巻の十七 古都
一行は堺を出て奈良に向かっていた、途中険しい山があったが。
一行は山に入る前にだ、道中だったので入った村の老人にこう言われた。
「これから進む山にはご注意を」
「何か出るのか」
「出る山は別の山ですじゃ」
これから入る山ではないというのだ。
「そちらの山は十二月二十日に入ると化けものが出て来て襲われます」
「そういえばこの辺りであったな」
筧はその話を聞いて言った。
「化けものが封じられた山があったのは」
「まさにその山ですじゃ」
老人は筧にもこう返した。
「出て来るのは」
「そうであるな」
「ですがお侍様方がこれから入られる山はです」
「化けものは出ぬか」
「獣も少ないです、ですが」
それでもとだ、老人は言うのだった。
「相当に険しい山ですじゃ」
「そこまで険しいのか」
「わし等地元の者でも越える時は覚悟して行きます」
その山にとだ、老人はまた幸村に話した。
「非常に」
「そうか」
「別の山もありますが」
「いや、険しくともじゃ」
「行かれますか」
「その山が一番奈良に近いな」
「そのことはその通りですじゃ」
老人は幸村にだ、彼等が今から越える山が一番奈良への近道であることを約束した。地元の者として。
「あの山を越えればすぐに奈良ですじゃ」
「ではあの山を越える」
「そこまで言うのなら止めませぬが」
老人は一行の決意が固いのを見てこれ以上言うのを止めた。
そのうえでだ、こう言ったのだった。
「道中お気をつけて」
「ではな」
幸村は老人に微笑んでだ、そのうえでだった。
家臣達と共に山に入った、山は確かに険しいが。
それでもだ、その山の険しい道を何なく進んだ。猿飛は山道をカモシカの如く進みながら他の者に言った。
「確かに険しいがな」
「これ位は何ともないな」
清海も巨体からは信じられない身軽さで進んでいる、他の者達も同じだ。
「我等にとってはな」
「並の忍の者では辛いが」
「それでもな」
「我等ならばな」
「平気じゃ」
こう言ってすいすいと進むのだった、それは幸村も同じでだ。
何でもないといった顔で歩いていた、その幸村に霧隠が問うた。
「やはり上田も」
「うむ、山ばかりでな」
「ですから殿もですな」
「山道には慣れておる、それにな」
「忍術も身に着けておられるので」
「どんな山道でも平気じゃ」
「では飛騨等も」
日本の中でも特に険しい山が多いこの国の名をだ、霧隠はここで出した。
「大丈夫ですから」
「あそこで修行したこともある」
「そうですか、それを聞いて安心しました」
「上田から堺まで多くの山も越えておる」
「信濃も険しい山が多いですからな」
諏訪で彼と会った穴山も言う。
「これだけ険しい山も」
「平気じゃ」
「そうですな」
「信濃はまことに険しい山が多いですな」
由利も言う、穴山と同じく信濃で幸村と会った彼も。
「その信濃のことを思うと」
「この山も大丈夫じゃな」
「まことに」
「ただ。険しい山はそれだけで要害となります」
やはり信濃にいた海野も言う。
「このことは上田にとってよいことですな」
「左様、上田は城も堅固じゃがな」
「山々もですな」
「要害となっておる」
実際にとだ、幸村はその上田のことを話した。
「御主達も行けばわかるがな」
「上田はですな」
「そうそう攻められる国ではない、攻めて来てもな」
「上田城と山で」
「守る」
「ではこれよりどの様な敵が来ても」
根津はその目を鋭くさせて言った。
「上田はですな」
「陥ちぬ、陥ちさせぬ」
幸村は確かな自信を以て答えた。
「どの様な相手でもな」
「左様ですな」
「しかし、まことにまた天下は戦の匂いが強くなっております故」
望月は秀吉が天下を取るにしても、と言った。
「上田も気をつけねば」
「その通りじゃ」
「左様ですな」
「やはり徳川殿とはな」
「戦になりますか」
「そうなることは充分有り得る」
「ですか、やはり」
望月も頷いて応えた。
「徳川家ですか、我等の相手は」
「ではやはりです」
