「13階であッてる?」
「ああ」
隣に居る岬に確認をとれば、エレベーターのボタンをポチリと押して、杏樹は壁に寄りかかる。そんな彼女の現在地は、警視庁。杏樹は、警視庁のとある場所に呼ばれていた。
そのとある場所とは、警視庁の13階にある、警視総監室。部屋の主である警視総監が、杏樹にここへ来てもらうようにと岬に指示をしたのだ。それはまだ、3日前のことであるが……。
この3日で、杏樹は様々な検査をしてもらった。体の至る所は勿論、脳のチェックやリハビリの有無について等。それ全てが正常であると判断された杏樹は、無事退院できたわけだ。退院した杏樹は、岬の車に乗せられてここまで来ていた。
「ン〜、怒られるのかナ……あの人と話すノ久しぶりだシ、全然想像つかン」
上階へと杏樹と岬を乗せたエレベーターが進んでいく中で、杏樹は岬に言葉を零す。警視総監に会うのをビビっているというよりかは、単純に気になってその質問をしたようだ。
「さぁな。電話をした時は、怒ってるって感じはしなかったが……なんせミステリアスだし、全然分からないな」
杏樹の質問に対して、肯定も否定も岬にはできなかった。杏樹も岬も、完璧に把握しきれていない警視総監の性格。岬にミステリアスと称された警視総監は、いったいどんな人物なのだろうか?
少し会話をしていれば、エレベーターは一瞬で目的の階へと到着する。13階に到着すると、杏樹は岬に手を振りながら廊下へと出ていった。
「またね〜ン、また会えるかは分かンないケド」
「また後でお前を送るんだから、話がどうなったとしても会うには会うだろ。不吉なことを言うな」
杏樹を見送った岬は、その発言にツッコミを入れつつエレベーターの扉を閉めるボタンを押す。
岬の姿が見えなくなると、杏樹は振り向いて、背中側で腕を組みながら歩き出した。あの部屋に呼ばれるなんて、実に2年振りくらいのこと。その時は、ただの近況報告のような感じだったが……。割と一大事が起こった今回は、何を言われるかわからない。
言われることの推察を軽くしていれば、杏樹はあっという間に警視総監室の前へと到着する。特に緊張なんかしていない杏樹は、
「失礼しま〜ス」
返事も聞かずに、杏樹は警視総監室へと入っていく。
部屋には、ソファやテーブルがあり。何よりも目立つのは、ドラマなんかでよく見るような黒い長方形の机と、セットになっている椅子。その椅子に座っている、長い赤茶色の髪の女性。彼女こそが、この部屋の主であり、警視庁の長。警視総監だ。
「……充分な休養はとれたかしら? 正義執行人」
机に肘をつきながら、杏樹へ質問をする警視総監。
彼女の名は、
千弦が若くして警視総監に昇り詰めたのには、様々な理由があるのだが……。その根幹にあるのは、彼女の認めざるを得ない完璧さだ。杏樹を正義執行人として使うことを考えたのも、この千弦という女性である。他にもある沢山の功績が認められ、彼女は警視総監になった。
「そりャ勿論。1ヶ月半も寝りゃァ完璧」
一度悪くなった日本の治安も、彼女が警視総監になってからは少しずつ改善されつつある。そんなとてつもない功績の千弦を前にしても、杏樹はいつもの調子で喋り続ける。
無断でソファに座った杏樹を咎めることはなく、千弦は冷静に口を開いた。
「そう。これからも動いてもらうから、今回のような事案はなるべく避けるように。でないと、貴女が正義執行人である意味が無くなってしまうでしょう?」
「ンぁ〜、わかってるわかッてる」
淡々と言葉を吐き続ける千弦の言葉を遮って、杏樹は声を荒らげながら返事をする。無類の女好きの杏樹だが、千弦のような何を考えているかわからない完璧主義の人間は苦手なようだ。1つくらい可愛げがあるのなら、話は別だったが……生憎千弦にそういう一面は無い。
「…………ねェ、皇さンさ。もしあたしがこの仕事辞めるッて言ッたら、どうする?」
