真田十勇士
巻ノ一 戦乱の中で
甲斐の名門武田家は織田家、徳川家との戦である長篠の合戦に敗れその力を大きく落とした、そしてそれから九年後遂に織田家によって滅ぼされた。
これにより武田家の家臣だった者達はそれぞれの道を歩むことになった、主家に殉じて滅んだ家、織田家についた家、徳川家についた家。
そこはそれぞれだった、そして信州上田の真田家は織田家につくことにした。これは織田家が天下を統一すると見てのことだ。
かつての仇敵である織田家につく、これには覚悟が必要だった。世間から二君に仕えるのかという侮蔑と嘲笑を受け織田家からは怪しまれ何時切り捨てられるか捨て駒にされるかわからない。しかも織田信長が真田家を信じ受け入れるかどうか。
だが真田家の主真田昌幸は言った。
「これしかないのじゃ」
「当家が生き残るには」
「織田家につくしかありませぬか」
「そしてそのうえで」
「織田家の家臣になるしか」
「そうじゃ、若しもじゃ」
ここでだ、昌幸はその鋭い光を放つ口髭を生やした顔を険しくさせて言った。
「織田家が攻めてくるというのなら」
「その時は、ですな」
「この城で」
「いや、わしが行き首を差し出す」
昌幸は自らこう言った。
「そうしてことを済ませて家を残す」
「と、殿がですか」
「御自ら行かれ」
「そして、ですか」
「ご自身が」
「織田家もわしの首なら文句はあるまい」
それを差し出せばというのだ。
「主のわしの首を貰えればな」
「真田家自体はですか」
「残してもらえると」
「そう見ておられますか」
「如何に織田家といえど」
「そうじゃ、まずは家を守ることじゃ」
これが第一だというのだ。
「その為にはな」
「殿がお首をですか」
「差し出されますか」
「そうする」
昌幸は家臣達に強く言ってだ、織田家に覚悟を決めて使者を送った。その織田家の返事は仕えることを許すというものだった。
かくして真田家は一旦安泰となった、だが。
すぐにだ、昌幸にとっても誰にとっても思わぬ事態が起こった。
その織田信長が本能寺で討たれたのだ、所謂本能寺の変が起こったのだ。
これにより真田家は再び主君を失った、昌幸はここでまた家臣達に言った。
「ならば仕方ない」
「と、いいますと」
「どうされますか」
「天下はどうなるかわからなくなりました」
「織田家により天下は統一されようとしていましたが」
「その織田家、織田信長公が討たれました」
「討った明智殿は羽柴殿に討たれたとのことですが」
天下はめまぐるしく動いていた、織田信長は倒れそして明智光秀もだった。
次の天下人は誰か、そして天下はどうなるのか。最早誰にもわからなかった。
しかしだ、昌幸は家臣達に腕を組んで答えた。
「次は羽柴殿じゃな」
「明智殿を討ったですか」
「あの方ですか」
「主君の仇を討ったという功績を挙げた、しかも頭が回り人たらしで動きも早い」
「だからですか」
「あの方が、ですか」
「次の天下人ですか」
家臣達は昌幸に対して問うた。
「あの方が次の天下人になりますか」
「織田家の後で」
「そうなる、しかしまだ確かではない」
秀吉が天下人になるとだ、昌幸は見ていてもだ。
「まして今信濃とその周りはじゃ」
「はい、これまでは織田家のものでしたが」
「それは一時のことでした」
「滝川殿、森殿は退かれました」
「甲斐の川尻殿は甲斐の国人達に討たれました」
これが今のかつての武田家の領地の状況なのだ、文字通り混沌としている。
「徳川家、北条家が動くとか」
「甲斐、上野、そしてこの信濃も狙っています」
「羽柴家が天下人になるにしても」
「羽柴家の領地は遠いです」
近くの美濃や尾張は織田信雄の治めるところだ、確かに織田信雄は秀吉に近いのだが彼についてはというと。
