巻ノ六 根津甚八
人形は確かに木曽に向かっていた、だが。
服は芸人の袖が短く着物の前が少しはだけている感じで色彩も派手なもののままであったが一人ではなくなっていた。
周りに忍装束の者達がいる、その者達が彼女に問うていた。
「では、ですな」
「真田幸村殿は」
「絡繰殿の人相見では」
「相当な方になられますね」
「なるねえ、あの御仁は」
艶やかな声でだ、からくりは忍達に答えた。
「文武両道、智勇兼備のね」
「そして家臣に豪傑を揃えた」
「そうした方になられますか」
「ああ、相当な方になられるよ」
人形は忍達を従えつつ山道を進んでいた、その速さは着ている服からは想像出来ないまでに速くてそのうえで。
右手には煙管があり口で吸っている、そうしつつ言うのだった。
「このこと半蔵様にお話しておかないとね」
「ですな、徳川様は信濃に進むおつもり」
「そこで真田家が敵になれば」
「その時は」
「味方になって欲しいね」
人形は煙管の煙草を吸いつつこうも言った、煙を口から吐く。
「是非」
「味方であればですか」
「我等にとっても非常に頼りになる」
「だからですな」
「幸村殿は」
「あっちもそう思うよ、ただ味方になるか敵になるか」
それがどうなるかはというと。
「あっちも見えなかったよ」
「ですか」
「絡繰殿でも」
「そこまでは」
「見えなかったよ、ただあの御仁の一生はね」
それはというと。
「ちょっと見えただけだけれど相当なものになるよ」
「相当な、ですか」
「そうしたものになりますか」
「ああ、戦国の世でも特に派手に戦って名を残す」
「そうした方になられますか」
「幸村殿は」
「まさに血戦を繰り広げる」
幸村の人生はというのだ。
「そんなものになるよ」
「ですか、どうも伊賀十二神将の方々が次々と幸村殿にお会いしていますが」
「絡繰殿もお会いされて」
「その様に仰るとは」
「これも縁でしょうか」
「そうだろうね、しかし本当に敵にしたくないね」
人形はこのことは切実に言った。
「敵にしたらそれこそね」
「我等伊賀にとってもですな」
「この上なく手強い敵となる」
「だからこそ」
「味方にしたいのですな」
「そのことも半蔵様にお話するよ」
忍達にこうも話した。
「是非ね」
「わかりました」
「それではですね」
「木曽を調べた後で」
「それからですね」
「伊賀に戻ろう」
こうしたことを話してだった、そのうえで。
人形はそのまま東に向かう、忍達もそれに同行する。彼等も彼等でそれぞれの道を進んでいっていたのだった。
幸村達は岐阜に着いた、そして岐阜の城下町を見てだった。
幸村は唸りだ、穴山達に言った。
「凄いのう」
「これが岐阜です」
清海が幸村に笑って答えた。
「かつて織田家の本拠でありました」
「そうじゃったな、だからこそな」
「これだけ栄えております」
「左様か」
「やはりこうした場所は信濃には」
「諏訪でもここまでは栄えておらぬ」
大社のあるそこyりはというのだ。
「とてもな」
「左様でありますか」
「流石は織田家の拠点だっただけはあるな」
「はい、店も人も多く」
「そしてここに」
「我等が探しておる者がいますな」
「根津甚八がな」
まさにその彼がというのだ。
「いるな」
「ではすぐにですな」
「剣術の道場を探しますか」
「そうしますか」
「今すぐに」
「そうするぞ、ではな」
幸村は四人に応えてだった、すぐにだった。
四人にだ、こう言ったのだった。
「ではな」
「はい、それでは」
「これより」
「すぐに岐阜の中を探しましょう」
「一人一人で別れてな」
幸村は四人にこうも言った、そしてだった。
一人ずつ別れてだ、その根津甚八の道場を探すのだった。するとすぐにだった。
一人岐阜の店と店の中を歩く彼のところにだ、海野が戻って言って来た。
「道場ですが」
「見付けたか」
「はい」
「それがしもです」
「それがしもまた」
「拙僧もです」
穴山と由利、清海も戻って幸村に告げた。
「ここから東に少し行ったところにです」
「その根津甚八の道場があります」
「では今からそこに」
「行かれますな」
「よし、では行こう」
幸村は四人に答えた、そしてだった。
彼はここでだ、四人にこんなことを言った。
「根津甚八も気になるが」
「何か」
「何かありましたか」
「うむ、拙者の目の前の御仁じゃ」
見れば幸村の前にかなり古ぼけた黒い袴に灰色の上着を着てやはり古ぼけた草履の男がいた、髪は長く伸ばしており痩せた顔の目の眼光は鋭く薄い髭が生えている。
その男を見つつだ、幸村は言うのだった。
「道場の場所はおおよそ既に聞いていたが」
「流石は殿」
「そこはもう調べておられましたか」
「そして、ですか」
「そのうえで」
「根津甚八殿の道場に向かおうと思っていたが」
ここでだったのだ。
