巻ノ十四 大坂
雪村主従は山城から摂津に向かう道を何のいざこざもなく速く進むことが出来て大坂に着いた。その大坂の町はというと。
幸村は家々を見てだ、こう言った。
「家に使っておる木がまだ新しい」
「ですな、確かに」
由利もその木を見て言う。
「建てられたばかりですな」
「うむ、そしてまだ都より人は少ないが」
「それでもですな」
「新しい家ばかりじゃ」
「急に人が集まってきていますな」
「この町はこれから栄える」
幸村は言い切った。
「間違いなくな」
「ですか、そして」
穴山は幸村の話を聞いてからだ、そのうえで。
町の真ん中で行われている大掛かりな普請を見てだ、その幸村に言ったのだった。
「あそこで行われている城の普請がですな」
「あの場所にかつて石山御坊があった」
「その跡地にですな」
「羽柴殿は城を築かれておるのじゃ」
「左様でありますな」
「しかし、その普請は」
海野はその広さと人の数を見て唸って言った。
「これはまた相当ですな」
「うむ、上田の城が幾つも入る様な」
「大きな普請じゃ」
「そうなりますな」
「相当に大きな城を築かれるな」
「ですな、間違いなく」
「特にですぞ」
筧はその普請で人が最も多く集まっている場所を見て述べた。
「あそこに天守を築くと思われますが」
「その天守が、じゃな」
「あの人の多さからしますと」
「これまたじゃな」
「相当に大きなものでは」
こう幸村に言うのだった。
「そう思いますが」
「そうであろうな、安土にあったという天主と同じだけな」
「大きな天守をですな」
「これから築くのであろうな」
「いや、それは」
どうかと言う筧だった、普段は落ち着いている彼も驚きを隠せないでいる。
「これまでにない城になりますな」
「そうであろうな」
「その城を築かれるのが羽柴秀吉殿ですか」
「左様じゃ」
まさにというのだ。
「あの方じゃ」
「そうでありますな」
「今羽柴殿は越前の柴田殿との戦の用意をされておる」
幸村は秀吉の周りのことも話した。
「しかしな」
「その用意と共にですな」
「城も築かれているのじゃ」
「この様に」
「柴田殿との戦は天下分け目」
霧隠の言葉だ。
「戦の用意に全てを注ぎ込んでおられると思いますが」
「羽柴殿はその戦の後も考えておられるのじゃ」
「それ故の築城ですな」
「そうじゃ、あの城から天下を治められるおつもりじゃ」
こうも言った幸村だった。
「それでなのじゃ」
「あの城を築かれているのですな」
「左様」
まさにというのだ。
「そして柴田殿との戦の用意に相当の力を注がれながらも」
「あれだけの城を築かれる」
「それだけの力もあるのじゃ」
秀吉にはというのだ。
「ならばわかるな」
「はい、次の天下人は羽柴殿ですな」
「そうなる、しかし柴田殿には勝たれると思うが」
それでもというのだ。
「それで完全には決まらぬ」
「そうなりますか」
「うむ、柴田殿を倒されるとだ」
そこからの流れもだ、幸村は話した。
「その勢いで山陽と山陰、四国も抑えられるだろうが」
「九州や東国は、ですか」
「そちらは」
「うむ、そこはどうなるかわからぬ」
こう家臣達に話すのだった。
「まだな」
「左様ですか」
「では九州や東国は落ち着いてからですか」
「羽柴殿がご自身の領地にされた場所が」
「そこからじゃな、おそらくまずは東海や甲信を収め」
そうしてというのだ。
「九州、関東そこから奥羽じゃ」
「そう攻めていかれますか」
「羽柴殿は」
「そうなるであろう、一番の壁は柴田殿でなく」
これから戦をする彼よりもというのだ。
「駿河の徳川殿じゃ」
「あの方ですか」
「おそらく我等と戦になる」
「あの方が羽柴殿にとっての壁ですか」
「うむ、どうやら徳川殿は天下は望んではおらぬぬが」
今の家康もだ、幸村は確かに見ていた。それでそれを今家臣達に行ったのだ。
