巻ノ十九 尾張
家康は甲斐、信濃を攻めていたがそれは常ではなかった。随時であり休み休み攻めていた。それでこの時はだった。
駿府に戻りそこで政をしていた、三河や遠江、そして駿河だけでなくだ。
甲斐や信濃の領地にした場所も治めていた、その政はというと。
「税は今より軽く法は公平にな」
「三国を治めている様に」
「そうしてですな」
「甲斐や信濃も治めていく」
「そうされるのですな」
「うむ、どの国の民もわしの民じゃ」
それならとだ、家康は家臣達に微笑んで答えた。
「堤や道も整えるが」
「それは年貢の後で」
「こちらが銭を出して」
「そうせよ、その普請の際は働かせている人夫達には白米をふんだんに食わせその者達の年貢は軽くしてやれ」
家康が普段からしている様にというのだ。
「苦しませぬ様にな」
「殿はいつもそうされますな」
「ご領地では」
「民には仁ですか」
「それを以てあたるべきだと」
「仁と法じゃ」
その二つが大事だというのだ。
「このうちどれか一つがなくとも治められぬ」
「国は」
「そして民も」
「だからじゃ」
それでというのだ。
「わしはこの二つを忘れぬ様にしてな」
「政をされている」
「そういうことですな」
「公平に法を敷いて用い」
まずは法の話だった。
「そしてじゃ」
「民を働かせても苦しませぬ」
「戦の際も手を出さぬ」
「働いてもらえば褒美を弾む」
「殿のいつも通りのやり方で、ですな」
甲斐も信濃もというのだ。
「治められるのですな」
「民を忘れて我等はない」
家康ははっきりとこうも言った。
「だから治めていくぞ」
「これまで通りのやり方で」
「そうされて、ですな」
「手に入れた領地の民達も」
「無事治めていきますか」
「そうする。しかし信玄公の政はかなりよかった様じゃな」
家康はこうしたことも述べた、今度は神妙な顔になっている。
「甲斐も信濃もな」
「ですな。田畑はよく開墾され」
「堤も道も整っております」
「町も栄え賑わいがあり」
「米以外にも様々なものが植えられております」
そしてそこから様々なものが作られているのだ。家康は甲斐や信濃のそうした状況を見て家臣達と話しているのだ。
「そうしたものを見ていますと」
「信玄公は実に見事な方でしたな」
「噂には聞いていましたが」
「噂以上です」
「わしも見習わないとな」
家康は袖の中で腕を組み唸る様にして言った。
「そして信玄公以上の政をしたい」
「ではよりよき政を」
「甲斐や信濃においても」
「そうされますか」
「そのつもりじゃ、では次の戦まで収めた場所を治めていくぞ」
こう家臣達に言い政をしていくのだった、家康は戦だけでなく政も見ていた。そしてその彼の領地である三河の隣の尾張にだ。
幸村達は入った、一行は清洲城の城下町に入る前にだ。
その傍の村を見てだ、こう言うのだった。
「凄いな」
「はい、実に」
「田が何処までも続き」
「どの田も見事です」
「米がよく実っています」
「これはかなりの米が採れますな」
「しかも」
田だけではなかtyた、見れば。
あぜ道にはだった、そこには。
「あぜ豆もあるな」
「それもよくある」
「畑もよいな」
「麦や色々な野菜がある」
「果物も多い」
「これはよい村じゃ」
「かなり豊かな村じゃな」
その村の見事さにだ、家臣達も唸ってだ。
幸村は村の家々や水車を見てだ、こう言った。
「家は大きく水車は新しい」
「そこも見ますと」
「違いますな」
「うむ、豊かな証じゃ」
そうした家等も観て言うのだった。
「よき場所じゃ」
「前右府殿は善政を敷かれていたといいますが」
「その通りです」」
「これまで前右府殿のご領地だった場所を巡ってきましたが」
