「……部屋を出たい際には、気軽に私の携帯の方へご連絡ください。それでは」
黒色の高級車に乗って、空港から20分程度の距離にあるホテルに向かった3人。ホテルに到着し、部屋までの案内をし終えれば、鷲津は忙しそうに去っていく。車の中では財閥の執事も務めていると言っていたし、きっとそっちの仕事があるのだろう。
「……もッと、ビジネスホテルみたいな感じなのを想像シてたンだけど……」
「うん、ボクも……」
スーツケースを部屋の隅に置き、改めて部屋全体を見回してから、杏樹は言葉を発した。なんというか……、部屋全体が高級なオーラを纏っている。敷いている
世界中の要人と同じように、彼女らはVIP待遇。呼ばれて遠方から遥々飛行機で飛んできた立場なのだから、そういった対応をされるのも当たり前ではあるのだろう。
「ま、いッか。堅苦しくはあるケド、こういう機会じゃなきャ泊まれない場所だろうシ」
部屋には重苦しい雰囲気が広がっているが、杏樹はそんなことをいちいち気にしない。むしろ、この部屋に泊まれるということを、好都合であると考え直す杏樹。どんなことでも軽く考えられると、こういう雰囲気に適応しやすいのだろう。
軽く荷物を広げ終わると、杏樹は早速ふかふかの毛布に自身の体を埋める。決して見た目だけではなく、素材も一級品のものらしく。いつも寝ているベッドとは全く違う寝心地に、体中の力が思わず抜けてしまう。
「……そういえば、明日着る服はちゃんと持ってきた?」
「うン、確認シた。普通の服の方が動きやすいンだけどネ……」
畳まれていた自前のスーツを持つと、それをハンガーにかけながら杏樹に問いかける夏怜。今回の護衛では、スーツを着用しなければいけないらしく。カジュアルな服装で毎回仕事をしている杏樹からしてみれば、少しばかり嫌な条件である。
とはいえ、護衛をするのは、1財閥の子孫。その護衛の人間がみすぼらしい格好をしていれば、財閥ごと世間からの評価が落ちかねない。たしかに、納得できる理由ではあるのだ。
「杏樹のことだし、忘れてたらどうしようって思ったけど……。心配なかったか〜」
「まァ、今回はあたしが保護者ポジだシ。あたしが忘れてたらヤバいじゃン」
「それもそうだね」
一応、岬や遊馬のようなしっかり者の人間が居ない今、状況をまとめあげるのは自分。そういった自覚を、杏樹はしっかりと持っているようだ。
「…………ン? 待てよ……」
あることに気づけば、杏樹は夏怜に聞こえないくらいの声量でそう呟く。
その、あることとは……。夏怜と2人きりである、ということ。これまで、何度か夏怜と2人で行動をすることはあった。だがそれは、周りに人が居るような状況だけ。こうやって、個室なんかで2人きりになるのはこれが初めてである。
「…………」
つまり、出そうと思えば夏怜には手を出せる状況。それが、ついに今杏樹に到来しているのだ。
初めて夏怜と出会ったクリスマスイブの、あの夜以来。夏怜の体に手を触れることすら、全くと言っていいほどなかった杏樹。充分な信頼を得た今なら────、ヤれる。直感的にそれを感じた杏樹は、ベッドからむくりと起き上がって夏怜に声をかける。
「ンね、夏怜ちゃン」
特に誘い文句は出てこなかったが、思い立ったが吉日という言葉があるように、まずは行動するのが大事。それを心得ている杏樹は、夏怜の瞳をしっかりと見つめて名前だけを呼ぶ。
名を呼ばれた夏怜は、杏樹の方を向き、何も言わずに杏樹を見つめ返す。そんなに見つめては、惚れてしまうのではないか────、という程に。
「…………もしかして、さ」
少しばかりの静寂が流れた後、杏樹の思考を察したかのような雰囲気を出し始める夏怜。彼女のような純粋な人間が、果たして不純が過ぎている杏樹の思考を読むことが出来るのか────。
「杏樹も、もうお腹空いちゃった感じ!?」
答えは、勿論のことNOだった。いつもの明るい顔で問いかけてくる夏怜の顔を見ると、なんだか面白くて、思わずその気がなくなってしまう杏樹。純粋で可愛いから抱きたくなるという思考を、純粋すぎて塗り替えられるなんて、杏樹からしてみれば初めての経験だった。
「そぉそォ、機内食じャ物足りなかッたシ」
「だよねっ! あれはあれで美味しかったけど……」
適当に話を合わせて、自分の感情を夏怜に悟られぬようにする杏樹。その目論見通り、夏怜が杏樹の感情に気づくということはなかった。
「でも、まだ時間は早いし……鷲津さんも忙しそうだったし。大人しく、持ってきたカップ麺でも食べる?」