「しかしじゃ」
「徳川殿といえば戦上手」
猿飛がここで家康について彼が聞いていることを述べた。
「家臣もよくまとまり政もお見事で民からも慕われているとか」
「まことによく出来た方じゃ」
「そうした方だからですか」
「羽柴殿も戦になればな」
「苦労されますか」
「天下で数少ない羽柴殿と互角に渡り合える方じゃ」
それが徳川家康という男だというのだ。
「だからじゃ」
「徳川殿が、ですか」
「羽柴殿の一番の壁になりますか」
「両家が戦になるかはわからぬが」
それでもというのだ。
「戦になればな」
「その時は、ですか」
「徳川殿は羽柴殿に引けを取られぬ」
「そうなりますか」
「そうなるであろう、しかし天下はおそらくな」
その普請をしている最中の城を見ての言葉だ。
「羽柴殿のものじゃ」
「そしてこの大坂の町も」
「さらに賑わうと」
「今以上に」
「そうなる、そしてあの城は桁外れの城になるぞ」
それこそといった言葉だった。
「特に天守はな」
「果たしてどんな天守になるのか」
「見るのが楽しみですな」
「次に大坂に来た時に」
「それを見られるでしょうか」
「うむ、見たい」
是非にというのだ。そしてだった。
一行は大坂の中を巡りその中を見て回った。その中の様々な店も見て楽しんでいた。時にはものを買って食べた。
その中でだ、ふとだった。
一行の前に一人の飄々とした小柄な老人が出て来た、服は茶人のものだ。
その老人がだ、自分から幸村に言って来た。
「この町を楽しんでおられますか」
「はい、存分に」
幸村は老人の問いに微笑んで答えた。
「凄い町になりますな」
「そうですな、かつては本願寺の門前町でしたが」
この大坂は、というのだ。老人も。
「その頃は石山といいましたが」
「その頃はここまではですな」
「栄えていませんでした」
「そうですな」
「はい、しかし羽柴殿がここに城を築かれますと」
その途端にというのだ。
「こうしてです」
「人が集まりだして、ですな」
「ここまでの町になっています」
「そしてこれからも」
「いや、ここは都や奈良にも近く堺はすぐ傍にあり」
「前は瀬戸内、川も多く豊かになりますな」
確かな声でだ、幸村は述べた。
「間違いなく」
「そうなりますな」
「ですな、ここが天下の町になりますな」
「左様ですな、してお侍様はこの大坂で何を御覧になられますか」
「この町を見ていますが」
「この町の栄えを」
「はい、それがし信濃から出て来ましたが」
ここまでは言う、しかし上田の者とは言わない。幸村は初対面の老人が何者か知らないので身元は明らかにしなかったのだ。
「西国、都等を見て見聞を広めるつもりです」
「してここまで来られたと」
「そうなのです」
「そして大坂まで来られて」
「この町についても学んでいます、しかしここは川が多いですな」
幸村は大坂のこのことについても話した。
「これ以上はないまでに川が多く流れています」
「そうですな、それで今は橋も多く建てております」
「ここまで川が多いとなると」
一行のすぐ傍にも川がある、幸村はその川を見つつ話した。
「橋は尋常な数ではなくなります」
「間違いなく、ですな」
「川の多さは城の守りになりますが民の行き来には厄介」
「だから橋が多く必要ですな」
「それにです」
さらに言う幸村だった。
「舟も必要ですな」
「川そのものを行き来する為に」
「商いにも必要ですし。この町は舟も多くなりますな」
「今徐々に増えていますが」
「さらにです」
増えるというのだ。
「凄い町になりますな」
「そこまでおわかりですか」
「そう思ったのですが」
「いや、その通り」
老人は飄々とした笑みで幸村に答えた。
「私もそう思いまする」
「ご老人もですか」
「はい、この町は商いには最適の町です」
「水の為に」
「羽柴殿はここに城を築かれ商いでも栄えられるおつもりですな」