「美濃の織田信雄殿は」
「どうも頼りになりませぬ」
「信長公がおられた時からです」
「あの方は」
「あの御仁は天下人になれぬ」
昌幸はこのことは断言した。
「到底な」
「ですな、あの方は」
「そうした器ではありませぬな」
「このことは間違いありませぬ」
家臣達も言う、信雄の器については。
「精々一大名」
「それ位ですな」
「それ以上にはなれず」
「大きくなれませぬな」
「若し信雄殿に助太刀を頼んでもじゃ」
美濃からだ、信濃に兵を送ってくれと言ってもというのだ。
「動かれぬわ」
「信濃が大事とは思われておらぬ故」
「こちらにはですな」
「兵は送られませぬな」
「ましてあちらも厄介なことになっていますし」
「こちらには」
「そうじゃ。織田家の助力は頼めぬ」
その信雄のだ。
「そして徳川、北条は間違いなく来る」
「あの二家は」
「必ずですな」
「こちらに来る」
「そうなりますか」
「それで争う」
徳川、そして北条がというのだ。
「そしてこちらにどちらか、若しくは両方が来る」
「徳川と北条」
「そのどちらかが」
「そしてまだおる」
他の家もだった、昌幸は言った。
「上杉家がな」
「上杉殿ですな」
「あの方もおられましたな」
「これまでは織田家と戦っていましたが」
「あの家も」
「信濃に来るかわからぬ」
その動きはだ、一切わからないというのだ。
「つまり我等は徳川、北条、上杉から攻められる恐れがあるのじゃ」
「それをどうするか」
「どう守るか、ですか」
「当家を」
「それが問題ですな」
「そうじゃ」
まさにというのだ。
「この家は大変な状況じゃ」
「ですな、武田家が滅んだ時以上に」
「さらにですな」
「危うい中にありますな」
「一体どうすればよいのか」
「まず羽柴家につく」
ここでだ、昌幸はこれからの家の動きの第一を言った。
「秀吉殿にな」
「その次の天下人になられる」
「その方にですか」
「つかれますか」
「そうじゃ、おそらく上杉家は羽柴家につく」
昌幸はこの読みも言った。
「だから我等が羽柴家につけばな」
「味方同士となり」
「助力も頼める」
「少なくとも攻め入られることはなくなる」
「そういうことですな」
「そうじゃ、だからここは羽柴殿についてな」
そうしてというのだ。
「後ろを確かにし天下人の力も受けてな」
「家を守る」
「そうされますか」
「そうじゃ、これでかなり違う」
羽柴家の加護、例え離れていてもその威光を受けかつ上杉家から攻められる心配をなくす。この二つでというのだ。
「後は北条、徳川と対する」
「父上、それでなのですが」
ここでだ、若々しく澄んだ目の若者が昌幸に言ってきた。顔立ちは昌幸に似ているがより清々しい感じがする。
「その徳川、北条ですが」
「何じゃ、源三郎」
昌幸はその嫡子真田信之を幼名で呼びつつ問うた。
「言いたいことがあるなら言ってみよ」
「おそらく。徳川と北条は最初はいがみ合いますが」
「やがてじゃな」
「話しそして」
「国を分け合うことになるというのじゃな」
「そうなるかと。そしてここに来るのは」
徳川と北条、どちらかというと。
「徳川かと」
「何故そう言える」
「はい、北条家は元より上野を狙っていました」
かつて武田家の領地でありこの前まで織田家の滝川一益が入っていた国だ。
「その上野を手に入れる絶好の好機です」
「織田家を退けたしのう」
本能寺の変で揺れる織田家を攻めてだ、その滝川一益を破り追いやったのだ。それで上野はというのだ。
「上野は北条家のものじゃな」
「それに対して徳川家は」
「甲斐、信濃が近いな」
「その領地に」
「だからか」
「はい、甲斐は北条の本拠相模と近くどちらのものとするか揉めるかも知れませぬが」