伊佐は幸村に確かな目で告げた。
「徳川殿のご領地はです」
「見るべきじゃな」
「あの方が我等の確かな敵となる前に」
「ご領地に入っても何もされぬうちにな」
「見ていきましょうぞ」
「それがよいな、やはり」
「はい」
「その時は我等も隠れずに名乗って入るのがよいかと」
霧隠は忍者らしくない行動を提案した。
「堂々と」
「堂々とじゃな」
「かえってその方が安全です」
「確かにな、我等も大所帯になった」
幸村はここで家臣達を見た、合わせて十一人だ。
その十一人という数からもだ、彼は言った。
「多いしのう」
「多いとやはり」
「隠れるのには向いておらぬな」
「例え忍でも」
「そうじゃな、ではな」
「はい、徳川殿のご領地においては」
三河やそうした国に入った時はとだ、霧隠は話した。
「名乗りましょうぞ」
「そうしてじゃな」
「堂々と見て回りましょう」
「そうするとするか」
「少なくとも徳川殿は無体な方ではありませぬ」
「敵でない家の者に無闇に危害を与えられる方ではないな」
「そう聞いております、ですから」
それでと言うのだった。
「そのまま参りましょう」
「三河等の国にもな」
「そうしましょうぞ」
こうしたことを話してだった、そして。
一行はその山、険しいそれは何なく越えた。地元の者達が難儀だと言う山も一行にとっては何でもないものだった。
そしてその山を越えてさらに東に進んでだ、奈良に来た。奈良は都や大坂、堺程ではないが中々賑やかだった。
神社や寺も多い、そして鹿も。清海は自分達のところに来る鹿達を見て言った。
「春日の鹿もな」
「変わりませぬな」
伊佐もその鹿を観つつ兄に応えた。
「昔から」
「うむ、人懐っこいのう」
「ですな、しかし兄上は」
「わしがどうしたのじゃ?」
「前から思っていましたが」
鹿が周りにこれでもかと集まっている自身の兄を見ての言葉だ。
「生きものに好かれますな」
「うむ、昔からじゃな」
「鹿だけでなく犬や猫にも」
見れば他の者よりも鹿に寄られていて清海自身にこにことして彼等を撫でている。伊佐はその兄を見て言ったのだ。
「好かれまするな」
「何かとな」
「心根のよい者は生きものに好かれるといいますが」
「ではわしは心根がよいのか」
「いつもそう思っています」
「わしは破戒僧じゃがな」
その大きな口を開いて笑ってだ、清海は弟に返した。
「それでもか」
「はい、それでもです」
「わしは心根はよいか」
「では弱き者をいたぶったりしたことはありますか」
「馬鹿を言え、そんなことはない」
一度もだ、清海はこのことははっきりと言い切った。
「わしはあくまでじゃ」
「そのお力はですな」
「悪い奴、弱い者をいじめる奴を懲らしめる為のものであってじゃ」
「今はさらにですね」
「殿をお守りする為にある」
そうだというのだ、自分自身も。
「その様なことはせぬ」
「意地悪でもありませぬし」
「悪戯は好きじゃったがな」
子供の頃はだ。
「しかしな」
「はい、非常に心根はいい方なので」
「生きもの達に好かれておるか」
「そうです」
「成程な、そういえば殿もかなりじゃな」
見れば幸村達の周りにもだ、鹿は多い。
「殿は鹿にも好かれるか」
「流石は殿ですな」
「御主も凄いのう」
海野は猿飛にも言った、見れば猿飛は清海や幸村にも負けない位多くの鹿達に囲まれている。その猿飛を見ての言葉だ。
「鹿に好かれておるな」
「わしも昔からなのじゃ」
「生きものに好かれておるか」
「そうなのじゃ」
「そういえば御主生きものを使うことも得意じゃったな」
「特に猿をな」
この生きものがというのだ。
「使うのが得意じゃ」
「名前通りじゃな」
「よく言われる、爺様に教えてもらった術じゃ」
「祖父殿にか」
「そうじゃ、わしの家のことは前に話したな」
「伊予の方でほぼ一子相伝で忍術を伝えておったな」
「その爺様から授かった術の一つじゃ」
他の術と同じく、というのだ。
「木の術、手裏剣と並んでわしの得意な術じゃ」
