴家の天下は」
「そのことは」
「今はよくとも」
「やがては」
「相当上手にせねばな」
それこそというのだ。
「なくなる」
「ううむ、今羽柴殿の勢いは日の出のものですが」
「その天下は危うい」
「例え天下を握れたにしても」
「それでもですか」
「拙者はそう見ておる」
幸村は確かな声で答えた。
「羽柴殿が生きておられるうちは大丈夫でもな」
「問題はですか」
「その後ですか」
「羽柴秀吉殿の後」
「それからですか」
「結構以上に先のことじゃがな」
だがその先のことをだ、幸村は既に見ていた。そのうえでの言葉だ。
「羽柴家の天下は危ういな」
「では若しもです」
「羽柴家の天下が危ういのなら」
「その次は」
「その次の天下は」
「確かなことは言えぬが」
この前置きからだ、幸村は自身の読みを話した。
「徳川殿やもな」
「今我等がそのご領地を見ている」
「そして若しかして今後我等と干戈を交えるやも知れぬ」
「その徳川殿ですか」
「見ての通り徳川殿の政はよい」
整っている町や村、そして民達の笑顔を見ての言葉だ。
「普代の家臣の方も優れた方が多くご子息もおられる」
「まとまっていますな」
「しかも人徳もおありで」
「天下でも律儀でよい方と言われています」
「それでは」
「これまで以上に力をつければな」
その時はというのだ。
「徳川殿が天下人になられるやもな」
「天下の流れはそうなるやもですか」
「羽柴家から」
「徳川家ですか」
「まだはっきりとせぬがな」
それでもというのだ。
「そうなるやも知れぬ」
「ううむ、羽柴家の天下は」
「色々と弱みがありますか」
「秀吉殿だけの天下」
「一代だけの」
「そう思える、とはいってもこれから次第じゃ」
どうなるかはというのだ、天下は。
「天下はまだまだわからぬ」
「出来れば戦の世は終わって欲しいですが」
「それが、ですな」
「まだわかりませぬか」
「戦の世が終わるかもどうかも」
「天下のことが確かに言えぬが故に」
「戦の世は徐々に終わってきているがな」
このことは確かだというのだ、幸村も。
「天下人が生まれる状況になっておるのは確かじゃしな」
「後はその天下人が定まり」
「そして一つのまま進む」
「そのことがですか」
「肝心なのですな」
「一つの家の下でな」
後で跡目争いなぞ起きない状況ならというのだ。
「そうした世になるかどうかじゃ」
「後は」
「そのことですか」
「羽柴殿の様に一代のうちはいいですが弱みの多い家ではなく」
「安定した家であることが肝心ですか」
「織田家ならよかったがな」
幸村は今度は信長を肯定した。
「あのまままとまっていたらな」
「戦国の世は終わった」
「あのままですか」
「今はまだ戦が行われているにしても」
「それでも」
「そうなっていたやもな」
流れがだ、そうなっていたのではというのだ。
「もっともそれがよいかどうかはわからぬが」
「織田家の天下もですか」
「それもまた」
「そこは人にはわからぬ」
誰の天下がよいかはというのだ。
「羽柴殿にしろそれは同じ、そしてな」
「徳川殿がなられても」
「それは、ですか」
「その政が実際になるまでにな」
わからないというのだ。
「わからぬ」
「ですか」
「そこまでは、ですか」
「わかりませんか」
「政が実際に行われるまでは」
「戦だけで天下は収まらぬ」
幸村は峻厳なまでにだ、この現実を話した。
「馬上で天下は取れてもな」
「治めることは出来ない」
「政はまた別ですか」
「戦で天下を一つにし」
「政で天下を治めるものですな」
「前右府殿の政は素晴らしかったが」
しかし、というのだ。
「天下の政はまだはじまっておらんかったからな」
「だからですか」
「前右府殿についてはですか」
「そこまでは見えない」