「目の前にあの御仁が出て来られたのじゃ」
「この御仁が根津甚八」
「まさかと思いますが」
「見たところ剣客ですな」
「左様ですな」
腰には二本差しがある、それを見ての言葉だ。
「痩せていますが身体は締まっている」
「そして足の動きを見ると」
「どうにも」
「相当な剣の腕ですな」
「しかも忍の述も備えている」
幸村はその剣客のそのことも見抜いた。
「ではやはり」
「いや、拙者の名は水樹十蔵と申す」
男は鋭く細い目を持つ顔で笑って言った。
「根津甚八殿ではござらん」
「左様でござるか」
「しかし根津殿を探しておられるとか」
「はい」
その通りだとだ、幸村はその水樹という者に答えた。
「実は今人を探しておりまして」
「見たところ家臣をですな」
「おわかりか」
「勘で」
水樹は笑って幸村に答えた。
「そう思いましたが」
「はい、家臣に相応しい人材を探しています」
「だから根津殿と会われ」
「若し根津殿がよいと言われるなら」
その時はというのだ。
「家臣になって頂きたいと思っています」
「そうですか、しかし」
「しかしとは」
「先程根津殿の道場の方にならず者が多く向かいました」
水樹は幸村にこのことを話した。
「若しやと思いまするが」
「その根津殿の道場に」
「ならず者が行っているかも知れませぬな」
「殿、では」
「すぐに道場の方に向かいましょうぞ」
水樹の話を聞いてだ、穴山達は幸村にすぐに言った。
「ならず者達が道場を荒らせば大変です」
「すぐにならず者達を止めに行きましょう」
「根津殿の腕が我等と同じ程度なら問題ないと思いますが」
「どちらにしてもならず者は放ってはおけませぬ」
「そうじゃな、ではすぐに行こう」
幸村もこう答えた、そしてだった。
あらためてだ、水樹にこう言ったのだった。
「はじめてお会いしましたが」
「これでお別れですな」
「すぐに道場の方に向かいます」
こう水樹に言ったのだった。
「その様に」
「それでは」
幸村は水樹に一礼してだった、穴山達を連れてすぐに道場の方に向かった。水樹はその幸村達を見送ると踵を返した。
そしてだ、一人歩き人気のない道に入ると。
周りに影の様に男達が来てだ、口々に言った。
「あれが、ですな」
「真田幸村殿ですな」
「真田家のご次男の方ですな」
「うむ、まだ若いが」
水樹は前を進みつつ男達に言った。
「相当な強さじゃな、剣もな」
「氷剣殿と同じだけと」
「そう仰いますか」
「双刀殿、雷獣殿と並ぶ伊賀きっての剣の使い手である氷剣殿と」
「互角と」
「うむ、忍術も出来る」
水樹は男達にこのことも話した。
「それも相当じゃ」
「忍術までとは」
「では、ですか」
「まさかと思いますが」
「半蔵様とも」
「有り得るな、まさかとは思うがな」
水樹は鋭い目のまま答えた。
「あの方の域に至るやもな」
「では今のうちに何とかしますか」
「真田家との戦になった時強敵になります」
「ここで我等が闇討をして」
「若しくは一服盛りますか」
「いや、それが出来る相手ではない」
水樹はこう言って周りの者達を止めた。
「幸村殿だけではないぞ」
「周りの者達もですか」
「見れば相当な腕前」
「だからですか」
「ここは迂闊には」
「うむ、手を出すな」
実際にだった、水樹は男達に行くなと告げた。
「さもないとやられるのは御主達じゃ」
「ですか、では」
「ここはですな」
「あえて手出しをせず」
「様子を見ますか」
「それに徳川と真田が戦になるとまだ決まった訳ではない」
今この時点で、というのだ。
「そのこともあるからな」
「はい、わかりました」
「我等はこのまま」
「探りに向かいます」
「次に向かう場所に入り」
「そうせよ、わしもそうする」
水樹は前を見て歩きつつ男達に言った。
「それではな」
「はい、それでは」
「ここで一旦お別れしましょう」
「それではまたお会いしましょう」
「ではな、わしはこれより尾張から伊勢に向かう」
この国にというのだ。
「あの国を調べて来る」
「それでは」
男達は水樹に応えてそしてだった、影の様に消えてだった。水樹は一人道を進み岐阜を後にしたのだった。
幸村達は水樹の動きを知らなかった、むしろそれよりもだった。
根津甚八のいる道場に向かった、すると目的の場所のすぐ近くまで来たところで騒ぎが起こっていた。その騒ぎを見ると。
柄の悪い男達がいた、ならず者達はそれぞれ派手なそして如何にも柄の悪い者達が着ている様な服を着てだった。
そしてだ、囲んでいる男達に言っていた。
「前はよくもやってくれたな」
「今日は借りを返しに来たぜ」
「折角楽しく飲んでたのにな」
「叩きのめしやがって」
「今日はそうはいかないからな」
「覚悟しやがれ」
「何を言うか、あれは御主達が悪いのではないか」
男達は十人程いた、誰もが手に得物を持っている。だが。