「獣を使う術はか」
「左様じゃ、しかし生きものは戦には使わずな」
「他のことで使うか」
「戦うのはわしだけじゃ」
あくまで、というのだ。
「生きものは話を聞いたり伝えてもらったりな」
「それ位のことか」
「戦をするのは人じゃな」
「だからか」
「人であるわしがする」
「生きものは巻き込まぬか」
「そういうことじゃ」
これが猿飛の生きものを使う術への考えでありやり方だった。
「そこは守る」
「そうなのじゃな」
「そういうことでな、それでな」
「御主は生きものは粗末にせぬか」
「そうしたことはせぬ、命は命じゃ」
例え人でなくとも、というのだ。猿飛は海野に確かな顔で話した。
「爺様にも言われた、無闇な殺生や命を弄ぶ様なことはするなとな」
「命を弄ぶのは左道じゃ」
穴山も忌々しげに言った。
「鉄砲も同じじゃ」
「そういえば御主もな」
「そうじゃ、撃つ時もな」
「一撃で苦しまずじゃな」
「そうしておる」
穴山は望月に答えた。
「その様にな」
「そして遊びでも撃たぬな」
「そうじゃ」
そうしているとだ、穴山も確かな声で話した。
「そうしておる」
「それが正しいな」
「生きものをいたぶる趣味はない」
「そんなことをして何になるのか」
由利もそれは同じ考えだった。
「命は同じじゃからな」
「この鹿達は人だったかも知れぬ」
筧も鹿達、自分の周りに見つつ言った。
「そう考えるとな」
「軽々しく扱えぬな」
「あらゆる者は生まれ変わる」
筧が言うのは仏教の考えであった。
「そう考えるとな」
「我等も今は人でもな」
「次の生ではわからぬ」
「畜生やも知れぬか」
「そうじゃ、そこはその時の徳の積み方次第じゃ」
これも仏教の考えである、筧はその考えの下今語るのだった。
「それによってな」
「鹿にもなるな」
「他の生きものにもな」
「だからじゃな」
「命は粗末にしてはならん」
それが人であろうと所謂畜生であろうと、というのだ。
「だからな」
「この者達も大事にせねばな」
「そういうことじゃ」
筧は由利だけでなく他の同僚達にも語っていた、そしてだった。
根津も己の腰の刀を見つつだ、こんなことを言った。
「刀は人を斬るもの、しかしな」
「それは戦や止むを得ぬ時じゃな」
「人を無闇に斬るのは邪剣じゃ」
霧隠にも言うのだった。
「相手が獣にしても同じこと」
「命を無闇に奪う術ではないな」
「そうじゃ、わしは師にも言われた」
「剣はじゃな」
「無闇に斬るものではない」
決して、というのだ。
「命は奪うものではないのじゃ」
「必要な時以外はな」
「わしもその考えじゃ、だからな」
「鹿達もじゃな」
「粗末にしたらいかん」
「その通りじゃな、獣も人も同じ」
「命ある者達じゃ」
だからこそとだ、根津も言うのだった。
その話をしつつだ、彼等は鹿達と遊んだ。そしてその後で春日大社に行ったがそこで幸村は家臣達にこう言った。
「あの鹿達はこの社の使いじゃからな」
「ですな、だから余計にですな」
「大事にせめばなりませぬな」
「あの鹿達は」
「他の鹿達とはそこが違いますな」
「左様、神仏は敬うものじゃ」
人として、というのだ。
「だからな」
「あの鹿達もですな」
「大事にして」
「我等が先程した様に」
「そうすべきですな」
「そうなのじゃ、では春日に参り」
そして、とだ。幸村は家臣達に笑って話した。
「他の寺社も巡ろうぞ」
「ですな、この奈良の」
「見て回りましょう」
「折角来たのですから」
「是非」
「都でもそうしたがな」
実は幸村達は都でも寺社を見て回ったのだ、ただ町の中を見物して賑わいを楽しみ銭を稼いだだけではなかったのだ。
「ここでもな」
「はい、見て回り」
「そしてですな」
「後学に役立てましょう」
「そうしましょう」
こう話してだった、一同は春日大社の後も他の寺社を見て回った。そうして奈良の町を楽しんでそしてだった。
宿の中でだ、全員で言った。
「いや、奈良もまた」
「実によいところですな」
「寺社が多くです」
