巻ノ三 由利鎌之助
「ではそれがしはこれで」
「ここから甲斐に向かわれますか」
「はい」
そうだとだ、雲井は諏訪大社の前で幸村に答えた。由利を加えた一行は諏訪に戻っていた。既に由利の手下達は皆上田に向かっている。
「そうします」
「今甲斐は物騒ですが」
「織田家がいなくなり、ですな」
「国人達が騒ぎ徳川、北条が争っております」
「左様ですな、しかし」
「それでもですか」
「少し行ってきます」
こう幸村に答えたのである。
「またお会い出来ればその時は」
「はい、楽しみましょうぞ」
「さすれば、それにしても」
ここでだ、雲井は笑ってこんなことも言った。
「山で食べた熊は美味しかったですな」
「ははは、それがしこれでも料理は得意なのです」
由利が明るく笑って雲井に答えた。
「特に鍋が」
「得意ですか」
「熊肉だけでは臭く癖も強いですな」
「だからそこに茸や山菜を多く入れてですか」
「そして鍋にしました」
それを四人だけでなく手下達も入れて食べたのだ。
「あの様に」
「はらわたまで食べましたが」
「はらわたも美味かったですな」
「はい、胃や腸も」
無論肝や心の臓もだ。
「美味かったです」
「ああしたものを食うべきなのです」
「熊はですか」
「いえ、あらゆる獣は」
熊に限らずというのだ。
「独特の美味さがありまた滋養にもいいので」
「だからですか」
「はい、食うべきなのです」
「左様ですか、いいことを教えてもらいました」
「では今度からは」
「はい、それがしもはらわたを食います」
獣のそれをというのだ。
「鍋もああして茸や山菜を入れます」
「あとあれば生姜等を入れるとです」
「よいのですな」
「塩の気は血を使えますので」
実際に由利は熊鍋に血を使っている。
「生姜や瑚椒も使うと尚よいです」
「成程、ではそのことも覚えておきます」
「さすれば」
こうしたことを話してだった、雲井は幸村達と別れた。そしてだった。
雲井は諏訪から甲斐に一人向かった、だが山道を歩いていると。
彼にも忍装束の者達が周りに来てだ、問うたのだった。
「雷獣殿、次はです」
「甲斐の国ですが」
「あの国は殿が強く求められています」
「ですから」
「うむ、念入りに調べねばな」
雲井は雷獣と呼ばれつつ忍装束の者達に応えた。
「是非な」
「そうしましょうぞ」
「色々とややこしいですが」
「乱に気をつけつつ」
「隅から隅まで調べましょう」
「そうしなければな。しかし真田幸村殿にお会いしたが」
ここでだ、雲井はこうも言った。
「あの御仁、噂以上じゃな」
「噂以上の傑物ですか」
「信濃一の」
「いや、信濃一国はおろか」
雲井は忍装束の者達に述べた。
「天下にその名を残す、必ずな」
「そこまでの御仁ですか」
「あの御仁は」
「そうなのですか」
「うむ、徳川の味方になればいいが」
しかしというのだ。
「敵になればな」
「その時はこれ以上はないまでの敵ですか」
「徳川家にとって」
「そうなりますか」
「そうなる、間違いなくな」
雲井は真剣な声で語った、山道を相当な速さで進みながら。
「今徳川家は北条家と対しているが」
「北条は強いですな」
「やはり尋常な相手ではござらぬ」
「伊達に武田、上杉と渡り合ってきた訳ではござらぬ」
「油断出来ませぬ」
「しかしな、真田家そして幸村殿もじゃ」
彼もまた、というのだ。
「敵になればな、徳川の」
「厄介な御仁ですか」
「これ以上はないまでの」
「拙者はそう思う、油断出来ぬ」
こう話しつつだ、雲井は忍装束の者達と共に甲斐に下った。その頃幸村達は諏訪から今度は木曽に向かっていた。
三人で山道を進んでいく、穴山はその中で幸村に言った。
「こうした道を知っていると速いですな」
「そうじゃな」
「はい、しかし殿の足は」