囲まれている男は平然としていた、その手には何も持っていない。
質素な色の上着と袴、そして草履という格好でだ、、中肉中背で身体は痩せて引き締まっていてだ。顔は面長で細面だ。髷は総髪を束ねたものだ。目は細く鋭いがだ。
確かな光を放っている、その彼がだ。
何も手に持たずだ、男達にこう返した。
「娘達が嫌がっているのに無理に誘おうとしてな」
「うるせえ、そんなの手前に関係あるか」
「関係ねえのにしゃしゃり出やがって」
「それでよくもやってくれたな」
「そのことは忘れないぜ」
「だから思い知らせてやるぜ」
「全く、難儀な者達だ」
男はならず者達の言葉を聞いて冷静に呟いた。
「一度懲らしめてもわからんか」
「安心しな、叩きのめすだけだ」
「別に殺しはしねえよ」
「ちょっと痛い目を見てもらうだけだからな」
「数を頼もうともだ」
男は凄む男達にまた言った。
「わしは倒せぬがな」
「たった一人でかよ」
「俺達全員相手にしてもそう言えるってのか」
「前は三人だったが今は十人だぜ」
「十人を一人で相手に出来るってのかよ」
「馬鹿言ってんじゃねえぞ」
こう言ってだ、そしてだった。
男に襲いかかろうとする、だが。
ここでだ、清海が前に出ようとした。
「一人をよってたかってとは、馬鹿かあの者達は」
「うむ、そうじゃな」
「しかも武器を持たぬ者を襲うとはな」
「人として許せぬわ」
穴山と由利、海野も言う。三人も清海と同じく前に出ようとする。だが幸村はその三人を止めたのだった。
「いや、待て」
「しかし殿」
「あの御仁は一人ですぞ」
「しかもあの者達明らかにならず者です」
「どっちが悪いかは明白です」
四人は自分達を止めた幸村にも言った。
「ここであの御仁に助太刀をせずして何としましょうか」
「それでは男が廃ります」
「義を見てせざるは勇なきですぞ」
「殿、義を忘れてはなりません」
「拙者が行く」
男は逸る四人にこう返した。
「御主達はそこで見ておれ」
「殿がですか」
「自ら行かれるのですか」
「そしてそのうえで」
「あの方に助太刀されますか」
「うむ、それにあの御仁はな」
むしろというのだった。
「一人で充分じゃ」
「あのならず者達の相手が出来ますか」
「一人で武器も持っていないというのに」
「腰にも背にも木刀一本ありませぬ」
「それでもですか」
「武器を持たぬとも戦は出来る」
幸村はこうも言った。
「充分な」
「では拳ですか」
「体術を使いますか」
「それで勝ちますか」
「ならず者達に」
「うむ、しかしお一人ではやはり遅れを取る」
だからとも言う幸村だった。
「だから拙者が行かせてもらう」
「では」
「殿、ご武運を」
「それではな」
幸村は四人に応えてだ、今まさに喧嘩に入ったその中において。、
素早く入りだ、男の横に来て言った。
「助太刀致す」
「貴殿は」
「真田幸村と申す」
幸村はすぐに名乗った。
「見たところ貴殿はお一人、ですから」
「助太刀に参られたか」
「左様、それで刀」
「いり申さぬ」
男は笑って幸村に答えた。
「しかもこの者達ならば」
「刀を使わずとも」
「はい、倒せます」
「見たところ貴殿は刀術、忍術を使う様でござるが」
「忍術を使うことまでおわかりか」
「身のこなしで」
それがわかるというのだ。
「ある程度は」
「左様でござるか、実はそれがし忍術も使いまする」
実際にとだ、男も答えた。
「そのことまでお見抜きとは」
「おい、何か若いお侍さんまで来たけれどな」
「二人に増えたところでどうだってんだ」
「こっちは十人、しかも一人は刀も持っていない」
「それでどうして喧嘩するっていうんだよ」
「無理に決まってるだろ」
「無理かどうかはこれから見せる」
男はならず者達に確かな声で答えた。
「では参れ」
「言ったな、じゃあな」
「お望み通りにしてやるぜ」
「そこの若いのも倒してやる」
「覚悟しやがれ」
こう言ってだ、ならず者達はそれぞれの得物を手にだった。幸村と男に襲い掛かった。だがここでだった。
幸村は刀ではなく柔術や合気術でならず者の一人を退けた。その横で。
男は刀を手にしていない、だが。
恐ろしいまでの素早さを誇る足さばきで縦横に動いてだった。ならず者達の攻撃を風の様にかわしてだった。
そのうえでだ、一人が刀を出したところでそれを両手で白刃取りして。
その刀を奪ってだ、刀をひっくり返して。
刀背でだった、ならず者達を次から次に打ってだった。
次々と倒してだ、瞬く間に。
幸村が三人倒す間に残りの七人を倒してしまった、そうして言うのだった。
「刀がなければ手に入れればいい」
「な、何て強さだ」
「斬ってきた刀を取ってかよ」
「それで戦うなんてな」
「こいつ化けものか」
「只者じゃねえ」
「御主達の太刀筋はよくわかった」
男は叩きのめされ倒れ伏しているならず者達に答えた。