「そうですな、この大坂と堺を軸にして」
そのうえでというのだ。
「大いに栄えられるおつもりですな、それでなのですが」
「それでとは」
「実は堺にも行こうと思っています」
この町にもというのだ。
「一度見聞にも」
「それはいいですな、堺の賑わいはまた格別」
「都や大坂にも並びますな」
「はい、非常によいことと思います」
老人も幸村にこう答えた。
「では大坂の後は」
「はい、あちらにも行きます」
「その様に。しかしですな」
「今はこの町を見て回ります」
「そうされますな」
「ええ、それにしてもこの町はこれからですな」
また町を見回してだった、幸村は述べた。
「よくなります」
「ですな、さらに」
「まだまだこれから、そして城も」
「あの城も」
「非常に堅固な城になりますな」
ただ大きいだけでなく、というのだ。
「天下の城になります」
「安土以上の」
「はい、安土も立派な城でしたが」
最早天主はなく捨て置かれるだけになろうとしているがだ、その城壁や石垣を見てそのうえでの言葉である。
「大坂の城はさらにです」
「凄い城になると」
「そう思います、また来る時が楽しみです」
「完成された城を見ることが」
「どれだけ見事な城なのか」
そのことを見ることがというのだ。
「楽しみです」
「そうですな、それでなのですが」
「はい、今度は一体」
「何か召し上がられますか」
老人は幸村だけでなく一行にも述べた。
「大坂で」
「そうですな、お腹も空きましたし」
「ですから」
それで、というのだ。
「何か美味しいものでも」
「では何を食しましょうか」
「この町は確かに人が集まってきているばかりですが」
それでもというのだ。
「よい料理人も集まってきており食材もよいので」
「美味いものが多い」
「飯もまた違います」
主食のそれもというのだ。
「水もよいですし。如何でしょうか」
「そうですな、この町は海に近い」
幸村は大坂のこのことから老人に答えた。
「さすれば」
「海のものをですか」
「はい」
それをというのだ。
「実はそれがし海のものを食したことがないので」
「それでは鍋は如何でしょうか」
「鍋ですか」
「海のものを出してくれるよい店を知っていまして」
老人は温和な笑みで幸村に話した。
「味噌で味付けをしてだしも取っている鍋です」
「だしも」
「昆布で」
「昆布とは確か海草でしたな」
昆布と聞いてだ、筧が言った。
「そうでしたな」
「ご存知ですな、昆布のことを」
「はい、ですが」
それでもとだ、筧は言うのだった。
「あれは食うものでしたか」
「実はあの城の普請に使う岩の下敷きに昆布を使っていますが」
ここからだというのだ。
「それをただ捨てるのは勿体ないとだしに使ったり茹でて食っていましたが」
「それが、ですか」
「美味く。それで」
「だしに使っているのですか」
「それがはじまっています」
「左様でしたか」
「それで如何でしょうか」
老人はあらためて一行に勧めた。
「味噌も使っていますし」
「味噌といえば馳走ですが」
こう言ったのは望月だった。
「それも使っていますか」
「はい、左様です」
「ううむ、高くないですか」
「いえ、大坂では然程」
「そうなのですか」
「味噌も近頃多く作っていまして」
それ故にというのだ。
「これは醤油もですが」
「どちらも多くあるので」
「安いのです、他の場所に比べて」
「それは凄いですな」
「殿、ここは是非です」
清海はその目を輝かせて幸村に言った。
「その鍋を食しましょうぞ」
「待て、御主坊主であろう」
その清海にだ、海野が問うた。
「それで魚や貝を食っていいのか」
「よいわ、わしは破門されておるからな」
笑って返す清海だった。
「別にな」
「そういう問題ではなかろう」
「いやいや、出されたものは食する」
「だからよいのか」
