花、草の匂い。
それをアシュランは感じていた。この匂いは知ってるな、と頭のどこかで声がする。人の気配、生活音。温かいこの場所。もうひと眠り、と思った時に、自分がどうしてここに居るのか疑問に思った。
「俺、死んだよなぁ?」
アシュランは知らない天井を見ていた。
最後の記憶では確実に自分は死んだはずだった。
致命傷もあったし、それ以外にも多くの傷を受けて血を流しすぎていたからだ。
しかし痛みはあまり感じられず、どちらかと言えば眩暈を感じる程度。
「おう、一度は死んだぞ、アシュランちゃん」
彼の顔を覗き込むのは、慣れた店主の顔だ。髭面に笑う顔は優しくて、でも彼もいつも酒臭い。煙草の匂いもして、生きているのか、死んでいるのか、アシュランは分からなくなってくる。
鼻がいいので、様々な臭いがあると頭が痛くなる。不快な臭いは、いつも彼をイライラさせているのだ。本当はもっとゆっくり深呼吸をしたいのだが、不快な臭いを肺に入れる行為が嫌だと、アシュランは思う。
「マスター、約束守ってくれたんだなぁ」
「うんにゃ、お前さんは生き返ったんだよ。あの子のおかげでな」
あの子、と言う先に女が椅子に座ったまま寝ていた。その手は汚く色づいており、何か作業をしていたようにも見える。赤毛の小娘、という印象しかない、色気もなければ乳もない、そんな娘だ。こんな娘に助けられたのか、とイライラする頭で思った。
「さすが国花選定師だよなぁ。お前さんに合う薬草をすぐに調合してな」
「ふーん、じゃあそれで助かったわけ」
「いや、実はそれだけじゃないんだが」
それだけじゃない、と言われて自分はどんな薬を使われたのだろうか、と彼は思う。それならいっそのこと、このイライラやめまいや不快感も、取ってくれればいいのに、と思いながら体を起こす。
傷は面白いくらい綺麗に、塞がっていた。腹を掻っ捌かれたはずなのに、傷の線すら残っていないのはおかしくないか、と感じる。あれだけ開いてしまっていたら、魔術でもそう簡単には戻せないはず。相当強力な魔術を使ったか、大きな代償を払ったか。
「なんか魔術でも使ったの?」
「まあ魔術と言えば魔術かな」
「へぇ、国花選定師ってそういうの使ってよかったっけ?」
傭兵の知識でも彼女がそういった魔術の類を使ってはいけないことは知っていた。正確に言うと、使うに制限があるのだ。国花選定師はあくまでも花や薬に関わることが中心になる。その知識や技術を魔術に使ってはいけないのである。そもそも国花選定師には魔術に長けた者は少ないとも言われる。
では誰が、どんなことをしたのか。アシュランはそう思いながら、自分の手に浮かぶ魔法陣に気づいた。こんなものは、今までなかったのだが、きれいに浮かび上がっている。
「誰かの悪戯かぁ?俺の手になんか書いてあるわ」
この陣は契約の陣のはずだ。見た目はいいが、これは主従関係を結ぶ為のもの。多くは主と奴隷に使用されることが多いはず。
これが出た側の人間は、奴隷と決まっている。期間は主人が決めるので、奴隷側には決めることができない。
自分の手を見つめながら、アシュランは沸々と怒りが湧いてくるのが分かった。
「どこのどいつだよ、俺を奴隷にしやがったのは!」
「アシュランちゃん、まあ落ち着きなって」
「マスターこれが落ち着いていられるか?勝手に奴隷にされてんだぞ?」
「あ、あの、私が」
声を上げたのはメインだった。おどおどしている、小娘。緑の瞳がアシュランを見つめ、赤毛が湿気でクルリと巻き上がっている。可愛いなんてもんじゃない、鬱陶しい表情と髪だと、アシュランは思う。
彼はまるで悪魔のような目で、彼女を睨んだ。
「このクソ女ぁ、勝手に奴隷にしやがったな!」
「ち、違います!私は旅に出たくて、傭兵を探してただけなの!」
「旅だぁ?そんなん勇者様ご一行に頼んどけや!さっさと解除しろ!」
アシュランはベッドを出ようとしたが、店主に止められた。
失った血液はまだ戻っていないので、眩暈がするのだ。ここまで自分が弱っているとは思っていなかったアシュランは、少し驚きつつ、それを悟られまいと表情を崩さなかった。
