巻ノ十六 千利休
一行は堺の中でもとりわけ大きな屋敷の前に案内された、清海はそのとてつもない大きさの屋敷を見て思わず声をあげた。
「これはまた」
「でかい屋敷じゃのう」
猿飛も唸って言う。
「わしもそう思った」
「そうじゃな」
「わしの家は山奥にあってな」
「伊予のじゃな」
「そうじゃ、粗末な家でな」
「わしなぞずっと家がなかったぞ」
清海はこう猿飛に返した。
「托鉢で食っておった」
「それと用心棒でじゃな」
「そうしたので生きておったからな」
家なぞはというのだ。
「なかったわ」
「そうであったな」
「うむ、しかしな」
「利休殿のお屋敷はな」
「城ではないか」
「まさに御殿じゃ」
城か御殿、そこまでの大きさだというのだ、見れば屋敷だけでなく庭も広く実に見事なものである。
「堺でもな」
「とりわけ見事じゃな」
「全くじゃ」
「こちらにです」
小坊主がここでまた言って来た。
「旦那様がおられます」
「そうじゃな、ではな」
「はい、これより門を通り」
そしてとだ、小坊主は幸村に応えて述べた。
「お屋敷の中で、です」
「利休殿とじゃな」
「お会いして頂きます」
「そうじゃな」
「はい、ではこれより門を開けますので」
見れば門の左右には人が控えている。小坊主はその者達と話をしてそうしてだった。門を開けてもらってだった。
一行は屋敷の中に入った、その庭を実際に見てだった。
霧隠はその整った目をはっとさせてこう言った。
「これは」
「如何でしょうか」
「実に整っておる」
「草木も庭もですな」
「見事じゃ」
「そうなのか、わしには普通に見えるが」
望月は霧隠にこう返した。
「至ってな」
「いや、それがじゃ」
「違うというのか」
「うむ、この庭はじゃ」
まさにというのだ。
「考えられた庭じゃ」
「考えられているとは」
「草木や花の種類や置く場所、池の中にいる魚や亀までな」
「全てか」
「考えられて配されている」
「そうした庭なのか」
「一見すると自然、しかしな」
それがとだ、また言った霧隠だった。
「違う。ただ増えればそれでよいとしておるか」
「旦那様は人の手と自然のものの双方をいつも見ておられます」
小坊主は話す二人に顔を向けて微笑んで述べた。
「ですから」
「それでなのか」
「はい、庭もです」
「こうしたものであるか」
「左様です」
霧隠に応えての言葉だ。
「そうなっています」
「そうなのじゃな」
「そして旦那様はです」
小坊主は今度は利休のことを話した、彼の主のことを。
「茶室におられます」
「茶室にか」
由利は小坊主の今の話を聞いて少し意外といった顔で述べた。
「お屋敷の中ではなく」
「はい、茶を飲みつつです」
「お話をというのか」
「そうお考えでして」
「だからなのか」
「茶室にと仰っていまして」
それ故にというのだ。
「私めも案内させてもらっています」
「そういうことか」
「そうなのです」
「何か堺に来て茶と縁があるが」
穴山は歩きつつ腕を組んで述べた。
「上方は茶が結構出回っておるか」
「そうですな、前右府様の頃より」
「あの方がおられた頃からか」
「あの方はお酒は駄目でした」
「ほう、そうなのか」
「実は全く飲めませんでした」
小坊主は信長のことを話した、彼の意外な一面をだ。
「それでお茶を好まれていました」
「そうであったのじゃな」
「お茶とくればお菓子ですが」
今度は菓子の話になった。
「あの方は甘いものがお好きでした」
「それはまた意外じゃな」
今度は海野が小坊主に応えた。
「あの方は大酒を飲みそうじゃが」
「それがです」
「実は違っていたか」
「はい、そうでした」
「それで甘いものがお好きで」
「はい、そうです」
それでだというのだ。
「あの方は」
「それで菓子がお好きで」
「お茶もお好きなので」
「ううむ、そしてじゃな」
「こちらではお茶が広まりました」
「そういえば岐阜でもな」
ここで言ったのは根津だった。
「茶も随分と出回っておった」
「左様ですな」
「最初はえらく高かったが」
しかしというのだ。
「それがかなりな」
「安くなりましたな」
「確かに」
「前右府様も茶を好まれていたので」