「そういうことなのですか」
「どうもな、ではな」
ここまで話してだ、そしてだった。
一行は三河を見て回った、その中で家康がかつて居城にしていた岡崎城も見たが猿飛はその城を見てこう言った。
「大きくなく」
「ある場所も攻めやすいのう」
由利も言った。
「どうにも」
「うむ、これではな」
「外で戦うしかないわ」
こう二人で話すのだった。
海野もだ、こうしたことを言った。
「三方ヶ原では徳川殿は浜松におられたが」
「浜松も大体同じだそうじゃ」
穴山が海野に応えた。
「平地にある小さな城じゃ」
「それではな」
「籠城しても知れている」
「それで外で戦うのが主か」
「徳川家はな」
「そういえば三河武士は外での戦は強いが」
根津は彼等自身のことを話した。
「しかしな」
「城攻めは、じゃな」
「うむ、あまり上手とは聞かぬな」
「徳川殿は城攻めが下手と聞いたが」
このことを言ったのは望月だ。
「それはまことか」
「そういえば城攻めの話はあまりないな、徳川殿には」
霧隠も言う、望月に応えて。
「外での戦は色々お働きがあるが」
「砦を攻めたことはあるが」
こう言ったのは筧だった。
「しかし城攻めはあまりないのう」
「下手ではないのか?」
あえてだ、清海はこのことを言った。
「徳川殿は城攻めは」
「そうやも知れませぬな」
伊佐もそのことを否定しない。
「上杉謙信殿もそうでしたが外で戦うのは上手でも」
「城攻めはか」
「徳川殿は不得手」
「そうであると」
「はい、ただ謙信公は程度の問題でした」
それでもというのだ。
「外での戦は無敵、城攻めは幾分か落ちるだけで」
「謙信公は城攻めも強かった」
「やはり軍神であられたか」
「そう思います、ですが」
それでもというのだ。
「徳川殿は」
「確かに徳川殿の城攻めの話は聞かぬ」
幸村もこう言う、岡崎城を見つつ。
「こうした場所ではさして城攻めも学べまい」
「三河は他の城も小さな平城が多いですし」
「そうした城ばかりでは」
「どうしてもですな」
「城攻めについては」
「羽柴殿は違うが」
秀吉は、というのだ。
「あの方は正反対に外での戦よりもな」
「城攻めですな」
「そちらの方が得手」
「そうした方ですね」
「あの方はどうも色々多くの天性のものをお持ちじゃ」
秀吉のその資質をだ、幸村は的確に見抜いて言うのだった。
「政にしても戦にしてもな」
「城攻めですか」
「それも」
「うむ、軍勢を支える兵糧や武具の調達もお見事じゃが」
必要なだけ買い集め充実させている、その才覚もよいというのだ。
「城攻めもな」
「非常にですな」
「得手とされている」
「そうした方ですな」
「あの方は」
「そう思う。だからあの城も築かれておるのじゃ」
岡崎城を前にしてその目に見つつだ、幸村はその城のことも話した・
「大坂のな」
「城のことを熟知されているが故に」
「あの城をですか」
「築かれていますか」
「天下の城を」
「あの城は容易には陥ちぬ」
その大坂の城はというのだ。
「その羽柴殿が築かれるだけにな」
「では殿、やはりです」
猿飛は幸村の話をここまで聞いたうえで主に問うた。
「天下はこれからも」
「その大坂城があるからじゃな」
「はい、その守りがあるのなら」
「いや、違う」
「違いますか」
「天下を守るのに確かに城は大事じゃ」
それ自体はというのだ。
「紛れもなくな。しかしじゃ」
「それだけではですな」
「天下は成らぬ。天下は城によって成るものではなく」
幸村は言った、ここで。
「人によって成るものじゃ」
「信玄公が言われた様に」
「人ですか」
「人は城、人は石垣」
「では」
「その城も人が守る、人がおらずして天下は成らぬ」
これが幸村の考えだった。
「だからな」
「人がどうなるかわからない」
「それ故にですか」
