杏樹が夏怜に誘われて道場に行った日の、6日後。九十九豹仁が急逝した日の、僅か3日後。都内のある斎場にて、九十九の葬式が行われた。その日は雷雨なのにも関わらず、急に行われた葬儀には沢山の人が訪れていた。門下生は勿論、その保護者、遠方から訪れた他の道場の館長等も多数見受けられた。九十九という人物が、どれだけこの剣道という界隈で愛されていたか。それは、一目瞭然だった。
葬式が終わった後も、しばらく白色の椅子に座ったまま動かない桜李。唯一の家族であり、同時に唯一の師匠でもある父が急に死んでしまったのだから、そうなってしまうのも無理はない。そんな様子の桜李には、誰も話しかけることが出来なかった。滲み出る負の感情と、それに混じった殺気。葬式に来た全員が、それを薄々と感じていたから。
「……桜李さん、落ち込んでたなぁ」
「仕方ねえ、とは思うけど……。本当に短い間お世話になっただけの私ですら、館長の訃報を聞いだ時は泣いでしまったし……」
葬儀に来ていた、夏怜と鈴佳。鈴佳がリハビリを終えてからの短い間とはいえ、彼女たちも九十九に優しく接されていた。付き添いで見に来てくれる夏怜にも、初めて剣道を習う鈴佳にも、門下生達と分け隔てなく。
斎場へと来ていたのは、杏樹も一緒。しかし杏樹は、2人とは一緒に居ない。彼女が居たのは、桜李が座っている斎場の後ろ側。ただずっと俯いている桜李を、壁に寄りかかりながら見守っていたのだ。痺れを切らした杏樹は、なんの物音もしない斎場に足音を響かせながら、桜李へと近寄っていく。そして、桜李が座っている隣の椅子に座り、優しく彼女の背中をぽんぽんと叩いてやった。
「…………、分かんねぇ」
少しの時が経つと、ずっとこの葬式中に口を開くことのなかった桜李が、独り言を発するかのように呟き始める。
「……口うるせェし、よく喧嘩とかもしたけど。親父は良い人間だった。生き方をオレに教えてくれた親父が、誰かに殺されたなんて許せねぇよ……」
そう。自身で老い先が短いと言葉にしていた九十九だが、なにも病死した訳ではない。病気自体は持っていたが、桜李の言う通り、彼は何者かによって殺されたのだ。遺体には、肩から胸にかけて刃物で切り裂かれた痕が残っていたという。鎖骨が切断され、切り裂かれて間もなく失血死……という鑑定結果。警視庁が捜査に関わっているから、杏樹もそれは知っていた。
「あたしが手を貸してあげよッか」
「……杏樹が? ……はっ、冗談はいいよ。警察が探し出してくれるから」
「ほンと〜に? 本当の桜李ちゃンはそンな大人しく食い下がるワケないと思うケド」
体を寄せて、桜李の耳元に顔を近づけて。杏樹は悪い顔を浮かべながら、桜李の耳元でぽそぽそと言葉を告げる。悪魔の囁きだ。
「鑑定でサ、桜李ちゃンのお父さンの体から睡眠薬が検出されたンだ。道場の近くで斬られて殺されるッてだけなら、睡眠薬なンて不審なモノ検出されないよネ」
道場のすぐ側で、電柱に寄りかかっている遺体として発見された九十九。その遺体から、睡眠薬を飲んでいるという検出結果が出ていた。九十九は、睡眠薬系の薬を買ったり、または処方されたりしていた訳でもない。
つまり、考えられる線は1つ。何者かに睡眠薬を飲まされた後、そいつにそのまま斬られて殺された……という線だ。
「……そんなの、どうでもいいよ。斬殺だろうが毒殺だろうが、親父はもう居ない」
「お父さンに睡眠薬を飲ませるなんて、余程信用されてる人じゃなきゃできなイ。犯人は、門下生やその家族も含めて、身内の可能性が高いッてコトだよ」
通り魔や、無差別な殺人ではない。睡眠薬が体の中にあるという検出結果から、この殺人事件は計画的な事件ということが推測される。杏樹の……悪魔の囁きを聞いた桜李は、ワナワナと体を震わせ始めた。
杏樹の強さは、肉体的な強さだけではない。精神的に相手を支配して、挑発させることも彼女の得意分野。挑発に乗りやすい桜李ともなれば、杏樹の言葉を耳に入れた時点で簡単に彼女の意に乗せられてしまうだろう。
「あたしが警察と繋がりがあるッてノは夏怜ちゃン達から聞いてるよネ。あたしが全部隠滅してあげるからさ、……秘密の復讐、シてみようよ」
桜李の太腿を撫でながら、杏樹はそう呟く。桜李には、貸しを1つ作っておきたかった。もしこの復讐が完遂した時に、杏樹は報酬として桜李の体を求める予定だから。
好みの女を抱くためならば、たかが1つの命なんてどうでも良い。杏樹のそんな倫理観は、はっきり言ってイカれている。だが、そんな意図があるとも知らずに口車に乗せられてしまった桜李は、もう戻れない域の思考まで辿り着いてしまっていた。
「……それには乗ることにして。復讐するにも、犯人が分からなきゃ意味が無いんじゃねぇのか?」
よし、思惑通りに乗ってくれた。心の中で、静かにガッツポーズを浮かべる杏樹。確認が取れると、杏樹は桜李の体から少しだけ自身の体を離して、いつもの笑みを浮かべつつ言葉を放つ。