「私も口にしますが」
伊佐も言って来た。
「出されたものでしたら」
「御主もか」
「はい、前から生臭ものも食していましたが」
「それはそうじゃが」
「頂いたものは残さず食する」
「それは仏門の教えか」
「本来の。ただ兄上は暴飲暴食に過ぎますが」
このことは伊佐も言う。
「しかしです」
「出してもらったならか」
「そのご好意を無駄にしませぬ」
こう言うのだった。
「残しませぬ」
「まあ清海が言うのならともかくな」
「そうじゃな」
海野に続いて穴山も言う。
「よいか」
「そうじゃな」
「わしが言ったら納得出来ぬのか」
「御主の普段の行いを見るとな」
「とてもな」
海野と穴山は清海にはこう言う。
「そうは思えぬ」
「何しろ破門されておるではないか」
「それはそうじゃが修行は続けておるぞ」
自分ではこう言う。
「しかとな」
「どういった修行じゃ」
「御主の修行とは。大体想像がつくが」
「この金棒の使い方にじゃ」
それにとだ、清海は海野と穴山に話した。
「術にな。読経もしておるぞ」
「では法力もか」
「しかとあるというのか」
「そうじゃ、わしとて修行は忘れてはおらぬ」
こう言うのだった。
「御主達も見ておるではないか」
「だから想像がついておると言ったのじゃ」
穴山はこのことを清海に告げた。
「見ておっただけにな」
「ではわかっておるではないか」
「しかし御主は確かに読経等もしておるが」
僧侶としての修行は確かにしている、しかしというのだ。
「それでもじゃ」
「金棒の修行ばかりというのか」
「力をつける為のものが殆どであろう」
「それが楽しいからのう」
「楽しくてもそれが殆どではじゃ」
それこそというのだ。
「伊佐とは全く違うぞ」
「坊主の修行はしておらぬというのか」
「全く、御主はまことに花和尚じゃな」
海野はこの場でも水滸伝のこの豪傑と清海を例えた。
「そのままじゃ」
「まことに魯智深じゃ」
由利も言う。
「御主はな」
「魯智深と言われて悪い気はせぬがな」
「しかし御主坊主ならもっと仏門の修行もせよ」
「だからしておるぞ」
「もっとすべきというのじゃ」
由利もこう清海に言うが話は堂々巡りだった、猿飛もやれやれといった顔でこんなことを言う。
「まあ清海らしいわ」
「ではわしは花和尚か」
「ははは、そしてわしは浪士じゃ」
「待て、御主の何処が燕青じゃ」
今度は清海が猿飛に言った、その大きな口で。
「御主のその顔でか」
「どうじゃ、男前であろう」
「その猿みたいな顔でか」
実際に猿飛は猿面だ、髪の毛も多く顔の色は赤らんでいて背もあまり高くないので余計に猿に似ている。
「羽柴殿と間違えるぞ」
「そこまで猿に似ておるというのか」
「そうじゃ、御主は猿じゃ」
燕青ではなく、というのだ。水滸伝きっての伊達男の。
「わしは花和尚じゃがな」
「言うのう、わしはこれでもおなごにもてて仕方ないのじゃぞ」
「それは嘘であろう」
「嘘ではないわ、おなごの傍に行けばいつも騒がれておるわ」
「それは御主の勘違いじゃ」
こう言い合う、しかしだった。
言い合う二人にだ、霧隠が言った。
「御主達騒ぎ過ぎぞ、我等も武士ぞ」
「むっ、武士ならばか」
「迂闊に騒ぐなというのか」
「そうじゃ、殿にお仕えしておるからにはじゃ」
それならばというのだ。
「我等も武士であろう」
「そうじゃ、御主達は紛れもなく武士じゃ」
幸村もこのことは確かだとだ、彼等に告げる。
「父上にも認めて頂く」
「有り難きお言葉」
「そのことは約する」
「聞いたな、武士ならばな」
霧隠は清海にあらためて話した。
「人前で騒ぐな」
「そうか、武士なら」
「騒ぐべきでないか」
「ましてや忍術を身に着けておるのなら」
霧隠は今度は自分達が忍の術を備えていることも話した。
「目立たぬことも必要ぞ」
「そういえばわしはな」
「わしにしてもな」