「どの国も見事に治められています」
「悪者も少なく」
「どの国もよい国となっております」
その信長の領地にいた者も多いだけに確かな言葉だった。
「そのことから考えましても」
「前右府様はよき方だったのですな」
「非常によき政を心掛けておられていて」
「実際にそうされていた」
「民のことを考えておられた」
「そうした方だったのですね」
「そうじゃな、お膝元であった尾張を見てもわかる」
信長が生まれ育った国でもあるこの国もとだ、幸村も言う。
「あの方は決してな」
「血を好む方ではなく」
「民のこと、天下のことを考えておられた」
「そうした方だったのですな」
「そういえば長島も」
信長が幾万もの門徒達を焼き殺したその地もだった、彼等は尾張に来る前に寄ったその地のことを思い出していた。
「非常にですな」
「穏やかでした」
「かつてそうしたことがあったとは思えないまでに」
「よい状況でした」
「おそらく一向宗の者達を倒したのは事実じゃ」
幸村もこのことは否定しなかった、そのことは彼も聞いていたからだ。
「しかしな」
「それはあくまで最低限のこと」
「一向宗に勝つ為に」
「その為のことであり」
「前右府殿はあくまで血を好まれる方ではなかった」
「むしろ善政を心掛ける方だったのですな」
「そのことがわかった、戦は避けられぬならやらねばならぬ」
例えそれが多くの血を流すものになろうとも、というのだ。
「しかしじゃ」
「それでもですな」
「流す血は最低限にして」
「普段は民の為の政を心掛ける」
「それが大事なのですな」
「そうじゃ、拙者もこのことがわかった」
幸村はこう言うのだった。
「前右府殿のご領地を観て回ってな」
「左様ですな」
「あの方はそうした方でしたな」
「そのことがよくわかりました」
「色々な国を巡って」
家臣達も言うのだった。
そのうえでだ、幸村に問うたのだった。
「では殿もですな」
「上田を治められるのですな」
「上田の民達が幸せになる様に」
「そうされたいのですな」
「普段はな、戦のない時はそうしたい」
是非にとだ、幸村も家臣達に答えた。
「実際にな」
「やはりそうですか」
「殿も政をお考えですか」
「うむ、信玄様もそうであられた」
かつて真田家が仕えていた彼もというのだ。
「まずは政の方であられた」
「普段はご領地を治められ」
「民のことに心を砕かれていましたな」
「だから殿もですな」
「そうされたいのですな」
「うむ、是非な」
こう家臣達に答えるのだった。
「そうしたい」
「やはりそうですか」
「あの方もですか」
「そうされたいのですか」
「政を第一に」
「そう考えておる、上田もこの様に豊かにしてな」
善政を行いそのうえで、というのだ。
「民達の笑顔をいつも観たい」
「そして天下の全てが」
「泰平になればですな」
「これ以上よいことはない」
「そうお考えですか」
「そうなのじゃ、天下が泰平になれば」
幸村は遠くに夢を見ている目で述べた。それは決して見果てぬ夢ではない。力を尽くせば適えられる夢である。
それでだ、彼も言うのだ。
「それ以上いいことはない」
「ですな、まさにそれこそがです」
「天下も民も最も喜ぶこと」
「戦の世が終わり」
「誰もが幸せになればこれ以上いいことはありませぬな」
「全くじゃ」
まさにとだ、幸村も言うのだった。
「だからそうなって欲しい」
「天下が泰平になり民達が幸せになる」
「それこそがですな」
「誰にとってもよきこと」
「そうなのですな」
「そう思っておる、前右府様はあと一歩でそれを果たせなかったが」
本能寺において明智光秀に討たれたからだ。だがそれでもだった。
「しかしな」
「それでもですな」
「羽柴殿がそれをされますな」