「それでか」
「はい、それでなのです」
茶を広めたというのだ。
「菓子もまた」
「菓子はまだまだ高いがな」
「はい、しかし」
それでもとだ、小坊主は茶室に向けて一行を案内しつつ話した。
「茶はです」
「相当に安くなったな」
「それで前よりも多くの方が飲める様になりました」
「よいことにな」
「それは旦那様も望まれていることです」
「利休殿もか」
「はい」
幸村は今度は幸村に答えた。
「そうなのです」
「利休殿は茶を道と考えておられるな」
「そうです」
「その道を誰もが出来ることがか」
「旦那様が望まれていることです」
「侍だけでなく」
「他の方々もです」
武士以外にもというのである。
「誰もが」
「町人達もか」
「そうお考えなのです」
「そうか、誰もが茶をか」
「楽しめればとお考えなのです」
「そうしたお考えとはな」
「驚かれましたか」
「少しな」
実際にとだ、幸村は小坊主に答えた。
「利休殿は茶の道を極められることをお望みと考えていたが」
「それと共にです」
「茶を広めて」
「そして誰もが広めることもか」
「お考えなのです」
「大きいな」
「はい、旦那様の思いはとてつもなく大きいです」
小坊主は笑みと共に幸村に答えた。
「誰もが茶を飲めることをお考えなのですから」
「茶が天下を変えるか」
「旦那様は天下人になるおつもりは全くありませぬ」
「しかし天下にじゃな」
「茶、そして茶の道を備えさせようとお考えなのです」
「そういうことか、ではな」
「はい、これよりです」
その利休と会うことになるとだ、小坊主は告げた。ここでだった。
一行はその利休が待っている茶室の前に来た。屋敷はとてつもなく大きいが茶室は小さい。それで大柄な清海が言った。
「ふむ。茶室はな」
「小さいと」
「うむ、随分とな」
「茶室はです」
それはというと。
「小さいのです」
「そうなのじゃな」
「茶の道は質素、そこにあるものは侘寂なのです」
「わしも茶の道ではその言葉をよく聞くが」
清海はまた言った。
「利休殿は御自ら実践されているか」
「言葉には動きが伴わなければならない」
「だからか」
「はい、茶室はこうなのです」
「わかった、ではな」
清海はその小さく質素な外見の茶室を見つつ小坊主に応えた。
「これより中に入りな」
「旦那様とお話下さい」
「ではな」
「これは」
伊佐は茶室の入口の花に気付いた、一輪の小さな白い花だ。
その花を見てだ、神妙な顔で言った。
「これは」
「旦那様が飾られた花ですが」
「ここに植えられているだけですが」
「はい、摘むのではなくです」
「あえて植えられたのですか」
「そうです」
「成程、摘まれた花はすぐに枯れますが」
伊佐はその花と茶室を交互に見つつ述べた。その普段から穏やかな目がさらに優しげなものになっている。
「根があるままですと」
「咲き続けます」
「一時の美よりもですな」
「長くと考えられてです」
「ここに置かれたのですか」
「そうです」
「しかも一輪」
その小さな白い花がだ。
「それがまたよいですな」
「一輪の小さな花ですが」
「それが茶室の前にあるだけで」
「茶室の侘寂までも際立たせていますな」
「旦那様はそのこともお考えなのです」
「深いですな」
伊佐はしみじみとして言った。
「利休殿の茶道は」
「この花もまた茶道と」
「拙僧は思いますが」
「はい、旦那様も実際にです」
「そう言われていますか」
「茶道はただ茶室の中で茶を飲むだけではないと」
その外においてだ、もうはじまっているというのだ。
「その様にです」
「だからですな」
「ここにあります」
「そうなのですね、花が」
「そうです、では」
小坊主は伊佐との話の後だ、あらためてだった。
茶室の入口の前に来てだ、その中にいる主に言った。
「旦那様、お連れしました」
「そうか、ではな」
太く低く風格のある、それでいて穏やかさも併せ持った声での返事だった。
「中に入って頂いてくれ」
「わかりました、では」
このやり取りの後でだ、小坊主は幸村に顔を戻してだ。一行に言った。
「どうぞ」
「それではな」
幸村が応えてだ、そのうえで。