「羽柴家の天下は秀吉殿から先はですか」
「わかりませんか」」
「そういうことじゃ、そして絶対に陥ちぬ城はない」
幸村はこの言葉も出した。
「人が作ったものはな」
「あの城でもですか」
「とてつもなく巨大な城になりそうですが」
「その上に多くの櫓が出来」
「壁も石垣も高く濠も深い」
「天守閣も相当なものになるのでは」
「そうじゃな。しかしじゃ」
天下に君臨する巨大で堅固な城になるのは確か、しかしだというのだ。
「そうした城でもな」
「陥ちますか」
「そうなりますか」
「あの城でも」
「そうなるのですか」
「攻め方もない訳ではないだろうしな」
幸村はまた言った。
「幾らでもある」
「と、いいますと」
「その攻め方は」
「城を攻めるのは下計じゃが」
幸村はその城の話もした。
「人を攻めるのは上計というな」
「?人をですか」
「人を攻めるのがですか」
「上計ですか」
「確か孫子の言葉ですな」
「この場合人とは人の心じゃ」
それだというのだ。
「人の心を攻める、そうすればな」
「城を守っている人のその心をですか」
「攻めるのが上計」
「ではあの城もですか」
「守っている者達の心を攻めれば」
「陥ちる」
そうなるというのだ。
「そういうことじゃ」
「ううむ、そうですか」
「如何な城でも守っている者達の心を攻めれば」
「それで陥ちる」
「そういうことですか」
「実際に羽柴殿はそうされていた」
秀吉、大坂城を築かせているその彼はというのだ。
「城を攻めつつもな」
「城を守る者達を攻めていた」
「その心を」
「そうされていましたか」
「兵糧攻めも水攻めもじゃ」
そのどちらの攻め方もというのだ。
「ただ攻めているだけではなくな」
「その心を攻めて」
「そして攻め落としていたのですか」
「あの方は」
「そうされていましたか」
「兵糧をなくし水の高さを徐々に上げてな」
その兵糧攻めや水攻めだ、秀吉は鳥取城や備中高松城で実際にそうした様々な攻め方をしてきたのである。
「城の中にいる者達の心を追い詰めてじゃ」
「陥としていた」
「そうされていましたか」
「あの方は天下の人たらしとも言われておる」
確かに猿面で小柄でだ、お世辞にも整っているとは言えない外見だ。しかしそれでいて男だけでなく女からも好かれているのだ。
その笑顔と人柄が惹きつけて離さない、それはどうしてかというのだ。
「人の心がわかっておられるからだ」
「つまりその相手の心を見抜き」
「そのうえで人をたらし込む」
「それを城攻めで使われている」
「だからこそですか」
「あの方は城攻めが上手なのですか」
「そうなのじゃ、城を攻めてもな」
そうしてもというのだ。
「城自体を攻めるのではなくな」
「それを守る人を攻める」
「人のその心を」
「それが、ですな」
「肝心なのですな」
「それがわかっておらねば守っても詮無いしな」
つまり陥ちるというのだ。
「攻める方もそれがわかっていれば」
「攻め落とせる」
「どの様な城も」
「そうなのじゃ、城はそうしたものじゃ」
堅固さも大事であるが、というのだ。
「人が大事なのじゃ」
「守る者達がですか」
「その者達が」
「大事なのですな」
「最もな」
城の堅固さよりもというのだ。
「守る者達こそが大事じゃ、やはり人は城じゃ」
「信玄様が仰った様に」
「人は城であり石垣であり」
「濠ですな」
「そして壁なのですな」
「拙者もわかった」
幸村は遠くそして辛いものを見ていた、かつてのことを。
「四郎様の末を見てな」
「ですか、あの方を」
「苦心して城を築かれましたが」
「そのかいなく」
「あの方は」
「人がどんどん離れていきな」
穴山信君や小山田信茂の様な家の手足というべき者達に次々と背かれてだ、武田勝頼は滅んだ。その時のことを思い出しているのだ。