「信濃はじゃな」
まさにだ、真田家がいるこの国だ。
「そしてこの上田も」
「徳川のものとなるかと」
「ではここに来るのはか」
「はい、徳川家です」
この家が攻めてくるだろうというのだ。
「そうなるかと」
「そうじゃ、敵は徳川じゃ」
まさにそうだとだ、昌幸は言い切った。
「あの家とじゃ」
「戦になりますな」
「徳川は強い」
昌幸は強い声でだ、その徳川家について言った。
「主の家康殿も相当な御仁じゃが」
「その下にいる家臣の方々も」
「四天王、そしてその四天王を含めた十六の家臣」
「名付けて十六神将ですな」
「人が多い、どの御仁も武辺者じゃ」
それが徳川の主と将達だというのだ。
「しかも兵は強い」
「三河武士の強さは確かですな」
「三方ヶ原でも長篠でもそれからも強かった」
三方ヶ原では勝っている、その時真田家が仕えていた武田家がだ。この時家康は死を覚悟さえした。しかしというのだ。
「敗れてもな」
「その徳川家だからこそ」
「敵としては強い、しかも今の徳川は兵も多い」
これまでの徳川家とは違ってというのだ。
「遠江、駿河も手に入れ百万石となった」
「その百万石が我等にきますな」
「数まである、あまりにも強い相手じゃ」
昌幸は楽観せずに言った。
「守りを固める、そして策も使う」
「あらゆるものを使い」
「家を守る、源三郎御主もじゃ」
その信之というのだ。
「動いてもらうぞ」
「それでは」
「まだ間がある、徳川が来るにしてもな」
徳川の領地から信濃の北にある上田まではというのだ、信濃は南北に長くその北の上田まで徳川家が来るには時があるというのだ。
そしてだ、その間にというのだ。
「羽柴殿につきな」
「上杉殿ともですな」
「懇意になり」
「その間に備えもしてじゃ」
昌幸はまた家臣達に述べた。
「人も集める、その人は」
「忍ですな」
信之よりもまだ若い、ようやく前髪を落としたばかりであろう若武者が言った、顔立ちはやはり昌幸を思わせる、しかし。
より一本気であり精悍でだ、揺るぎない強ささえ感じさせる顔立ちの若者だ。その彼がここで昌幸に言ったのだ。
「影から動ける」
「その通りじゃ」
「やはりそうですか」
「源次郎、わかっておるな」
昌幸は今度は次子である彼、幸村の幼名を呼んだ。
「御主にも動いてもらうが」
「それがしはまずは上田に出て」
「その忍達を集めよ」
これが彼、幸村に言うことだった。
「よいな」
「畏まりました」
「戦がはじまるまでには戻れ」
刻限はその時までだった。
「だから急いで集めよ」
「数は十人程で宜しいでしょうか」
幸村は忍の数をだ、父に問うた。
「それ位で」
「その十人は全て一騎当千の豪傑ばかりにせよ」
「では」
「その者達を集めたなら御主に預ける」
「それがしの家臣にですか」
「御主には忍の術も教えた」
昌幸はただ幸村に武士としての武芸や軍学、それに学問だけを教えたのではなかった。彼のその身のこなしも見て忍術も教えたのだ。
そして彼が武芸等武士の芸だけでなく忍術でも相当なものを見てだ、今ここで彼に対してこう言ったのである。
「だからこそじゃ」
「はい、忍の者をですな」
「家臣とするのじゃ」
「そして徳川家との戦を戦い」
「そのうえでじゃ」
さらにというのだ。
「その戦の後もな」
「その忍達をですな」
「御主の家臣として使うのじゃ」
こう我が子に言うのだった。
「よいな」
「それがしのですか」
「そうじゃ、わしの家臣ではなくな」
幸村自身のというのである。
「御主の家臣とせよ」
「それは何故でしょうか」
「わしには家臣がおる」
「真田家代々の」
「その者達は源三郎にも受け継がれる」
信之が真田家を継ぐからだ、そうなるのは道理だ。だが昌幸はそのうえで幸村に強い声で言うのである。