「それでは拙者を倒せぬ」
「くそっ、覚えてやがれ」
「次に会った時は許さねえからな」
「待て、御主達何故その様なことをしておる」
ここで幸村がならず者達に問うた。
「ならず者の様だが」
「昔はそうじゃなかったんだよ」
「わし等だって真面目に足軽やってたんだよ、武田家でな」
「武田家が滅んで織田家に仕えたんだけれどな」
「その織田家が今ややこしくなって暇を出されてな」
「仕方なくこうしてここで浪人暮らしだよ」
「わし等全員そうだよ」
ならず者達は忌々しげにだ、立ち上がりつつ幸村に答えた。
「全く、何で武田家が滅んだんだ」
「織田家に召し抱えられたと思ったら本能寺でえらいことになって」
「それで信雄様はわし等に急に暇を出して」
「何だってんだ」
「訳がわからん」
「まあのう、信雄様はあまり道理がわからぬ方の様じゃ」
男が信長の次男であるその織田信雄について話した。
「そうしたこともあろう」
「あろうかで済むか」
「お陰でわし等はあぶれ者じゃ」
「日々の銭は用心棒をしたりしておるが」
「荒れておるわ、この通りな」
「難儀なことじゃ」
「ふむ、ではな」
それではとだ、幸村はならず者達の話を聞いて述べた。
「御主達これから西に向かえ」
「西に?」
「西にというのか」
「そこに行けば何かあるのか」
「うむ、大坂で羽柴家に仕官せよ」
これが幸村がならず者達に言うことだった。
「御主達は溢れてそうなった様じゃしな」
「確かにおなごはからかうがな」
「それ以上のことはしておらぬぞ」
「喧嘩はしても盗みや殺しは一切せぬ」
「これでも足軽だった時は真面目だったのじゃ」
「では余計にじゃ、羽柴家にお仕えしてじゃ」
そのうえでというのだ。
「真っ当に生きよ」
「うむ、そう言うのならな」
「わし等もそうする」
「ではな」
「これより大坂に行って来る」
「それではな、しかしな」
ここでだ、ならず者達は幸村に対して問うた。
「貴殿、何者じゃ」
「見たところ若いが名のある侍と見たが」
「一体何処の誰じゃ」
「言葉の訛りは信濃と見たが」
「同じ武田家に仕えておったが」
幸村はならず者達の話を聞いて言った。
「拙者の名は真田幸村、さっき名乗ったな」
「何と、貴殿が真田幸村殿か」
「あの上田のご次男殿」
「いや、まさかここでお会いするとは」
「夢にも思いませんでした」
ならず者達は同じ武田家に仕えていた、しかも重臣の息子と足軽の間なのでだ。畏まった態度になって述べた。
「無礼、申し訳ありませぬ」
「何と謝っていいか」
「この非礼、何とすればいいのか」
「謝る必要はない、それよりもじゃ」
幸村が彼等に言うことはというと。
「これからは全うに生きるのじゃ、よいな」
「はい、そうします」
「羽柴秀吉様といえば気さくで家臣にも優しいとか」
「足軽も大事にされるといいますと」
「それではですな」
「これより大坂に向かいまする」
「その様にな、では達者でな」
幸村はならず者達を送った、そしてだった。
あらためてだ、共に戦っていた男に言われたのだった。
「先程の名乗りですが真田幸村殿といえば」
「ご存知か」
「はい」
男はここでも確かな声で答えた。
「それがしも」
「そうであったか」
「まだ元服したばかりですが文武両道、智勇兼備そして義を重んじられる」
そうした人物というのだ、幸村は。
「そう聞いていましたが」
「それでどう思われるか」
実際の幸村に会ってとだ、他ならぬ幸村自身が問うた。
「今は」
「どうやらその通りですな、それがしに助太刀に入られならず者に仕官先まで進められた」
「ただ成敗するだけではことの解決にならぬ故」
「そこまでお考えでありならず者達のことまで考えられる」
男は幸村のそうしたところまで見ていた、そのうえでの言葉だ。
「いや、全く以てそれがしの思った通りでござる」
「そう言って頂けるか」
「はい」
そうだとだ、男はまた答えた。
「そう思いまする」
「左様か、そして貴殿は」
今度は幸村から男に言った。
「根津甚八殿でござるな」
「おわかりか」
「噂に聞く腕前」
その剣術の腕からわかったというのだ。
「刀がなくとも相手から奪い使う」
「借刀の術、そして無刀でござる」
「刀がなくともでござるな」
「刀はあるでござる」
男、根津甚八は幸村に答えた。
「それ故にでござる」
「ああした風にされたか」
「左様です、あの者達が救い様のない者達なら」
その時はというと。
「斬り捨てていたでござるが」
「そうでないが故に」
「あの程度にしていたでござる」
「そこまでおわかりとは」
幸村も感服した、根津の心に。
それでだ、根津にあらためて言ったのだった。
「根津殿、実は拙者は拙者自身の家臣を探しているでござる」
「それでそれがしにお声を」
「左様でござる、根津殿は道場をお持ちと聞きますが」