「見所が尽きませぬ」
「そうじゃな、奈良に来てよかった」
幸村もこう言う。
「よい学びになっておる」
「旅は最高の学問といいますが」
「実際にですな」
「我等の旅はそうなっていますな」
「最高の学問にもなっています」
「殿と巡り合えただけでなく」
「この旅で近畿の多くを知ることも出来た」
幸村はこのこともよしとしていた。
「後々役に立とう」
「伊勢にも行き」
「そして尾張にも」
「そうしてですな」
「三河や駿河にも入り」
「見ていきますな」
「そうする、そうして見たものを役立てよう」
幸村は微笑んで言った、そしてだった。
酒を飲んでだ、こんなことも言った。
「それで奈良の酒じゃが」
「はい、奈良の酒もまた」
「実に美味いですな」
「都や大坂の酒も美味かったですが」
「奈良の酒も」
「うむ、よい」
実にというのだ。
「上方の酒は全体としてよいな」
「確かに。近畿の酒は」
「何処の酒もよいです」
「実に美味く」
「幾らでも飲めます」
「水がよいからじゃな」
何故上方の酒が美味いかだ、幸村はそこに理由を求めた。
「だからな」
「よい水がよい酒を作る」
「そういうことですな」
「酒は米から作る」
こうもだ、幸村は言った。
「その米は水がなくてはな」
「ですな、何もなりませぬ」
「米は水があってこそです」
「それでこそ田が出来ます」
「だからですな」
「よい水がよい米を作り」
そしてだった。
「よい米がよい酒を作るのじゃ」
「そういうことですな」
「上方の水がよいからですな」
「それでよい酒になっている」
「そうなりますな」
「そうなる、水が悪いと酒もまずくなる」
ただ水に留まらずというのだ。
「そうしたことからも近畿はよい場所じゃ」
「この奈良もですな」
「そうなりますな」
「うむ、そういうことじゃ」
幸村は家臣達に微笑んで述べた。
「酒のこともな」
「そして水も米も」
「そうしたことも含めて」
「近畿はよい場所ですな」
「実に」
「そう思う、この奈良で遊んだ後は」
それからとだ、また言った幸村だった。
「伊勢に行くが」
「伊勢神宮ですな」
筧が幸村に問うた。
「あの社に行かれますな」
「そのつもりじゃ」
「ですな、やはり伊勢といえば」
「伊勢神宮じゃ」
そこに行かねばというのだ。
「必ず参るぞ」
「ではこれより」
「共に伊勢に行き」
「そして、ですな」
「願いも立てまするな」
「そうしようぞ。そういえばな」
堺に行く途中のこともだ、幸村は思い出した。
「住吉大社にも参ったが」
「あの社も大きかったですな」
霧隠が応えた。
「実に」
「うむ、立派な社じゃった」
「そして次は」
「伊勢じゃ、よいな」
「春日も参り伊勢も参り」
「神も感じようぞ」
これからのことも話してだった、主従は奈良も楽しんだ。そして奈良を楽しみ町を後にする道中において。
伊佐が山道を歩きつつだ、幸村に言った。
「長谷寺にも寄りますか」
「女人高野じゃな」
「そうされますか」
「そうじゃな。丁渡道中にある」
これから行く先にとだ、幸村も答えた。
「それならばな」
「はい、それでは」
「寄ろうぞ」
幸村は微笑んで伊佐に答えた。
「長谷寺にもな」
「それでは」
「長谷寺か、源氏物語にも出ておるというな」
望月は二人の話を聞いて述べた。
「確か」
「その通りじゃ、しかと出ておる」
幸村が望月のその言葉に答えた。
「源氏の君が参っておる」
「では殿が参られれば」
「拙者が源氏の君となるというのか」
「そうでは」
「いや、拙者は源氏の君ではない」
このことはだ、幸村ははっきりと否定した。
「あの様に優雅なものはない」
「ますらおですな」
こう言ったのは根津だった。
「殿は」
「そうじゃ、雅も嫌いではないが」
「それでもですな」
「拙者はやはり武士じゃ」
だからだというのだ。
「優雅よりもそちらじゃ」
「そうですか、では」
「これからもな」
「源氏の君ではなく」
「武士として生きていたい」
「源氏の君は公卿ですな」
