「…………ね〜〜、杏樹っ!! もう、最近だらけすぎ!」
「え〜……」
例の誘拐事件が解決した後のこと。杏樹は、とてつもなくだらけていた。毎日ソファで寝っ転がって、携帯も見ずに天井を見たり目を瞑ったり。警視庁から事件解決の依頼が来たりもしない。いつもだらけていた杏樹が霞んで見えてしまうほど、だらけの濃度が上がっていた。
そんなソファに寝転がる杏樹を叱るのは、以前彼女に助けられた同居人のめるだ。今は掃除中のようで、ソファ周辺を掃除したいから杏樹をどこかへ行かせようと注意している。
「ここら辺掃除するから〜……1回退けてくれない?」
「……ン〜。部屋でいい?」
「……どうせそこから動くなら、久しぶりに外でも歩いてきなさいよ」
もう何日間も家の中で過ごしている杏樹。日光を浴びないで日々を過ごすのは、肉体的にも精神的にもよろしくない。そんな杏樹を思って、めるは杏樹をお姫様抱っこして玄関へと運んでいく。この状態になってる杏樹が自分から動くことはない、なんて言っても過言ではない。それを想定しての行動だ。
「はい、いってらっしゃい。気をつけてね」
「……は〜イ」
土間の前で杏樹を降ろしためるは、彼女が外へ行くことを前提に話しながらリビングへと戻っていく。きっと、彼女と一緒に住んでいたら、健康的な生活をする以外に道は無いのだろう。なんて考えながら、杏樹は気怠げに靴を履いて立ち上がり、バイクの鍵を手に取ってから外へと向かう。
予定なんて無いし、どう時間を潰すか。携帯を見て玄関の前をブラブラしつつ、杏樹は考える。警視庁には呼ばれない限り立ち寄らないし、暇をしてそうな友人が居る訳でもない。適当に服屋にでも立ち寄って、適当に時間潰しして帰ろうか。そう考え始めた時、杏樹の脳にある人物が浮かんだ。……そうだ、居るじゃないか。ちょうど今の時間帯にゃ暇そうな、同業者が。
「今何してる〜?」
と、杏樹はメールを送る。そのメールを送った人物は、杏樹と同じ正義執行人であり、つい前までは伝説の怪盗を名乗っていたあの人物。そう、夏怜である。
杏樹が送ってすぐ、そのメールには既読がついた。やっぱり暇してたんじゃないか。予想が的中して、杏樹は思わず頬を緩めてしまう。少し待っていると、すぐに夏怜からの返信が来た。
「今道場! 色々凄いから、杏樹も暇なら来てみてほしい!」
相変わらずハイテンションな、夏怜のその返信。……そういえば、九十九道場は最近また活動を始めたらしい。桜李が若くして館長の座を継いだのだとか。
九十九が死んでから、杏樹は道場に一切顔を出していない。最初で最後の九十九との対面をした日、あの日が道場に行った最後の日だった。夏怜も居るし桜李も居るし、きっと鈴佳も居るだろうし。ハーレムのような状況だし、いっちょ行ってみよう。
「おっけ〜」
夏怜に返信を残せば、杏樹は愛車に跨った。
「お邪魔しま〜ス、っと」
2回目の来訪となる、九十九道場。前回は夏怜が迎えに来てくれたが……、雰囲気から察するに、稽古中その関係者なら誰でも入ることができるのだろう。勝手に玄関の戸を開いて、杏樹は道場へと歩いていく。
今日はなんだか、静かだ。この前は、廊下を歩いている時点で門下生達の凄まじい気迫が聞こえてきたというのに。……もしかして、ここに来ている間に皆帰ってしまった? 否、玄関に並べてあった靴を見る限りは違うだろう。この道場でなにか起きているのではないか……、なんて考えて道場を覗くと、衝撃的な光景が杏樹の目に飛び込んできた。
「……コレは…………」
それは、ある人物がこの道場の館長である桜李に竹刀を突きつけている光景だった。突きつけている、と言うよりかは……攻撃を寸止めして、そのまま静止したようにも見える。
「……打ってはいないし、残心も無ければ気勢も無い。これでは1本になりませんね」