「はい、しかし」
「しかしとは」
「道場は実はそれがしは師範代でして」
道場の主ではなく、というのだ。
「道場主は師が務めております」
「そうでござったか」
「師範代は弟弟子も充分務まります」
根津は幸村にこうも言った。
「ですからそれがしがおらずとも」
「それでは」
「これより師のところに事情を話しに行って宜しいか」
「はい」
幸村は根津のその申し出をよしとした。
「それでは」
「はい、では」
こうしてだった、根津は彼の師と話をしに行ったがここでだった。幸村と穴山達四人も同行して彼の師の家に参上した。
根津の師の家は質素だが確かな造りだった、そこに道場もあった。根津はその道場に入り稽古に励んでいる若者達の挨拶に自身も挨拶を返してだった。
奥に座している老人、彼の師にだ。幸村を紹介した。
「こちらの方が真田幸村殿です」
「あの有名な」
「はい、先程それがしを助けて下さいました」
このこともだ、根津は話した。
「そしてそれがしはこの方に家臣になる様に誘われまして」
「はじめまして」
幸村も根津の師に挨拶をした。
「真田幸村であります」
「ふむ、いい目をしておられる」
師は幸村のその目を見て言った。
「確かに素晴らしき方じゃな」
「有り難きお言葉」
「甚八の主に相応しい」
師はこうも言った。
「そして」
「そしてとは」
「こちらの方々は真田殿の家臣ですな」
今度は穴山達を見て言ったのだった。
「こちらの方々も見事ですな」
「おお、拙僧達もでござるか」
「はい」
師は清海にも答えた。
「よい目をしておられる、そして非常にお強い」
「ははは、一目で見抜かれたか拙僧達のことを」
「どうも貴殿はおっちょこちょいで酒乱の気がありますか」
「いや、その言葉はどうも」
清海は師の今の言葉にはその巨体を小さくさせて応えた。
「言われると」
「ははは、しかしどの方も見事な方」
師は再び笑って言った。
「これは甚八が共に進まれるべき方々」
「さすれば」
「甚八、これはまさに運命の出会いぞ」
今度は根津に対して言った。
「よいか、ならばな」
「お仕えして宜しいのですか」
「むしろわしから言いたい」
「お仕えせよと」
「そうじゃ、是非共な」
まさにというのだ。
「幸村様にお仕えせよ」
「では道場は」
「わしもおるし倅達もおるし他にもおる」
腕の立つ道場を背負うべき者はというのだ。
「だから案じるな」
「さすれば」
「行け、時折文でも送って参れ」
師は笑ってこうも言ったのだった。
「よいな」
「はい、それでは」
「真田幸村殿、甚八を頼みます」
師は微笑み幸村に顔を向けて言った。
「この者ただ腕が立つだけではありませぬ」
「忍術もですな」
「そちらもかなりの腕でして」
「お強いですな、そして」
「実に心根のよき者」
そうした者だというのだ。
「ですから真田様の家臣としましても」
「ですか、では」
「はい、道を歩まれて下さい」
「道を」
「真田殿の道を甚八も連れて」
こう言ってだ、幸村に根津を預けた。それから弟子達に一旦稽古を休ませて彼等も交えた別れの宴をしてだった。根津を送るのだった。
そして別れの時だ、師は根津に言った。
「甚八、これから何があってもな」
「殿と共にですな」
「歩め」
こう言うのだった。
「何処までもな」
「その道は人の道ですな」
「そうじゃ、見たところ真田殿は」
師は幸村も見て言った。
「天下人やそうしたものになられる方では」
「拙者天下には興味がありませぬ」
幸村自身もこう答える。
「真田家の安泰、そして義がです」
「真田殿が思われることですな」
「確かに天下泰平を望んでいますが」
しかしというのだ。
「それがし自身が天下人になろうとはです」
「思っていませんな」
「左様です」
そうだというのだった。
「ただ、義は」
「それはですな」
「決して見失ってはならぬものと思っています」
「そうですな、真田殿は義の人」
まさにとだ、師も答えた。
「ではその義の道を歩まれて下さい」
「わかり申した」
「甚八、それが御主の歩く道じゃ」
師はあらためて根津に告げた。
「しかと。真田殿と何処までも歩むのじゃ」
「さすれば」
根津も頷く、そしてだった。
根津甚八もまた幸村の家臣となってだった、岐阜を後にして幸村と共に旅立つことになった。こうして幸村の家臣は五人となった。
根津を加えた一行は道場での別れの後で西に向かった、次に目指す場所は。
「このまま都に行くが」
「その途中にですな」
「清海の弟に会いたい」
こう根津に答えた。
「どの様な者が見たい」
「まあこ奴の弟ですから」
由利は自分の隣にいる清海を見つつ言った、既に岐阜を出て人気のない道を歩いている。
「図体はでかいでしょうな」
「わし程ではないがな」
実際にそうだとだ、清海も答える。
