彼女は裏路地の先にある酒場の前に立ち、大きなため息をついた。
大きくて深い深いため息だ。ついたため息の後、地面から顔を上げ汚い看板を見上げる。見上げていないと、涙がこぼれそうだったから。
母からもらった赤い巻き毛も、父からもらったグリーンの瞳も、今ではなんの役立たず。お母さん、美人に生まれたからっていいことばっかりじゃない、と言っていたっけ。でもお母さんはこの赤毛で、お父さんの心を射止めたって言っていた。でも、今はもうちょっと鼻が高かったらよかったなぁ、とは思うんです。だって。
「私は文無し……!」
一文無しとまではいかないが、文無しに近い状態であることは正しい。どうして、そんなことになってしまったのか。どうして国花選定師という地位を持ちながら、文無しになってしまったのか。
◇◇◇
それは数日前に遡る。
この国は王政だ。彼女の働く王城には王が居て、その王からの勅命は必ず受けねばならない。この国の王は世に言ういい人だったので、悪い命令など出したことはない。しかし少しだけ常識外れなところもあった。
王に呼びつけられて向かえば、王の近くに彼女の父も立っている。父は王の世話係を長年務めており、信用信頼の男だ。だから近くに立っていることを許されている。見た目はどう見ても屈強な兵士にしか見えなかったが、本人はただの護衛だと言っている。
そんな父の横で王は微笑んで、彼女に話しかけた。
「メインよ」
「はい」
「国花選定師としての仕事だ。よいか」
「はい、承知しました」
「では各地に回り、責務を果たしてくるのだ」
ついに来たのか、と彼女は思った。
彼女の名はメイン。赤毛にグリーンの瞳を持った童顔の娘。体は華奢で胸は小さく、着飾って夜会に出てくる貴族の娘たちとはまったく違う。質素な動きやすい格好に、男物のブーツまで履いている。しかも泥だらけ。彼女はそんなことを気にしたことはない。
乗馬もできれば野宿もできる、と豪語するくらいに野性的。お前は女の子なんだよ、と何度も父に言われたが、彼女はそんなことを気にしたことはない。
それでも彼女は、この国の国花選定師だ。
国花選定師とは、国に関わる重要な花や植物に関する役職である。ただの植物を、管理しているわけではない。魔力を持った花、魔術のかかった植物だけでなく、薬の製造もおこなっていた。治療法の確立、それに伴う庭園の管理運営など、多岐に渡って任せられているのが国花選定師なのだ。
メインの一族は代々女性が国花選定師としての役割を担ってきた。先代は彼女の母である。しかし母は戦禍の折に命を落とし、メインは若くして国花選定師になった。幼き日から母に教えられてきたこと、一族が残してくれた多くの情報を整理し、やってきたのだ。
母が教えてくれたことは幼き日のことばかり。本当はもっとたくさん相談したいこと、聞きたいことが山のようになる。でも天へ還った人にそれを聞くのは、ナンセンスだと彼女は思っていた。今でも墓の前で語りかけることはあるけれど、それはただ自分の気持ちを吐露するだけである。
だからメインは苦労に苦労を重ねて、若くはあるがやっとの思いで国家選定師になった。まだまだ母のようにはできないけれど、それでも植物を思い、国を思い、生きてきた。王や父は彼女の苦労を一番近くで見守り、よく理解してくれているが、なかなか外に出すことだけは許可をしてくれなかったのである。
国花選定師は、国で植物の管理などをすることとは別に、他国へ赴き他国と交流が許されている。特に各国の国花選定師との研究や意見交換など、これから先の国をよくする為の交流だ。国交のある国とは植物や薬情報の交換、新種の研究なども一緒に行うことがあった。
しかし国花選定師は数が少なく、貴重な存在である為、若いメインはなかなか国外へ出る許可が出なかったのだ。国花選定師を危険にさらすわけにはいかない。国花選定師は、国にただ1人きり。1人が引退後に次が決まる。メインの母が死んでしまったことは、とてもイレギュラーなことだった。
まだ次代の国花選定師が育っていないところで、先代が亡くなってしまうことは、国としてとても大きな損失だ。国の今後が左右される存在を、まだ幼いメインに任せなければいけない―――それは彼女にとっても大きな負担であり、成長を見守ることは、国にとって重要なことであった。
しかし、ついに王からの許しが出たのだ。国外の国花選定師と交流し、他国を見ることができる。それはメインにとって、念願だったこと。
「メインよ、お前には資金を渡す。使い勝手のいい傭兵を探して雇うとよい」
「承知しました、ありがとうございます」
若い女性が国外へ出るとなれば、信用の置ける勇者クラスの傭兵を雇うのが常だ。彼女はその資金も得た。やっとだ、と思って王との謁見が終わると、飛び跳ねるようにして、彼女は庭園へ向かう。
流れる綺麗な水、雑草一つない綺麗な庭園。毎日毎日彼女が手入れをして、愛し続けた植物たち。そんな彼らにも報告だ。
「聞いて、みんな!私、ついに他の国を見に行けるのよ」
彼女は植物たちに、話し続けた。流れる水の様子を確認し、水差しを持つ。それぞれの植物で水やりの時間や量が違うのだ。だからそれもちゃんと計算している。植物の育て方1つで、その後の薬も変化することが分かってきた。
「川の国は素敵だって聞いたわ。川の上に国民が住んでいるんですって。船の上で植物も栽培するのよ」
桃色の花に水を与え、手をかざす。国花選定師の一部、特にメインの一族は植物にだけ使える魔術を持っていた。手をかざせば植物が活発になり、綺麗な花を咲かせる。綺麗な花を見て微笑む。
はっきりとしたことは分かっていないが、国花選定師はもともと魔術師の家系であったのではないか、と考えられている。多くの魔術を使うことはできないが、簡単なものであれば、メインでも十分に扱えた。
「王様が傭兵を雇ってもいいと言われて、資金まで出してくださったの。この前ドラゴンを討伐された勇者様は雇えないけど、勇者様くらい優秀な傭兵を探してみせるね」
クルリと向き直り、彼女はニンマリ笑う。
そして自分がいない間、ここを誰に任せておくべきか考えた。国花選定師はメインだけだが、手伝いをしてくれる者や世話を頼める者は多かった。
メインは舞い上がっている。
どこでもクルクル回って、それはそれは上機嫌だった。
だから世間がどれだけ危険で、危ないところなのか考えてもいなかったのだ。