「しかし御主は違う」
「それがしは真田の家臣として兄上にお仕えするのでは」
「いや、御主はそれ以上の器じゃ」
「それがしが」
「わしの見たところ御主は天下一のもむのふになれる」
「天下一のですか」
「この上田から出て天下に名を馳せるまでにな」
そこまでの器だというのだ、幸村は。
「大名になれぬかも知れぬがもむのふとしてじゃ」
「天下にですか」
「名を馳せる」
「そうした者になれるのですか」
「そうじゃ、だからじゃ」
それ故にというのだ。
「御主はその者達を家臣としてな」
「天下にですか」
「名を馳せよ、よいな」
「父上がそう仰るのなら」
幸村は父の言葉に頷いた、そうしてだった。
すぐに上田を出て旅をする支度をはじめた、まずは彼一人で出ることになった。その時に彼の支度を手伝っている信之が言って来た。
「これより旅に出るが」
「はい、支度の手伝い有り難うございます」
「それはいい、これから長旅になるな」
「そう思いまする」
「一人でよいのだな」
信之は弟に問うた、彼の部屋で支度の手伝いをしつつ。
「それでも」
「はい、最初は一人ですが」
「家臣を見付けていきか」
「やがて一人ではなくなります故」
「だからか」
「最初は一人でも構いませぬ」
幸村は信之に毅然とした声で述べた。
「そしてです」
「さらにか」
「はい、この上田に帰り」
「戦うのじゃな」
「城に来る敵と」
「それまでに戻るな」
「そうします、出来るだけ急いで」
幸村は兄にこうも答えた。
「二年、いえ一年半で」
「うむ、まずは上杉が動くな」
信之は己の見解も述べた。
「川中島の方にな」
「そうですな、上杉家の拠点春日山から川中島は近いです」
「海津の城も手に入れる」
「そうしてきますな」
「そして北条と徳川も動く」
このことも間違いないというのだ。
「父上はまずは北条につかれるな」
「相模のですな」
「そして徳川家になびいたとみせてじゃ」
「羽柴殿に」
「その羽柴家と手を結ぶであろう上杉家ともじゃ」
「そう動かれますか」
「戦の用意をしつつじゃ」
強き家の間を動き回るというのだ。
「そうされる」
「他の大名家の間を動き回る」
「これは確かに忙しいな」
「はい、しかしそれは」
「他の家の中を動き回り蝙蝠と呼ばれてもな」
「それは生きる為に必要なことですな」
「当家の様な小さい家はそうするしかない」
それが現実だというのだ。
「北条も徳川も大きい」
「そして上杉も」
「その大きな家と比べれば違う」
まさにというのだ。
「当家は精々十万、だからな」
「それで、ですな」
「我等は強い家の間を転々としてもな」
「生きるしかありませぬな」
「そういうことじゃ、しかし誇りは忘れぬ」
それは絶対にというのだ。
「武士のそれはな」
「例え強い家の間を転々としても」
「そうしてでも生きる、よいな」
「ではそれがしも」
「何時いかなる時でも武士でいようぞ」
これは幸村に対してだけではない、自分自身にも言った言葉だ。信之は弟の顔を見つつ確かな声で言ったのだった。
「よいな」
「はい、それがしもこれから何があろうとも」
「武士でいるのじゃ、よいな」
「そのお言葉忘れませぬ」
「では行くのじゃ」
信之は幸村を心で送り出した。
「そして豪傑達を集めるのじゃ」
「果たして何人集められるか」
「それも大事じゃな」
「そうです、一体どれだけの者を見付けられるか」
「そして家臣に出来るか」
「それがわかりませぬが」
「そうじゃな、しかし花には蝶が寄るもの」
信之はこうも言った、幸村に。
「優れた者には優れた者が来る」
「ではそれがしが優れていれば」
「優れた者が寄って来てな」
「家臣となりますか」
「必ずそうなる」