「伊佐も大きいぞ」
「やはりそうか」
「うむ、兄弟で図体が大きくてな」
そしてというのだ。
「飯はよく食う」
「そして大酒飲みか」
「いや、伊佐は真面目じゃから酒はな」
「飲まぬか」
「それ程な、飲んでも乱れぬ」
酒乱の清海とは違ってというのだ。
「まことに真面目な男じゃ」
「御主とは全然違うか」
「そうじゃ、兄弟で全く違う」
「一体どういう者なのか」
海野は清海の言葉を聞いて述べた。
「興味が湧くのう」
「ははは、楽しみにしておれ」
清海は笑って海野にも答えた。
「顔も全然違うぞ」
「御主の顔はひょうきんな感じじゃからのう」
「それはよく言われてきた、もっとも頭は同じく剃っておる」
「坊主だからじゃな」
「左様、わしも弟も坊主じゃ」
そうだというのだ。
「読経もよくしておるしな」
「そういえば御主読経はしておるが」
ここでだ、穴山は清海のその読経について指摘した。
「馬鹿でかい声でし過ぎじゃ」
「わしの声が大きいとな」
「雷の様ではないか、しかも御主のいびきも」
それもというのだ。
「雷の如きではないか」
「全くじゃ、最初驚いたぞ」
「何かと思ったぞ」
由利と海野も清海の雷について思った。
「それがし達は忍故何時でも何処でも寝られるがな」
「それでもじゃ」
「あのいびきは何じゃ」
「あんな五月蝿いいびきは聞いたこともないわ」
「あのいびきで忍ぶことが出来るのか」
このことをだ、穴山は指摘した。
「その図体も気になるが」
「出来るが」
「まことか?」
「これでも忍術ならば誰にも負けぬ」
それこそというのだ。
「御主達にもな」
「全く、何処から見ても花和尚じゃがな」
水滸伝の豪傑の一人魯智深の名前がここでも出た。
「いざとなれば忍ぶのじゃぞ」
「それは心得ておる」
「さて、殿」
根津はあらためてだ、幸村に言った。
「岐阜からこのまま近江に入り」
「うむ、そしてな」
「安土を通ってですな」
「都に入る」
「そうされますな」
「都に入るのははじめてじゃ」
幸村は楽しみにしているものも見せていた。
「どういった場所かのう」
「そうですな、長い間戦で荒れていましたが」
「織田信長殿の上洛からじゃな」
「落ち着き今は相当に賑わっています」
「そうなのじゃな」
「左様です、それがしも都に入ったことがありますが」
それでもというのだ。
「人も増え店も多く栄えを戻しています」
「そうか、ではな」
「楽しみにされて下さい」
都に入ることをというのだ、そしてだった。
一行は美濃の西を進んでいく、その中で。
大垣に入ってだ、こんな話を聞いた。
「ほう、ここから少し西に行くとか」
「はい、橋がありますが」
幸村達は団子屋で団子を食っているがそこで店の親父から話を聞いていた。
「そこに武芸者が最近いまして」
「そしてか」
「橋を渡ろうとする者を見ていまして」
そのうえでというのだ。
「腕が立つと見ると勝負を挑んできます」
「何じゃ、弁慶か」
清海は団子を貪りつつ言った。
「それでは」
「そうですな、今弁慶とです」
「実際に言われておるか」
「美濃のです」
まさにそうだというのだ。
「そう言われています」
「そうか」
「随分と強いらしく」
「わしの様に大きいのか」
清海は弁慶ということからこう考えた。
「まさに弁慶か」
「いえ、別に大きくはありませぬが」
「違うのか」
「拳と火の術を使いまして」
「刀等は使わぬか」
「はい」
そうだというのだ。
「その武芸者は」
「左様か」
「しかしその強さは相当で」
親父はその者についてさらに話した。
「これまで負け知らず」
「そこまで強いのじゃな」
「左様です」
「それは面白い、ではな」
清海はここまで聞いて楽しげに笑って言うのだった。
「いっちょわしが相手をしてやろうか」
「いや待て、わしじゃ」
その清海に穴山が言って来た。
「わしが行く」
「小助、御主がか」
「そうじゃ、わしも柔術等が出来るしな」
「御主は鉄砲が一番であろう」
「それでもじゃ、腕が立つ者とは勝負をせねばな」
強い者と手合わせしたい、そう言うのだ。
「御主と同じだと思うが」
「確かに、わしも同じ考えじゃ」
「ではわかるな」
「わかってもわからぬ」
これが清海の返事だった、団子と次から次にと大きな口の中に入れて頬張りながらそのうえで穴山に答えた。
「勝負をするのはわしじゃ」
「いや、わしじゃ」
今度は由利が言って来た。
「わしの鎖鎌を見せてやる」
「御主もそう言うのか」
「そうじゃ、ここ暫く鎖鎌は使っておらなかった」
「忍術で狩りをしておるから充分であろう」
「わしは鎖鎌じゃ、鎖鎌を使わねば気が済まぬ」
「それを言うとわしもじゃ」
海野も出て来た。
「わしも勝負がしたいぞ」
「何と、御主まで言うのか」
清海は海野も参戦してきて戸惑って返した。
「全く、どの者も」
