「……一目見た時は肝を冷やしたが…………。吾の催眠にかかればこんなものか」
虚ろな瞳を浮かべたまま、床に座って黙り込む杏樹。そんな彼女を見下し、天狐は静かにそう呟く。幹部の背後にいきなり現れた時から杏樹の戦闘力には気づいていたが、それも催眠という精神への攻撃には関係が無いようだった。
絶対に動けない状態になっている杏樹を放置して、天狐はめるの方へと歩き出す。……とりあえずは幹部を起こして、儀式を再開して……。そうやって天狐が考えている間、杏樹は空虚な暗闇の空間に、ただ1人で座っていた。
「…………、なンで、こんな所に居るンだッけ」
独りの空間。自身の脳の中で、杏樹は呟く。しかし、当然返事は来ない。彼女の脳の中という、杏樹しか立ち入れない場所だからだ。
脳に霧がかかったような感覚がして、思考が追いついてこない。自分がなぜここに居るのか、そもそもここはどこなのか、自分は何をすべきだったのか────。全部、繰り返し頭の中で鳴り響いている鐘の音に遮られてしまう。その音がなんだか心地良くて、身を委ねてしまいたくて。「もういいや」と、杏樹は思考を閉じようとした。
「ねぇ」
杏樹以外誰も居るはずのないそんな空間に、杏樹に話しかける声が響く。自分とは違って、少し幼めの声が。そのありえない現象に、杏樹は驚いた顔を浮かべながら声がする方角へと振り向いた。
そこに居たのは、灰色の霧に全身丸ごと包まれているような、人間のシルエット。とても人間とは思えないが、形だけはヒトらしいし、声も人間の声をしていた。正体不明の謎の影は、背中側で腕を組むような動作をしつつ、杏樹の方に近づいていく。
「ホントにそれでいいの?」
霧で出来た腕を伸ばして、謎の影はむにゅりと杏樹の両頬を手のひらで包む。なんのことか全く分かっていない杏樹は、ただ困惑した表情を浮かべつつ黙ってその影に諭されるのみ。
「はやく帰らないと、めるって子壊されちゃうよ」
「…………める、って……、…………ごめンね。誰か忘れちゃッた」
その催眠の威力は凄まじく、杏樹にとって1番大切な存在であろうめるをも忘れさせてしまう催眠だった。腑抜けた杏樹の返事を聞くと、影は呆れたような態度で杏樹の頬をペチペチと軽く叩く。
「……仕方ない。……すこしだけ、体借りるよ」
そして影は、再度杏樹の頬を手のひらで包み……。ゆっくりと顔を近づけて、こつん……と額同士を合わせた。
額が触れ合った瞬間、杏樹の頭の中に影が吸収されるようにサラサラと入り込んでいく。自分の中に何かが入り込んでくるという、到底現実とは思えないようなその感覚。杏樹は思わず、目を強く瞑ってしまった。
頭の中に入り込んでくる得体の知れぬ感覚が止んだ時。杏樹の意識が、少しずつ薄れてきた。そしてそのまま目を瞑ったまま、杏樹はどさりと暗闇の空間で倒れてしまうのであった。
「……否、超人的な能力を持ってる奴を先にこの手で始末してしまおう」
考えに考え抜いた天狐は、万が一のことも考えて、先に杏樹を処理してしまおうと考える。幹部を起こそうと1度屈んだ体を立ち上がらせて、天狐は杏樹が座っている方へと目線を向けた。
そんな天狐は、思わず息を止めてしまう。催眠によって動けなくなっているはずの杏樹が、音も無ければ気配も無くいつの間にか立ち上がっていたからだ。体を前屈みにして、俯いて。その姿はまるで、野生の本能をむき出しにした獣のようだった。
「…………吾の催眠を受けてなお立ち上がるか。だが……立ち上がるので精一杯のようだな」
一度は驚いた天狐だが、自身に襲いかかってきたりしない杏樹の姿を見てはそう呟く。きっと彼女は、めるを守りたいという強靭な意志だけで立ち上がっただけで、体はまだ催眠に支配されている。動こうとしない杏樹を見て、天狐はそう確信していた。
「……いいや、それは違うよ。久しぶりだから、慣らしてたの」
天狐の言葉を聞いた杏樹は、床へと向けていた顔を天狐に向けて口を開いた。声自体は変わらぬものの、喋り方や声のアクセントが数分前とは全く違う。そして何よりも……、その目。催眠を受ける前後の目と違って、何者かが杏樹に取り憑いたかのような、底が全く見えぬ瞳へと変貌していた。