「やはり天下はですか」
「泰平に向かっていますか」
「戦は終わろうとしていますか」
「そのことは間違いない、まだ安心は出来ぬが」
しかし、というのだ。
「もう少しじゃ」
「天下泰平」
「それになりますか」
「では、ですな」
「殿も我等も」
「うむ、働こうぞ」
幸村は家臣達に笑顔で応えた。
「天下泰平の為、そしてそれを守る為にな」
「働く」
「そうされますな」
「それが義じゃ、義なくしてそれは出来ぬ」
こうも言った幸村だった。
「泰平もな」
「そこに義がなければですか」
「まことの泰平ではないと」
「そう仰るのですか」
「拙者はそうも考えておる」
田で笑顔で汗を拭きつつ働く百姓達を見つつの言葉だ。
「義なき泰平はまことの泰平に非ず」
「そうした泰平は、ですか」
「必ず」
「うむ、崩れる」
そうなるというのだ。
「そこに義がなければ人の心が確かにならぬからな」
「では裏切りや謀を好む様な」
「そうした御仁が天下を取れば」
「その泰平は長くは続かぬであろう」
これが幸村の考えだった。
「羽柴殿はこう言うといささか謀を好まれるか」
「いえ、あの御仁はです」
「確かに謀を使われますが」
筧と霧隠が幸村に話した。
「ですがそれでもです」
「それは必要な時だけです」
「普段は懐が広く気さくで」
「よい方です」
「気をつけるべきはです」
ここでだ、清海が眉を顰めさせて言って来た。
「都にいた時に行きませんでしたが」
「南禅寺か」
幸村は清海の言葉を聞いてだ、すぐに察してこの寺の名前を出した。
「あの寺か」
「はい、あの寺におる以心崇伝という坊主は」
「どうした御仁じゃ」
「それがしが見た中で最も腹黒い者です」
「腹黒いか」
「学はありますがその学を己がのし上がる為にしか使いませぬ」
それが崇伝という男だというのだ。
「己がのし上がる為に邪魔になる者、己が嫌っていたり恨む者を陥れる為に手段は用いませぬ」
「そうした者か」
「はい、あの者が天下に出れば」
その時はというのだ。
「謀を使い必ず害を為します」
「拙僧も崇伝殿は知っていますが」
伊佐もだ、剣呑なものを語る顔で幸村に語った。
「兄上の仰る通りです」
「謀を好みか」
「私利私欲しかありませぬ」
「しかも曲学阿世か」
「はい、僧侶としてあるまじき方です」
「そうなのか、厄介な者か」
「そういえばわしも一度南禅寺に行ったことがあるが」
猿飛は己の右手を顎に当てて眉を顰めさせて述べた。
「一人随分と人相の悪い坊主がおったな」
「その御仁がおそらくです」
「崇伝か」
「はい、関わられることのなき様」
「悪い者だからか」
「拙僧もあの御仁は好きになれませぬ」
伊佐は猿飛にだ、自分も清海と同じ考えだと述べた。
「その学を正しき道には使われぬ方です」
「学もあるだけでは駄目か」
「正しく使ってこそなので」
崇伝の様に使うことはというのだ。
「あの方の様なことはあってはありませぬ」
「そうなのか」
「ふむ、鉄砲もな」
ここでだ、穴山は今も背負っている鉄砲に手をやりそれを見て言った。
「楽しみや己の欲の為に使えばとんでもないものになる」
「忍術と腕力もじゃな」
望月も言う。
「悪いことに使えば最悪じゃ」
「そうじゃな、忍術は盗賊にもってこいじゃ」
穴山は望月にも応えて述べた。
「悪いことに使えばとんでもないことになる」
「全くじゃ」
こう二人で話す、そしてだった。
海野がだ、幸村に言った。
「殿、そういえば」
「六郎、どうしたのじゃ」
「我等三河にも行くつもりですが」
「徳川殿の家臣の方にもか」
「はい、一向宗の一揆の時にそちらについて今は離れていますが」
それで今の時点では徳川家にはいないが、というのだ。
