丘の人を愛した責任。それは種族が違う相手を愛したのだから、仕方のないこと。その人魚は、丘の人を愛し、丘の人の子を産んだ。しかし自分には足がないから、育てることができない。
もしも足をもらえるなら、一緒に丘で暮らしていけるのに。彼女は泣いた。愛した人は、我が子を連れて何度も海辺へやってきてくれた。人気のない洞窟で、彼女は成長していく我が子を見る。歩けるようになった我が子が、羨ましかった。
そして、気づけば愛する人は老いていた。人魚に老いはない。人魚は不老不死なのだ。だからそれを求めて多くの人魚が殺された。殺された方がましかもしれない、と彼女は思う。
人魚の命は、無残なものだ。丘の世界を知らず、ずっと海の中にいたのなら。こんな苦しいみや、哀しみを知るとはなかったのに。
やがて、愛した人が死んだ。それだけ長い月日が経った。我が子のお腹が大きくなって、人魚はこれから先に起きるであろうことを話す。人魚の血を引く者に現れるかもしれない病。その薬の作り方。それを託した。
託して、その人は、海へ帰る。
二度と丘には近づかない、と決めて。
「母は、祖母から聞いたことを書き記していました。でも実際に使うことがなかったので、あまり気には留めていなかったようです。もしもの時、くらいのつもりだったのではないでしょうか」
「体質というか、きっかけというか、そういったものがきっかけだったかもしれないですね」
「私の場合は、そうですね、息子の出産ではないかと」
「でも、息子さんはもう大きいですよね。成人くらいでは?」
「……実は」
仕入れに出ていたクイードの息子は、セインと言った。若々しく、逞しく、ちょっと抜けているところはあるけれど、いい男だった。
「へぇ、アンタたちは他所からきたんだ!」
「お前はずっとここにいるのか?」
「ずっと……まあ、そうだな」
「なんか理由があるのか?ってか、お前は船に乗らねぇの?」
アシュランが尋ねると、昔は乗っていた、と言う。父親が一等航海士で会った過去も知っており、自分の出自も知っている。その上で、ここにいるという。
両親の店を一緒に営んで、それもそこそこ楽しい、と言った。
「そこそこ、か」
「はは、まあ、本当は海に行きたいけど、母さんが駄目だって言うんだ」
「駄目?何か理由があるのか?」
レンカが尋ねるとセインは苦笑した。詳しい理由は知らない、と言う。しかし母が家にいて欲しい、と願うので、それに従っている、と言った。
本人はそう言っているが、レンカはそこに母親の思惑があるのではないか、と感じ取っている。母親が男児に家にいて欲しい…そう思う時は、嫁をもらい、家を継ぐ時だ。確かにセインは真面目そうで、しっかりした青年だから、家業を継ぐ為にいて欲しいと願う気持ちはわかる。
しかしまだ若い彼がここにいることで、成長すると言えるだろうか。むしろ父親のように一級航海士でも目指せば、将来は安泰になる。国とは言え、軍隊のような団体にはそれなりのつながりというものがある。なぜなら、レンカ自身もそうだったからだ。レンカは、将軍にこそ上り詰めたがそこには、国花選定師である姉の存在があったことは分かっている。
人は、人が集まれば、権力が動く。権力が動くなら、そこには思ってもみないことが起きるのだ。きっと彼は、国に行くならばそれなりの地位になれる。しかし、そうすればいつか母親の血筋が知られてしまう。それを恐れて、母親は息子を外へ出さないのか。
いや、外ではなく『海』だ。海へ出さない理由が何かあるのか。船の沈没を恐れているのか。海難事故は悲惨だと聞く。他には何があるか、と言われれば、船に乗ることで発生する病もあると聞くが、それは稀な話。
「セイン、お前は母のことをどう聞いているのだ?」
「え、ああ、病気のことですか?」
「まあ、そうだな」
「うーん、詳しくはわかりません。でも、知られたくはないみたいだから、俺も聞かないというか」
「お前にも関わることなんだぞ?」
「はい、それは分かっていますけれど。母とはそういう感じというか」
「……父は、一緒に海に出たいとは言わないのか?」
「父は言いません。父にとって、母がとても大事な人だから」
そう言ったセインの表情は、諦めたような子どもの顔。レンカは少しだけ幼い頃の自分と重ねていた。自分にとって家族は、家族ではない。自分は家族の為に存在し、家族の為だけに生きるのだ。
見た目が違うことで差別をされる苦しみは、レンカが一番分かっていた。レンカにとって、差別とは日常的に行われることであり、また『誰でも行えること』だとも知っている。そこを歩く他人も、初めて会う幼子も、砂の国で金色の髪に赤い瞳、白い肌を持つレンカを見て、よその国の人間だと言って差別した。
「……お前も、一緒に旅に来るかぁ?」
不意に聞いてきたのはアシュランだった。アシュランは雇い主の意見も聞かずに勝手にそんな提案をする。一瞬、セインが喜んだような顔を見せたので、レンカの方が嬉しくなってきた。彼の心はまだ死んでいない。まだ未来を捨ててはいないのだ。
「まあ芋みたいな女のお守りだけどな」
「こ、国花選定師様のお供じゃないですか!」
誘われたことが嬉しかったのか、セインはとても笑顔だ。その顔は明日も明後日も夢見る少年のようである。
「芋はお前の方だろう、アシュラン」
「はぁ!?俺はとっても素敵で無敵なアシュラン様だ!」
「何が無敵だ。少なくとも俺の足元程度だぞ」
「オッサンの癖にムカつくな!」
「オッサンではない!レンカ様と呼べ!」
レンカはアシュランに怒鳴り、拳骨を落とした。それを見てセインは笑い、静かに落ち着いていく。旅には出ない、と寂しそうに言ったのだ。
「なぜだ?」
尋ねられ、彼は困ったように笑う。レンカはその顔が幼い頃の自分と重なった。夢はいつか終わるのだ。終わると分かっている夢を見るのは、とても辛い。とても辛くなる。だから、見る前に見ないようにした方が楽になれる。
「はは、俺は旅なんてできる人間じゃないですから」
「そんなことはないだろう」
「俺、得意なことも何にもないんですよ。料理も下手だし、船も動かせないし。できるのは雑用だけというか」
「それなら、国に戻ってから芋に雇ってもらえよ。アイツの家って草ばっかりだって言ってたぞ」
この男は。レンカは、アシュランの前向きさに驚いた。初めて会った時は反抗的な態度ばかりだったのに、なぜこんなに変わったのか。そんなことを考えた時、これも契約から流れてくるものではないか、と思う。
つまり、アシュランの人格は奴隷の契約によって、主であるメインの人格が影響しているのだ。いい影響であると言えたが、本人は気づいていない。いい影響だけがあるのならばいいのだが、もしもメインの人格に問題が発生したならば。
この奴隷の契約は、ただの契約ではない。2人の裏には、とてつもなく大きな魔力か魔術が動いている。国でこれができる国があるならば、もしも戦争が起きた時、恐ろしいことになる。
レンカはある意味、砂の国を出てよかった、と思う。同時に国王が焦って国花選定師に花を食わせてでも、兵器を造り出そうとしていたことの真相が、見えてきた気がした。
「はは、でも、この国は外に出るのが大変なんですよ。国民は……」
「え、入るのは楽だったぞ?」
「アシュランさん達のように、外からの人は自由です。でも、ここで生まれた者は違います」
「そうなのか?」
それはこの国の恐ろしい規則。
もしもそれを守らなったならば―――