ソファに座りつつ、偉そうに足を組みながら杏樹は千弦に質問をする。
杏樹の心の中には、ある言葉が引っかかっていた。それは、3日前に病室で聞いた、めるの言葉だ。めるはきっと、自分が正義執行人を辞めるのを望んでいる。そのめるの思いが心に引っかかって、杏樹は思わずよく考えないまま質問をしてしまっていた。
「…………辞めると言ったら? この国の治安と未来を担っているのだから、辞めさせないつもりではあるけど」
「それでも辞める、ッて言った時は?」
「その時は……、……キッパリ辞めさせてもいいかもしれないわ。少し……というか、かなり頼りないけれど、後釜は居るわけだし」
千弦の口から意外な答えが出されて、杏樹は少しばかり驚いてしまう。
千弦は、杏樹が知る限りはもっと冷徹な人間。それこそ、利用できるモノは骨の髄まで利用し尽くすような人間だ。そんな人間が、素直に辞めさせるなんて言うと思っていなかった杏樹。……歳をとって、丸くなった? なんて杏樹はついつい思ってしまう。
「けれど、辞めるつもりはないんでしょう?」
回答に言葉を付け足すように、千弦はそう発する。
「貴女にとって、この仕事は呪いのようなもの。なんと思っていようと、なんと他人に言われようと、貴女はその身が朽ちるまで動き続けるしかない。それしか貴女にできることはないから」
杏樹の心を、隅から隅まで全て読み切ったような千弦の発言。完璧な人間は、人の心まで読めてしまうのだろうか? ……若くして警視総監になるような人間だ。そんな能力の1つや2つくらい、持っているに決まってる。杏樹は、そう思い込むことで自己解決をした。
「……凄いなァ。うン。……皇さン、そこまで来ると気持ち悪いネ」
あの杏樹が、ドン引きした。異性にならまだしも、同性に。それが、皇千弦という人物の異様さを物語っている。
「褒め言葉として受け取っておくわ。……そろそろ本題に移ってもいいかしら?」
「どォぞ」
本題……その言葉が出るということは、単なる雑談や近況報告ではない。やはり、何かについて聞かれるのであろう。正義執行人を辞めさせるという線が無くなった今、千弦に聞かれるのはきっと────。あの日の概要だろう。
「未だ判明していない、紅月が犯行に及んだ動機についてのことを聞きたくて。紅月の旧構成員が多く居たとはいえ、ただの革命派が集まった集団では無いと思うのだけれど」
杏樹の想像どおり、やはり千弦は紅月についてのことを質問してきた。口を割った構成員の、不可解な言動。それとは対比的に、一向に口を割ろうとしない幹部の2人。この事件は、単なる革命が目的として行われたものではない────。千弦は、そう踏んでいた。
そこで、紅月のボスであるフロガ……大矢美蘭と戦った杏樹に聞けば、もしかしたら分かるかもしれないという魂胆で千弦は質問したのである。
「……ン〜〜。明確には分かンないケド。フロガちゃンが斜陽都市出身ッてコトと、楽園がどうこうッて言ッてたのは覚えてるヨ」
「……あの壁の中出身については、既に判明していたからいいとして。楽園というのは?」
「ェ〜、詳しく聞いたワケじゃないシあたしじャ説明できないヨ。誰も傷つかない楽園とか言ッてたシ、この国に嫌気が差したンじゃなイ?」
……杏樹に聞いたとて、結局真相は闇の中。完璧主義な千弦は、中途半端な杏樹の答えに不満そうな顔を浮かべる。
「……ま、いいわ。この話は前座に過ぎないから」
しかし、眉間に皺を寄せてばかりでは冷静な判断が下せない。そう考えた千弦は、目を瞑って息をつきながらそう呟く。
「正義執行人。貴女には、あらかじめ悪の芽を摘んでおいてもらうわ」
「……と言うと?」
「紅月と協力関係にあった、あの壁の中にある犯罪組織、クラウン。貴女1人で、そこを潰してもらおうと思って」