「いや、それでいい。動きの手本にゃなってたよ」
桜李と向かい合っている男は、竹刀を下ろしながら桜李にそう伝える。九十九も陸斗も居ないこの道場に、桜李を軽々と倒せるであろう男がまだ居たのだろうか? 道場の中へと足を進めていって、杏樹は首を軽く傾げつつその男の顔を見ようとした。
どこかで見たことがあるような、その男。そんな彼を見つめていると……、杏樹の存在に彼も気づいたようだった。
「……おや、誰かと思えば……。朽内さん」
「…………ァ、そうだそうだ。思い出したヨ、蛇川さン」
男の名前なんて、強者以外覚えることがない杏樹。そんな杏樹が彼の名前を覚えていたのは、今言った通り、彼が強者の雰囲気を帯びていたから。大晦日に出会った、夏怜の親戚である蛇川。桜李の目の前に居たのは、蛇川だったのだ。
蛇川が杏樹に気づいた素振りを見せると、彼を見ていた門下生達が一斉に杏樹の方へと振り向く。急いで耳を塞ごうとするが、もう遅い。全員による、挨拶の雨あられが飛んできた。
「……夏怜ちゃン。コレ、どういう状況〜?」
挨拶を適当に受け流して、椅子に座る夏怜の隣に座りながら杏樹はそう質問する。なぜ九十九道場に蛇川が居るのか。杏樹は、それが知りたかった。
「前館長と陸斗さんが亡くなって、教える立場の人間が桜李さん1人だけになったじゃん? 絶対大変だし、あの人ならワンチャン手伝ってくれるかな〜って思って頼んだらさ……。週1の特別講師ならって事で、道場に来てくれるらしい!」
「あ〜ネ、なるほど。……でも、なンで桜李ちゃンと蛇川さンが?」
「もう稽古は終わってるんだけど、座学の時間? ってやつらしくて。見て学べってことで、今日はあの2人が!」
きっと、本来ならば1つのちっぽけな道場で行われるレベルの試合ではないのだろう。桜李の剣の腕は言わずもがなだし、蛇川の戦闘は見たことがないが、杏樹を少しでも震え上がらせる覇気を持っている時点で只者ではないのが予想される。
そんな2人が相対する、本気の試合。桜李からも蛇川からも、本気を出している気配は微塵も感じ取れなかった。もし見れるのだとしたら、見てみたい。杏樹は、密かにそう思っていた。
「……ン〜、平和ッて感じでいいネ。鈴佳ちゃンも頑張ッてるみたいだシ……」
ひと月も経てば、馴染むのも当然なようで。前までは少し遠慮気味な雰囲気を醸し出していた鈴佳も、今では門下生に混じってちゃんと座学を受けている。
自分の名前を呼ばれたということに気づいた鈴佳は、杏樹と目線を合わせて静かにウィンクをする。田舎生まれ田舎育ちという印象だった鈴佳は、少しだけ都会に染まってしまっているようだった。その姿が可愛くて、杏樹は胸をズキュンと貫かれてしまう。
「…………〜い、お〜い! 杏樹っ! 聞いてたか?」
鈴佳によるウィンクの余韻に浸っていた杏樹。そこから戻ってこさせるために、桜李は杏樹の名前を大きな声で呼びながら確認をする。
「……ンぇ。あ〜、うン。聞いてるヨ」
「ん、よしっ! じゃあよろしくな!!」
もう一度聞き直すというのも面倒なので、桜李へ適当に返事をする杏樹。その返事を聞けば、桜李は満面の笑みを浮かべて────、杏樹に竹刀を渡す。適当に返事をした杏樹への天罰が、今から下されようとしていた。
「蛇川さんと杏樹のエキシビションマッチで、先に2本とった方が勝ち! 1本の判定は審判のオレがするとして……」
「ちょちょちょ、待ッて。……ェ、エキシビションマッチ……」
予想外すぎることを伝えられた杏樹は、珍しく動揺してしまう。剣道のルールなんてろくに知らない自分が、エキシビションマッチ。それも、桜李ではなく蛇川と。確かに適当に返事をしたのは自分自身だが、それでも簡単に了承することはできなかった。