「そう言うがな、わしもこれで中々勝負が好きでな」
「武芸者がそんなことをしておるとか」
「勝負せねば気が済まぬ」
海野もこうした考えだった。
「だからわしが行く」
「ううむ、拙者も」
最後に根津が言うのだった。
「武芸者とは手合わせを」
「何だかんだで五人皆ではないか」
清海は根津の言葉も聞いてたまりかねた様な顔になった。
「全く、どの者も勝負が好きじゃな」
「当たり前じゃ、強い者と勝負することこそ最高の楽しみじゃぞ」
「弱い者をいたぶっても面白くなかろう」
「全力で手合わせしてこそではないか」
「それこそ真に強き者のすること」
「武に生きる者ではないか」
「それはそうじゃ、しかし勝負をするのはわしじゃ」
清海は一歩も引かなかった、仲間達に対して。
「これでもわしが殿の一の家臣じゃからな」
「わしが一番最初に殿にお仕えしたぞ」
「忠義はわしが一番じゃ」
「いや、わしこそが殿の一の家臣ぞ」
「拙者も新参ながらも」
「まあ待て」
言い合いに埓が明かないと見てだ、幸村が五人を止めた。
「あれこれ言ってもはじまらぬ」
「といいますと殿」
「ここは殿が行かれますか」
「そうされますか」
「いや、拙者は出ぬ」
幸村は家臣達に確かな声で答えた。
「御主達がそこまで出たいというのならな」
「では誰が」
「誰に任せて頂けますか」
「ここはどの者が」
「どの者が出るべきでしょうか」
「くじを引くのじゃ、くじは拙者が作る」
これが幸村が五人に言うことだった。
「だからここはくじを引いて決めよ」
「当たればですか」
「その者が橋のところにいる武芸者と勝負する」
「そうすべきですか、ここは」
「くじで決めるべきですか」
「これで決めればよい、言い合いばかりしていてはそこから無闇な喧嘩になる」
だからだというのだ。
「武士は無闇な喧嘩なぞすべきではない」
「確かに。我等も殿にお仕えする身」
「真田家の武士となりました」
「では、ですな」
「無闇な言い合い、喧嘩なぞせずに」
「そうしたことで決めるべきですな」
「左様、皆の者それでよいな」
幸村は五人にあらためて問うた。
「くじ引きで決めて」
「さすれば」
「お願い申す」
「それではです」
「これよりくじ引きをしましょう」
「では今から作る」
こう言ってだ、そしてだった。
幸村は親父に言ってすぐにだった、団子の串を五本程借りた。幸村を入れて六人がそれぞれ食べていた団子の串だ。
そのうちの一本に店にあった筆で先を黒く塗ってだ、全ての串の先を手で隠し。
五人に差し出してそれぞれ引かせた、先の黒いものを引いたのは。
「拙者か」
「ううむ、甚八か」
「甚八になったか」
「ではな」
「甚八、楽しんで来るのじゃ」
「そうさせてもらう」
根津もだ、こう四人に答えた。こうしてだった。
橋で勝負する者を決めてだ、そのうえで。
一行は食べることを終えて勘定を払ってから店を後にした、そして。
その橋に向かいつつだ、幸村は言うのだった。
「この前上田を出たというのに」
「気付けばですな」
「この様にですな」
「我等が家臣に加わり」
「一人ではなくなっていますな」
「ここまですぐに人が集まるとは思っておらなかった」
幸村にしてもというのだ。
「到底な」
「左様ですか」
「上田を出てもう五人」
「ですな、我等五人とです」
「お会いしてです」
「我等がお仕えしてです」
「五人ですな」
「これから増えるか、果たしてどれ程の者が集まるか」
幸村は前を進みつつ言う。
「楽しみじゃな」
「ですな、殿の下に集まる者」
「一体どれだけの数になるか」
「我等もです」
「楽しみです」
五人も幸村に応える、そうしたことを話しながら橋に向かっていた。また近江にも近付いていた。幸村達が進むその中で。
天下は刻一刻と動いていた、それは駿府も同じだった。
駿府城においてだ、一人の太った男が多くの者を前にして言っていた。
「用意は出来たな」
「はい、今にもです」
「出陣出来ます」
「この駿府にも兵が集まっております」
「岡崎にも浜松にもです」
この二つの城にもというのだ。
「兵はもう集まっております」
「後は殿のご指示だけ」
「殿が一言お命じになればです」
「出陣出来まする」
「今すぐにでも」
「左様か、ではわしの具足を出すのじゃ」
この男徳川家康は家臣達の言葉を聞き確かな笑みを浮かべて答えた。
「よいな」
「畏まりました」
「それでは」
「今から」
「出陣しましょうぞ」
「そうする、しかしな」
出陣を告げたところでだ、家康はこうも言った。
「一時はどうなるかと思った」
「はい、本能寺で異変が起こった時は」
「織田信長公が討たれた時は」
「まさかと思いました」
「しかも跡継ぎの信忠公も討たれ」
「織田家はどうなるかわかりませぬ」
「羽柴秀吉殿が大きくなっておられますが」