千弦が杏樹に伝えた、クラウンという組織。クラウンは、壁ができて10年程度経った頃に発足された、巨大な犯罪組織だ。紅月の首領であるフロガが高校生の年代の頃に手を貸してくれた組織も、このクラウンである。
「あたし1人ッて……、キツくなイ? 誰かもう1人だけでも居たら楽なのニ」
「……貴女の目的は、クラウンの
……正義執行人を、なんだと思っているんだ。杏樹はそうツッコミたくなったが、口から出る直前でその言葉をなんとか止める。
「まぁ、そうね。ここの人間ともう1人の正義執行人を連れていかないのなら、最悪いいわ。そこは貴女の自由よ」
どうしたもんか……なんて思っている杏樹に、千弦はそう補足する。
改良したペストを国にばら撒こうとした、鼠捕りの仕事。その際は、杏樹は奴らの本拠地である研究所に、裏社会の友達である京を連れていった。千弦の言葉は、そういうことなら黙認するという意味である。
「……ン〜。あたしもソレは考えてるけどネ〜」
千弦の言葉を耳に入れた杏樹は、ソファに座ったまま上を向いてそう呟く。
「……不満ばかりね。今度は何が不満かしら」
「楽をしたくはあるケド、キケンな場所にゃ誰も連れて行きたくなイ。可愛いコに傷がつくのは見てらんなイからサ」
楽に仕事を済ませたいという欲と、自分の近辺の人には誰にも傷ついてほしくないという思い。その2つの感情が、杏樹の中でせめぎ合っていた。
杏樹は、つい3日前に起きた時、岬から桜李のことについて聞かされ、同時に叱られた。一般人をあんな場所へと連れ込むものではないと。その叱責が特別効いたわけではないが……、杏樹の考えはなにか変わったようだった。
「……人を思う心なんて、貴女にあったかしら?」
人の心なんて無いに等しかった杏樹が、そんなことを言うなんて思っていなかった千弦。表情こそ変わらぬものの、杏樹へと質問する彼女は明らかに少し動揺している。
「ヤダなァ。女のコを大事にするのなンて当たり前でしョ」
千弦に問われたことを、茶化すようにして躱す杏樹。腹の底が見えないのは、どうやら千弦だけでなく杏樹も同じなようだ。
「……何にせよ、悪の芽を摘めるのなら、どうだっていいわ。期限は2週間以内、壁に入る手続きはこちらで済ませておくから」
「はいはイ。終わッたら連絡するネ」
話が終わったかと思えば、ソファから勢いよく立ち上がって返事をする杏樹。その勢いのままに、杏樹は千弦に背中を向けて警視総監室を出ていこうとする。
「……あぁ、もう1つあるわ。正義執行人」
千弦は、あらかじめ机の下に置いていたものを手に取りながら杏樹を呼び止めた。まだ何か用か……なんて思いつつも、杏樹は再度千弦の方を向く。
横に長い、千弦のすぐそばにある黒色の机。その机の上には……、灰色の剣のようなものが置かれていた。杏樹は、それに見覚えがあった。
「貴女の武器、壊れてしまったみたいじゃない。もうこれを調べる必要は無くなったし、貴女が必要なら譲渡するけど」
そう、それは────。杏樹を突き刺した、フロガのたった1つの武器。ミカヅキブレードだ。
杏樹が倒れた際、ミカヅキブレードは数時間もの時間をかけて杏樹の体内から摘出された。武器に付着していた血液は綺麗に拭き取られ、帯びていた熱や振動はすっかり止まってしまっている。
1ヶ月半もあれば、その武器から得られる情報も出尽くして。普通ならば処分といった流れではあったが、警視総監である千弦の判断により、一度杏樹の方に確認を取っておくことになったのである。
「……ァ〜。う〜ン……。ま、持ッておいて損は無いか。あンまり使わないだろうケド、貰うネ」
自分を傷つけた最高の武器が、自分の元へと来るなんて思ってもいなかった杏樹。手馴れている武器の方が使いやすいし、使う機会はあまりないだろうが……。これも1つの縁のような何かだと思い、杏樹は机に近づいてミカヅキブレードを手に取った。
「ンじゃまた」
「いつものような、何の異常もない連絡。私はそれしか待っていないわ」
