霧は深く、花の匂いはメインの鼻に届いていた。まだ進んでいい、と口では言いながらも、メインは内心恐怖を感じていた。見えない世界がこの先には広がっているから、開いた瞬間に何が起きるか分からない。だから恐いのだ。同時に、その瞬間は楽しみでもあった。
今まで、ずっと国花選定師として生きてきた。国家の為、国民の為に、ずっと閉じ込められて研究と栽培を繰り返してきただけだった。
しかし国を出て、砂の国へ入り初めての経験をした。見たことのない肌の色。考え方の人たち。そして殺されかけた。でもそれすらも、経験だと思っている。新しい世界とは、自分の見たことがない世界のことだ。
もしかしたら、他の人はもう知っているのかも、と思うこともある。それはその人が運がよかっただけで、自分が悪いわけではない、とも思うのだ。
運がいいというのは、命を落としても運がいいのだろうか。
見たことがないものを見る為に、飛び出した世界の先が崖であったとしても。
そんな瞬間。視界が開けた。開けた視界の先には、すでに島がある。島と言ってもすでに入り江だ。
「やべぇ!」
「え!?」
クイードは入り江にいるとは思っていなかったのだ。つまり浅瀬が近いことになる。これ以上進めば、船が浅瀬に乗り上げてしまうか、底に穴が空く。その前に止まらねばならなかったので、クイードはアシュランとレンカにロープを持たせ、風に合わせて緩ませた。
「握り込むなよ、引っ張られ……っておい!」
アシュランはロープを握ったまま、帆の上に立っていた。筋肉質な体なのに、とても身軽だ、とクイードは感心する。
「おーい、もう海がないぞー!」
「だから調整してんだよ!」
どこまで進めるか分からないので、ただ緩めるばかりはできなかった。クイードは調整しながら、船を進ませ、ここまでだ、と感じる地点で船の錨をおろす。
「メイン様、ここから先は何が出てくるか分かりません。下がっていてください」
「はい、ありがとうございます。でも、まだ花の匂いがあっちから……」
メインがあっち、という方向には洞窟の入り口があった。クイードをセインが浅瀬に降り、次にレンカとメインが降りた。アシュランは帆から飛ぶようにして浜辺へ降りてきた。なんて男だ、とクイードは思ったが、レンカはそれも国家選定師との契約による加護のようなものではないか、と思う。
浜辺は美しく、小魚やカニ、貝、苔や藻など、通常の海と同じだ。潮の匂いに変わりはない、とクイードは言う。環境に変わりがないのならば、何があるのか。何か違いはないとしても、何かあるはずなのだ。
歩き進めたメインたちは、洞窟の中に入る。戦闘はアシュラン、クイードが進み、間にメインが入って、セイン、レンカと続く。前方からの攻撃にも、後方からでも対応できるようにしている。
メインは、花の香りが強くなるとともに、別の香りも感じていた。何か、と言われるとこれは植物ではないような気もする。植物に近くて遠いもの。それは、何だろうか。考えながら、あまりいい感じはしないのだ。あの時、そうだ、砂の国の砂漠。あの場所を思い出す。
似たような場所は、きっと世界中にあるだろう。植物は根をおろし、花が咲いて種子ができれば、生きていける。環境さえ整えば、いくらでも数を増やせる。そう考えれば、人間より強いかもしれない。
「くっさい洞窟だな」
「そんなに臭うかい、兄ちゃん」
「ああ。獣が通るんじゃねぇのか?山に近いけど、海の近くだからちょっと違うか?」
「海の臭いは……確かにするが」
「混じり合ってるな、生きてるのも、死んでるのも」
死んでいるものがここを通るのか、とクイードは思った。こんな洞窟を死人が通るとなれば、葬儀か何か。それが儀式であれば有り得るが、死人は動かない。動かない死人が、ここを勝手に通るはずがないのだ。
つまり、この先には人間がいる。もしくは動物がいることになる。出た瞬間に食われるなんてことを、してくれるなよ、とクイードは思った。
アシュランはそんなことを言いながらも、足を止める気配はなく、突き進んでいく。こういった場所が慣れているのか、臭いのことを言うばかりで特に恐怖は感じていないようだ。
「もうすぐ出るな」
「分かるのか?」
「風が強くなった」
「そうだな」
「おっさんさ、この先のこと本当に知らねぇの?」
どうしてそんなことを聞くんだ、とクイードは思う。まるで自分ならこの先のことを知っていて、この先のことを理解しているかのように、アシュランは聞いてくるのだ。
この先のことなど、知っているはずがない。知るはずがないのだ。この島にだって初めて来たのだから、分かるわけがない。しかしクイードはアシュランが言わんとしていることを、考えてしまう。
きっとセインのことだ。レンカにしか話をしていないが、きっとアシュランも気づいたのだろう。セインの出生の秘密。詳しいことは分からずとも、アシュランの本能が何かに気づいている。
「おい、出るぞ」
「分かった。後ろは変わりない」
アシュランの言葉に、レンカが冷静に答えた。後ろは特に問題なく、メインにも変わりない。ただセインだけは違った。この状況をとても楽しんでいるかのように見える。
古巣に帰っているのが分かるのか、とレンカは思ったが、それだけではないかもしれない。精神をおかされていた国民の根底には、抑えねばならない何かが隠されていたのではないか。もしかしたら、それさえも理解して、この国の国花選定師が動いていたなら。
だが、それらははっきりとしないことばかりだ。この国の国花選定師はメインに会いにも来ない。メインの存在に気づいてもいないのだろうか。レンカは実姉が国花選定師なので、そのあたりのことがよく分かっている。
国交は大事だが、その中でも国で地位が高い者同士は必ず丁寧にお互いを相手にする。なぜなら、どの国もしたくて戦争をするわけではないからだ。しかし戦争をしたいと思っているならば、話は変わる。
砂の国があれだけ警戒していたのは、海の国が怪しい動きをしていたからだろう。レンカも将軍として遠征へ出されることが多くあった。そんなレンカを花の生贄にしてしまってもいい、と思った国王の考えは、戦争に憑りつかれていたとしか思えない。
「おい、出るって言ってんだろ!」
「アシュランさん、聞こえてますってばぁ」
ぼんやりとしていたレンカを見て、アシュランは牙を剝き出しで怒っている。常にメインを守れ、と上から目線で言われてきたので、こういう時にレンカがぼんやりすると苛々するのだ。
「聞こえている」
「ったくおっさんばっかりで嫌になるぜ」
「おっさんではない!レンカ様と呼べ!」
いつもの調子に戻ったレンカを見て、アシュランは少し落ち着いた様子であった。この男、幼少期から親がいなかったせいか、傭兵たちの中で成長してきている。多少荒く扱われて、飯を振る舞われる、という流れがあるととても落ち着くようなのだ。
つまりは多少荒く扱われた方が、彼にとっていいようなのである。レンカはそう思って、アシュランの反応を見ながらいつも接していた。自宅で飯を食わせた恩があるだろう、と何度か口にすると、アシュランはそれ以上何も言えなくなる。
頭の中は子どもだな、とレンカは思っていた。
「出たな」
アシュランが言った瞬間、目の前には真っ白な海の花が自生していた。それは感動するほどに美しく、そして禍々しくも見える。
メインはこの様子を見て、明らかに誰かが手入れをしている、とすぐに理解した。こんなに整った場所など、そう簡単には作れない。作れるとするならば、その道に精通した者、つまり。
「国花選定師がいる……」
メインは花を見ながらそう言った。