「拙者の足に何かあるか」
「忍術を極めておられていても」
それでもだというのだ。
「相当ですな」
「そう思うか」
「はい、健脚ですな」
どれだけ険しい山道を幾ら歩こうとも疲れを全く見せない、それで言ったのだ。
「速いですし」
「確かに。武士と忍の者では脚が違いますが」
由利も言う。
「殿のお脚は忍の我等から見ましても」
「御主もそう言うのだな」
「はい、お見事です」
「これでは思ったよりも速く木曽に着きそうですな」
「そうじゃな、この道をこれだけ速く進めばな」
由利は穴山に応えて述べた。
「すぐじゃな、木曽に」
「さて、木曽からですが」
穴山は由利の言葉を受けてからまた幸村に顔を向けて問うた。
「美濃に入られますな」
「うむ、それから都に向かう」
「やはりそうされますか」
「人が多いからのう。人が多ければな」
「その分だけ優れた者もいますな」
由利も言う。
「だからですな」
「人を探すには人の多いところじゃ」
幸村は歩きつつ述べた。
「だからじゃ」
「畏まりました、では」
「木曽から美濃、そして都に向かいましょうぞ」
こう三人で話してだ、一行は木曽に向かう。険しく深い山道だが一行は何なく進んでいった。だがその途中でだった。
一行は不意にだ、夜休んでいる時にだ。急にだった。
周りに気配を感じた、それでだった。
周りを見回すとだ、そこには。
山犬達がいた、険しい顔で唸り声をあげつつ三人を囲んでいた。一行は気配に目覚めて周囲を見回してこのことを察した。
そしてだ、すぐに起き上がり身構えるがだ。幸村は穴山と由利に言った。
「これは我等が悪い」
「我等がとは」
「どういうことでしょうか」
「どうやら我等は山犬達の縄張りで寝てしまったらしい」
「だからですか」
「縄張りから追い出す為にですか」
「こうして囲んできたのじゃ」
幸村はこのことをすぐに見抜いたのである。」
「だから今囲んで襲おうとしてきているのじゃ」
「餓えて襲っているのではなく」
「そうなのですか」
「餓えているのなら声が違う」
山犬達のそれがというのだ。
「これが脅す声じゃな」
「ではここは」
「どうすべきでしょうか」
「相手が獣でも無闇な殺生はせぬことじゃ」
これが幸村の考えだった。
「だからここはこの場を去り別の場所で寝よう」
「では」
「ここは寝床を移しますか」
「そうしようぞ、しかし囲まれておる」
幸村は夜の森の中を見回した、暗い木々の中に見えるのは闇の中に爛々と光る山犬達の目だ。その目を見ればだった。
一行を完全に囲んでいた、それで幸村も言うのだ。
「これは抜け出るのは用意ではないな」
「それならば」
由利がここで幸村に申し出た。
「それがしにお任せを」
「我等三人を戦わず逃がすことが出来るか」
「はい」
確かな声での返事だった。
「お任せ下さい」
「では見せてもらうぞ」
「それでは」
由利は幸村に対して頷くとだ、すぐにだった。
両手で印を結んだ、すると。
周りに風が吹き荒れた、風は幸村達から山犬達に向けて木の葉を撒き散らして吹き荒れた。その風の勢いとかなりの量の舞い散る木の葉でだった。
山犬達を戸惑わせ怯ませた、由利はその風が吹き荒れる中で幸村と穴山に言った。
「では今の間に」
「うむ、わかった」
「さすればな」
二人も応えだ、跳んでだった。
その場を抜け出た、こうして山犬達の囲みを出て別の寝床に向かうのだった。そしてその寝床を見付けて横になったところでだ、幸村は由利に言った。
「よくやった、風の術で風を起こしてじゃな」
「その勢いと吹き飛ぶ木の葉達によってです」
「山犬達を怯ませてその間に去る」
「如何だったでしょうか」
「よくやった、見事じゃ」
幸村は微笑み由利の力と機転を褒めた。
「風を鎌ィ足にして攻めることも出来たな」