拒否をしたい杏樹の思いとは裏腹に、道場内の雰囲気は盛り上がってきていた。ついさっき実力を示した蛇川の姿を見れると、沸き立っている門下生。杏樹の実力を知っている夏怜や鈴佳まで、素直にその対決を待ち望んでいた。簡単に拒否ができない状況へと、いつの間にか変わってしまっていたのである。
「でも〜……、そういえばあたしッて剣道のルールとか知らないシ……」
言い訳でもして、逃れられればいいが。竹刀を持って立ち上がりつつ、杏樹は苦笑いを浮かべて呟く。
「その白線の範囲内で戦ってくれるのなら、余程のことがない限りは反則としませんよ。……それで良いですね、館長さん」
「ああ。殴ったり蹴るのはナシな、子供が引いちまうから。それから……できるだけ1本になりそうな攻撃は寸止めで」
そんな杏樹を逃がすまいと、詳しいルールを知らなくても対決できるようにルールを設定する蛇川と桜李。桜李はもちろん、蛇川もその勝負には乗り気のようだった。強者同士、なにか惹かれるものがあるのだろう。
やれやれといった顔を浮かべて、杏樹は気怠げに歩き出す。出入口の方向……ではなく、蛇川が指定した白線の中へと。
「……出会ッた時から気になってたンだよネ。なンで一般人であるはずの蛇川さンが強そうに見えるのか」
「おや、奇遇ですね。それは私も思っていました。……どうでしょう? 負けた方が1つ秘密を暴露する……とか」
近づいてくる杏樹の耳元に顔を寄せて、蛇川は誰にも聞かれぬようにそう囁く。強い者には、何かしらの秘密がある──。蛇川は、そんな持論を持っていた。それは自分もしかり、目の前の杏樹もしかり。
正義執行人の存在は、国家機密。杏樹が一度手を貸した桜李でさえ、正義執行人という存在については明確に知らされていない。もし勝負に負けたら、それを蛇川に暴露することになるだろう。この賭けは拒否するのが賢明な判断だ。
「……いいネ、暴露シてもらおうか」
だが、杏樹はなぜかその判断を選ばなかった。賭けの誘いを了承して、杏樹は蛇川から離れていく。
負けてしまったら暴露という勝負なら、負けなければいい。蛇川という正体不明の強者を目の当たりにしても、杏樹のそのスタンスは変わらなかった。死にたくなければ、相手を先に殺せばいい。その思考こそが、杏樹の強さの根幹にあるのである。
「ふふっ、自分は確実に負けることがないという信念。いいですね。……それでは、始めましょうか」
杏樹が定位置について自身の方を向いたのを確認すれば、彼女を褒めるのも程々にして、蛇川は静かにそう伝える。
本来ならば、審判の桜李が開始の合図をするのだが……。桜李は、その合図を見送ってしまう。蛇川が始めようと言った瞬間に、とんでもない気迫が2人から溢れ出たからだ。空気が歪んで見えるほどに強烈な気迫。道場の中に居る全員が、その気迫を体で感じる。
「……凄いなぁ、師匠は。杏樹に全然負けてない」
気迫の争いを見た夏怜は、そう呟く。怪盗ヴァイパーとして杏樹と戦った時にも、鬼気迫るような気迫を感じた夏怜。それに引けを取らない蛇川を見て、夏怜は汗をかきながら思わず苦笑いしてしまう。この2人は、別格だって。
「……信念はよろしいのですが、過ぎた慢心はまた別です。いつか貴女の身を滅ぼしますよ」
両手で竹刀を構えた蛇川は、ジリジリと杏樹に歩み寄りながら言葉をかける。九十九や桜李、陸斗のような、これまでの人生を剣に捧げてきた者特有の破棄は彼には無い。だがそれでも、強者特有のオーラ。それが彼にはあった。
竹刀の先を向けながら近づいてくる蛇川に、同じように刀の先を向けながら杏樹は上手く距離をとる。オーラに気圧された訳ではない。この竹刀を持った状態での、正しい間合いを探るためだ。
「……慢心シてるのはどッちかナ」
短い時間で竹刀の間合いが8割程度把握出来た杏樹は、後退するのを辞める。後ろへと歩んでいく杏樹の動きが止まった瞬間、蛇川もなぜかそのまま歩みを止めてしまった。