「事件が起きた日の事は覚えてル? お父さンは、どこで誰と何をしていたか……とか」
「あの日は、確か……。……陸斗と飯を食って帰るって言ってた。8時過ぎにはタクシーに乗って今から帰るってメールが来てたから、狙われたとするならその後とかか……?」
「……灯台もと暗しッてヤツでしょ、1人だけ明らかに怪しい奴が居るじゃン」
桜李の言葉を聞いた杏樹は、桜李にそう伝える。その返答を聞いて、やっと桜李は気がついた。自身が疑っていない存在の正体に。そう、その日の夜に九十九と食事をしていた、陸斗である。
「……いや、アイツはそんな事するタマじゃない。オレより親父と仲が良かったんだぞ」
小さい頃から喧嘩等はしてきた……とはいえ、桜李はある程度陸斗に信頼を寄せていた。嫌味を言ってくる事もあるが、彼はそんな事をするような人間ではない。それは、これまでの人生で彼と共に稽古をして過ごした時間によって構築された信頼関係だった。
「まァ、ソレは分かンないケドさ。ひとまずは聞いてみるのが1番だよネ」
数日後、杏樹は桜李の案内の元、陸斗が住む家へと向かっていた。陸斗の住む柳内家は、親子揃って凄い剣道の腕前を持っている名家であると桜李は話す。父母や2人の兄、果ては祖父母や従兄弟まで。陸斗の家系は、そういう家系との事だ。
陸斗の家に到着すると、桜李はチャイムを鳴らす。会ったことがない杏樹がチャイムを鳴らすよりも、関わりがある桜李がチャイムを鳴らした方が話がスムーズに進むからだ。陸斗の家族と桜李がインターホン越しの会話を終えると、しばらくして玄関から陸斗が出てきた。
「桜李……と、朽内さん? そんなに仲が良かったんだね。なんの用?」
今日、桜李は陸斗に家へ行くことを知らせぬままここへと来た。もし知らせていたら、グチグチ言われて断られていたかもしれない。それならば、知らせずに勝手に家を訪れた方がマシだ。桜李はそう判断したのである。
桜李が説明しようとする前に、杏樹は口を開いていた。
「アリバイを聞きに来ました〜、ッて言えば分かりやすいカナ」
「アリバイ……? それなら、事件の翌日に警察から聞かれたけど」
「まぁまァ、道場開いてなくて暇でしョ? 疑いを晴らすために……少しだけ手伝ッてヨ」
少し不満気な顔を浮かべるが、自分が疑われているという雰囲気に気づけば、やれやれという顔を浮かべる陸斗。
「……仕方ない、あがってくれ」
そして、彼は玄関の扉を大きく開き、2人に向けてそう言い放った。東京23区という大都会には似つかわしくないような、古風な家だ。
和風な応接間に案内すると、陸斗は2人へ座って待っておくように伝えた。一応彼女達は客人だから、茶でも出した方がいいという判断なのだろう。台所に寄って、コップに茶を注いで……。2つのコップを持ち、陸斗は応接間へと向かう。
彼女達が座る目の前の机にコップを置いて、陸斗は向かいの座布団に正座で座る。そんな陸斗とは対照的に、杏樹も桜李も座布団には胡座で座っていた。客人とは思えない態度だ。失礼極まりない態度だが、陸斗は特にそれを指摘しないまま再度口を開く。
「…………アリバイ、か。何から話せばいい?」
「そうだネ、まずは……3日前、桜李ちゃンのお父さンと会ってから帰るまで。全部聞かせてもらえル?」
「警察に話したしもう1回話すのも面倒だけど……。17時に居酒屋で集合して、そのまま7時半くらいまでその居酒屋で食事してた。店に確認してもらってもいいよ」
いかにも面倒そうな顔を浮かべながらも、その日の詳細について陸斗は話を始めた。
「……嘘を吐いては、なさそうだな」
一通り陸斗が事件当時のアリバイを話し終えると、桜李は机に肘をつきながらそう呟く。彼の話したアリバイは、完璧なものだった。証人や監視カメラの映像なんかもあると彼は話す。堂々としすぎて、疑いようがなかった。
「真っ先に僕を疑うなんて、馬鹿らしいね」
「…………ン」
桜李を軽く睨みながら、そう伝える陸斗。杏樹が体に異常を覚えたのは、机に置かれた茶を飲み終わった直後のことだった。体が痺れて節々が痛む、筋肉痛のような感覚。何かおかしいと気づいて杏樹が立ち上がろうとした時には、既に隣に座っていた桜李が横たわっていた。
「……何か盛ったネ」
視界がぐにゃりと歪んで、まともに立つことすらできない杏樹。ある程度の薬やガス等に耐性がある杏樹ですら、そんな状態になってしまう薬品。不敵な笑みを浮かべつつ、杏樹は陸斗に対してそう問いかける。
「死なない程度の毒さ。こんな所で死んでもらっちゃ困る」
「…………テ、メェ……」
いつも笑みを浮かべている杏樹とは対象的な、明らかなあくどい笑み。そんな笑みを浮かべた陸斗の姿を見た桜李は、毒に体を侵されながらも、眉間に皺を寄せて犯行の意志を示す。弱々しい姿で睨まれても、痛くも痒くもないし怖くもない。眼鏡を触りながら立ち上がって、陸斗は呟いた。
「いつもの道場で終わらせよう」