ミカヅキブレードを持って部屋を出ていく杏樹に、千弦はそう吐き捨てる。紅月の事件を解決した後のような醜態は、もう晒すなよ。千弦の言葉には、そういう意味が含まれていた。
「……あたしの肉体がもッてくれれば、あたしが負けるコトは無いから。お茶でも飲ンで朗報を待ッてなヨ」
千弦の言葉に対して、杏樹は堂々とそう宣言しながら警視総監室を出ていく。つい数日前まで昏睡していた人間とは思えないほどの自身のつきっぷりだ。
「……黙ッててくれりゃァ、めッちゃタイプなンだけどナ〜」
警視総監室を出た杏樹は、ミカヅキブレードを片手に持って廊下を歩きながらそう呟く。正直、千弦の容姿は杏樹の好みにどストライク。今年でもう33くらいの年齢になるとしても、容姿が1番優先な杏樹にとっては無関係だ。
エレベーターに乗り込むと、1階のボタンを押す杏樹。……流石に、こんな刃物を片手に持った私服の人物がエレベーターに乗っていたら、誰だって動揺してもおかしくないだろう。下の階へと進んでいくエレベーターの中で、途中で止まらないように〜……、なんて杏樹は思っていた。
「……ありャま」
しかし、少しでも欲が出てしまえば、神様がその欲を見逃すことはなく。杏樹の願いを否定するかのように、エレベーターは途中の階で止まってしまう。
「お疲れ様です……って、朽内さん!?」
「……ンぉ。誰かと思えば……黒音ちゃン」
停止したエレベーターの中へと入ってきたのは、岬の部下である黒音だった。
杏樹が昏睡状態にあるということは知っていたが、起きたことについては知らされていなかった黒音。今頃は病院で寝ているだろう人物が自身の職場に居るのだから、驚いてしまうのも当然のことだろう。
「だ、大丈夫だったんですか……?」
「うン、起きたノはつい3日前くらいだけどネ」
「そうだったんですね……! 無事に起きてくれてよかったです」
毎日話しているほど親しいわけではないとはいえ、杏樹は大事な仲間の内の1人。杏樹が起きたという事実を知った黒音は、ホッとした表情を見せた。
……そういえば、警察は男性がほとんどなんて聞くけれど、自分が関わる警察官は女性ばかりなような。男性で関わるのは遊馬だけだし……、ここって意外とハーレムなんじゃ? 黒音と話している杏樹は、ふとそう思い浮かべ始める。
「……あの、朽内さん。それはいったい……?」
安心したのも束の間。黒音は、杏樹が手に持っている刃物を見て、微妙に怖がりながら問いかける。
「コレ? 紅月の親分が使ッてた、ミカヅキブレードっていう武器。かッこいいよネ〜ン」
「紅月……って、あの紅月ですか!?」
「きッとその紅月だネ」
安心、恐怖、そして驚愕。色々な感情が巡り巡って、黒音はどんな顔をすればいいのかわからなくなってしまう。
「……そ、そんな武器いったいどうやって……?」
「皇さンが要らないからッて渡してきたノ」
「……あぁ。聞き覚えがないなって思ったら、警視総監の人ですか……」
そんな会話をしていれば、他の人が入ってくることはなくエレベーターは1階へと降り立つ。
「黒音ちゃンはこれからパトロール?」
「いえ、私はたまたま1階に用事があったので!」
エレベーターから出ると、杏樹と黒音は邪魔にならぬような場所に立ち止まって話をする。
「そッか。今は岬ちゃンが車で待ッてるからもう行くワ、今度お茶でもしようネ〜」
「はいっ、朽内さんがいいのであれば……!」
岬が車で待っているだろうし、待たせるわけにはいかない。そう思い、杏樹は黒音と別れることにした。
杏樹にお茶を誘われた黒音は、目を輝かせながら返事をする。……仕事場じゃなきゃ、今にでも襲ってるのだが……。次会う頃は、いよいよ襲い時かな。なんて思いつつ、杏樹は玄関へと向かっていった。
「……さてさて。壁の中に行く前に……博士の所へと寄ッてかなきャ」