「はい、それがし風の術を得意としていますので」
その通りだとだ、由利も答えた。
「そうしたことも」
「そうじゃな、しかし拙者の言葉に従ってじゃな」
「それがしは幸村様の家臣、さすれば」
主の言葉に従うのが道理だというのだ。
「ですから」
「ああしてくれたのじゃな」
「あれでよかったのですな」
「見事じゃった、また言うが獣でもな」
「無闇な殺生をせずに限りますな」
「そうじゃ、戦の時も捕まえた者を殺すこともな」
出来れば、というのだ。
「せぬに限る」
「殿は殺生はお嫌いなのですな」
「武士は戦で人を殺すもの、しかし無闇に殺すことはよくはない」
「そうお考えなのですか」
「そうじゃ、人を殺さずに済めばそれでよし」
「ううむ、殿は実に」
「お優しいですな」
由利も穴山も幸村のその心を感じて述べた。
「仁愛ですか」
「その心をお持ちなのですな」
「仁の心を忘れて天下は成り立たぬ」
幸村は二人に確かな声と顔で答えた。
「父上に教えて頂いたことじゃ」
「昌幸様にですか」
「その様に」
「そうじゃ、兄上もそうじゃった」
「真田家はですか」
「仁愛を備えた家ですか」
「確かに真田はどの家につくこともする」
それで日和見とも蝙蝠とも言われている、それで天下から白い目で見られることもある。しかしというのだ。
「しかしそれでもな」
「仁愛はですな」
「忘れぬと」
「そうじゃ、そしてそれは拙者も同じじゃ」
幸村もというのだ。
「だからな」
「山犬達もですか」
「避けたのですな」
「そういうことじゃ、だからあの時は戦いを避けたのじゃ」
「無用な戦は避ける」
「そうされましたか」
「これからもそうじゃ、拙者は必要とあらば戦う」
このことは絶対ではあってもというのだ。
「しかしな」
「必要でない時はですか」
「戦も殺生もされぬ」
「左様ですか」
「そうされるのですか」
「うむ、そうする」
こう話してだ、そしてだった。
山犬を避けた後で三人で眠った、それから起きてすぐに木曽に向かう。その途中由利は二人に歩きながらだ。
干し飯を出してだ、こう言った。
「如何でしょうか」
「干し飯か」
「はい、丁渡持っていますので」
「それなら拙者も持っている」
「わしもじゃ」
幸村と穴山が述べた。
「だからこちらのものを食するからな」
「御主は御主のものを食え」
「そうするか、ただな」
由利は実際に自分の干し飯を口にしつつだ、穴山に言った。
「御主とは今は特に呼び合う名前がないな」
「会ったばかりだしのう」
「お互い何と呼び合う」
「それは名前でよかろう」
穴山は何でもないといった調子でだ、由利に返した。
「わしのことは小助と呼べ」
「それでよいのか、ではわしの名もな」
「うむ、何と呼べばいい」
「鎌之助と呼べ」
こう言うのだった、穴山に。
「その様にな」
「そうか、ではお互いに名でな」
「呼び合おうぞ」
二人で呼び方も話した、そして。
幸村も入れて三人でだ、歩きつつ干し飯を食ってだった。そのうえでそれで腹を膨らませつつ歩いた。三人が木曽の手前まで来たところで。
不意にだった、三人は山道を歩いていたが。
急に目の前に崖が出て来た、しかしその崖を見てだった。
幸村は無言で傍に転がっていた小石を拾って崖に向けて投げた。すると恋しは崖の底に落ちることなくだった。
崖の遥か上、幸村達の足元の高さで跳ね返った、幸村はそれを見て言った。
「幻術じゃな」
「よくわかられましたな」
「急に景色が変わった、それではな」
「幻術だとですか」
「思ったがその通りだったな」
こう由利に話した。
「この崖は」
「そうでしたな、では」
「うむ、この崖は通ってもよい」
幻に過ぎないからだというのだ。
「別にな」
「左様ですか、しかし」
穴山はその目を鋭くさせて幸村に言った。