「本多正信殿という方がおられるのですが」
「本多というと本多忠勝殿の縁者か」
「その様です」
「本多忠勝殿は四天王の一人で徳川家の中でも特に武辺の方じゃが」
一本気な武の者が多い徳川家の中でもだ。
「あの方の縁者か」
「しかし本多殿とは全く気質が違い」
「謀を好まれるか」
「そうした方と聞いています」
「ではその本多殿もか」
「何かあればです」
その時はというのだ。
「気をつけられた方がいいです」
「徳川家はとかく武が強いが」
それで知られた家だ、その一本気で武辺の者が多く家康の下で忠義一徹でまとまっている家としてである。
「そうした方もおられるか」
「今は離れておられますが」
「そうなのか」
「ですからそのご御仁に会われた時も」
「注意せねばか」
「本多正信、まさか」
ここでだ、根津も剣呑な顔になり言った。
「本田正純という者の縁者か」
「縁者も何も父君じゃぞ」
海野は根津にすぐに答えた。
「その正信殿がな」
「正純殿のじゃな」
「そうじゃ、親子じゃ」
そうだというのだ。
「お二人はな」
「そうか、やはりな」
「その正純殿がどうしたのじゃ」
「一度会ったがあそこまで暗い目をした人相の悪い者はおらんかった」
根津は剣呑な顔のまま話す。
「岐阜で飯屋で会いたまたま話をしたがな」
「それで知り合ったか」
「あそこまで嫌なものを感じた者はおらぬ」
「そうなのか」
「あれは碌な者ではあるまい」
こうも言うのだった。
「間違いなくな」
「何じゃ、親子で碌でもない奴等か」
由利は二人の話を聞いてこう言った。
「それは難儀じゃな」
「うむ、だからな」
それで、とだ。また言った望月だった。
「あの御仁には注意せよ」
「間違いなく天下の害になるな」
根津は本田正純のことを言った。
「危ういわ」
「左様か」
「天下は色々な御仁がおられるがな」
幸村はここまで話を聞いて述べた。
「その中には悪い者もおる」
「ですな、何かと」
「ならず者もいますし」
「そしてそうした者もおる」
「それもまた人の世ですな」
「その三人のことは覚えておこう」
幸村は真剣そのものの顔で家臣達に返した。
「以心崇伝、本多正信正純親子か」
「天下の奸賊ですな」
「そうした輩もいるのですな、天下には」
「実に厄介なことに」
「願わくば天下に出ぬことを願いますが」
「そうじゃな、天下におるのはよき者だけではない」
幸村はこのことに無念なものを感じつつ言うのだった、そしてだった。
そうした話をしつつだった、一行はその村も見て清洲の城下町にも入った。清洲の城下町も栄えており人も店も多かった。
だがその町並みを見てだ、幸村はこう言った。
「この町は今以上に栄えるやもな」
「これ以上にですか」
「栄えますか」
「そうなりますか」
「うむ、そう思う」
その町の中を歩きながらだ、幸村は述べた。
「よりな」
「今もかなり賑わっていますが」
「これ以上にですか」
「栄える町だと」
「殿はそう見ておられますか」
「うむ、あの城にしてもな」
清洲城も観て言う、信長のかつての居城であり尾張第一の城だ。
「より大きな城を築ける」
「確かに」
ここでだ、幸村に応えたのは筧だった。
「清洲城もよい城ですが」
「この地を見ているとな」
「はい、より大きく見事な城を築くことが出来ます」
「そしてその城の下にじゃ」
「より見事な城下町もですな」
「そうなる」
幸村はあらためて述べた。
「そして尾張自体もな」
「今以上にですな」
「栄えるのですか」
「元々尾張は土地は肥え天下の道の要でもある」
東海のそれであることもだ、幸村は話した。
「それだけにな」
「今以上に栄え」
「そして豊かになる」
「この国はそうした国ですか」