猿飛も清海もここで自分達の姿のことを言う。
「これだけの男前じゃしのう、目立つわ」
「ははは、美男は辛いのう」
「まだ言うか、だから御主達は騒ぎ過ぎなのじゃ」
霧隠はまだ言う二人に呆れながらも注意した。
「もう少し静かにせよ」
「ははは、よき方々ですな」
老人はそんな彼等を見つつ口を開けて明るく笑って述べた。
「お人柄のよき方々ですな」
「はい、実によき者達です」
幸村が微笑んで老人に答えた。
「拙者には過ぎた者達です」
「いえ、殿こそです」
「我等には過ぎた主です」
「殿の様な方はおられませぬ」
「まさに天下一の主です」
家臣達は幸村の今の言葉に驚いて返した。
「その様なことを言われては」
「恐縮して仕方ありませぬ」
「恥ずかしくて顔が赤くなって困りまする」
「ははは、そう言うか」
「はい、ですから」
「そうしたことは」
言わないで欲しいというのだ。
「どうかです」
「お願い申します」
「わかった、ではな」
「ではお互いに相応しいということですな」
老人はこう述べた、双方の話を聞いて。
「そういうことですな」
「そうなりますか」
「はい、それではこれから」
あらためてだ、老人は一行に誘いをかけた。
「その鍋を食しに行きますか」
「そうですな、それではお願いします」
「これが実に美味で」
昆布でだしを取り味噌で味をつけた海の幸の鍋がというのだ。
「是非お楽しみ下さい」
「それでは」
こうしてだった、一行は店に行きその鍋を囲んだ。幸村は赤い色の魚や海老に貝、それに昆布を見て目を丸くさせて言った。
「これが海の幸か」
「はい、どれもです」
老人が幸村に答える。
「海のもので。この魚は鯛です」
「これが鯛か」
「お侍様は鯛は食されたことがないのですか」
「信濃にいたので」
山国のそこに生まれ育ったからだというのだ。
「ですから」
「左様ですか」
「こうした貝に海老もです」
そうしたものもというのだ。
「見たこともありませんでした」
「では昆布も」
「左様です」
それもというのだ。
「使っております」
「ではこのだしの味は」
「昆布も入っています」
「それでこの味ですか」
「そこに味噌が入り」
そしてというのだ。
「魚に貝とです」
「これは牡蠣じゃ」
猿飛は柔らかい貝を箸に取りつつ述べた。
「安芸の牡蠣は美味かったが」
「ほう、あちらの牡蠣を食されたことがありますか」
「うむ、しかしこの牡蠣もな」
実際に口に入れて味わってみての言葉だ。
「たいそう美味い」
「これがここの牡蠣です」
「そうなのか」
「他の貝もよいぞ」
清海は牡蠣以外の貝も食べていて言う。
「それに海老もな」
「はい、この海老も美味です」
伊佐も海老を食べている。
「まことによい味です」
「これは何じゃ」
穴山は白く長いものを食べている。
「足か。蔦みたいじゃな」
「それは烏賊です」
「烏賊とな」
「はい、それもまた海にいるものでして」
「食えるのじゃな」
「そうです」
「ううむ、美味いのう」
穴山はその烏賊を食べつつ述べた。
「確かに」
「こっちの赤いのも美味い」
海野はそれを食べていた。
「その烏賊とやらに似ておるな」
「それは蛸です」
「蛸か」
「そうです、それもまた海のものです」
「そうなのか」
「はい、これも美味いですな」
「確かに」
海野は蛸を食べつつ老人に答えた。
「これはよい」
「生臭さがない」
由利は鍋全体について述べた。
「味噌のお陰か」
「そうです、味噌で味付けをしたうえで」
「匂いもか」
「それも消しています」
「そうか、それの味もあるか」
「そうなのです」
「わかった、これは美味い」
由利も食べつつ述べる。
「信濃にはない味じゃ」
「しかも野菜も大層入っておる」
望月は葱や大根も食べている、鍋にはそうしたものも多い。
「これもよいのう」
「茸もな」