「この幻を出した者は」
「さて、それは」
「ははは、これは申し訳ない」
ここでだ、前からだった。
茶人が着る様な服を着た老人が出て来た、白髪を髷にしていて口髭と顎鬚が一つになっていて長い。その彼がだ。
前から出て来てだ、こう三人に言った。
「少し悪戯をしましたがお気を悪くされましたか」
「この幻術はご老人が」
「はい、この近くに住む隠居でして」
「何故幻術を」
「昔陰陽道やら仙術をやっていまして」
それでというのだ。
「その中で幻術を備えました」
「左様でござるか」
「時たまここを通った旅人にこうして悪戯をしていますが。いや幻術を見抜かれるとは」
「急に景色が変わりましたので」
それでとだ、幸村は老人に答えた。
「まさかと思ったのですが」
「そうでありますか」
「はい、しかしご老人はかなりの幻術の腕ですな」
「ははは、見破られたではありませぬか」
「いえ、景色はそのままでした」
崖のものだったのだ、底に小さな川が見える位の。
「あれだけの景色を出せるとは」
「尋常な幻術ではないと」
「そうです、ご老人の幻術は天下の術ですな」
「いやいや、そう言われると恥ずかしくなります」
「お名前は」
「身共の名前ですか」
「何と仰いますか」
こう老人に問うたのだった。
「一体」
「はい、楽老とでも覚えておいて下さい」
「楽老ですか」
「その様に」
「そうですか、では楽老殿」
幸村は老人の名乗りを受けてだ、彼にあらためて申し出た。
「それがしは真田幸村といいまして」
「ほう、あの真田家の次男殿の」
「はい、今は家に必要な優れた者を探していまして」
「それで身共に真田家にですな」
「はい、如何でしょうか」
「いや、身共は隠居の身」
楽老は飄々とした年齢を感じさせる笑みで幸村に応えた、小柄であるが背はしっかりとしていてその手には杖があり左手は自由だ。
「ですから」
「それはですか」
「はい、遠慮させて頂きます。ただ」
「ただ、とは」
「実はここから北にある山に面白い者がいまして」
「面白い者が、ですか」
「何でもかつては美濃辺りにいたとか。そこで水練を極め様々な武芸を身に着けたとか」
こう幸村に話すのだった。
「美濃を収めていた織田家には仕えずあちこちで雇われ兵として働き。堺にもいたとか」
「そして今はですか」
「思うところあり山の中で修行をしておるとか」
「そうした者がいるのですか」
「はい、身共はお仕え出来ませぬが」
それでもというのだ。
「その者に声をかけられてはどうでしょうか」
「さすれば」
幸村は楽老の言葉に頷いた、そしてだった。
穴山と由利にだ、顔を向けて言った。
「ではな」
「はい、その山に入り」
「そしてですな」
「その者に会おうぞ」
「実はその山は崖が多く川の流れも激しく」
そしてというのだ。
「水練の鍛錬にはいいとのことです」
「そういえばその者は水練が得意ですな」
「そうです、それでは」
「行って来ます」
幸村は楽老にはっきりと答えた。
「あの山に」
「そうされるか。しかし」
ここでだ、楽老は幸村に笑ってこうも言った。
「真田幸村殿にお会い出来て何より」
「拙者にですか」
「いい目をしておられる、相もいい」
顔も見て言うのだった、幸村のそれを。
「天下一の方になられますな」
「拙者天下取りに興味はござらぬが」
このことは真田家自体がだ、真田家は自分達さえ守られ生き残ればそれで満足だ。滅びなければいいのだ。
だからだ、ましてや天下なぞはなのだ。
「天下人になぞ」
「いや、人としてです」
「人としてですか」
「天下一の方になられますな」
「天下一の者に」
「身共はこれでも人を見る目には自信がありまして」
それでというのだ。
「わかるつもりです」
「人相見もですか」