「……姿が変わらぬ変化の術か。所詮は吾の下位互換に……」
「ふ〜ん、君は妖怪なんだ」
不敵な笑みを浮かべて、天狐は杏樹と自身の格差を知らしめようとする。人格が丸ごと変わったように見える杏樹は、少なくとも前の人格よりかは弱そうに見えたから。能天気さの裏に潜んでいた、悪意に似た殺意。それが、今の杏樹からは感じられなかったのだ。
天狐の言葉を遮るように、杏樹は言葉を紡ぐ。それと同時に、獣のような体勢のまま杏樹は天狐へと凄まじい速度で近づいていく。幹部の背後に現れた時のような、瞬間移動をしたのかと錯覚してしまう程に完璧で早い動きではなく、残像が見える程度に荒く、まるで突進してくるかのような動きだった。
「動いたら死んじゃうかも?」
だが、その突進のような動きを天狐は止められなかった。その荒さがギャップを与え……、更には本体が目で追えない速度で動き出したのだから。光は、音を置き去りに進んでいくという理論。それと同じようなことが、天狐の視界で起こっていた。視界に残像を残して、杏樹はいつの間にか天狐に接近しきっていたのだ。
「ッ、……!」
視界と本来の杏樹の動きのズレが生じている天狐は、頬から口元にかけて添えられた杏樹の手の感覚を感じて────。そこでようやく、天狐は自分が目の前の彼女に勝てないということを自覚する。杏樹が零した言葉も相まって、天狐はあっという間に恐怖で固まってしまった。
「……うん。下手に動かないでくれて助かった。1番手っ取り早くできる」
硬直した天狐に怪しい笑みを浮かべて、杏樹は静かに天狐の細い首へと手を伸ばす。そして、首筋を掴むように手を添えたかと思えば……、その瞬間に天狐は意識が途絶え、その場に倒れてしまった。
ただ、首筋を少し掴んだだけ。誰もがそう思う今の光景。そのとおりで、杏樹はその動作しかしていない。なのにも関わらず天狐が倒れた理由。それは、恐怖という人間の心理状態にある。
人が何かに恐怖している時は、呼吸が早くなったり汗が吹き出したり、要するに血の巡りが極度に早くなる。そんな脳に渡る多量の血の巡りを少しでも止めてしまえば、天狐の体にすぐさま異常が訪れてしまい、恐怖という心理を上手く使って短時間で失神させることができるのだ。
「……それにしても、この体は全然慣れないや。これからが大変だ」
倒れている天狐を横目に、杏樹は体を大きく伸ばしながらめるの方へと向かう。今の彼女の発言からわかる通り……、今の杏樹は杏樹自身ではない。彼女の中に居る、何者かだ。天狐が薄々勘づいていたように、人格が丸ごと何者かに支配されてしまっている。
そんな状態の杏樹が思い浮かべていたこと。最初は、単にめるへの気遣いで杏樹に協力するという気持ちだったが……。実際に杏樹の体を動かしてみて、奴は気が変わった。百の動きは出せずとも、百に限りなく近づける素質を持っているこの体。その体を、奴は掌握しようと思っているのだ。
「さぁ〜て…………、長いこと動けていなかったんだ。好き勝手暴れさせて……」
純粋なる狂気の笑みを浮かべて、奴はそう呟く。まずは、先程処理し忘れた天狐を……否、体の主が大切に思っていためるを先に殺めてみてもいい。これからは楽しみが尽きないな、なんていう感情をモロに出していると、奴の視界にあるものが映る。
目の前で倒れているめるの、美しいとも言えるような目を瞑った顔。それを見た瞬間、奴の頭に激痛が走る。
「ッっ、ぐ、ぅ…………!」
頭が割れて、脳みそが弾け飛んでしまうかのようなその痛み。奴は、酷く顔を歪めながら必死に頭を抑える。痛いという声すら出せない程の強烈な頭痛が起きた原因。それは、視界にその顔が映ったことで、杏樹の脳にある断片的な記憶が反応してしまったからだった。
まだこの体に残りたいという奴の意志と、杏樹の中にある記憶という変えようのない事実。その2つが争った末に────、ふと激痛が止まった。
「…………、……??」
ある記憶が、彼女の体に杏樹の意識を蘇らせたのだ。急に現実世界へと呼び戻された杏樹は、困惑した顔を浮かべながら周辺を見回す。倒れているめるや幹部……、それに、自分が倒した覚えのない天狐までもが倒れている。止まっていたかのような杏樹の時間が、一気に動き出した。