由利は源氏の君が何なのか言った、そのことは源氏物語を知らなくとも知っていることである。
「しかし殿は武士ですな」
「左様、まさにな」
「だからですな」
「雅よりも武を先に置く」
武士として、というのだ。
「そうしたい」
「では武士として長谷寺に参りますか」
笑ってだ、海野は幸村に言った。
「殿は」
「そうしたい、御主達もな」
「我等も武士として」
「参るぞ」
「有り難きお言葉、では」
「共にな」
幸村は家臣達に微笑んで言った、そのうえで長谷寺にも参ることにした。その長谷寺に入るとすぐにだった。
深い山の中に尼達がいた、穴山はその尼達を見て一瞬驚いたがすぐに納得して呟いた。
「そうか、この寺はな」
「女人高野といったな」
猿飛も言う。
「そういえば」
「そうであったな」
「高野山はおなごは入られぬからな」
「ここと室生寺がそうじゃったな」
「うむ、女人高野でな」
「尼が多いのじゃ」
そうなっているというのだ。
「そういうことじゃったな」
「その通りじゃ」
こう話すのだった、そして。
その尼達のうちの一人が幸村のところに来てだ、こう言った。
「あの、宜しいでしょうか」
「何か」
「はい、貴方様は何処に行かれますか」
「これから伊勢に向かうつもりであるが」
「そうですか、では伊勢に参られましたら」
「伊勢に何かあるのか」
「隅から隅まで御覧になって下さい」
こう幸村に言うのだった。
「それだけの場所です」
「隅から隅までか」
「そうです、多くのものがある社なので」
「それでか」
「そうされて下さい」
「ではそうさせてもらおう、しかし」
「しかしとは」
「何故我等にそう言ったのか」
幸村は怪訝な顔で尼に問い返した。
「何処に行くか尋ねたのは」
「旅の方の身なりだったので」
「それでか」
「しかもこの寺は旅の方も来られるので」
そうした寺だからというのだ。
「思った次第です」
「ふむ、そういえばな」
幸村はここで己の身なりを見た、そのうえでこう言った。
「随分と長旅で服もか」
「はい、我等も」
「随分とです」
「服が荒れてきましたな」
「長旅の中で」
「仕方ないにしてもな」9
旅の間着ている服はずっと同じだ、しかも山道を歩き野宿もする。それで服が荒れない筈がない。これは誰でも同じだ。
それでだ、尼も言ったのだ。
「それでわかりました」
「そういうことか」
「はい、それで伊勢にもですね」
「参る」
実際にとだ、幸村は尼にっはっきりと答えた。
「そして社を見るつもりだったが」
「私のお話を聞いてですか」
「細かく見ようとな」
そう、というのだ。
「そのことも決めた」
「左様ですか。では」
「うむ、行って来る」
こう笑顔でだ、幸村は尼に答えた。
「その様にな」
「では。それとなのですが」
「何かあるか」
「お言葉に信濃の訛りがありますね」
幸村のそれにというのだ。
「上田の」
「そこまでわかるか」
「信濃の生まれなので」
「そうであったのか」
「はい、ですが夫が長篠の戦で死に身寄りがなくなり」
「仏門に入りか」
「この寺にいます」
こう幸村に話すのだった。
「このままずっとこの寺で暮らしていきます」
「そうか、長篠か」
「お武家様もご存知ですね」
「拙者はその戦の頃まだ幼かった」
とても戦の場に立てる様な歳ではなかった、元服もまだだったのだ。
「それでこの目では見てはおらぬが」
「それでもですね」
「あの戦の話は聞いている。当家もな」
真田家であることは隠して言うのだった、寺なので俗世のことを言うことは無粋だと思いそうしたのである。
「叔父上がな、二人な」
「亡くなられましたか」
「その戦でな」
「そうでしたか」
「うむ、そうなった」
こう言うのだった、遠い目になり。
「織田家との戦で」
「お武家様もそうでしたか」
「そしてそれからな」
「武田家は衰え」
「滅んだな」
「今年の三月でしたね」
「栄枯盛衰は世の常であるが」
それでもとだ、幸村は遠い目になり述べた。
「あっという間のことだった」
