────斜陽都市。それは、某県にある、巨大な壁に取り囲まれた都市の俗称。
30年くらい前からその都市では治安が急激に悪化し、他の地域に住む一般市民に被害が出ないように、政府は判断を下した。壁で犯罪者達を取り囲んでしまおう、という判断を。
壁ができるもっと前……戦後の時代には、その都市は今の東京都心にも引けを取らぬほどの経済中心点だった。それが、暴対法だったり風営法だったりといった時代の変化によって、唯一残ったのは治安の悪さだけ。かつてあった輝きが失われ、没落していき、日本という国からも見捨てられる────。人々は、その都市に名を名付け始めた。斜陽都市、という名を。
「……ぁ、居た居た。お〜い、
斜陽都市南部、
そんな少女の名前は、
「あれ。もう終わったんですね」
「うん、今日は読むページ少なくて」
美蘭が話しかけた明日架という人物は、眼鏡をかけた敬語を使う女性。……お察しのとおり、ギャリアの過去の姿だ。
物心がついた時から既に仲が良かった2人は、いつも一緒の時を過ごしていた。食事の時や教会での祈りの時、入浴の時でさえ。親友だった2人には、もう1人かなり仲が良い共通の友達が居た。
「……文規は、また道場?」
「さぁ、祈りが終わってからは見てないのでそうじゃないですか? 頑張りますよね〜。毎日毎日、誰も居ない道場で練習なんて」
「だよね。それで全国レベルなのもよくわかんないし……」
そんな2人の友人は、蒲生文規。後に鬼となる男だ。孤児院内に留まらず、斜陽都市の中でも彼は有名だった。幼い頃から、全国大会という切符を片手に、壁の外へ行くことが許されていたからだ。
ただ、ニュースなんかで彼が取り上げられることはない。斜陽都市は、被差別部落のような存在。そんな壁の中に外の者が入ることは、無いと言っても過言ではないからだ。
「……文規くんはきっと、自分の身は自分で守らなきゃって思ってるだけなんでしょうけど。努力の量が少し異常というか……」
「……たしかに、そうかもね」
8歳の頃、この孤児院に来た文規。物心がつく前から居た美蘭や明日架と違って、文規は途中からの入所だった。
彼がここに入所した理由。それは、親から受けていた虐待やネグレクトだ。親が帰ってこなくなり、家にある食料品も0に等しい状態。独りで道を彷徨って死にかけていたところを、この施設の職員に見つけられてここに来たらしい。
剣道を始めた理由も、それが関係している。誰かに頼らずとも、自分の力で生き抜くために。彼は、自分自身を守るために剣道を始めたのだ。
「……あ、そ〜だ! 宿題見せてよ! 明日までにやらなきゃ職員さんに怒られちゃうし……」
暗い雰囲気が流れ始めたのを察して、美蘭はわざとらしく明るい声を出しながら明日架にそう告げる。
「……え〜、またですか? たまには自分でやらないと……」
「お願いっ!! 一生に一度の……」
「それは一昨日聞きました〜」
笑顔を浮かべながら、明るく会話をする2人。
このまま、仲良くすくすくと育っていくのだろう。誰もがそう思っていた。美蘭、明日架、文規。ある事件を境目に、この3人の関係が少し変わってしまうのだった。
「……んね、文規」
「…………、なんだ」
数年後、3人が15になる年。珍しく文規の練習についてきた美蘭は、口を開く。寂れた打ち込み台にひたすら竹刀を打ち付けていた文規は、一呼吸置いてから返事をした。
「……なんで神様は、明日架を助けなかったんだろ」
冷たい木の床に体育座りをしている美蘭は、自身の膝に顔を埋めながらそう呟く。
先日、外を1人で歩いていた明日架が、何者かによってレイプされた。彼女が帰ってきたのは、翌日の昼間。孤児院に帰ってきた瞬間、明日架は泣き崩れた。痛かった、気持ち悪かったと。
この壁の中じゃ、そんなのは日常茶飯事。警察も自衛隊もろくに機能していない斜陽都市で、事件が起こるのなんて当たり前。むしろ、犯された後に殺されなかっただけマシなのかもしれない。
「私ほどじゃないけどさ。明日架だって、毎日欠かさずにお祈りしてたじゃん」
信仰心が強い美蘭は、次々と思いついた言葉を口にしていく。それに乗じて、文規が振る竹刀が打ち込み台に当たる音も、どんどんと強くなっていく。