信之は確信してだ、幸村に言った。
「だから御主は御主の才を信じるのじゃ」
「優れていれば」
「必ず勇士達が集まるわ」
「そして勇士達を」
「終生大事にせよ、御主を見込んで来てくれたのならな」
「そうさせて頂きます」
「そういうことでな」
ここまで言ってだ、そしてだった。
信之は支度を終えた幸村にまた問うた。
「して明日の朝にじゃな」
「すぐに城を出てです」
そしてというのだ。
「旅をはじめます」
「道中気をつけてな」
「賊も倒してきます」
山や町にいるそうした不逞の輩共もというのだ。
「見付け次第」
「うむ、民を苦しめる賊はな」
「退治しなければなりませんな」
「その通りじゃ、それもまたもむのふの務めじゃ」
「そのうえで武芸も励んできます」
賊を倒すことを兼ねてというのだ、このことも誓ってだった。
幸村は一人上田城を後にした、その幸村を見送ってからだった。
家臣達は昌幸と信之にだ、こう言った。
「あの、殿」
「幸村様お一人で大丈夫でしょうか」
「確かに幸村様の刀、そして槍は相当なものです」
「まだ元服したばかりですが並の武芸者では太刀打ち出来ません」
「忍術も極めておられます」
「その腕はお見事ですが」
「しかし」
それでもというのだ。
「お一人では」
「幾ら何でも」
「無理があるのでは」
「ははは、並の武芸者では太刀打ち出来ぬと言ったではないか」
信之は家臣の一人のその言葉を指摘してだ、笑って返した。
「そうじゃな」
「では」
「はい、確かに」
その家臣もその通りだと答えた。
「言いましたが」
「あ奴は父のわしが言うのも何じゃがまさに天下のもの」
「剣も槍も」
「そして忍術もな。しかも智恵もある」
「だからですか」
「一人でも大丈夫じゃ、そしてじゃ」
昌幸はさらに言った。
「必ず猛者達を集めて戻って来る」
「幾人ものですか」
「あ奴自身さらに大きくなってな」
そうなるというのだ、必ず。
「だから安心せよ。あ奴は大きくなる」
「そうですな、帰って来た時が楽しみです」
信之もだ、微笑んで言った。
「どれだけ大きくなり」
「そしてどういった猛者達を連れて帰って来るかな」
「楽しみですな」
信之も心配してはいなかった、ただ幸村がどれだけ大きくなりそしてどういった猛者を連れて帰って来るのかを楽しみにしているだけだ。
そのうえでだ、幸村の旅立ちを暖かく送ったのだった。
その幸村は旅に出てから飯、そして寝るか用を足す時以外はどんどん進み信濃を南に下っていた。その彼にだ。
旅の途中でたまたま顔を合わせた武芸者にだ、共に飯を食う時に問われた。
「貴殿は何処に行かれる」
「何処と言われましても」
旅の武芸者の格好の幸村は返答に窮した、川で獲った魚を焼いたものを共に食いながら。その腰には二本の刀、横には槍と被る傘がある。そして懐の中には手裏剣や煙玉があるがこういったものは隠している。
「決めておりませぬ」
「腕試しの旅か」
「いえ、人を探しています」
幸村は武芸者に答えた。
「そうしております」
「人とな」
「はい、強い者を探してです」
真田家のことは隠している、この武芸者が誰かはっきりしないからだ。
「その腕を見たいと」
「ふむ。それも武者修行か」
「そう思って頂ければ」
「では人が多いところに行くとよいだろう」
武芸者は魚を食いながら考える顔で答えた、髭のある精悍な顔の目を光らせて。みればかなり大柄で逞しい身体をしている。
「そうすればな」
「やはり人が多い場にですな」
「強い者も多い、都等に行けばな」
「強き者がいますか」
「信濃よりもな、この国は山と森ばかりで人は少ない」
「では信濃から美濃に行き」
「そこから近江、そして都に行けばな」
武芸者は幸村に言う。