根津はそれも食べている。
「しかもかなり多い」
「量も種類もな」
「ここまで色々入っているとは」
「海に山もじゃ」
「まさに山海の珍味じゃ」
「この摂津は海と山がすぐ近くにある」
筧は鍋を落ち着いた顔で食べつつ言った。
「それ故ここまで集まるか」
「そうです、それもどれも安く早くです」
「揃うのですな」
「生で食べることも多いです」
大坂においてはというのだ。
「海のものを」
「それはまずくはないか」
幸村は海のものを生で食べることも多いと聞いてだ、老人に問い返した。
「幾ら何でも」
「いえ、すぐ傍が海なので」
「しかし魚には虫がおる」
「海のものにはおりませぬ」
「川や池のものとは違いか」
「だから安心なのです」
生で食してもというのだ。
「海のものならば」
「そうなのか」
「確かに鯉や鮭、鮎は生で食べては危ういです」
「その時はよくとも後が怖い」
「しかし海のものは漁ったばかりならば」
「生で食してもか」
「よいのです、貝や海老も」
そうしたものもというのだ。
「ですから機会があればそちらもお楽しみ下さい」
「海のものはよいか」
「そうなのです」
「わかった、では機会があればな」
「その時は」
「それを食しよう」
刺身をというのだ。
「是非な」
「さすれば」
「そういえば水滸伝で出ていたわ」
幸村はここでこの書の名を出した。
「宋江殿が刺身を食しておった」
「あれは鯉でしたな」
「そうであったな、川魚であったが」
「刺身でしたな」
「刺身はよいものじゃな」
「はい、ですから機会があれば」
「刺身を食事してもな」
「よいかと」
老人は幸村に微笑んで勧めた。
「是非」
「客は皆普通の民じゃな」
霧隠は自分達以外の客達を見て述べた。
「金持ちらしき者はおらぬ」
「大坂にもお大尽の方がおられますが」
「しかしこの店はか」
「はい」
まさにとだ、老人は霧隠に答えた。
「普通の町人達の店です」
「流石に銭は高いと思うが」
「これだけの鍋を口にするとなれば」
「それでもか」
「はい、確かに多少奮発はせねばなりませぬが」
銭をというのだ。
「しかしです」
「それでもか」
「町人が普通に入られる店です」
「これ程の店でもか」
「それが大坂なのです」
そうだというのだ。
「羽柴様がそうでありますし」
「飾ったところがないと」
「はい、そうした方なので」
「大坂の者もか」
「この様に飾らず」
そしてと、老人は幸村に話した。
「しかも賑やかで明るいのです」
「そして食もか」
「この様に誰もがこうしたものを食します」
「そうなのか、この様なものを高いとはいえ町人達が食えるとは」
「大坂はよい町と」
「そう思う」
幸村は鯛を食いつつ答えた、はじめて食う鯛は実に美味かった。その味舌触りも楽しみながらの言葉だ。
「この町は天下一の町になるな」
「ですな、羽柴様の下で」
「羽柴殿はよき場所を選ばれた」
「前右府様もここに城を築かれるおつもりでした」
老人は信長の名前も出した。
「あの方も」
「石山の跡地にか」
「そしてこの様な町を置かれるおつもりでしたが」
「そうだったのか」
「はい、しかし」
それでもというのだ。
「あの様なことがあったので」
「本能寺のか」
「ですからあの方は果たせませんでした」
「それを羽柴殿が行われているか」
「そうなります」
「どちらにしてもこの地は栄えるべくして栄える地か」
「そうなと。このままです」
まさにというのだ。
「この町はどんどん栄えるでしょう」
「こうしたものも普通に食せてか」
「凄い町になりますぞ」
「そもそもわしは伊予の生まれで海のものはよく食ってきたが」
猿飛は老人に言って来た。
「ここまで海のものが豊かな町もないぞ」
「それだけでもですな」
「大きいわ、それに川がまことに多いな」
「船を使うにも便利です」
「そのことも大きいか」