「……範囲が指定されている中で後ずさりをしたのは、いくら間合いを掴みたかったとしても不正解な選択なのでは?」
「アは、ホントにそう思ッてるなら攻撃シてくるでしョ」
白線から出たら反則だというのに、杏樹を白線から出そうという意図の攻撃はしない蛇川。しないのではなく、できなかったのだ。間合いを把握した杏樹は、先程までよりもオーラの完成度が高まっていたからだ。
水を得た魚、鬼に金棒────。どんなことわざでも表せない、杏樹のその雰囲気。「こう戦えばいいんだ」ということを知った杏樹は、誰にも負けることがないと言っても過言ではない。安易に近づいたら、きっと適切なカウンターをくらって1本をとられてしまう。蛇川は、脳をフル回転させて考えていた。杏樹に勝つ策を。
「……なンか、拍子抜けだなァ。牙を抜かれた虎は怖くなイ」
気迫はあれど、考えるばかりで攻めてこない蛇川。杏樹と対峙した凶悪な犯罪者は、どんな形であれ杏樹に攻撃をしようとしてきた。愛を追い求めた裏社会の男も、白黒の通り魔も、怪盗や八尺様や研究者、神と称された者まで。
その感覚が普通になっていただけなのだろうか。雰囲気上の強さだけがある男を、買いかぶりすぎていた────? 攻撃してこない蛇川を見かねて、杏樹はさっそく手加減無しに1本をとってしまおうと動き出した。
「……はは、牙を抜かれた虎ですか。……確かに、一理ありますね」
杏樹の動きを見た門下生達が、おおっと歓声を上げる。この道場の絶対的存在である桜李でさえ、あの踏み込みの速さは出せない。盛り上がってもしょうがないことだ。
こんなにも早く1本が……と、その場に居る全員が思った。そう、実際に戦っている杏樹と蛇川以外は。蛇川は、いとも容易くその攻撃を回避する。
「……きもッ」
杏樹が思わずそう呟いてしまった理由。それは、蛇川の回避方法にあった。
左肩を狙って竹刀を振り下ろしたのだから、普通はバックステップで避けるか、反対側である右側に避けるか。この2択になるはずであろう。
だが、蛇川は違った。左側へと、いとも簡単に避けたのだ。頭、右肩、右腕……それらの部位が、避けている最中に当たってしまうかもしれぬ回避方法。動きの速さだけでそれらをカバーできたものの、普通は絶対にありえない避け方に、杏樹は気持ち悪さを覚えてしまう。
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
杏樹が予期していた2通りの回避なら、その後に連撃をして1本を得ることができた。だが、思いがけぬ回避をされた杏樹は、攻撃をした後に一瞬の隙が出来てしまう。
その隙を見逃さず、杏樹の目前へと竹刀を運ばせて寸止めをする蛇川。その運ばせる動きも最短最速のもので、いかに彼が手強いかを物語っていた。
「……蛇川さんの1本ッ!」
道場内に、審判である桜李の声が響き渡る。1秒程度の余韻を残して、子供達の先程よりもっと大きな歓声が響き渡った。
1本が認められた蛇川は、少しだけ満足気な表情を浮かべながら寸止めした竹刀を手元へと戻していく。一方、杏樹はといえば、蛇川と対象的な不満気な表情を浮かべていた……という訳でもなく。逆に、笑みを浮かべていた。
「能ある鷹は爪を隠す、ッて訳でもないネ。やっぱり蛇川さンは、牙を抜かれた虎だ」
予告ホームランのように、片手で持った竹刀の先端を蛇川に向けて、杏樹はそう挑発する。
「……ふむ。弱い犬ほどよく吠える、ってやつですかね?」
定位置へと戻った蛇川は、不敵な笑みを浮かべて杏樹へと挑発し返す。強者同士の戦いは、始まったばかりだ。王手をかけた蛇川が連続で1本をとって勝利するか、追い詰められた杏樹が1本をとって逆転するか。それは、彼女達の力量によって決まる。