「この町も」
「そう思う、尾張は天下の要の一つじゃ」
幸村は尾張自体にここまで言った。
「よい国じゃ、政次第でどれだけでもよくなる」
「そこまで恵まれた国だからこそ」
望月は幸村んお話を聞いて唸る様に述べた。
「前右府殿は天下人になれたのですな」
「そうじゃ、尾張と美濃を手中に収められてな」
「その二国の豊かさが地盤となり」
「あの方は天下人になれたのじゃ」
まさにそうだというのだ。
「まずはそこからじゃった」
「美濃も豊かでしたが」
その美濃の中心である岐阜にいた根津も言う。
「この尾張もですな」
「この通りな。しかも前右府殿は善政を行われ国を豊かにされたからな」
只でさえ豊かな尾張を、というのだ。
「そこが大きな力となったの確かじゃ」
「どの国を持っているか」
ここでだ、穴山は唸る様にして述べた。
「それが天下人になる為には重要だったのですな」
「豊かで都に近い国ならな」
「その分有利ですな」
「そういうことになる」
「では上田は」
清海はあえてだ、真田家の領地のことを幸村に問うた。
「そこはやはり」
「うむ、とてもな」
「天下人になれる場所ではないですか」
「そうじゃ、真田は最初から天下を考えてはおらんがな」
「そうなのですな、やはり」
「前右府殿はこの尾張に出られた、そして尾張を手中に収められた」
幸村は淡々とした調子で述べていった。
「このことがやはり大きかったのじゃ」
「ですか、そしてこの尾張は」
海野も言う、店の一つ一つを見つつ。
「よく治めればさらに豊かになる」
「そうした国と思う」
「ですか、ではこの尾張からですな」
「そうじゃ、三河に向かおうぞ」
「さすれば」
海野は幸村の言葉に頷いた、そうしてだった。
そうした話をしつつ一行はこの日は清洲の宿に泊まることにした、それで宿を探しつつそれぞれの芸も見せて旅銭も稼いだ。
由利はその中で鎖鎌と風の術を見せて銭を稼いだうえで伊佐にこう問うた。
「一つよいか」
「何でしょうか」
「御主も芸をしておるな」
「はい、説法ではありませんが」
「では力技等をか」
「そして法力で火を出したりしてです」
そうしたこともして、というのだ。
「芸をしております」
「御主の法力は凄いからな」
「いえ、それ程でも」
「隠さずともよい、わしも鎖鎌と風の術で稼いでおる」
そして忍術の芸でだ。
「しかし法力なら御主じゃ」
「御主の法力は剛じゃが」
ここで霧隠も来て言った。
「見事なのは確かじゃ」
「剛の法力だと」
「うむ、力のな」
「確かに。私の気質がそうなので」
「自分でもわかっておるか」
「そのつもりです、しかし私なぞより強い法力の方がおられまして」
ここで伊佐がいう者はというと。
「東国に南光坊天海という方がおられまして」
「天海とな」
「はい、結構以上にお歳でかなりの学識がおありで」
「法力もか」
「相当な方です」
それが天海だというのだ。
「まだお会いしたことはありませぬが」
「そういえば我等は皆西国生まれじゃな」
猿飛がここでこう言った。
「信濃にしても西国になるしな」
箱根から東が東国になる、室町幕府はその東国、相模や武蔵等十二国を東国に分けて鎌倉公方の収める分にしたというのだ。
「殿にしてもな」
「はい、我等は皆西国の者です」
伊佐もそこは確かだと答えた。
「真田家は東国とも関わりがありますが」
「それでも区分はな」
「西国です」
そちらになるというのだ。
「それで拙僧もまだ東国に行ったことはなく」
「その天海殿にもか」
「お会いしたことありませぬ」
そうだというのだ。
「まだ」
「左様か、ではな」
「お会いしていないからこそですね」
「お会いしたいのう」
猿飛はしみじみとした口調で述べた。