「よいであろう」
「強い者に会えますか」
「そうじゃろう、こうすればどうか」
「左様ですな、ではそれがしは美濃に向かいます、ただ」
「ただ。何じゃ」
「その前に諏訪に寄りたいですな」
ここでこう言うのだった。
「是非」
「ふむ。諏訪か」
「はい、大社に参り旅の無事等をお願いしたいと思っています」
「これは殊勝な。貴殿若いと見えるが心得ておるな」
人のそれをというのだ。
「実によい。そうした心掛けの者なら必ず旅も無事であろう」
「そう言って頂けますか」
「神も仏も敬わぬとどうしてもな」
「ことが成せぬと」
「人は己だけではどうにもならぬことがある」
己一人ではというのだ。
「だからじゃ」
「諏訪でお願いをすることも」
「よいことじゃ、そこでいいことがあるやもな」
「そうであればいいのですが」
「とにかくじゃ、御主はまずは諏訪にじゃな」
「はい、あちらに参ります」
「わかった、ではわしは美濃に先に行く」
武芸者は笑って言った。
「そうするからお別れじゃな」
「そうなりますか」
「うむ、また会おう」
「それでは機会があれば」
「何処かで会おうぞ」
この武芸者とは飯を共に食べただけで別れた、しかし。
武芸者は幸村と別れて一人旅に入ったところでだ、すぐにだった。
山道を歩く途中にだ、彼の周りに数人忍の服を着た者達が出て来て彼に問うた。
「あの若武者ですか」
「只者ではないと思いますが」
「双刀殿はどう思われますか」
「一体」
「うむ、間違いなく只者ではない」
双刀と呼ばれた武芸者もこう答えた。
「若いがわしが剣を交えても勝てぬやもな」
「何と、双刀殿でもですか」
「勝てぬとですか」
「そう仰いますか」
「あの気の強さと大きさは相当じゃ」
幸村の身体から起こっているそれを見ての言葉だ。
「若しや半蔵様とな」
「互角と」
「あの方と」
「そうやも知れぬ」
こう言うのだった。
「若しやじゃがな」
「ではこちらに引き込みますか」
「我等に迎えますか」
「そうされますか」
「今から引き返してそうしますか」
「それも手じゃな、しかしな」
ここでだ、武芸者はこうも言った。
「諏訪に行くとのことじゃ」
「諏訪ですか」
「ではあそこの大社に行き」
「参拝するつもりですか」
「その様じゃな」
武芸者は忍の者達に答えた。
「あそこには誰がおったか」
「はい、雷獣殿が」
「あの方が行かれている筈です」
「そうか、雷獣か」
「若しあそこに賊がおれば」
「雷獣殿のことですから」
「そうじゃな、あ奴はああ見えて正義感が強く」
そしてとだ、武芸者は言うのだった。前をひたすら進みつつ。
「しかも強い」
「十二神将の間でも」
「そう仰言いますか」
「十二神将の力はそれぞれ互角程度、しかしあ奴の術はまた違う」
「ですな、素早いですし」
「賊がおっても」
「蹴散らすわ、さて我等はこのまま美濃に向かうぞ」
武芸者は周りにいる忍の者達に告げた。
「よいな」
「はい、それでは」
「我等はこのまま」
「そしてあの国を見ましょうぞ」
「そうしようぞ、それにしてもあの若武者」
武芸者は後ろを振り向かない、だが。
その心を幸村に向けてだ、言うのだった。
「末恐ろしい者であろうな」
「そこまでの者ですか」
「双刀殿がそう言われるまでに」
「こちらに入れられれば」
「よいのですが」
「そうじゃな、半蔵様にもお話しておこう」
幸村のことをだ、こう言ってだった。
武芸者は信濃から美濃に向かうのだった、幸村のことを思いながら。
そしてだった、幸村はその諏訪に着いた、そこには見事な社があった。
その社を観てだ、幸村は微笑んで言った。
「さて、今からお願いをするか」
「さあさあ、寄って見られよ」
いざ参拝に行こうとする幸村の耳にだ、ある声が入って来た。