「ああなられた」
「四郎様は決して無能でありませんでしたが」
「将であられましたが」
「それでも人が次々と背き」
「その結果」
「うむ、ああなられた」
武田家ごと滅んだ、そうなったというのだ。
「せめて人さえまとまっていれば」
「武田家は滅びず」
「四郎様もですか」
「ああはならなかったがな」
事実武田家は長篠での戦の後も持ち堪えていたのだ、穴山達が背くまでは。
「父上は言っておられた」
「大殿が、ですか」
「あの方が」
「四郎様を上田にお迎えしていればな」
武田家がまさに滅びようとしちえたその時にというのだ。
「お守り出来たと」
「四郎様と武田家を」
「それが出来ていましたか」
「そうであったが」
しかし、というのだ。
「小山田めが背いてな」
「あの様にですか」
「滅びられたのですか」
「あの方は」
「人がまとまらねばだ」
それで、というのだ。
「ああなってしまう、城ではないのじゃ」
「人、ですか」
「まずは」
「そういうことじゃ」
幸村は今も岡崎城を見ている、そのうえでの言葉だ。
「堅固な城も大事じゃがな」
「堅固な城と確かな人」
「その二つがあってこそで」
「その中でも人」
「そういうことですな」
「そういうことじゃ。では町に行ってな」
岡崎城の城下町、そこにというのだ。
「何か食するか」
「しかし殿、どうもです」
清海が飯と聞いてだ、幸村に今一つ浮かない顔で述べた。
「三河は」
「美味いものがか」
「あまりです」
それは、というのだ。
「見受けられませぬ」
「そういえば質素じゃな」
望月も言う。
「三河は」
「そうじゃな、この国はどうにもな」
「質素じゃ」
由利と根津は望月のその言葉に頷いて応えた。
「酒はあるが」
「上方に比べて遥かに質素じゃ」
「まあ上方にしても織田家の領国は豊かでありますな」
伊佐はこう述べた。
「元々豊かであった故に前右府殿が善政を敷いておられたので」
「三河も善政を敷いておるが」
穴山が言うには。
「そもそもの豊かさが違うか」
「そういうことだな、それに徳川家は最近まで武田家との戦に力を注いでいた」
霧隠も言った、人と銭をそちらに向けていたというのだ。
「それでは尾張等と比べて質素なのも当然か」
「そういうことじゃな」
海野は霧隠のその言葉に頷いた。
「この国はこれからか」
「そういうことか」
猿飛も言うのだった。
「この国は」
「そうであるな、しかし何か食するとしよう」
幸村はそれぞれ話した家臣達にあらためて言った。
「腹が減ってはじゃ」
「はい、では」
「何はともあれ食するにしましょう」
「ではな」
こう話してだった、幸村は家臣達を連れて岡崎の町に入ってだった。そこでこれはという店に入ってだった。
飯を頼んだ、そしてその飯とおかずを口にするがここでだった。
清海は飯を食いつつだ、こう言ったのだった。
「ふむ、これはな」
「これはこれでな」
「うむ、美味い」
猿飛ににこりと笑って述べた。
「確かに質素、しかしな」
「うむ、食材が新鮮でな」
「味付けも真面目でな」
「よいな」
「これはこれでよい」
非常にというのだ。
「幾らでも食えるわ」
「全くじゃな」
「徳川殿のお国らしいな」
幸村もその飯を食いつつ言う、その飯は玄米でありおかずは味噌を塗った田楽や魚を焼いたもの、それに梅だった。
飯は山盛りだ、その飯を食いつつの言葉だ。
「確かに質素、しかし」
「その味は、ですな」
「確かですな」
「これはこれでよいですな」
「美味です」
「まことにな。幾らでも食することが出来る」
その味に笑顔になりつつ言う幸村だった。
「ではたらふく食し」
「はい、では」
「そのうえで」
「次は遠江ですな」
「あの国に行きますな」
「そして駿河に向かいじゃ」