一行は幸村をはじめとして狭く小さな入口を潜ってだった。そのうえで茶室の中に入った。茶室の中は案外広く全員が入られた。
そこには穏やかな色合いだが上等の絹の着物を着た男がいた、眉は太く顔の輪郭はしっかりとしていてだ。
大柄で背筋もしっかりとしている、その顔立ちは穏やかだ。
その男がだ、一行に微笑んで言った。
「真田幸村殿と家臣の方々ですな」
「はい」
幸村は男に応えた。
「左様です、お招き頂き有り難うございます」
「堺に来られていたので」
「それでなのですか」
「招かせて頂きました」
「そうですか、そして」
「はい、私がです」
男はここで自ら幸村達に名乗った。
「私が千利休です」
「そうですか、やはり」
「ではお座り下さい」
主従全員への言葉だ。
「これよりお茶を馳走させてもらいます」
「では」
幸村が応えてだ、そしてだった。
一行は用意されていた座布団の上に座ってそのうえで利休が茶を淹れるのを見た。それを見つつだった。
幸村がだ、利休に問うた。
「お聞きしたいことがあるのですが」
「何でしょうか」
「はい、拙者達を呼ばれたその理由をお聞きしたいのですが」
問いたいのはこのことだった。
「それは何故でしょうか」
「実は幸村殿の旅のことは知っていました」
利休は茶を淹れつつ幸村に答えた、その手の動きは優雅ではないが確かな強さと味わいがあった。
「上田を発たれた頃から」
「その時からですか」
「羽柴家お抱えの忍の者が教えてくれていまして」
「何と、拙者の様な者のことまで」
「諸大名はいつもです」
「羽柴家は、ですか」
「忍の者を送って見ていますので」
それでというのだ、秀吉の懐刀の一人である利休も知っているというのだ。
「知っていました、そして瞬く間に家臣の方々を揃えられました」
「この者達のことも」
「はい、天下の豪傑を十人も集められたのを見まして」
「それで、でありますか」
「これは素晴らしき方と思い堺に来られたのを機として」
そしてというのだ。
「お招きさせて頂きました」
「そうだったのですか」
「左様です、そして」
さらに言う利休だった。
「幸村殿の顔相を今見させてもらいましたが」
「拙者の」
「実によき相です」
実際に幸村の顔を見ての言葉だ。
「私の思った通り、いえそれ以上の方です」
「といいますと」
「天下一の武士になられる方ですな」
「それは拙者の願いですが」
「はい、幸村殿は願いを適えられます」
天下一の武士になるという自分の願いをというのだ。
「必ず、ただ」
「ただといいますと」
「幸村殿の道は険しいですな」
「険しいでござるか」
「はい、様々な難の相も出ています」
やはり幸村の顔を見て言う、そのうえでの言葉だ。
「女難はありませんが」
「他の様々な難の相がですか」
「出ています」
「そうですか」
「驚かれませんか」
「天下一の武士になるということは途方もない夢」
自分の夢がどれだけのものかもだ、幸村はわかっている。だからこそ利休にそう言われても驚かないのだ。
それでだ、利休にこう答えたのである。
「それならば」
「どれだけの難が来ようともですか」
「跳ね除けてです」
そしてというのだ。
「必ず天下一の武士になりましょうぞ、そして」
「そしてとは」
「拙者は一人ではありませぬ」
ここで幸村は微笑んで言った。
そしてだった、十人の家臣達に顔を向けてそのうえで答えたのだった。
「この者達が共にいます」
「ご家臣の方々が」
「家臣であり義兄弟であり友である」
「そうした方々ですか」
「十人、常にいてくれております」
「だからですか」
「どの様な難も難とは思いませぬ」
全く、とだ。幸村は利休に答えた。
「全て乗り越えます」
「そう言われますか」
「はい」
「では家臣の方々の難も」
「無論です、我等は生きる時も死ぬ時も共にと誓った仲」
家臣達のこともだ、幸村は答えた。
「それならばです」
「家臣の方々の難の時もですか」
「共に乗り越えます」
「左様、我等はまだ会って短いですが」
猿飛が利休に確かな笑みと声で答えた。
「その絆は確か、まさに生きるも死ぬも共です」
「では」
「一人の難は我等全員の難でござる」
「皆様で、ですか」