2人共、耐えられなかった。数少ない家族、数少ない親友が、自殺を考えるほどに苦しい思いをしたなんてこと。明日架は今、女性の職員と24時間ずっと一緒に居る。彼女が苦しさのあまり命を絶ってしまわぬように。
「……別に、幸せじゃなくていいんだよ。ただ普通に、ご飯を食べて、一緒にお祈りして。それだけでよかったのに」
「…………」
バキッ。
竹刀が壊れてしまう音が、道場の隅々にまで響き渡る。
「神様は、そんな私たちを見放した」
毎日聖書を読んで、たとえ熱を出したとしてもお祈りを欠かすことはなかった、熱心なキリシタンの美蘭。陽気で、誰とでも裏表無く話せた、無垢な少女だった美蘭。
そんな彼女が、初めて神を拒絶した瞬間。そんな彼女が、目を細長くしながら暗い声で呟いた瞬間。この瞬間から────、3人の運命はもう決まっていたのかもしれない。
「文規。アポカリプスって知ってる?」
「…………アポカリプス?」
道場が少しの間静かになった後、美蘭は力無く文規に問いかける。
「テレビで見たんだけどさ。この壁の中だけじゃなくて、この国全体、治安が悪くなってるらしいよ。去年起きた、あの事件を皮切りに」
「……おい」
美蘭の様子が、おかしい。それに気づいた文規は、割れた竹刀をその場に投げ捨てて美蘭に近づく。
「きっとこの世界には、現在進行形でアポカリプスが起こり始めてる。この国が歪んできてるのも、こんな壁があるのも、明日架があんな目にあったのも。全部全部、それのせいだ」
「美蘭!!」
いつもは何かのせいになんて絶対にしない美蘭が、感情を吐露させる。様子が変な美蘭を止めるために、文規は美蘭の手を強く握って大きな声を出した。寡黙な文規でさえ、そんな美蘭を黙って見ることはできなかったのだ。
文規に名前を呼ばれると、美蘭はずっと開いていた口を閉じる。……そして、上目遣いで文規の目を見つめながら、静かに美蘭はもう一度口を開いた。
「……壁の中で産まれたからって差別されてる文規とか、酷い目にあった明日架みたいな人を出さないために。……誰も傷つくことのない、楽園を作ろう」
文規を見つめる美蘭の目からは、純粋無垢な光が消えていた。その瞳は、西に傾いてきた太陽のようで。綺麗で、それでいてどこか鬱々しくて。
明日架の次は、美蘭の精神までやられてしまった。文規は、美蘭の瞳を見て密かにそう思うのであった。
3年後。18歳になった3人は、孤児院から出て自立をする判断をした。この壁の中から出るために、3人はひたすら金を貯めた。
文規は、大会優勝の賞金を。明日架は、生まれ持ってきた美貌を使い、接客で得た金を。そして、美蘭は────。巨額の金を得るために、斜陽都市にある巨大な犯罪組織と手を組んだ。雑用から殺しまで、なんでもやった。楽園を作るために。
「…………美蘭、ほんとに変わりましたよね」
「……あぁ。俺もそう思う」
この3年間で、美蘭は全く違う人物へと変貌を遂げた。可愛げのあった顔立ちは随分凛々しくなり、陽気だった性格はいつしか冷徹な性格へとなり。文規に度々稽古をつけてもらっている上、犯罪組織でも鍛え抜かれているからか、美蘭の肉体は極地まで達しているのだった。
「私は正直、昔の美蘭のままがよかったです。……私があの時ちゃんと警戒しながら帰ってたら、」
「……無駄なことを考えるのはよせ。過去は変えられないけど、未来なら変えられる。そうだろ」
壁の外へと出る手続きを済ませている美蘭を横目に、2人は話を続ける。
「あはは、そうですよね〜。名前に入ってる『明日』を信じて、明日架ちゃんは生きていくとしましょう」
少し悲しそうな笑みを浮かべて、明日架は文規にそう話す。……あの事件が起きてから、半年くらい経って明日架はようやく精神的に立ち直ることができた。ずっと気にかけてくれていた2人の友人は、明日架の精神的な支柱だった。
「…………まぁ、気持ちは分からんでもないが」
「え?」
いつもは自分から喋ることが少ない文規が、自分から率先して喋った。明日架は、目を丸くして口を抑えながら困惑の表情を浮かべる。