「出来まする、その身共の見たところですが」
幸村、彼はというのだ。
「必ずやそうなられましょう」
「それはよきこと」
「殿が天下一の方になられるとは」
穴山も由利も喜ぶことだった、楽老のその言葉はだ。
「ではそれがし達もその殿にお仕えし」
「殿を是非盛り立てましょう」
「そして必ずやです」
「殿を天下一の方に押し上げまする」
「家臣の方にも恵まれておりますな」
楽老は二人も見て笑って言った。
「よきことですな、では」
「はい、また機会があれば」
「お会いしましょうぞ」
楽老は笑顔のまま幸村一行と別れた、そしてだった。
幸村達がその山に向かうのを見届けてからだ、楽老は。
踵を返して何処かに向かった、その向かう先は。
美濃の方だった、その美濃に向かうと彼にもだった。周りに黒装束の者達が来て彼に対して問うてきた。
「幻翁殿、では」
「これより我等もですな」
「美濃から大和に入り」
「あの国を調べますか」
「そうしようぞ、しかし」
老人とは思えないまでの速さで険しい山道を進みつつだ、楽老は忍の者達に話した。
「真田幸村殿に会ったが」
「真田家の次男の」
「その方に」
「いや、見事な貴相」
忍の者達にもだ、幸村の相を話すのだった。
「家康様や秀吉公と同じだけのな」
「よい相だと」
「そう言われますか」
「わしの見たところな。しかし」
「しかし?」
「しかしとは」
「天下人の相ではない」
このこともだ、楽老は述べた。
「そうしたものではない」
「と、いいますと」
「天下人にはならぬ」
「そうなのですか」
「幸村殿もその望みはない様じゃ」
天下人になる、その野心はというのだ。
「しかしその智勇により天下に名を馳せられるな」
「そうした意味で、ですか」
「天下に名を馳せられる」
「それが真田幸村殿ですか」
「あの御仁ですか」
「忍術も相当な御仁じゃ」
楽老は幸村の忍者としての資質も見抜いていた。
「我等伊賀十二神将、いや半蔵様にもな」
「何と、半蔵様にもですか」
「比肩し得る」
「そこまでの方ですか」
「そうやも知れぬな、今でも相当な御仁じゃが」
それがというのだ。
「すぐに大きくなられる、そしてな」
「半蔵様以上のですか」
「そこまでの方になられますか」
「わしにはそう見えた」
幸村の顔相にだ、それが出ていたというのだ。
「あの御仁は伊賀、ひいては徳川の味方になってくれればよいが」
「敵になれば」
「その時はですか」
「またとない敵となる」
「左様ですか」
「当代の半蔵様はまさに天下一の忍」
それが自分達の主だというのだ。
「正成様はな」
「ですな、保長様も認めておられます」
「正成様はまさに天下一の忍」
「その忍の資質はまさに天下のもの」
「才覚に加え精進も欠かさない」
「見事な方です」
「あの方に並ぶやも知れぬ、しかも家臣も今は二人じゃがさらに集まるな」
楽老は穴山、由利達のことも話した。
「天下きっての豪勇と忠義を併せ持つ者達がな」
「半蔵様に並ぶ方の下にですか」
「豪勇と忠義を併せ持った者が揃う」
「それではさらにですな」
「徳川にとって厄介ですな」
「敵になりますと」
「北条家の風魔も厄介じゃが若しかするとな」
幸村、そして彼の下にいる者達もというのだ。
「厄介な敵になるやも知れぬ、そして敵になれば」
「その時は我等も」
「用心せねばなりませぬな」
「これ以上はない強敵になるが故に」
「その時は」
「うむ、しかし今はどうなるかわからぬ、わしは顔は見られるがこの世の未来は見られぬ」
そうしたことはというのだ。
「だからな」
「手出しはしませぬか」
「消されませんでしたか」
「わし一人で仕掛けてもな、わしの幻術をすぐに見破るまでの方じゃ」
幸村のこともだ、楽老は忍の者達に話した。