「乗り越えます」
「左様、我等生きるも死ぬも同じ」
「そのことを誓い合った仲」
猿飛以外の者達も言った。
「共にどの様な難儀も越え」
「殿と共にあります」
「そうですか、見れば貴方達も」
利休は十人の家臣達それぞれの顔も見た、そのうえで彼等にも言った。
「非常によい相をしておられる」
「我等もですか」
「顔の相がよいと」
「そう言われますか」
「はい、どの方も天下の豪傑であられ」
そしてというのだ。
「絶対の忠義をお持ちですな」
「少なくとも何があろうと殿と共にあります」
「地獄の果てまで行きます」
「そして地獄で鬼達を相手に思う存分暴れます」
「そうしてみせます」
「確かに貴方達なら」
利休は十人をさらに見つつ言った。
「地獄でも充分暴れられますな」
「そのつもりです」
「鬼でも天狗でも倒してもみせますぞ」
「どの様な相手でも」
「そうしてみせます」
こう利休に言う、そして。
幸村もだ、こう言った。
「拙者も同じ考えです」
「何処までも、ですな」
「この者達と同じです」
「そして鬼や天狗が相手でも」
「逃げませぬ」
こう言うのだった、利休に。
「この者達を見捨てては」
「逃げることはですな」
「勝敗は戦の常、負けることもあります」
「その時にですか」
「退くこともです」
それもまた、というのだ。
「戦においては大事です」
「常勝はないと」
「むしろ常勝であってはならないかと」
「戦えば常に勝つことはですか」
「あってはなりません」
「では何があるべきでしょうか」
「兵法は百戦百勝は最善にあらずです」
これが幸村の返答っだった。
「戦わずに勝つです」
「戦う前に相手にですか」
「そうです、勝てないと思わせて下がらせる」
まさにこのことがというのだ。
「最善かと」
「では戦いに至ることは」
「よくはないと考えています」
「戦わずに済むのならですか」
「戦は人が死に多くの銭を失い」
幸村は利休に戦の現実を話した。
「田畑は荒らされ町は燃やされ。城の中にいる女達も巻き込まれます」
「苦しむのは民だと」
「田畑や町は戻せても迷惑を被ります」
民は戦になればその場から逃れ近くの山等から戦を見物するのが常だ、しかしそれでも田畑が荒らされるからなのだ。
「ですから」
「戦はせぬに限りますか」
「拙者はそう考えています」
「だから戦わずに勝つことがですか」
「最善です」
それが最もいいというのだ。
「拙者はそう考えています」
「そういうことでありますか」
「はい、その様に考えております」
「わかりました、それは羽柴殿も仰っております」
「あの方もですか」
「戦わずに相手がこちらに来るのならです」
幸村が言う様にというのだ。
「それが最善とです」
「仰っていますか」
「はい」
その通りだとだ、利休は幸村に話した。
「私は羽柴殿のそのお言葉を聞いて感服しました」
「その通りだと」
「思いまして」
「それで、ですか」
「羽柴殿にお仕えしようと決めたのです」
「では」
「近いうちにお返事を返します」
秀吉、彼にというのだ。
「私のお茶をいつも飲んで頂ける様に」
「左様ですか」
「はい」
こう答えるのだった。
「その様に」
「わかりました、利休殿は既に羽柴殿と親しいと聞いていましたが」
懐刀の一人と言われていることをだ、幸村も利休本人に言った。
「まだお仕えはですか」
「気持ちの整理がついていなかったので」
「お話はされていても」
「それまではです」
していなかったというのだ。
「前右府様にはお仕えしていましたが」
「前右府殿が本能寺で倒れられ」
「気持ちの整理がついていませんでした」
それでまだ秀吉には仕えていなかったというのだ。
「左様でした」
「そうだったのですね」
「はい、しかし」
「お心がですか」
「つきました」
即ち気持ちの整理が出来たというのだ。
「ですから」
「羽柴殿にですか」
「私のお茶をいつも飲んで頂ける様に」
「お願いしますか」
「そうお話させて頂きます」
「ですか、利休殿が羽柴殿にお仕えすれば」
幸村はその目をはっきりとさせて利休に言った。
「堺の町衆もですな」
「即ち堺自体がですか」