「その天海殿にもな」
「はい、しかし天海殿はもう結構なお歳なので」
「お会いする前にか」
「そうも考えられます」
「それなら仕方ない」
会えずともとだ、猿飛は伊佐にあっさりとして返した。
「会えぬこともあろう、会いたくともな」
「そう考えられるのが佐助殿ですね」
「わしらしいか」
「そのあっさりとした感じが」
「うじうじと何時までも考えるのは性に合わぬ」
猿飛は笑って伊佐に返した。
「だからな」
「こうしたこともですか」
「そうじゃ、お会い出来ぬなら仕方なかろう」
「諦めるしかないと」
「それなら諦める」
やはりあっさりしていた、猿飛の言うことは。
「そういうことじゃ」
「ですか」
「天海殿のことも覚えておこう」
幸村もここで言った。
「かなりの法力を持たれておるか」
「左様です。それで殿の方は」
「稼ぎじゃな」
「講釈で、ですか」
「うむ、結構貰った」
自分の講釈を聞いて者からとだ、幸村は伊佐に笑顔で答えた。
「これでまた旅が出来る」
「それは何よりです」
「そうじゃな、ではな」
「はい、ゆっくりと休み」
「三河に向かおうぞ」
家康の領地であるその国にというのだ。
「そうしようぞ」
「さすれば」
こうした話をしてだった、一行は次の日には三河に足を向けた。その一行のことについてだ、服部は己の屋敷の中で影の者達から聞いていた。
屋敷はそれなりに大きいが質素だ、華美なものは一切ない。それは彼の部屋も同じで質素そのもので畳と障子以外は何もない。
その部屋の中でだ、彼は着物を着て袖の中で腕を組みながら話を聞いていた。
「十一人となられてもです」
「何も乱れることなくです」
「伊勢も進まれ」
「尾張からです」
「いよいよ」
「そうか、来られるか」
服部は腕を組んだまま述べた。
「遂に」
「はい、三河に入られ」
「この駿府にもです」
「やがて来られると思います」
「わかった、殿のお言葉はじゃ」
彼が仕える家康、他ならぬ彼のことだ。
「よいとのことじゃ」
「ご自身のご領地に入られても」
「それでもですな」
「そうじゃ、真田殿は今は敵ではない」
徳川の、というのだ。
「それならばな」
「特に、ですか」
「こちらから仕掛けることはない」
「だからですか」
「幸村殿にもですか」
「手出しはしないと」
「そうじゃ。徳川家は信濃、甲斐に兵を進めておる」
そうしてその二国を次々と手中に収めてきている、そうしつつ相模の北条氏とも度々衝突している。北条も信濃と甲斐に兵を進めているからだ。
「しかし戦が主ではない」
「あくまで必要なのは国」
「戦ではありませんな」
「それ故に」
「従う国人は、ですな」
「家臣とされている」
戦わずして、というのだ。
「殿は戦は恐れぬが好まれぬ」
「戦わずともことを為せれば、ですな」
「それに越したことはない」
「だからですな」
「従う国人はそのまま召抱えておられますな」
「それは真田殿も同じじゃ」
幸村の家もというのだ。
「従われるならそれでよい、ましてやな」
「今はまだ、ですな」
「徳川家とは揉めていない」
「戦どころか話もしていない」
「だからこそ」
「それでじゃ」
まだ関わりがないからだというのだ。
「殿は幸村殿には手出しをされぬ」
「そういうことですな」
「敵でないからこそ」
「お国を通ることを許される」
「そうされるのですな」
「殿は非常に律儀な方じゃ」
家康のその資質は天下によく知られている、その律儀さは彼と長い間同盟を結んでいた信長も頼りにしていた程だ。
「それでじゃ」
「まだ敵でない方は」
「そのまま通される」
「そしてご領地もですな」
「見ることを許されますか」
「うむ、殿の政を見せたいともお考えじゃ」