「今の美蘭は、見てて危なっかしい。……楽園のためなら、命を棄ててしまいそうな雰囲気がする」
「……あ〜。たしかに、ちょっと分かります」
昔の美蘭とは違って、今の美蘭は完璧主義な人間。朝起きてお祈りをすれば、すぐに金を稼ぎに行き、夜遅く帰ってきたかと思えば寝る前にお祈りを欠かさずして就寝する。その生活サイクルが確立されている美蘭は、見ている者に不安すら与えてしまうのだった。
ちゃんとご飯を食べてるのか。ちゃんと休養は取れているのか。ちゃんと心に余裕があって笑えてるのか。それは、明日架にも文規にも分からなかった。
「…………自分のために戦い続けてきたが、3年前からそれは少し変わってきていた。自分のためから、誰かのために。……お前らを護るためなら、俺は鬼にだってなるつもりだ」
真っ直ぐとした瞳で、文規は明日架にそう伝える。……なんて頼れる瞳なのだろう。その瞳に心が取り込まれてしまう前に、明日架は急いで話を変える。
「……あ、鬼といえば! 昔つけたあだ名みたいなの、ありませんでしたっけ?」
「あだ名? ……あぁ、あったな。明日架がギャリアなのは覚えてる、俺は……」
「ドラコス。ですね! たしかギリシャ語で鬼って意味ですから、頭の中に出てきちゃったんですよ」
久しぶりに、こんな意味の無い他愛もない雑談ができて、明日架は嬉しそうな笑みを浮かべる。それに釣られて、文規も……少しだけ、口角が上がってしまう。とても珍しいことで、明日架はまたもや驚いた。
「……それで、美蘭が〜……」
「なんの話だ」
「……手続きは終えたんだな」
硬直している明日架に代わって、美蘭に話しかける文規。
「ああ。……そんなことどうでもいい、今話していたことを知りたい」
「……昔話していたことを思い出してただけだ」
成長してから、美蘭には妙な威圧感が生まれた。口調が原因というよりは……、強さによって生まれる威圧感だろう。その威圧感に思わず押されてしまった文規は、適当に言葉をはぐらかす。
「……昔つけた、あだ名の話ですよ」
その場に固まってしまっていた明日架は、硬直が解けると同時に美蘭の耳元でそう囁き返した。美蘭は相当厳しくなったし、そんな無駄なことを考える暇があったらもっと有意義なことを考えろ〜……とか、小言を言われても仕方ないなと文規は瞬時に考える。
しかし、そんな文規の予想からは大きく外れるように、眉間に皺を寄せたりしないまま美蘭は口を開いた。
「あだ名? ……完璧に覚えてはいないが、たしかにそんなのもあったな」
革命に関係無いことはあまり喋らない美蘭が、珍しく明日架の出した話題に乗っかった。そんな美蘭を見て、少しだけ昔に戻ったような気分になった明日架と文規は、思わず高揚してしまう。
「ふふ、覚えてたんですかっ! 私がギャリアで、文規くんがドラコスで〜……」
「美蘭は、炎を意味するフロガだったな」
「え、なんで言うんですか!! 私が先に言おうと思ってたのに〜……」
騒ぐ明日架と文規の姿。……懐かしい。2人の笑顔は、本当に昔から変わらない。
「…………これからは、互いにそう呼び合おう。忘れてしまわないように」
過去のことを思い返した美蘭は、2人の会話が落ち着いてきた頃、ほんの少しだけ微笑みながら呟いた。……明日架と文規は、実に3年ぶりに美蘭の笑顔を見た。
冗談なんか言わない美蘭のことだし、この言葉も冗談なんかではなく、本気。誰も傷つかない楽園が作られた時、きっと彼女は、また元に戻ってくれる。
「……そうしましょう」
「そうだな」
3人の友情が、より深く強まっていく。美蘭がフロガに、明日架がギャリアに、文規がドラコスに変わったこの日。彼女達は斜陽都市という地獄から這い出て、紅月として楽園を作る革命を計画し始めるのであった。
「……貴様は、何故正義執行人なんかをやっている。金か? それとも、貴様の正義を守るため?」
目の前の屈強すぎる敵に向けて、フロガはミカヅキブレードを構えながら問いかける。
「……ンや? お金はおろか報酬なんてもらッてないシ、頼まれたからヤってるだけ。正義なンか全然知らなイ」
「汚いとは思わないのか、この国が。警察に頼まれてるのなら、貴様もわかるだろ」