「はい、羽柴殿につかれますな」
「そこまで見られているとは」
利休は目を瞠った、ここで。そして幸村に対してこう言った。
「お見事です」
「そう言って頂けますか」
「幸村殿は政も見ておられますか」
「戦は政です」
幸村は利休に確かな声と顔で答えた。
「政の中にあるものと考えています」
「だからですか」
「はい、利休殿が羽柴殿にお仕えすれば」
「堺の町自体も」
「羽柴殿につきます、前右府様にそうした様に」
「そして堺の力で」
「銭とつて、それに人の見聞が集まっている場所なので」
商いによってだ、幸村は堺の力がどういったものかもわかっていた。そのうえで利休に対して答えたのである。
「その力が加われば」
「大きいと」
「そう思います、ですから」
「私が羽柴殿にお仕えすれば」
「羽柴殿は天下にさらに近付きますな」
「次の天下人は羽柴殿です」
利休はその目を確かにさせて幸村に答えた。
「そして天下を泰平にして下さいます」
「この天下を」
「前右府様が為される筈でしたが」
しかしその信長は本能寺で倒れた、跡を継ぐ筈だった彼の嫡男である織田信忠も二条城で倒れた。それで今は天下人がいないが、というのだ。
「しかしです」
「羽柴殿がおられるので」
「必ずです」
「天下はですな」
「一つになりです」
「泰平になると」
「そう見ています」
こう幸村に話すのだった。
「ですから」
「羽柴殿にですか」
「お仕えします、その返事をです」
「間もなくですか」
「大坂の羽柴殿にお伝えします」
「大坂にも行きました」
幸村は茶を飲みつつ利休に答えた。
「町は賑わおうとしており」
「城も見られましたな」
「はい、まだ普請ははじまったばかりですが」
「あの城はとてつもないものになります」
「安土のものよりも」
「そう思いまする」
幸村は利休に確かな声でまた答えた。
「あの城は」
「まさに天下一の城にですな」
「なりましょう」
「そうですな、そしてその城からです」
「羽柴殿は天下を一つにされる」
「そのうえで治められます」
「ですな。後は」
幸村は茶を飲みつつこうも言った。
「跡を継ぐ方がおられれば」
「万全と」
「はい、確かな方がおられれば」
「羽柴殿はお子がおられませぬ」
利休もこのことについて言った、幸村に続いて。
「奥方のねね殿、側室の方々との間にも」
「一人もですな」
「ご子息はおろかご息女もおられませぬ」
つまり完全に子がいないというのだ。
「どなたも」
「それがわかりませぬ」
猿飛が首を傾げさせつつ利休に言って来た。
「羽柴殿と言えば天下に知られた女好きでござるな」
「ははは、そう言われますか」
「あの方はおのこの趣味はないと聞きますが」
他の武士達とは違いだ、彼の主であった織田信長にしてもそちらの趣味があったし武田信玄や上杉謙信も同じだ。
「その分おなごが好きと」
「実際に羽柴殿はおのこには興味がありませぬ」
「そして、ですな」
「おなごが好きです」
「それでもですな」
「はい、あの方は子宝にはです」
恵まれていないというのだ。
「今のところは」
「しかし羽柴殿も四十を過ぎておられます」
霧隠はいささか秀吉の側に立って述べた。
「ですからそろそろ」
「人間五十年ですからな」
「お子がおられるままですと」
「はい、実際の問題としてです」
「羽柴殿が天下人になられても」
「後の方がおられませぬ」
「確か羽柴殿には甥御がおられましたな」
ここで言ったのは筧だった。
「三好家に入られた秀次殿が」
「うむ、その方がな」
「羽柴殿にはおられます」
同じ三好家、末席にしてもそうである清海と伊佐が言った。
「だからな」
「あの方が跡継ぎでは」
「そうですな、羽柴殿もそうお考えです」
「では問題はないかと、いや」
筧は言ったところでだ、自分のの言葉を即座に訂正させてだった。利休に対してあらためてこう言った。
「それはわかりませぬな」
「若し今後羽柴殿にお子が生まれれば」
「その時はですな」
「どうなるかわかりませぬ」
「確かではありませぬな」
「はい、そこがまた厄介なのです」
秀吉にとって、というのだ。
「あの方が天下人になられるでしょうが」