メインは怯えつつも、彼の前に立つ。
「契約しないと、あなた、死ぬところだったから……」
「あのまま死んでた方がマシだったな。お前みたいなブスの奴隷になるくらいならな!」
「目の前で誰かが死ぬのは、嫌だから助けました。1年間は我慢してください」
「いッ…1年だと!?」
契約は1年。右手の甲を見てアシュランは大きなため息をついた。
ため息をつき終わると、急に立ち上がりベッドを出る。
メインは危ないからと制止したが、彼に突き飛ばされた。
「どけ」
「まだ血が足りないんです!」
「うるせーよ」
彼の目は悪魔のような鋭い目つきだ、と床に倒れたままメインは思った。
すまんね、と言いながら店主はメインに手を差し出してくれた。薬草で汚れた手を差し出し、メインは浮かない顔で立ち上がる。
国花選定師は常に植物を扱うので、手が汚くなる。洗っても洗っても取れないシミがついたり、植物の毒で皮膚が荒れてしまうのだ。それでも国花選定師はこの国で一番植物を愛している、と言えた。
メインは契約した傭兵がいなくなってしまったので、すっかり落ち込んでいる。これが国王や父に知られれば、旅に出ることはできないだろう。自分勝手な理由が一番かもしれないが、メインにとって、旅に出ることは一生に一度、あるかないかのことなのだ。
「すみません、強引すぎましたよね。死にそうだからって」
「いや、本当は感謝するところだろうよ。アイツはこのあたりじゃ悪魔とか、悪魔の申し子とか呼ばれてる奴でね。俺は昔からアイツを見てるが、やることなすこと常識外れさ」
「常識外れ……」
「親も分からない、孤児が、気づいたらあんなにデカくなっちまってたんだよ。元からそういう血が入ってたのかも、しれないな。アイツは親の顔も知らなければ、故郷も分からない、孤独な奴なんだよ」
「でも、私を助けてくれたので……恩返しを、その、命だけでも」
「気にするこたぁない。傭兵なんてそんなの考えて生きてる奴は、ほとんどいない。誰からどんな依頼を受けて、どれだけ金をもらえるか、今日はいい酒が飲めるか、それくらいしか考えてねぇのさ」
集会所にいた傭兵とは話が違うのだ、とメインは思う。
裏路地に集まる者には訳がある。国を追われた者、犯罪を犯した者、人の道を外れたことをした者、故郷のない者など様々だ。
それでも生きる為に危険に飛び込み、血を流し、金を得る。
「アンタも王城に帰りなよ。もう体はいいのかい。アイツの血がなくなったのを半分くらい受けたんだろう?」
「はい、でも私はもう大丈夫なので……」
悪魔と呼ばれた男の目を、思い出す。
本当に恐ろしい男だったが、それでもあの瞳の奥には何かが見えた。
そんな気がする。
◇◇◇
アシュランは行く当てもなく酒場を飛び出していた。命が助かったのはいいが、傭兵どころか奴隷にされていたのだ。信じられない屈辱、とまで思う。あんな冴えない小娘に命を救われただけではなく、奴隷にまでされたのだ。
「クソが」
パンツのポケットに手を入れると煙草ではなく花が出てきた。黄色い小さなその花はいつの間に入っていたのだろう。あの女が入れたのか、と思ったが気にせず道端に捨てていく。こんなちっぽけな花、何ができると言うのか。
彼は長年戦場で生きてきた。
傭兵とはどこの国にも所属せず、軍隊でもない。勇者たちとも違い、もっと汚い仕事や危険な仕事を生業にしている。特に彼は危険な暗殺や暗殺者から金持ちを守る護衛なども務め、戦場に駆り出されれば多くの人間を殺してきた。そうやって幼い頃から一人で生きてきたのだ。
親の顔も知らない。産まれた場所も、故郷も知らない。それが彼の人生だった。
「俺は奴隷じゃねぇ」
契約は一般的に奴隷と見なされる。どんなに正式な契約をしていても、国王が認めたとしても、契約される側は、奴隷なのだ。
傭兵風情なら奴隷にしてもいい、と思う人間の仕業だろう。
あんな小娘までそんなことをし出すのなら、この国も終わったものだな、と彼は感じた。