国外へと仕事で行く際には、ホテルの室内ですぐに食べれるような、携帯食やカップ麺を持っていく人が多いが……。例に漏れず、夏怜もどうやらカップ麺を持ってきていたようだった。
杏樹も、一応カップ麺は持ってきている。が、しかし。それを食べる気はないと言わんばかりの顔を浮かべながら、ベッドから立ち上がる杏樹。
「せッかくだシ、あの人には内緒で食べに行こッか」
彼女が口にしたのは、少しばかり衝撃的なことであった。英語圏の国ならまだしも、杏樹達が今居るのはロシア。そんな英語を使う国とは仲が悪い国で、英語が通じるかどうかは不確かだし……。ロシア語が公用語の国なのだから、どこかへ食べに行くとしても、翻訳できる人間は必須級であろう。
「な、内緒で〜? 食べに行くなら、あの人呼んだ方がいいんじゃ……」
「大丈夫大丈夫。忙しそうで呼ぶのは申し訳ないでしョ」
リスク管理ができている夏怜は、無鉄砲に聞こえる杏樹の発言を否定しようとする。
「今の時代スマホがあるからといって、翻訳してくれる人が居なきゃ不安だし……」
「あたしが居るじゃン」
夏怜の真っ当な意見に対して、さも当然かの如く返答をする杏樹。……この人、自分が強いからって、言語の壁を超越できると思ってるのだろうか? 頭の中に沢山のクエスチョンマークを浮かべながら、夏怜はそう考えてしまう。
「……杏樹。いくら体が強くても、他の国の言語はいきなり話せないよ……」
「イヤイヤ。英語もロシア語も話せますケド〜」
呆れながら諭してくる夏怜。彼女に対して杏樹は、勘違いしてるのではないかという旨の言葉を伝える。
夏怜は、正直杏樹を舐めていた。戦闘技術や銭湯IQはあれど、日々の態度を見る限り、勉強ができるような人間ではない。そんな人物が英語はおろかロシア語すら話せるなんて。夏怜は信じられなかった。
「…………、ジョーク?」
「ホント。時間は有効に使ッてたからネ」
信じられずに嘘か疑ってくる夏怜へ、にんまりと笑みを浮かべながら返答をする杏樹。顔を見れば、発言が嘘か嘘じゃないかなんて分かる。杏樹は、嘘なんか言っちゃいない。本当のことを言っている。夏怜はそう察知した。
「……じゃ、じゃあ……。行こっか」
こうなると、特に断る理由は無くなったし……。気軽に連絡をくれとは言っていたが、執事の仕事が忙しいであろう中、わざわざ呼ぶのも申し訳ない。結局、夏怜は杏樹の誘いに乗り、外食をすることになった。
そうと決まれば、杏樹も夏怜も、外出をする準備を始める。準備と言っても、携帯や財布を小さなポーチに入れるだけだが。用意が済めば、杏樹はカードキーを手に持ち、夏怜と共に部屋を出ていく。
「夏怜ちゃンは食べたいモノとかある〜?」
「ん〜、……外食するなんて思ってもなかったから、パッと出てこないや」
部屋を出て、外へと向かうホテルの道の途中。杏樹は夏怜に食べたいものがないか問いかける。
ロシアの料理といえば、ビーフストロガノフやボルシチ、ピロシキなんかが有名どころ。しかし、それら有名どころな料理でさえ、名前は分かれど何処の国の料理か知らぬ人は多い。夏怜もその類の人間で、明確に食べてみたいロシア料理はパッと出てこなかった。
「ンじゃ、適当なお店でも探して行くとシますか……ッと。その前に」
1階に到着すると、杏樹は外へ出る前に、フロントに立つ男に話しかける。フロントマン……案内人と言えば分かりやすいだろう。ホテルの部屋から外出をする際は、彼らにカードキーを預けるのが基本だ。
杏樹に話しかけられた案内人は、にこやかな笑みを浮かべつつ杏樹と話をし始める。玄関の方でそれを見ていた夏怜は、杏樹達の会話の内容が気になり、フロントの方へそそくさと近寄った。
「…………、???」
聞き耳を立てて、聞いてみる。しかし、その会話の内容は、夏怜には聞き取れなかった。杏樹達が話しているのは、何となく聞きなれた英語なんかじゃあなく、単語1つすら理解できないロシア語だったのだから。
不可解な言語をスラスラと話す杏樹に、夏怜は感動すら覚える。だらしない大人というイメージだった杏樹が難しそうなロシア語を話してるなんて、想像すらできなかった光景だ。感動を覚えてしまうのも無理はない。
「……杏樹、凄いじゃんっ!!」
難なくカードキーを預け終わった杏樹に、目を輝かせながら褒め称える言葉を送る夏怜。部屋で喋れると聞いた時と、実際に話しているのを見た今とじゃ、全く違う反応だ。
「まぁネ〜。とはいえ、勉強シたのは6年前くらイだから所々間違えてたケド」