「この地には橋が多くなると殿が仰ったが」
霧隠は幸村の先程の言葉をここから出した。
「これだけ川が多いと」
「その多さもですな」
「橋が行き来するのに必要じゃからな」
「尋常でない数になりますな」
「そうであろうな、何百と出来るか」
その橋がというのだ。
「それだけ橋が多い町も他にはないであろう」
「その橋も出来ております」
現在進行形で、というのだ。
「橋の多さも見ものですな」
「そうなるな」
「さて、ではどんどん召し上がって下され」
老人は話が一段落したところであらためて一同に述べた。鍋を食えと。
「海のものも茸もどんどん入れていきます」
「ははは、食う分には心配いらぬ」
「わしもじゃ」
清海と望月が言って来た。
「残さず食べるぞ」
「この汁も美味いわ」
望月は鍋の汁、椀の中のそれも楽しみつつ言った。見ればどの者もかなり食べているがこの二人と猿飛はとりわけだった。
一行は鍋を心から楽しんだ、そして。
その後の勘定はだ、老人が払おうとすると。
幸村がすっと出てだ、店の者に銭を渡して言った。
「これで足りるか」
「はい、充分です」
「ならよい、楽しませてもらった」
微笑んでつりを受け取りつつの言葉だった。
「また縁があれば来させてもらう」
「またのおいでを」
店の者とは明るいやり取りだった、だが。
店を出た後でだ、老人は幸村に問うた。
「あの、お勘定は」
「よい、店を紹介してもらったしな」
それにというのだ。
「こうした時は人に払わせるものではない」
「お武家様としては」
「武士は自分で払うもの」
「他の方の分も」
「家臣に払わせる者はおらぬ」
毅然とした言葉だった。
「だからじゃ」
「支払われましたか」
「そうなのじゃ」
だから払ったというのだ。
「気にすることはない」
「ですか、ではこのお礼は何時か」
「ははは、別によい」
お礼はというのだ。
「別によい」
「そうも言われますか」
「うむ、今回は世話になった」
幸村達の方がというのだ。
「海のもの、実に美味かった」
「海のものは堺にもありますので」
「そこでもか」
「楽しめます」
老人は幸村にこのことも話した。
「ですからあちらでもお楽しみ下さい」
「ではそうさせてもらう」
「その様に。ただ」
「ただ。何じゃ」
「堺の町は色々な者がいて」
「明や南蛮の者も多いと聞いておる」
「そういった国の者達とは言葉が違いまする」
老人がここで幸村に言うのはこのことだった。
「ですからお気をつけを」
「明の者とは字で話すことは出来ますが」
筧が幸村に言って来た。
「漢字で」
「つまり漢文でじゃな」
「それが出来ます、しかし」
「南蛮の者達はか」
「はい、文字も全く違います」
それでというのだ。
「それがしも何とかわかるようになりましたが」
「そういえば安土に見慣れる書もあったな」
「あれば南蛮の書でして」
「南蛮の文字で書かれておったのじゃな」
「そうだったのです」
筧は幸村に確かな声で話した。
「それがし言葉は何とかわかりますが」
「喋ることはか」
「そちらは無理です」
「そうか、しかし南蛮の言葉がわかるなら」
それならというのだ。
「頼りにさせてもらう」
「では」
筧は幸村に応えた、そしてだった。
老人がだ、一行に言った。
「ではまた」
「うむ、大坂に来た時はな」
「また楽しみましょう」
「それではな」
幸村が応えてだ、そしてだった。
一行は老人と別れて大坂を少し見回ってだった、大坂を出て南に向かうのだった。幸村はこの時に家臣達にまた言った。
「都、大坂と回り堺となるが」
「はい、こうして見回りますと」
「こちらは違いますな」
「西国は」
「実に」
「うむ、栄え方が違う」
それこそというのだ。
「何かとな」
「ですな、しかし」
「それでもですな」
「これは有り難い学問ですな」
「これもまた」
「うむ、全くじゃ」