家康自身のそれをというのだ。
「そして徳川家自身もな」
「その武も」
「武もお見せしてですか」
「真田家は徳川家には勝てぬ」
「そのことを幸村殿に見せるのですか」
「そうじゃ、徳川家は今や大身になった」
三河、遠江、そして駿河の三国を完全に収め信濃と甲斐も次々と組み入れている。百万石を優に越える様になっている。
「それに対して真田は十万石じゃ」
「百万石以上の徳川家に対して」
「その百万石以上の力もですな」
「幸村殿に」
「あえてお見せしたいともじゃ」
家康は考えているというのだ。
「だからじゃ」
「あの方をお通しする」
「何もせずに」
「そうじゃ、だから我等もじゃ」
伊賀者達もというのだ。
「何もせぬ。よいな」
「はい、それでは」
「我等は幸村殿ご一行には何もしませぬ」
「指一本触れませぬ」
「それこそ」
声の主達も服部に約束した。
「殿のお言葉ならば」
「そうします」
「殿は素晴らしき方じゃ」
服部は瞑目する様にして家康のことも語った。
「律着なだけでなく徳が違う」
「他の御仁とは」
「全く、ですな」
「その徳があるからな」
それでというのだ。
「天下人にも相応しき方じゃ」
「はい、そこまでの方ですな」
「百万石以上の器の方」
「天下人にもなれるまでの」
「そうじゃ、しかし殿には今のところそのお考えはない」
天下を目指すというそれがというのだ。
「望むのはあくまで信濃と甲斐だけじゃ」
「国を、ですな」
「より多くの国を手に入れられたいだけですな」
「少なくとも今はな」
この時の家康はというのだ。
「天下人まではな」
「とても、ですな」
「考えておられませんか」
「天下人になれる方でも」
「うむ、殿は無欲な方じゃ」
時として吝嗇とさえ言われるまでだ、家康は贅沢もしない。質素な暮らしをしている。女色はそれなりに好むがだ。
「だから天下もな」
「望まれず」
「信濃と甲斐ですな」
「その二国を望まれているだけですな」
「そうじゃ、しかし天下はこれからは」
服部はここで天下がどうなるかも語った。
「やはりな」
「羽柴秀吉殿」
「あの方のものになりますか」
「そうなるであろう。百姓からな」
秀吉が百姓あがりであることはよく知られている、服部はその秀吉のことを眉を曇らせ唸る様にして述べた。
「世の中はわからぬな」
「ですな、一介の足軽がです」
「最早天下人ですか」
「戦国の世では百姓ものし上がるものですが」
「それでもですな」
「あの御仁は格別じゃ。しかし羽柴殿と戦になろうとも」
徳川家がだ、今は何もないが先はわからないというのだ。
「我等は。わかっておるな」
「はい、お仕えするべきは」
「殿だけ」
「我等伊賀者は」
「左様ですな」
「そうじゃ、殿以外にはおられぬ」
まさにというのだ。
「そのことは忘れるでないぞ」
「承知しております」
「我等伊賀者は全てです」
「徳川家に終生お仕えします」
「それも代々」
「影の者達をここまで用いて下さるのじゃ」
武士としてだ、実際に服部は徳川家の重臣の一人に取り立てられており彼の下の伊賀者も篤く遇されている。家康がそうしているのだ。
そのことを恩に思いだ、服部は実際に今彼等に言うのだ。
「ならばな」
「はい、それでは」
「我等はですな」
「徳川家に忠義を尽くし」
「働いていきまする」
「頼むぞ。では幸村殿を見つつ」
服部は周りに瞑目する様な顔でまた告げた。
「殿のお言葉があればな」
「その通りに動く」
「そうさせてもらいます」
影の者達も頷く、そしてだった。
服部は今は静かに過ごしていた、幸村達が三河に入ろうともだ。見てはいるがそれでも動くことはなかった。少なくとも今は。
巻ノ十九 完
2015・8・12