フロガに言われた言葉について、杏樹は考える。差別を無くすべき現代社会では考えられぬ、壁という建造物。あの事件が起きてからは、治安も悪くなった。この国の政府や警察は、いったい何をしているんだと言われても仕方ないくらいだ。
「汚い、か。……ン〜……。たしかにそうかもネ」
首を捻らせて考えた末に、杏樹はそう答える。汚いか汚くないかで考えれば、どちらかと言えば汚いに落ち着いたからだ。
「でも、あたしは警察に感情を持ッて動いてるわけじゃないシ、好奇心で動いてるわけでもなイ。ただの仕事に過ぎないケド、強いて言うなら……罪滅ぼし、とか?」
「……そうか」
正義執行人を強く睨んで、一言だけ返事を零すフロガ。
「私は貴様の正体を知っている。……貴様をこの終末の元凶と見なし、私は絶対に貴様を殺してみせよう」
杏樹を睨んだ、その瞳。その金色の瞳に、強い意志を孕んだ
「……ふ〜ン」
脳のリミッターを解除してからは、眉1つ動かすことなくフロガを一方的に攻撃していた杏樹。そんな杏樹だったが、フロガの言葉を聞いた途端に表情が変わる。正体を知っているのなら、絶対に生かしておけない。そんな杏樹の地雷を、フロガは的確に踏み抜いてしまった。
目を血走らせながら、杏樹は距離があるフロガの方へと踏み出す。仈湧村での鈴佳は理性がなくその力を使いこなせなかったが、力が強くなるということは速度を上昇させることもできる。
「どンな境遇なのは知らないケド、素直に死ンでよ」
一瞬でフロガとの距離を詰めた杏樹は、手を開いたままフロガへと攻撃をしようとする。今回の攻撃は、チョップでも蹴りでもなく……切り裂き。
高周波ブレードは壊れ、他に武器を持っていない杏樹が? なんて思う人も居るかもしれないが、今の杏樹にとっては、肉体こそが武器だ。そんな肉体に、鋭利に尖った場所が1つだけある。ペットボトルのラベルを開ける時などに一般人でもよく使う。そう、指先の爪だ。
「…………ッ!!」
杏樹に近づかれているフロガは、なんと前へ進むことを決意した。相打ち覚悟でもいいと思っているのだろうか?
もう少し動き出すのが早ければ、その剣で体を捉えることができたのだろうが……。このスタートダッシュの差と凄まじい集中力があれば、ミカヅキブレードはくらわない。そう判断した杏樹は、フロガが剣を振る直前、彼女の首元へと手を伸ばした。
「ッぐ、っ…………!」
速度は、力そのもの。爪先がフロガの首筋に触れた瞬間、杏樹は腕を振る速度を最高潮にまで上げさせる。
────その瞬間。フロガの首筋から、血が勢いよく吹き出した。首で1番太い欠陥である頸動脈に、爪で傷をつけたのだ。
「…………」
目を見開いて首筋から血を吹き出しているフロガを目の前で見ると、杏樹は脳のリミッターの制限を元に戻す。その傷は深く、このまま救急車を呼ばなければ死は確実のようなもの。たとえフロガが戦いを続けても、その傷を負っていては充分な動きをすることはできないだろうと考えての行動だ。
「………………ふ、ッ」
杏樹がリミッターを戻すタイミングとほぼ同じタイミングで、フロガは笑みを浮かべていた。
……人間は攻撃を受けた際、攻撃を受けた場所とは反対の方向に体を動かす習性がある。それは物理的に考えて当たり前のように感じるが、実は人間が自分を守るための本能……防衛本能が働いてそうなるのだ。
なのにも関わらず、フロガは攻撃を受けた杏樹が立つ方向へと進み続ける。脳のリミッターを戻したせいで、杏樹はその事実に気づくのが遅れてしまった。勝負の世界では、その一瞬が命取り。
「油断したな」
そのまま前のめりに倒れるわけではなく……、フロガは、杏樹の胴に巻き付けるように両腕を移動させる。この時点でもう、杏樹は左右に回避することが不可能になってしまっていた。
「あ」
これ、詰みだ。杏樹の脳裏に、そんな言葉が過ぎる。
杏樹を抱きしめるような体勢になったフロガ。もちろん、ミカヅキブレードは片手に握ったまま。
……そして、中央塔の中。杏樹の胸を背中から突き刺してそのまま貫通し、フロガの体ごと突き刺すミカヅキブレードの音が、酷く静かに響き渡るのであった。