こう答えたのである。
「これから我等の役に立つであろうな」
「そうですな、こうして西国を回ったことも」
「それもですな」
「実に、ですな」
「今後に役立つ」
「そうなっていきますな」
「うむ、見るのも学問もうち」
幸村は確かな声で言った。
「これが役に立つであろう」
「特に」
ここでだ、こう言った幸村だった。
「政においてな」
「上田においてですか」
「政をするにあたって」
「こうして西国を見たことが役に立つ」
「そうなっていきますな」
「上田は都や大坂とは違う」
このこともだ、幸村はわかっていた。そのうえでの言葉である。
「人も少なくここまで便もよくない」
「信濃全てを合わせても」
それでもとだ、穴山が応えてきた。
「大坂にようやくでしょうか」
「賑わいで勝てるかどうか」
「そこまで違うでしょうか」
「そうじゃな、諏訪と比べてもな」
幸村と穴山が会った場所だ。
「全く違う」
「ですな、そう思いますと信濃は田舎ですか」
「田舎も田舎じゃ、特に上田はな」
真田のその領地はというのだ。
「田舎じゃ、しかしじゃ」
「それでもですな」
「西国を見たことを活かし」
「上田を賑やかにする」
「そうしていきますな」
「そうせねばな」
実にというのだ。
「やはり」
「それで殿」
ここでだ、由利が幸村に言った。
「堺には千利休殿がおられましたな」
「あの茶人の」
「はい、あの御仁だけでなく茶自体が有名ですが」
「茶か。しかしな」
「高いと」
「うむ、拙者は飲んだことがあるが」
それでもというのだ。
「ああした茶道の茶はな」
「相当に高く」
「飲むにしてもな」
ここで幸村は十人全員を見て言った。
「我等全てが飲めるだけの銭を稼がなくてはな」
「あの、殿だけ飲まれては」
海野は幸村の今の言葉に怪訝な顔で返した。
「我等は別に」
「いや、それは違う」
「違うといいますと」
「我等主従は常に共にいると約した、ならばな」
それならというのだ。
「茶もじゃ」
「それもですか」
「そうじゃ、共に飲んでこそじゃ」
「そうでなければですか」
「ならぬ、だから堺で茶を飲もうと思えば」
その時はというのだ。
「共に飲もうぞ」
「そうお考えですか」
「これまでもそうであったな」
幸村は歩きつつ自身の家臣達に問うた。
「我等は寝食を共にしておるな」
「はい、確かに」
望月が幸村の今の言葉に答えた。
「先程の鍋もそうでしたし」
「だからじゃ、茶にしてもな」
「共にですか」
「飲もうぞ。それに一人で飲む茶は美味くない」
それはというのだ。
「やはり大勢で飲んでこそじゃ」
「茶道は畏まるものでは」
清海は頭を掻きつつ幸村に問うた。
「そうでは」
「それでも大勢で飲んだ方がよかろう」
「一人で飲むよりは」
「だからじゃ、皆で飲もうぞ」
「それでは」
清海も幸村の言葉に頷いた、そしてだった。
幸村にだ、伊佐も言った。
「殿、では」
「堺に入ればな」
「茶をですな」
「皆で飲もうぞ。他にも色々と見て回ろう」
「堺といえば」
根津が言うには。
「すっぽんが美味いとか」
「すっぽんがか」
「はい、そう聞いています」
「すっぽんは精がつくという」
猿飛が根津に言った。
「よいのう」
「そうじゃな、身体は大事にせねばいかん」
霧隠も頷く。
「すっぽんを食うこともよい」
「殿、ではすっぽんも食いましょう」
猿飛は幸村にも言った。
「あちらも」
「そうじゃな、すっぽんは確かに精がつく」
幸村も知っている、このことは。
「だからな」
「食うのもですな」
「よい、では皆で銭を稼ぎ」
その芸でだ。
「それからすっぽんも茶も楽しもう」
「ですな、それでは」
「まずはです」
「堺に行きましょうぞ」
一行は大坂を後にして今度は堺に向かうのだった。幸村の家臣達を探す度はそれだけで終わるものではなかった。
巻ノ十四 完
2015・7・9