「左様でしたね」
「その武田家を滅ぼした織田家も今や」
「どうなるかわかりませんね」
「前右府殿が本能寺で倒れられてな」
「果たして天下はどうなるのか」
「おそらく羽柴殿だと思うが」
次の天下人はというのだ。
「まだ完全にははっきりとしていない」
「まだ戦は続きますね」
「そうなる、しかし十年も経たぬうちに戦もな」
「なくなると」
「そうなる」
まさにというのだ。
「だからな」
「戦のことはですね」
「あと暫くの辛抱になろう」
「夫の様な者はですね」
「もうすぐいなくなる」
「そうなって欲しいです」
心からだ、尼は言った。
「夫がなくなり私は」
「出家したか」
「世の無常を感じ。しかし」
「御主の様な者がいなくなれば」
「そう思っております」
悲しい顔になり目を伏せての言葉だった。
「まことに」
「そうじゃな。戦で得をする者はおらぬ」
「お武家様もそう思われますか」
「ないに越したことはない」
「早くそうした世になって欲しいものです」
「全くじゃ」
こうしたことを話すのだった、幸村は尼と話した後寺の中であるものを馳走になった。それは素麺であった。
無論主従も一緒だ、十一人で桶の中にある麺を箸ですくい取ってそれからそれぞれの手にある碗、つゆのその中に入れて食べる。そこで。
清海は幸村にだ、少し怪訝な顔になって尋ねた。
「先程のお話ですが」
「尼殿とのだな」
「はい、きいておりましたが」
「戦のことか」
「殿は戦がお嫌いですな」
「ないに限ると思う」
実際にというのだ。
「血が流れることはな」
「そうなのですか」
「やはり泰平が一番じゃ」
「しかし武士は」
今度は海野が言った。
「戦が務めですな」
「その通りじゃ」
「では戦になれば」
「戦う」
迷いはなかった、幸村の返事には。
「そうなればな」
「そうされますか」
「うむ、そうしてな」
そのうえでというのだ。
「全力を尽くす」
「そうされますか」
「戦は最後の最後まで避ける努力をするが」
それでもというのだ。
「いざ戦になればな」
「死力を尽くす」
「戦われますか」
「そのつもりじゃ」
「それが武士なのですな」
猿飛は話を聞いて素麺を食べつつ述べた。
「戦は出来るだけしないが」
「戦になればな」
「戦うものですな」
「拙者はそう考えている」
こう言うのだった、
「武士はそうあるものとな」
「ですか」
「武士は戦を求めるものとです」
伊佐の言葉だ。
「思っていましたが」
「戦うのが仕事だからじゃな」
「はい、しかし殿はそうではありませんか」
「せぬに限る」
やはりこう言うのだった。
「民を守ることじゃ」
「民の為にもですか」
「戦はないに限る」
幸村の言葉は変わらない、そして。
彼もまた素麺を食べてだ、こう言ったのだった。
「泰平ならこうしたものが好きだけ食える」
「この美味い素麺も」
「三輪の素麺というが」
霧隠にも言うのだった。
「美味いのう」
「はい、こんな美味い素麺はありませぬな」
霧隠も素麺を食べつつ言う、その細く白い麺を桶の水の中からつるつると口の中に入れて飲んでから言った。
「これは絶品です」
「戦がなくなればな」
「こうした素麺もですか」
「他のものもじゃ」
素麺だけではないとだ、幸村は言った。
「我等はこの旅で美味い豆腐や鍋、菓子を食ったが」
「どれも泰平になればですか」
「これまで以上に食える様になる」
望月にも話した。
「民が仕事に専念出来てな」
「美味いものが食えると」
望月はまた言った。
「これまで以上に」
「そうじゃ、政も進みな」
「天下はよくなりますか」
「戦に使う分の力が全て泰平に向かうのじゃ」
だからだというのだ。
「戦がないに越したことはない」
「ううむ、これまでそれがしも多くの戦の場で戦いましたが」
穴山は足元に鉄砲を置いている、その鉄砲を常にちらちらと見つつ言う。背負ってはいないが何時でも撃てる様になっている。
「戦はまさに命を張った場でして」
「何時死ぬかわからぬな」