そしてというのだ。
「甲斐から上田に戻るか」
「甲斐、ですか」
甲斐と聞いてだ。筧は幸村に複雑な表情になり問うた。
「あの国は」
「うむ、何かとな」
幸村もだ、寂しさと悲しさを感じさせる顔になっていた。
「拙者には思うところの多いな」
「ですな、やはり」
「あの国に父上と共に詰めたこともある」
「武田家の下に」
「兄上も一緒じゃった」
彼もというのだ。
「三人でな、懐かしい場所じゃが」
「しかしですな」
「もう武田家はない」
仕え忠義を尽くしていたその家のことも言うのだった。
「よき家であったがな」
「ですか、やはり」
「その御心は頂いたつもりだがな」
「あの赤ですな」
「赤備えですな」
家臣達は武田家の心と聞いてすぐに言った。
「武田家の心はあの中にある」
「武田家のそれはですな」
「それを真田家は受け継いでいる」
「そうなのですな」
「そこにさらにあるがな」
その『さらに』あるものはというと。
「真田家の心がな」
「しかしですな」
「あの赤備えには武田家の御心があり」
「真田家はそれを受け継いでいる」
「そう仰るのですな」
「最近井伊家もその様にしているというが」
徳川家の家臣のだ、その中でも家康に取り立てられていっている家だという。
「しかしな」
「赤は武田家の御心」
「それを第一に受け継いでいるのは真田家」
「左様ですな」
「そう考えておる、拙者はな」
まさにというのだ。
「当家こそがな」
「武田家の御心を受け継いでいる家」
「まさに」
「その様にな、孫子の旗はない」
武田家のそれはというのだ。
「あるのはじゃ」
「はい、六文銭ですな」
「あれですな」
「地獄に落ちてもじゃ」
死してだ、そうなろうともというのだ。
「やるべきことをやる」
「それの意思表示ですか」
「地獄の沙汰も銭次第という」
俗に言われている言葉もだ、幸村は出した。
「だからな」
「地獄でもですか」
「真田家は働くのじゃ」
こう家臣達に言うのだった。
「無論拙者もな」
「そういうことですか」
「殿は地獄でも殿ですか」
「そうじゃ、閻魔大王の前に出ても無様な姿は見せたくない」
その閻魔にもというのだ。
「決してな」
「そうですか、ではです」
「我等も殿と死ぬ時は同じですから」
「そう誓ったからにはです」
「必ず」
「うむ、御主達もじゃな」
幸村は十人の家臣達の言葉に微笑んで応えた。
「地獄でもじゃな」
「はい、無様な姿なぞ出さず」
「それがし達のままでいます」
「どうせ人は死ぬもの」
「死ねば必ず閻魔の前に出ます」
それならとだ、彼等は幸村に話すのだ。そのことを話しながらも彼等の顔には確かな笑みが浮かんでいる。
「そしてです」
「殿と共にです」
「この天下を歩み」
「地獄においてもです」
「我等は我等のままでおります
「ではな、地獄でも共にいようぞ」
幸村は食べつつ彼等と三河の食事を楽しんだ。それは確かに質素であるが決してまずくはなかった。そして岡崎からだった。
幸村は家臣達と共に宿に一泊してからだった、そのうえで。
宿を出た時にだ、彼等にこう言った。
「次は遠江じゃが」
「東海道を進み」
「そうしてですな」
「遠江に入りますな」
「浜松に行こうぞ」
次に行くのはこの城だというのだ。
「あの城の城下町にな」
「先日まで徳川殿が居城とされていたですな」
「あの城ですな」
「あの城に向かい」
「そしてですな」
「うむ、あの城の町も見ようぞ」
微笑み十人に話した。
「是非な」
「はい、それでは」
「十人で」
「それではですな」
「行きましょうぞ」
「浜松にも」
家臣達も頷いて応えてだ、そしてだった。
彼等はすぐにだった、岡崎を後にしてだった、
浜松に向かった、東海道を下りそうしていくのだった。
巻ノ二十 完
2015・8・18