「その羽柴殿の後」
「そこですか」
清海と伊佐がまた言った。
「それはまた随分とのう」
「厄介な問題ですね」
「家は跡継ぎがいなければ滅びる」
ここで言ったのは根津だった。
「どの様な家でも」
「その通りです」
「そのことが収まらねば羽柴家は危ういですな」
「殿にしましても」
穴山は幸村を見て言った。
「そろもろ」
「妻をか」
「はい、迎えられねば」
「そういえばそうした歳か、拙者も」
「早いに越したことはありませぬ」
妻を迎えることはというのだ。
「ですから」
「はい、幸村殿にしましても」
利休は穴山の言葉を受けてだ、彼に顔を向けて言った。
「奥方を迎えられて」
「そのうえで」
「お子をもうけられるべきです」
「そうなりますか」
「このことは羽柴殿だけではありませぬ」
幸村にしてもというのだ。
「よき方を見付けられます様」
「どの様な者がいいでしょうか」
「そうですな、私の見たところです」
幸村の顔相をだ、利休は再び見た。そのうえで彼に言った。
「奥方もです」
「よき方とですか」
「会える様です」
「ならよいのですが」
「殿ならば」
望月も言う、幸村に。
「必ずやです」
「よきおなごをか」
「奥方に迎えられるでしょう」
「ですな、殿はです」
由利も言って来た。
「よき方を奥方に迎えられ」
「そのうえでか」
「よきお子をもうけられます」
「ならよいがな」
「幸村殿は多くの困難を迎えられますが」
それでもとだ、利休はその幸村にまた言った。
「素晴らしき方々を会われ共にあり」
「妻にしても」
「はい、よき方が来られるでしょう」
「ならいいのですが」
「そういえばです」
ここでだ、利休は思い出した様にしてこんなことを言った。
「大谷吉継殿が娘婿を探しておられます」
「大谷吉継殿がですか」
「ご存知でしょうか」
「はい、羽柴殿の家臣のお一人ですな」
「左様です、相当な方でして」
その吉継がというのだ。
「娘婿を探しておられます」
「そうなのですか」
「では」
ここでだ、海野は幸村に言った。
「殿、若しもですが」
「その大谷殿のか」
「はい、娘殿とです」
「そうなるだろうか」
「考えられてはどうでしょうか」
「大谷吉継殿と」
幸村は実際に海野の言葉を受けて深く考える顔になった、そのうえで再び利休に顔を向けてあらためて問うた。
「大谷殿がです」
「幸村殿を御覧になられてですな」
「どう思われるか」
「そして幸村殿も」
利休は微笑んでそのうえで幸村に言った。
「その方をどう思われるか」
「その娘御と大谷殿を」
「そうです、お互いにどう思われるか」
「そして両家がですな」
真田家と大谷家がだ、武家の婚姻は家と家のことfでもあるからこのことも重要なのだ。
「どうであるか」
「そうした様々な事柄がありますが」
「それでもですか」
「大谷殿の娘御はとてもよき方です」
このことにはだ、利休は太鼓判を押した。
「心確かで利発、顔立ちもです」
「よいと」
「幸村殿に相応しい方です」
幸村のその整った顔を見ての言葉だ。
「極めて」
「そうなのですか」
「何でしたら私がお話を取次ぎますが」
幸村と吉継の娘の婚姻をというのだ。
「どうされますか」
「それは父上とお話してから」
「それからですか」
「はい、そうしたいのですが」
「そうですな、婚姻は家と家のこと」
利休も武家の者と付き合いが深い、それ故に武家の婚姻のことを深く知っている。そのうえでの言葉である。
「では」
「上田に帰り父上とお話したうえで」
「決められると」
「そうさせて頂きます」
「それでは」
「あらゆることは急ぐべきですが焦ってはならない」
幸村は利休に確かな声で述べた。
「ですから」
「わかりました、ではその様に」
「お願いします」
こう利休に言うのだった、そしてだった。 幸村は利休と共に茶を飲んだ。他にも様々な話をしてsろえからだった。
幸村主従は利休の屋敷を後にする時が来た、利休は自ら主従を屋敷の門まで見送った。その後ろには屋敷の者達がいる。
そうしてだ、幸村に微笑んでこう言ったのだった。
「またお会いしましょう」
「はい、是非」
幸村も利休に微笑んで言葉を返した。