「それがしが出したるこの煙玉」
「むっ?」
幸村もその声に興味を持ってだ、そのうえで。
その声の方を見るとだ、そこにだった。
荒い髷で精悍な顔をしてだ、南蛮渡来の大きな緑のマントを羽織ったいささか派手な服の男がいた、その背には鉄砲があり。
そしてだ、その手には。
煙玉があった、その煙玉を持って社に参拝しようとする者達に話していた。
「どろんと煙が出て」
「それでどうなるのじゃ?」
「煙が出て」
「御主が消えるとでもいうのか」
「そうなのか?」
「左様、それがしは煙と共に消えて」
そしてとだ、そのマントの男も客達に応えて言う。
「別の場所に出て来る」
「おお、妖術か」
「御主妖術を使うのか」
「それを今から見せるというのか」
「左様、消えて出て来て」
そしてというのだ。
「その時はそれがしに一銭ずつ。宜しいか」
「見事消えて出て来たらな」
「その時は一銭でも二銭でもやるわ」
「妖術を見せてくれたらな」
「その時はな」
「妖術とな」
妖術と聞いてだ、幸村もだ。
男に興味を持って観てみた、すると。
男はだ、幸村と客達の目の前でだった。
煙玉を己の下に投げてだ、そこから白い煙を出して。
その煙で全身を包めさせてだ、するとだった。
煙が消えるとだ、そこにはだった。
もう男の姿はなかった、それを観て誰もが驚いた。
「何と、消えたぞ」
「まことに消えたか」
「ううむ、何ということじゃ」
「まことに消えるとは」
「では何処に」
「何処に出て来るのじゃ」
「ふむ」
ここでだ、幸村は。
後ろを振り向いた、だがその時誰にもあえて声をかけなかったのでそうしたのは彼だけだった。その後ろの方にだった。
男はいた、その太めの眉の精悍な彫のある顔で笑って言った。
「ここじゃ」
「何と、そこか」
「消えて出て来たぞ」
「まことに」
「妖術を使ったのか」
「ははは、これで承知されたな」
男は出て来た自分を観て驚く客達に笑って応えた。
「それがしが妖術使いだと」
「ううむ、確かに」
「御主、妖術使いじゃ」
「間違いなく」
「そうじゃな」
客達は男に驚きを隠せず言う。
「これは銭を払わねば」
「凄い者じゃ」
「全くじゃ、まさに妖術」
「妖術使いじゃ」
「ではどうぞ銭を」
男が出したざるにだ、皆次々に銭を入れていく。中には投げ込む者もいたが男はその銭も全てザルに受けていた。
幸村は丁寧にだ、そのザルに銭を入れた。ここで。
男は幸村を見て笑みを浮かべた、そして。
その目を光らせた、そのうえで幸村を見た。
そうしてだ、幸村に対して小声で囁いた。
「若しや真田幸村殿ですか」
「何故拙者の名をご存知か」
「それがしのこと、最初に見付けられましたな」
これも小声で囁いた言葉だ。
「そしてどうした術であるかも」
「お言葉ですが忍術ですな」
「如何にも。そこまですぐに見抜かれる若い武家の方、それも信濃の方といいますと」
それこそというのだ。
「真田幸村殿しかおられませぬ」
「だからそれがしが真田幸村と」
「思いましたがその通りでしたな」
「はい」
「それがし穴山小助と申します」
ここでだ、男は名乗った。
「後でお話をしたいのですが」
「お話とは」
「ここに参られたということは参拝ですな」
諏訪大社へのというのだ。
「左様ですか」
「はい、旅の安全を願い」
「ですか、ではそれがしも」
「貴殿も」
「共に参拝して宜しいでしょうか」
「はい」
幸村は穴山にすぐに答えた。
「それでは参りましょう」
「それでは」
こうしてだった、二人は諏訪の社に参拝した、幸村の旅は一人であったが寂しいものではなく早速運命の出会いがあった。この時幸村自身はまだ気付いていなかったが。
巻ノ一 完
2015・4・10