「しかも豪傑達が下におる、わし一人で向かっても」
「幻翁殿でも」
「勝てぬと」
「とてもな、だから退いた。しかし幸村殿が完全に我等の敵となった時は」
老人のその温厚な顔の目が光った、まるで狼のそれの様に。
そしてその光る目でだ、こう言ったのだった。
「わしも命を賭けて戦うがな」
「ではその時は」
「我等も」
「頼むぞ。我等伊賀者は今は徳川家にお仕えし」
そしてというのだ。
「半蔵様の下にある」
「はい、我等は服部家にお仕えしています」
「そのうえでの伊賀者です」
「ですから半蔵様の下」
「伊賀者として戦います」
こう話してだった、そのうえで。
楽老は美濃に向かった、そしてそのうえで消えたのだった。
幸村はその山に入った、無論穴山と由利も一緒だ、そのうえで。
二人にだ、幸村は言った。
「この山にいる者もな」
「強ければですな」
「そして心が確かなら」
「家臣にしたい」
この考えを言うのだった。
「是非な」
「やはりそうですか」
「我等と同じくですか」
「殿の家臣にされ」
「そのうえで」
「上田まで連れて行ってな」
そのうえでというのだ。
「働いてもらいたい」
「ですな、では」
「どういった者か見ましょう」
「さて、どれだけの者か」
「見ものですな」
「水練に長けているとのことじゃが」
楽老から聞いたことをだ、幸村は心の中で反芻しつつ述べた。
「どういった者かのう」
「そういえばこの山に入り水の匂いが強くなりましたな」
「うむ、水の気もな」
穴山と由利はここでこのことに気付いた。
「それだけ水が多い」
「そういうことですな」
「そうじゃな、少し行けば川がありそうじゃ」
幸村も匂いと気を察して言った。
「そこに行くか」
「はい、では」
「そうしましょうぞ」
二人も幸村の言葉に頷いてだ、そのうえで。
山を進んでいった、すると。
実際に川のせせらぎの音がしてだった、そこに行くと川があった。森の木々の中に岩場がありその間に川が流れている。
川は幅は結構ありだ、そのうえで。
底が見えない、幸村はその川を見て言った。
「あそこにいるな」
「確かに。人の気配がしますな」
「それもかなり強い気配が」
「獣とはまた違う」
「はっきりした人の気配が」
「気配を隠しておらぬか」
「何者じゃ」
そしてだ、ここでだった。
新たな声がした、すると。
幸村達の前にだ、引き締まった痩せた身体で手の長い男が立っていた。年齢は穴山や由利と同じ位だろうか。
背は由利より少し低い位でだ、髪の毛は短く刈っていて上の部分は立っていて目は丸く大きくだ。口元はしっかりしている。
上半身は裸で下半身は忍の袴で素足だ、その袴も全身も濡れている。
その彼がだ、幸村達に言った。
「わしは修行中じゃが」
「ふむ、泳いでか」
「修行をしておったか」
「そうじゃ」
その通りだとだ、男は穴山と由利に答えた。
「そうしておったが」
「左様か、やはりな」
「道理で身体が濡れておる筈じゃ」
「水練の修行か」
「それに励んでおったか」
「水練は大好きじゃ、他の術と同じくな」
男は淡々として答えた。
「励んでおるがな。やはり水練に一番時を割いておる」
「左様でござるか。ところで見たところ」
幸村は二人に話す男にだ、礼儀正しく答えた。
「貴殿は九州の方か」
「わかるか」
「その言葉の調子で」
喋り方は幸村と変わりない、しかしというのだ。
「それも南の方か」
「よくわかるのう」
「言葉の調子で。上田にもそこからの方が来られたことがありますので」
「貴殿は上田の者か」
「はい、上田に生まれ育っておりまする」
「武士と見受けるが真田家に仕えておられるか」
男はその目を鋭くさせて幸村に問うた、その丸い目を。
「そうであろうか」
「いや、この方こそじゃ」
「真田家の方か」
穴山と由利が男に答えた。