「またお会いしましょう」
「これから上田に帰られるのですな」
「道は色々と考えたのですが」
大坂から都に戻る道、海から伊勢を通って進む道等だ。だが幸村はあれこれと考えてそのうえで決断したのだ。
「奈良を通ってです」
「そしてですか」
「そこから伊勢に入り」
「尾張に進まれますか」
「そこから美濃から信濃にと考えていますが」
「ではです」
幸村が考える道を聞いてだ、利休は幸村に提案した。その提案はというと。
「尾張から三河や駿河に入られてです」
「そのうえで」
「はい、徳川殿のご領地を見てです」
そうしてというのだ。
「上田まで戻られてはどうでしょうか」
「徳川殿の、ですか」
「徳川殿は戦だけではなく政も非常によき方です」
「そのことでも評判ですな」
「ご領地はよくまとまっております」
「そして民もですか」
「徳川殿の政で幸せに暮らしておられます」
そうしているというのだ。
「ですから」
「その徳川殿のご領地も見たうえで」
「上田に戻られてはどうでしょうか」
「しかしですぞ」
ここで利休に言ったのは穴山だった、顔を顰めさせての言葉だった。
「徳川殿は」
「甲斐、そして信濃に兵を進められています」
即ち上田のある国にというのだ。
「ですから」
「徳川殿は敵だと」
「やがて徳川家とは戦になります」
穴山はそのことを間違いないとだ、言い切った。
「その徳川家の国に入ることは」
「我等がいれば殿に指一本触れさせませぬが」
望月も曇った顔になっていた、幸村を見てから利休に言った。
「しかし」
「危機はですか」
「自ら虎穴に入る時もありましょうが」
「今は果たしてその時か」
首を傾げさせてだ、伊佐も言った。
「それが問題ですが」
「いえ、今はです」
「今はといいますと」
「徳川家は上田に攻め入ってはおらずです」
そしてとだ、利休は語った。
「真田家とも悶着はありませぬ」
「では徳川家は敵ではないと」
「今は」
利休は由利にも答えた。
「そうであります」
「言われてみれば今はそうでありますな」
由利も言われて気付いた、そのことに。
「徳川家とは悶着がありませぬ」
「ですから」
「我等が徳川家の領地に入っても」
海野は今は家康のことを考えていた、戦上手をして知られている彼のことを。
「手出しはされませぬか」
「徳川殿は律儀な方です」
利休はこのことも知っていて言うのだった。
「その様な無体なことはです」
「されぬと」
「はい」
その通りだとだ、利休は海野にはっきりと答えた。
「左様です」
「ううむ、確かに徳川殿は」
清海は首を傾げさせつつこう言った。
「天下でも律儀なことで知られている方」
「敵でないならです」
「手出しはされぬ」
「そのことは安心していいです」
「確かに徳川殿は非常に出来た方です」
筧も確かな声で言った。
「我等がご領地に入られることを認められたら」
「それではですな」
「それからはです」
「手出しはされませぬな」
「拙者もそう聞いています」
こう利休に答えた。
「では、ですな」
「はい、よければですが」
「徳川殿のご領地も巡り」
「そうして上田に戻られては」
「そうですな、では」
幸村は利休のその言葉に頷いた、そしてだった。
家臣達に顔を向けてだ、こう言った。
「では奈良から伊勢、そしてじゃ」
「尾張に入り」
「そして徳川殿のご領地にですな」
「入られ」
「そうしてですな」
「徳川殿のご領地を見て」
「そして上田にですな」
戻るとだ、彼等も応えてだった。
幸村主従は利休と別れを告げて堺を後にした。そこから東に進み奈良に向かうのだった。
その奈良への道中においてだ、幸村は家臣達に言った。
「奈良か、思えばあの町もじゃ」
「行かれたことはない」
「左様でありますか」
「伊勢もじゃ」
奈良の次に向かうその国もというのだ。
「はじめてじゃ」
「それならば余計にです」
伊佐は幸村のその言葉を聞いて進言した。
「奈良、伊勢に行かれるべきです」
「見る為にじゃな」
「はい、どちらも」
奈良も伊勢もというのだ。
「本朝において尊い場所なのですから」
「寺社があってじゃな」
「そうです、どちらもです」
「都もそうであったが」