「はい、首を取るか取られるかです」
「そうしたことをせずともな」
「生きられる様になりますか」
「そうなる」
幸村は穴山にも話した。
「必ずな」
「だから殿は泰平を望まれますか」
「上田だけでなく天下もな」
根津にも答えた。
「全てが戦のない世になれば」
「よいと」
「思っておる」
「ですか、では戦での功は」
「功は求めぬ」
無益な声でだ、幸村は根津に述べた。
「そうせずとも功は幾らでもじゃ」
「立てられると」
「だからじゃ」
それ故にというのだ。
「それは求めぬ」
「そうなのですか」
「それでもよいか」
自身が戦を求めない者であってもとだ、幸村はあらためて十人に問うた。
「拙者は戦を好まぬ、自ら戦を仕掛けることはないが」
「ははは、その時は寝ているだけです」
由利が最初にだ、幸村の問いに答えた。
「時が来れば動くだけのこと」
「そう言うか、鎌之助は」
「はい、修行をしたり遊ぶのもいいこと」
「その間は書を読み術の鍛錬をします」
筧も主に述べた。
「まことそれだけのこと」
「そう言ってくれるか」
「はい、ですからそうしたお気遣いは無用です」
「泰平なら十一人で遊んで暮らしましょうぞ」
「民達と共に」
「美味いものを飲み食らい」
「花鳥風月の中で生きましょう」
他の者達も言う、幸村は彼等の言葉を受けてさらに微笑んで述べた。
「その言葉受け取っておく」
「では」
「戦のない時は共に遊びましょう」
「そうして生きましょうぞ」
「拙者は政があるがな」
それでもと言った幸村だった。
「仕事がない時はそうしようぞ」
「十一人で共に」
「共に死ぬまで」
「楽しく生きましょうぞ」
主従で共に話した、そうして。
十一人で素麺を楽しみだった、一行は長谷寺を後にして次は伊勢に向かうことにした。寺を出る時にあの尼僧が一行に言って来た。
「ここから東に行きますと室生寺もありますので」
「その室生寺にもか」
「行かれてはどうでしょうか」
「そうじゃな。丁渡通り道じゃ」
長谷寺と同じく、とだ。幸村も答えた。
「それならな」
「参られますか」
「そうしよう。しかしこの国は実に寺社が多いな」
「都の様に」
「うむ、それがな」82
実にというのだ。
「よいな」
「古い国なので」
「その分だけじゃな」
「この国は寺社が多いです」
「それが大和じゃな」
「明日香にもです」
そこにもというのだ。
「多くのものがありますので」
「明日香か」
「はい、あちらにもです」
「そうか、では機会があればな」
「その明日香にもですね」
「行こう、それと貴殿はこれからもか」
「この長谷寺にですね」
尼はすぐに自分のことを言われていると思って返した。
「いると」
「そうされるのか」
「はい、俗世に未練はないので」
微笑んでの問いだったがだ、その微笑みには寂しいものが入っていた。
「ですからもう」
「そうか、ここで過ごされるか」
「夫の菩提を弔いながら」
こう言うのだった。
「そうしていきます」
「そうか、わかった」
ここまで聞いてだ、幸村は納得した顔で頷いた。そのうえで尼僧に述べた。
「では穏やかに」
「はい、この寺で」
生きるとだ、尼は幸村に言った。その彼女の見送りを受けてだった。一行は長谷寺を後にして東にさらに向かった。
その山道を進みつつだ、幸村は左右の草木を見つつ家臣達に述べた。
「猪か熊が出そうだな」
「まあ普通にですな」
「獣はいますな」
「気配もしますし」
「うむ、今は腹が減っておらぬ」
素麺をたらふく食べたからだ。
「そして干し飯や干し肉も持っているからな」
「無闇に殺生をしてですな」
「食う必要もありませぬな」
「それには及ばぬ。だからな」
それでというのだ。
「獣が襲って来ぬ限りはな」
「別にですな」
「手にかけることはありませぬな」
「そういうことじゃ。そのまま通ろうぞ」
こうしたことを話しつつだった、一行は室生寺にも向かった。そこにも寄りつつ伊勢を目指して東に進んでいた。
巻ノ十七 完
2015・7・30