「真田家の次男真田幸村様」
「まさにその方じゃ」
「何と、あの若いながらも武芸十八般を極めた智勇顕微の方か」
「うむ、非常に立派な方じゃ」
「だから我等もお仕えしておるのじゃ」
「わしは穴山小助」
「わしは由利鎌之助じゃ」
二人はここで男に胸を張って自分達の名前も名乗った。
「共に幸村様にお仕えしておる」
「そして人を探す旅のお供をしておるのじゃ」
「御主達の名は聞いておった」
男は二人にも応えた。
「天下無双の豪傑だとな」
「鉄砲と金の術では負けぬ」
「天下一の鎖鎌と風の使い手じゃ」
二人は笑ってまた男に言った。
「御主も相当な者の様じゃが」
「わし等も強いぞ」
「そうじゃな、気でわかるわ」
男は二人ににやりと笑って応えた。
「そのこともな」
「そうか、それは何より」
「御主もそれがわかるのならな」
「それならな」
「話をしたいのじゃが」
「実は拙者は家の為に天下の豪傑を探していて」
幸村が男に話した。
「それでこの山にも入りましたが」
「ではそれがしが天下の豪傑なら」
「若し当家に仕えて頂くなら」
「いや、滅相もない」
男はここでだ、幸村に仰天した様にして言った。
「真田幸村様から直々のお誘いとは」
「では、か」
「御主もか」
「それがし仕えるべき主はいないと見て世を捨て己の術のみを極めんと日々鍛錬に励むだけの日々であったが」
それがというのだ。
「しかしここで仕えるべき主に会えました」
「それが拙者だと言われるか」
「いい目をしておられます」
幸村のその目を見ての言葉だった。
「人は目に全てが出ます」
「ほう、御主もわかっておるな」
穴山は男の今の言葉を受けてにやりと笑った。
「人はその器に相応しい人を知るというが」
「悪しき者の目は濁っておる」
男は穴山にも答えた。
「器が小さいと光は弱い」
「では殿の目はどうじゃ」
「これ程澄んで強く大きな光を発される方は見たことがない」
幸村のその目を見ての言葉だ。
「御主達も澄んでいて強いがな」
「殿はそれ以上じゃな」
「遥かにな、この方こそは天下一の武士となられる方」
まさにというのだ。
「この方に是非お仕えしたい」
「そう言うか、では我等はこれより同僚じゃな」
由利も男に笑って言った。
「宜しく頼むぞ」
「こちらこそな」
「してそなたの名は」
幸村は自身に仕えることを誓った男にその名を尋ねた、これまでその資質は見たが名は聞いていなかったからだ。
「何というのか」
「海野。海野六郎といいます」
「海野六郎というのか」
「はい、宜しくお願いします」
幸村の前に膝をついての言葉だった。
「これより拙者の命を預けます」
「頼むぞ」
「ではこれより上田に」
「いや、まだ旅を続ける」
幸村はこう海野に答えた。
「そして天下の豪傑を集めていく」
「真田家の為にですか」
「今天下は先がわからぬ様になっておるな」
「本能寺で織田信長殿が倒れられ」
「そうじゃ、羽柴秀吉殿が頭一つ出ておられるが」
「それでもですな」
「まだどうなるかわからぬ」
確かなことは言えないというのだ、幸村は秀吉が天下を握ると見ているが確信して言うにはまだ憚れたのだ。
「そして信濃もな」
「武田様の後は織田家でしたが」
「その織田家は去った、徳川や北条、上杉が来る」
「その三家が」
「特に徳川が来るであろう」
幸村は海野にその読みを話した。
「家康公は三河の麒麟とまで呼ばれる方、武勇と智勇を兼ね備えておられる」
「確かに。その家臣の方々も揃っておられます」
「ましてや甲斐、それに信濃は最早主がおらぬ状況。ではな」
「そこに攻め入ってもよい」
「まさに切り取り放題、これで徳川家が信濃に雪崩れ込まぬ理由はない」
「そして上田にも」
「徳川家には十六神将という勇将達が集い尚且伊賀者もいる」