「奈良もそうです」
「東大寺や春日大社か」
「他にもあります、長谷寺もありますし」
伊佐はこの寺のことも話した。
「行かれるべきです」
「そうか、ではな」
「そして伊勢もです」
この場所もというのだ。
「行かれて下さい」
「そうするとしよう」
「伊勢はよい場所です」
こうしみじみとして言ったのは根津だった。
「あの神宮も是非です」
「行くべきであるからじゃな」
「そうです、行きましょうぞ」
そこもというのだ。
「奈良の後は」
「そして尾張も」
「あそこもまた」
「考えてみると帰りも行く場所が多いですな」
望月は話を聞きつつ腕を組んで言った。
「どうにも」
「そうであるな、確かに」
「帰るだけではなく」
「これが旅というものか」
「行きも帰りも何かとあり」
「見るものが多い」
「そうしたものですか」
こうも言うのだった、幸村と話しつつ。
「それがしこれまで旅は何度もしましたが」
「それでもか」
「こうした旅ははじめてでした」
望月にとってはというのだ。
「ここまで多くのことがあった旅は」
「こうして十一人揃ったしのう」
穴山は笑って言った。
「殿とな」
「我等が揃ったのが行き」
筧も言う。
「そして帰りもな」
「色々なものを見ることになるか」
穴山は筧にも笑みで応えた。
「上田に戻るまで」
「そうじゃな、そして上田に戻ると」
その時はとも言う筧だった。
「我等のことが大殿にもお話してもらえるか」
「必ず話す」
幸村は十人にこのことを約束した、それも強い声で。
「拙者の大事な家臣達なのだからな」
「大事な、ですか」
そう言われてだ、由利はしみじみとした声で述べた。
「我等が」
「そうであるが」
「ついこの間まで山賊であったわしが侍になるとは」
「拙者の家臣じゃからな」
「だから侍ですか」
「そうじゃ、確かに真田家は小さく禄はあまり出せぬが」
しかしそれでもというのだ。
「御主達は武士となる」
「そうなることが信じられませぬ」
山賊であったり流れの武芸者、破戒僧であった自分達がというのだ。
「殿に巡り合えただけでなく」
「いや、我等が巡り合ったのは運命であろう」
幸村は感銘さえ見せている由利にこうも言った。
「今はそう思う」
「運命ですか」
「これまで色々言われてきたがな」
利休や旅の途中で出会った者達にだ、ただ幸村達を以てしても旅で出会った者達が何者かははっきっりとわかっていない。
「我等が会い共にいるのはな」
「運命ですか」
「そう思っておる」
今は、というのだ。
「だから御主達が武士になるのもな」
「運命ですか」
海野にとっても武士になるなぞ思ってもいなかったことだ、それで言うのだった。
「それもまた」
「そうであろうな」
「ううむ、信じられませぬな」
「拙者も旅で御主達に会うとは思わなかった」
そして主従になることはというのだ。
「とてもな」
「しかしこうして会い、ですな」
「主従、義兄弟となった」
幸村は清海にも言った。
「これも運命じゃ。そしてな」
「さらにですか」
「運命はまだ続く、我等十一人これから何があるか」
先、そのことをだ。幸村は正面を見据えつつ言った。このことも。
「わからぬが」
「それもまた、ですか」
「運命であろう、しかし運命は変えられると聞く」
「運命は絶対ではありませぬか」
「だからな」
「悪い運命は、ですな」
「よいものに変えようぞ」
こうも言うのだった。
「我等自身でな」
「そうですな、終わりよければといいます」
猿飛は幸村の言葉を受けて陽気に言った。
「そして」
「そしてとは」
「我等十一人がいれば」
「その運命もか」
「変えられます」
「一人では出来ずとも」
霧隠も言うのだった。
「十一人、力を合わせれば」
「運命はか」
「必ずいいものに変えられましょう」
「その通りじゃな、拙者はどの様な状況でも諦めぬ」
幸村は家臣達の言葉を最後まで聞いて言った。
「そして運命を変えようぞ」
「その殿に」
「我等は何処までもついていく所存です」
十人の家臣達もこのことを誓うのだった、そうしたことを話しつつ奈良に向かっていた。堺を出てそのうえで。
巻ノ十六 完
2015・7・24