まだ残っている頭痛の余韻にイラつきつつも、状況を一瞬で把握した杏樹は急いで失神している天狐に駆け寄って、彼女の着ている着物の中をまさぐり始めた。やましいことは何一つ考えていない。めるの意識を覚まさせるためには、きっとアレが必要だからだ。
「あッた……!」
天狐の着物の内側に携帯されていた、不気味な紫色の鐘。その存在を感知すれば、杏樹は無理やりその鐘を引っ張って、実際にその手に取ることに成功した。
鐘が勝手に鳴ってしまわぬように手に持って、杏樹は再度めるの方へと移動する。そして、彼女の顔の前でそっと鐘を持ち……。自分の頭が反応しないように片手で片耳を塞いで、天狐がやった時と同じように杏樹はゆっくりとその鐘を鳴らした。
「…………ん、…………」
閉じたいかにも重そうな瞼をゆっくりと開き、軽く呻き声を上げながら、めるの意識が戻っていく。やはり、めるも天狐の催眠にかかって眠らされていたようだった。
めるが起きたのを確認すれば、杏樹は持っていた鐘を床に置き、彼女の素肌を触って……。軽い力で体を抱きながら、安堵から出た笑みを浮かべて口を開く。
「……迎えに来たヨ、めるちゃン」
「…………何が起きたのか、全然わかんないけど……。……ありがと」
服を1枚も着ていない状態、全く知らない場所で、杏樹に抱えられながら起こされる。更には、杏樹からかけられた言葉も相まって。めるが状況を察するのは、簡単なことであった。
「よかッたじゃン、これで上からの評価とか上がるンじゃない?」
夜の狐彌神社の前に、複数の車が集まっている。杏樹が黒音に手配した、何台もの死体処理用の車だ。やっと一息ついた……という黒音に、杏樹は言葉をかけた。
「別に評価とかはいいんですけど……、ひとまずは朽内さんのお友達の方が無事でよかったです」
「……そ〜だネ。今頃病院で検査かァ……大変だナぁ」
めるはあの後、警察によって支給された服を着て、警察の車で病院に連れて行かれた。行かれたというよりは……強制的に行かせたに近いだろう。めるの体になにか異常があってもまずいから、杏樹の指示で病院へとめるを向かわせたのだ。
同じように催眠を受けた杏樹はと言うと……、彼女はまだやるべき仕事が残っているため現場に残っていた。もっとも、彼女の仕事はこの現場じゃできない仕事なのだが。
「……ンじゃ、あたしはそろそろ行くネ。生き残ッた奴の対応は岬ちゃンか誰かが上手くシてくれる。……そのはず」
「ん、わかりましたっ! 今日は本当にお疲れ様でした……」
軽く黒音に挨拶をして、杏樹はあるものを担ぎながら狐彌神社を離れていく。そのあるものとは……、きつく縄で縛りあげた天狐だ。未だ失神しているようで、杏樹は肩に担がれているが天狐はビクともしない。
狐彌神社の前に駐車したバイクに跨って、杏樹はある場所へと向かう。今から杏樹がする仕事を察している人も居るだろうが……、めるの家に行く訳ではない。住ませてもらっているのに関わらずそういうことをするなんて、流石に杏樹でも出来ない。
「よ〜シ、ついた」
狐彌神社から1番近くにある、1つのホテル。バイクを駐車して、天狐を担いで……杏樹は躊躇もなく部屋を選び、その部屋へと進んでいく。
エレベーターで上階へと上がって、部屋に到着すれば、杏樹は天狐を早速ベッドへと放り投げた。その衝撃で、バイクのエンジン音で半ば意識が覚醒しつつあった天狐は、完全に意識を覚醒させる。
「…………な、何をっ……!」
ベッドの軋む音を鳴らしながら、自身へと近づいてくる杏樹。そんな彼女の姿を見て、天狐は焦りながら大きな声を上げる。焦る天狐の顔を見ると、杏樹は不満そうな顔を浮かべつつ口を開いた。
「ホントは殺してやりたいンだけどサ、事情聴取出来そうな首謀者が居たら見逃せないじゃン」
「…………はっ、馬鹿め。吾は何をされても……」
「ァ〜知ってる知ッてる。だから、体で拷問スるコトにしたの」
「……え」
天狐にとっての長い夜が────。トラウマとなる夜が、今始まる。