忍もだ、家康は抱えているというのだ。
「陣容はかなりのものだ、その徳川殿が攻めてくれば戦わねばならぬ」
「だからこそですか」
「拙者はまだ人を集めたい」
天下の豪傑達をというのだ。
「真田家を守る為にもな」
「だからですな」
「これより美濃に入る」
続いてはこの国だった。
「そこでも人を探そう」
「さすれば殿」
海野はここまで聞いてだ、幸村にこう言った。
「美濃に一人面白い者がおります」
「それは誰じゃ」
「根津甚八という者でして」
海野は幸村にこの者の名前を出した。
「忍術と剣術に秀でていまして特に剣の腕は天下無双」
「そこまで凄いのか」
「百度の果し合いで負けを知りませぬ」
「そこまで凄いのか」
「この者、戦国の世にありながら律儀で融通が利かず」
それで、というのだ。
「これまで確かな主を見付けられませんでした」
「この戦国の世で義を通していたのか」
「はい、ですから誰にも仕えず岐阜で道場を開き剣を教えています」
「では岐阜に行けばか」
「その者に会えるかと」
「わかった、では岐阜に向かう」
まさにその国にというのだった、幸村も。
「そしてそこでその根津甚八という者に会おう」
「さすれば」
「では皆の者よいな」
幸村はあらためて自分の家臣達に告げた。
「我等はこれより岐阜に向かうぞ」
「はい、それでは」
「これより」
穴山と由利も応えた、そしてだった。
一行は木曽の山から岐阜に向かうことにした、木曽その山道を進むが。
海野は幸村にだ、微笑み言った。
「水のことならお任せ下さい」
「そなたは水練を極めておるそうじゃな」
「はい、水の術も」
それもとだ、海野は右手を拳にして幸村に答えた。
「そして水を見付ける方法も」
「知っておるか」
「例えばこの山の中ですが」
「ここでか」
「水を見付けることが出来ます」
「そうなのか」
「穴を掘りその上に布を敷けばその布に水が付くのです」
このことをだ、海野は幸村に話すのだった。
「いざという時はそうして水を手に入れ飲めばいいのです」
「それは面白いのう」
「水に関することで知らぬことはありませぬ」
海野はこうまで言った。
「ですから何かあればお任せ下さい」
「そうさせてもらうぞ」
「それがしは河童です」
自分のことをだ、海野は笑ってこう言った。
「水はそれがしの世界です」
「ふむ、河童か」
「では手が伸びたりするのか」
穴山と由利は海野の話を聞いてこんなことを言った。
「だと余計に凄いは」
「流石にそれはないな」
「いや、関節を外すことは得意じゃ」
海野はこう言って実際に左手の関節を外してみせた、するとその手が伸びた。
「この通りな」
「何と、それではな」
「まさに河童じゃな」
「幼い頃はよくそう言われた、それでその水のことを活かしてな」
そしてというのだ。
「今に至るのじゃ」
「左様か、河童か」
「これは心強いな」
「尚相撲も強い」
海野は二人に笑いながらこのことも話した。
「力士にも負けぬ」
「相撲も強いとはな」
「余計に河童じゃな」
では力もか」
「相当に強いか」
「一度相撲を取るか」
二人にもだ、海野は言った。
「わしとな」
「時間があればな」
「よい鍛錬だしな」
「わしも相撲には自信があるぞ」
「わしもじゃ」
二人も相撲には自信があるというのだ。
「だからな」
「一度やってみようぞ」
「相撲は時間があれば取るべきじゃ」
幸村も言う。
「拙者も子供の頃からよく取っておる」
「ですな、よい鍛錬ですし遊びにもなります」
「非常にです」
「そうじゃ、上田にあればしようぞ」
こうしたことも話してだった、そのうえで。
海野を入れて四人になった一行は今度は美濃に向かうのだった。その美濃においても豪傑を求めるのだった。
巻ノ三 完
2015・4・24