ここで秀吉の名前も出た。
「あの御仁は頭が回りますし」
「妙な人懐っこさがあります」
「しかも機を見るに敏」
「瞬く間に近畿に地盤を築いておられます」
「そうじゃな、その織田家は甲斐及び信濃から去った」
家康はここでこうも言った。
「織田家がおらぬならな」
「はい、それではですな」
「甲斐、信濃は今や主がおらぬ場所」
「そこに兵を進めても悪いことはありませぬ」
「ですから」
「そうじゃ、問題は北条家と上杉家じゃ」
この二つの家についてもだ、家康は言及した。
「この両家、特に北条家じゃな」
「あの家も甲斐、信濃を強く狙っています」
「ですから油断出来ませぬ」
「北条家と戦になるやも」
「そして上杉家とも」
「そうじゃ、両家が敵じゃし話をする相手じゃ」
甲斐、信濃を巡ってというのだ。
「兵だけでなく人もやるぞ」
「はい、その用意も出来ています」
「何時でも小田原、春日山に人をやれます」
「出来るだけ多くの土地を手に入れましょうぞ」
「是非」
「うむ、それではな」
「それで殿」
ここでだ、家臣達の中でとりわけ前にいる者達のうちの一人、顔に皺が多くあるが精悍な顔立ちの男が言ってきた。四天王筆頭にして家康の片腕とも言われる酒井忠次だ。
「甲斐、そして信濃の国人達ですが」
「先に申した通りじゃ」
家康はその酒井に微笑んで答えた。
「降るなら手出しはするな」
「はい、喜んでですな」
「当家に迎え入れる」
そうした国人達はというのだ。
「戦をするというのなら応える」
「そういうことですな」
「かといっても無闇に命を奪うことはないがな」
「左様ですか」
「そうじゃ、無闇な殺生はするな」
「甲斐、信濃での乱暴狼藉はですな」
「三河武士に相応しくあれじゃ」
こう言って乱暴狼藉も慎むのだった。
「よいな」
「わかりました、そして信濃の国人ですが」
「誰かいたか」
「かつて武田家に仕えていた真田家ですが」
「真田か」
「はい、あの武田家の中でも智勇兼備の者揃いでしたが」
「同じじゃ」
家康は真田家についてだ、こう酒井に答えた。
「あの家もな」
「従えばよし、ですか」
「そうでないのならな」
「攻めまするな」
「それだけじゃ」
「かなり強いですが」
「強いといっても所詮十万石」
家康は真田家についてはこう言った。
「力が違う、だからな」
「我等の相手にはなりませぬか」
「一気に攻めてじゃ」
そしてというのだ。
「降すぞ」
「我等の力で」
「わしには見事な多くの兵と御主達がおる」
家康は笑ってこうも言った。
「幾ら真田が強くとも真田家の者達だけ、兵も少ない」
「数が違いますな」
「優れた者がおっても少ない」
それが真田家だというのだ。
「家臣には加えたいがな」
「殿、その真田家の中でもです」
ここで家臣達の席の奥の方にいる精悍な顔の者が言って来た。
「ご次男の幸村殿のことですが」
「その者がどうかしたか」
「近頃信濃で若いながらも優れた者と言われ」
そしてというのだ。
「上田から出てご自身の家臣を集めておるとか」
「左様か」
「この御仁はどうされますか」
「どうでもよいであろう」
家康は男の問いにあっさりと答えた。
「別にな」
「捨ておかれますか」
「うむ、その者が幾ら優れた者を集めてもな」
「真田家の力ではですか」
「知れておる、むしろ真田を降した時に優れた者が入る」
家康はこう考えていた。
「だからよい」
「そうですか」
「真田家は当家の重臣にしたい」
真田昌幸、彼をというのだ。
「天下の智将、その智謀で羽柴家にも対したい」
「では甲斐、信濃の後は」
「だから御主の手の者達に近畿や東海も調べてもらっておるのじゃ」
家康はこう男に答えた。
「だからじゃ」
「左様ですか」
「うむ、それで半蔵よ」
家康はここで男、服部半蔵保長の名を呼んだ。
「伊賀者達にまずは近畿、東海まで調べさせてな」
「そして、ですな」
「それが済めばじゃ」
「我等伊賀者達も」
「甲斐、信濃攻めに加わってもらう」
そうしてもらうというのだ。
「とりあえずは今駿府に残っている伊賀者達を連れて行く」
「十二神将は今は、ですな」
「よい、あの者達は後でな」
「甲斐、そして信濃の南までは」
「よいであろう、甲斐の東から来る北条の風魔達には御主があたれ」
他ならぬ半蔵自身がというのだ。
「頼んだぞ」
「畏まりました、さすれば」
「それでは我等は甲斐に向かう」
家康はあらためて重臣達に告げた。
「岡崎、浜松の者達は信濃を攻める様に伝えよ」
「ではその様に」
「二つの城にも伝えて」
「出陣しようぞ、甲斐と信濃の民達には一切手出しはするな」
このことは念を押してだった、そのうえで。
家康は手勢を率いて北に兵を進めた、本能寺の変は甲斐そして信濃においても戦乱を再び引き起こしていた。
巻ノ六 完
2015・5・17