恐怖が浮かぶことは、今まで少なかった―――だから、どんな敵が来ても、難しい依頼が来ても、難なく引き受けて来れたのだ。それが壊れている自分の象徴だとも知らずに。
アシュランは、自分の中にある何かに気づかないふりをしてきた。自分がどんな存在で、なぜ今、ここにいるのか。考え出すときりがなく、恐怖が襲ってくる。目に見えない恐怖というものに支配されれば、人は前に進めなくなるし、足が出なくなる。奇妙なものだが、目の前の敵よりも「恐怖」という目に見えないものの方が、自覚すると恐いのだ。
だから、見ないようにする。だから、考えないようにする。それが自分のやり方だと思い込んで―――
流れ込んでくる感情に、メインは流されなかった。自分もそうやって恐怖を乗り越えることを知っているから。抱きしめ合えばそれが軽減するわけではないのだが、それでも今はこうしていることで、少しだけ安心できる。
この人には、自分が必要で、自分にもこの人が必要なのだ、とメインは思った。夜風に乗って、甘い花の香りが漂う。山の木々を抜け、谷や丘を越えて、その香りはやってきたのだ。
「アシュランさん、行きましょう」
どこへ、という明確なものはない。でも、それでも。前へ進むことは、これからを生きること。花の種が土から芽を出し、つぼみを膨らませて、花開くことと同じ。生きるためには前に進まねばならないのだ。
「……分かった」
「明日は朝が早いんです。山の向こうまで行かなきゃいけないから」
「そうだな……」
2人は、同じ方向へ歩んで行った。
それを見つめるシェヴェルナは、我が子のことを思い出す。かつて、他国からやってきた騎士と恋に落ちたこと。その時に視えた未来。それは、すべてが温かくて幸せな未来ではなかった。この子がいなければ、倒せない敵がいて、そこに至るまでに、この子は多くの試練を越えねばならない。
それでも産み落とす必要性があった。手元で育てることはできないと、分かっていたけれど。この部族は、外からの命を受け入れない。殺してしまうほどに、外を嫌って、いまだに内戦が絶えないのだ。だから、外の世界に託して、ただ見守るしかなかった。
シェヴェルナが何も心配していなかったわけではない。たくさんのことを心配し、不安に感じ、助けてやりたいと何度も願ったほどだ。しかし、それをすれば自分が預言者だということが世間に知れ渡り、更なる争いの火種になる―――それは避けねばならなかった。
更なる争いは避けねばならない―――それはシェヴェルナの生きる目的だ。人は誰もが、未来を知りたがり、その結果争う。誰が先に未来を知るのか、知りたいという欲を越え、いつしか人を支配して、争う結果になるのだ。
だから、預言者とはこの場所から抜け出さず、彼女に辿り着いた者だけが知ることができる。辿り着くことがまず難しい世界。たとえ辿り着いても、彼女が話すまいと決めれば、何も答えてもらえなくなる。多くの者が預言を求めてやってきたが、本当の未来を知った者は多くはいない。
未来など、本来は知らない方がいいことも多い。
本来の未来は、人の動きや考え方で、すぐに変化してしまうものなのだ。だから、あまり気にしない方がいいとも言える。しかし、中には未来ではなく「過去」を知りたがる者もいるのだ。
過去は変えることができない―――だからこそ、知りたくなる。過去の変わらない出来事を聞いて、未来を判断する。それがしたい者も多い。知識欲の者もいれば、未来を変えるためでもある。未来を知らずに、過去から未来を変えたがる。
人間とは、面倒なものだ。決められたものだけでは、気が済まない。むしろ、決められていないことを望む。自分で選んでいるのか、選択肢がそれしかないのか、誰にも分からないというのに。
シェヴェルナに視えるのは、最も可能性が高い未来だけ。変わる可能性も大いにある。可能性が高いというのは、そういう意味も含んでいる。
そして過去は、知識だけ。シェヴェルナが知る限りの過去の話。それを丁寧に紡いで、伝えるだけ。それは変わらない過去。それでもそれを望むなら、辿り着いた者にだけ、話す。
彼女にとって、国花選定師ほど複数の未来を持つ存在を知らない。同じ種から、違う花が咲くことなど度々ある。色も違えば、形も違う。それでも咲くと決まっている種を持つのが、国花選定師。それに関われば、多くの渦が生まれ、多くの未来が変わり、動いていく。
「花を咲かせるのも、枯らすのも、その人次第……こればっかりは私にも視えないのよね」
我が子の未来がどうなるのか、あの若き日には分からなかった。長くを生きて、少しずつ視えて来るものもあったほどだ。そして、それが我が子の未来をどう左右するのか。
「未来は、重なり、交差するもの。平行線はいつまでも続かないから」
夜空の星は美しく輝いているが、それはいつまでもそこにあるわけではない。少しずつ動き、輝きを変えていく。
翌朝、メインはシェヴェルナがいないことに気づいた。周囲の人間に聞けば、シェヴェルナは決まった期間、修練のために人から離れるらしい。決まった期間と言っても、それを決めるのは預言者である彼女自身なので、周囲には分からない。旅に出ているのか、どこかにこもっているのか、はっきりとはしていない。
「アインスさん、仕方がないので、出発しましょう」
「そうだな。これだから、預言者ってやつはよう」
アインスは不満そうに息を漏らし、それから荷物を背負う。カブルが持つと言ったが、山の長旅は負担が大きい。荷物も仲間で均等に持つ方が、効率が良い、とアインスは分かっていた。
「お前だけに負担かけてどーするよ」
「アインス様……」
「まあいざとなりゃ、お前も戦力の1人だ。無駄なところで体力使ったり、負傷すんじゃねぇぞ」
「承知いたしました」
カブルは、深々とアインスに頭を下げる。血の繋がりがあり、カブル自身も王の子でありながら、国花選定師となった人は兄とは呼べないのだ。心の中では兄だと思い、慕っていても、立場が違いすぎた。
「アシュラン、お前の荷物だ」
レンカがアシュランへ荷物を差し出すと、彼はそれを黙って受け取った。今まではそんなに素直なことがなかったのだが、今のアシュランは何か違う。
「どうした?」
「別に。さっさと花見つけて、帰るぞ」
帰る―――その単語を聞いて、レンカは思う。今までのアシュランと何かが変わっていること。この男、一晩で何があったというのか。
「おい、アシュラン……」
「ここは俺のいるべき場所じゃねぇ。さっさと仕事を終わらせて、山を下りる」
今までの彼では言わなかった言葉。それを聞いて、レンカはついにアシュランが成長したのか、と思った。
「お前……ついにメイン様をお守りする使命に目覚めたのか!」
「はぁ!?」
レンカはアシュランの肩を掴み、感動している。アインスは呆れた顔で、横から見ていた。むしろ、アインスはメインに何があったのかを聞く。
「なーんがあったんだ?」
「私も詳しくはわからないんです。その、シェヴェルナさんと話をしたみたいで。それくらいしか……」
「ほーん、あの預言者が何を言ったんだか。でもまあ、預言者と話した後の人間は変わるっちゅーからな」
「そうなんですか?」
「まあ、全部が全部じゃねぇと思うがな」
アインスはそう言いながら、煙草を咥えた。そもそも預言者と会える人間は、そういない。出会った人間からすれば、大したことではないと感じるかもしれないが、実際はとても特殊なことなのである。気づかないからこそ、変わることに抵抗がないのかもしれない。人は「変わる」ことを恐れるのだから。
メインは、花を手に入れた後、またシェヴェルナに会えるだろうか―――と少しだけ思うのであった。