「いやいや、それなら尚更凄いよ!? 6年も間が空いたら、ボクなら絶対忘れちゃう……」
そんな会話を交わしながら、外へと出る2人。
やはり、ロシアの空気は、日本と全然違う。気温的な面で違うのは当然だが、その空気は違う意味の空気。人々が作り出す雰囲気、という意味の空気だ。日本も冷たい国に見えて、実は日本とロシアの冷たいは違う。
日本が「無関心」からくる冷たさなら、ロシアは「厳格さ」からくる冷たさ。お国柄、と表現してもいいだろう。勿論、国全体の人々がイメージ通りなわけではない。しかし、道行く大人の顔を見ていれば、杏樹や夏怜がそんなイメージを抱くのは必然的なことだった。
「ロシアって、結構オシャレな家多いんだね〜」
飲食店を探すついでにホテル周辺の散策をしていると、夏怜がふと口を開いてそう言った。たしかに夏怜の言うとおり、ロシアの家は、日本にはないような色や形をしている。
雪があまり降らない東京とは違って、モスクワは当然雪が多く降る。雪が降るとなれば、屋根の形が違ってくるのは当然。そういった気候や文化等の違いで、国によって建物の外装等は変わっているのである。
「そうだネ〜。住んでみたイとは思わないケド」
「え〜、なんで! 楽しそうじゃん」
「そォ〜? 雪かきとかめンどそうだシ……」
そんな会話をしていると、杏樹は住宅街の中に店を見つける。小さな看板に書かれていることに目を通してみると、その看板には、
「カフェ ユーラチカ」
と書かれてあった。日本のカフェに料理が置かれているように、ロシアのカフェにもきっと料理自体は置かれているだろう。パンやジャガイモが主食であるロシアなら、コーヒーと合いそうな料理がありそうだし、尚更。
「あそこ、行こッか」
「わかった!」
目に見えた飲食店の1軒目をセレクトすれば、住宅街に位置しているカフェへと足を進めていく杏樹と夏怜。
扉を開けば、チリンチリンと、お客さんを歓迎するベルの音が鳴る。国が違うからといって、カフェ店内の雰囲気が日本と全く違うということはない。なんとなく暖かみのある色で統一された店に入れば、さっきまでの閑散としているようなロシア独特の空気は一瞬にして消え失せてしまう。
「いらっしゃいませ、2名様ですか?」
「ン、はい」
ベルの音を聞きつけた若い男性の店員が、入ってきた杏樹と夏怜の元へと向かってくる。彼がにこやかとした笑顔で話す言語は、勿論のことロシア語。それに当然の如くロシア語で言葉を返す杏樹。2人が話しているのを後ろから見ていた夏怜は、何となく2人がどんな会話をしているのかを察する。
「お席へご案内しますね!」
人数を把握すれば、杏樹と夏怜を席へ案内する店員。見える限りだと、店内に居る客は1組のみ。住宅街にあるし、知る人ぞ知る個人経営の店、というような店なのだろう。
テーブル席へ案内し終われば、メニュー表を机に置き、軽く会釈をして厨房の方へと戻っていく店員。その点は、注文方法等を説明してから去る日本の飲食店と違うようだった。
「……結構、日本のカフェと同じ感じの雰囲気だね」
「そうだネ〜。テレビは付けッぱ、漫画か何かを置いてる本棚もあるシ。これくらい緩いカフェが一番好きだワ」
他愛のない会話をしながら、杏樹はメニュー表を開く。品数が少ないからか、メニューには料理の写真が1枚ずつ並べられていた。観光客からしてみれば、ささやかではあるが良心的なメニュー表であると感じるだろう。
写真を見ていくと、2人はあることに気づく。それは、スープや煮込み系統の料理が多いということ。寒い冬が続くロシアなら、温かいスープ系の料理が多いのも納得だ。
「……お、これは……ピロシキ?」
「正解。有名なやつだネ」
「え〜、どうしようかなっ! ピロシキは食べてみたいけど、ビーフストロガノフも気になるし……」
こういう初めての料理が沢山ある時、意外と夏怜は頼むものを決めれずに迷うタイプ。夏怜とは対照的に、杏樹はスパッと決めれるタイプだ。
「ンじゃ〜……あたしがビーフストロガノフ頼ンで、夏怜ちゃンに分けてアゲル。ソレで解決だネ」
「え、いいのっ? じゃあそうしよ〜っ……」
傍から見れば、旅行客にしか見えないような会話をする彼女達。本人達も、本来の目的は頭の中から無くしているが……。
彼女達がロシアへと訪れた理由。それは、ヴェルデ財閥の一族の子孫である姉妹を、危険な輩から守り抜くこと。護衛本番が始まるまで、もう24時間を切っている。
この時はまだ、2人共考えてすらいなかった。ヴェルデ姉妹はおろか、自分達の命すら危うくなるような事件が起きるとは────。